注記 |
|
水田はなんらかの水利施設を伴い畦畔と耕盤と水平な田面によって特殊装置化された耕地であり,水田二毛作はその水田における夏作物と冬作物,湛水による田的土地利用と畑的土地利用の単年度内交替によって特徴づけられるわが国独特の土地利用方式である.水田二毛作の発生は,古くは中世にまで溯ることが明らかにされているものの,わが国の農業においてそれが広く普及したのは,基本的には,近世においてであったと見做すことができる.それは,いわば近世の胎内から発生し発展してきたものである.しかしながら,近世においても,時代を溯れば溯るほど,あるいは農業技術と商品経済の発達水準の低い後進的地域であればあるほど,あるいはまた「近畿型」ではなく「東北型」に属すると目されるような地域であればあるほど,水田利用は水稲単作が支配的となり,農民の生活維持にとって必要不可欠の雑穀類,粮菜類ますべて畑で栽培され,したがって田と畑の,あるいは水田稲作と自給畑作との結合が農業の再生産構造の基本条件をなしてきたように考えられる.『会津農書』や『百姓伝記』において説かれているのは,まさにこうした段階のもとでの農業のあり方であった.近世初期の段階で,田と畑の結合という再生産構造を必然化した主な規定要因として,①水利事業の未発達による湿田優位の田の存在形態あるいは用水の不安定性,②早稲を主体にして成り立っていた稲の品種構成のもとでの作期の制約,③もっぱら自給肥料に依存せざるをえない段階のもとでの肥料の制約,④労働手段の未発達による労働事情の制約,⑤山間地といわず平地といわず,比較的多くの畑が賦存していたという事実等の諸要因を列挙することができる.なかでも③は極めて重要な規定要因であったことが多くの農書の記述から窺われる.乏しい自給肥料だけに依存せざるをえない肥料のきびしい制約条件下では,「乾田化」はけっして望ましいものとはいえない.乾田は湿田あるいは半湿田と比較すると,第1に地力が消耗しやすく,乏しい肥料のヨリ多くの投下が必要となり,肥料の制約条件下では多収穫とも矛盾することになる.第2に雑草が発生しやすく,除草にヨリ多くの労力を要し,第3に耕起・砕土も困難でこれらの作業にもヨリ多くの苦汗労働を要することになる.したがって,乾田化が進行するためには,それに先立って肥料の制約事情のなんらかの方途による緩和と労働手段の発達=犂耕の普及が必要な前提条件となるといえるだろう.わが国の零細集約農耕の歴史的,動態的発展過程において,作物品種とならんで肥料という労働対象が伴ってきた格別の重要性が改めて注目されるわけである.近世初期の段階におけるこうしたあり方に対して,水田利用方式の集約化は,次のような諸点が条件となって進行し,二毛作が次第に成立・普及するにいたった.(1)貨幣経済の発展に伴う菜種・綿・藍等の商品作物の作付増加,その貨幣収入による購入肥料(千鰯,油粕,綿実柏,あるいは都市近郊においては人糞尿)の購入・施用の増大,(この場合,商品生産と金肥施用は表裏一体の相互規定的関係にある).(2)上記の購入肥料の施用ならびに牛馬飼養の増加に伴う自給肥料中での堆厩肥の比重の増大-これらの条件変化による他方での苅敷への依存の低下,その採取・運搬・踏込み労働の節約.(3)犂耕の普及,扱箸から千歯への脱穀用具の発達,鍬の分化・多様化等の労働用具の発達による労働節約と中・晩稲の増加による春秋の作期競合,労働競合の援和.(4)水利事業の展開による「中世的水田」から「近世的水田」への土地条件の改良,この過程での一部の畑の水田への転換,下田の上田化,湿田の乾田化等の進行.(5)農業構造における1町歩足らずの零細耕地片を耕作する家族小農民経営の広範な成立,いいかえると労働集約的農法の担当主体の部厚い層としての確立.以上のような諸条件に基づいて水田二毛作が大なり小なり発展をとげ,それと不可分の関係で稲作もまた一段と集約化した近世中・後期の農業のあり方を詳細に記述したのが『耕稼春秋』であり『農業全書』であった.ただし,このうち前者の加賀における集約的水田利用は,地域的にも,階層的にも,あるいは生産力構造の点からみても種々の限定性を伴い,過渡的性格のものであったと考えられるのに対して,前記の(1)から(5)までの諸要因の包括的変化を基にしながら,水田利用が著しく高度集約化し,商品生産も高揚したのが元禄期の畿内の農業であって,その先進的農業を踏えながら,近世の小農民が営むべき集約的農法の体系化を図ったのが『農業全書』であった.この『全書』が描く畿内の農業においては,水田利用は[稲-麦],[稲-菜種]等の二毛作にとどまらない.田方綿作が著しく拡大され[稲-麦-棉-麦]の作付方式による田畑輪換までがひろく成立していたことはすでに本論の中で詳述してきたとおりである.多くの近世農書の中で『農業全書』は最も体系だった農書であるばかりでなく,それが説く農業技術の水準は,近世末期に著わされた他の多数の農書における水準と比較しても決して劣るものではなかった.いいかえると近世後期の水田農業は,元禄期に畿内を中心にして成立し,『全書』で体系化された技術の水準をほとんどこえることなく,ただそれが時代の推移にしたがって,かつては後進地であった他の地域にも次第に普及し一般化していった,そうした変化を反映したものにすぎないといえるだろう.その一つの事例として,肥前(佐賀藩)神崎千代田の野口広助による『野口家日記』の場合をあげることができる.これは弘化4年(1847)から慶応元年(1865)にいたる野口家の営農その他の詳細な記録で,その記載から同家では当時の1町歩内外の水田耕作面積のすくなくとも70%以上で小麦,菜種および裸麦による二毛作が行なわれ,反当収量も,嘉永5年~元治元年の13年間の平均で表わすと,中稲2.4石,晩稲2.2石,小麦1.3石,裸麦1.2石,菜種0.8石という高い水準に達していたことが知られる(表10).もちろんこの段階では水稲は中稲と晩稲だけで,早稲はすでに影をひそめている.地拵らえに関しても,荒田犁,塊返し犁および水田犁の3種の型を用いながら犂耕が確固として確立されており(山田龍雄・太田遼一郎,1967),購入肥料が豊富に使用されていたことも推定される.この野口家の場合には,裏作物の商品化は菜種のみならず小麦についてもかなりの程度行なわれていたものと考えられる.それは注目すべき点であるが,ただし野口家は農耕の傍わら小規模の味噌・醤油の醸造販売の副業に携わっていたことが知られており(八木宏典,1979),またこの農家の所在した神崎は素麺製造の地域特産業が古くから成立していた地域であり,小麦は自家副業または地域特産業の原料用としての局地的市場と結びついていたものと推定される.近世一般の事情とは異質な特殊条件に依拠するものであったといえるだろう.およそ以上が,近世における水田二毛作の展開条件についての本稿の結論の要約である.『耕稼春秋』,『農業全書』その他の近世中・後期のいくつかの農書から明らかなように,近世の水田農業は,前記のような諸条件の成熟に伴って次第に集約化し,土地利用の面でも水田二毛作が地域的に拡大・発展をとげるにいたった.それは明らかに農書をとおして知りうる近世農業の進歩の過程である.しかしながら,本稿の緒言で指摘したとおり,近世における水田利用方式の展開には,他方で,基本的な「限界と制約」が付随していたように考えられる.まず第1に,水田の利用集積は商品経済の発展を前提条件にしながら,それに伴う換金作物の作付拡大⇆購入肥料の施用の増加によって可能となるのだが,商品経済の発展は自ら幕藩体制と矛盾・対立せざるをえない.一般に幕藩体制は,一方ではそれぞれの領国経済においては「米遣いの経済」として現物経済体制を基本としながら,他方では倉米,その他各藩の特産物の藩直営または領主権力による統制のもとでの全国的流通=商品経済の一定の展開という二重構造のうえに成り立つ.したがって幕藩体制それ自体が商品経済と全く相容れないというものではないのだが,商品経済は本質的に一定の限度でしか展開しえないであろうし,また一定の限度内といえども,商品経済の発展はやがて領主経済の貨幣経済化の帰結として所謂「幕府諸侯の財政破綻」(古島敏雄『著作集第5巻』231貢)をもたらす原因となり,ひいては貢租収奪を強化せざるをえないという矛盾を拡大再生産していくことになる.さらに,換金作物の作付拡大等による小農民経営自体の貨幣経済化は,農業生産力の一定の発展を前提にして成立するものではあるが,それは畿内の農業が示してきたように,やがて農業の内部における地主への土地集積の進行(高尾一彦,1956)と地主の寄生地主化(古島敏雄,1954)を促進し,その高率地代は商人・高利貸資本の収奪や責租収奪の強化と相俟って,小農民経営の疲弊をもたらす要因として作用してきた.近世後期の時代における農業生産力の沈滞,小農民経営の窮乏化,百姓一揆の激増,逃散,等々の経済史的事実は,基本的には,商品経済の発展との関連で理解すべきものであったといえるだろう.こうした事実関連から,近世の時代における商品経済の発展が内包する自己矛盾と限界性を指摘することができる.第2に,それゆえにまた,『耕稼春秋』や『農業全書』の背景となった加賀の集約的農業,あるいは畿内における高度集約的水田農業は,それを近世農業が一般的に到達しうる水準として捉えるには無理がある.前者は加賀百万石の城下近辺の限られた農村で,かつ富裕な上層農だけが行ないえた農業であって,加賀三州においても一般的には同一時代にはるかに粗放な,自給肥料主体の水田単作農業が営まれていたことはⅡで述べてきたとおりである.また畿内の場合には,それは幕藩体制下における全国流通経済の拠点としての大阪周辺のゆえに成立した農業であって,畿内はどの深さの貨幣経済の発展をわが国の近世の時代の他の一般の農村地域で考えることは到底できない.まさに大阪近郊地帯においてのみ成立しえた農業で,その普及の地域的限界性を認めざるをえないだろう.しかもそれは,たんなる水利条件の問題や農業技術の進歩の差による地域的限定性ではなしに,貨幣経済の発達との関連における基本的な限界性である.にもかかわらず,近世後期には,貨幣経済は多くの地域において事実上農村に次第に深く滲透したのは事実であろう.そこで農民は家族労働の強化によって裏作を導入し,二毛作の拡大を図ろうとしたわけであるが,十分な購入肥料を施すだけの余裕もなく窮迫的契機から水田二毛作が増加する場合には,地力低下→稲作生産力の低下を招くことは避けられない.それゆえに,近世後期の時代にいたっても,改めて領主の立場から「麦裏作制限令」が発せられることになった.津・藤堂藩のそれが比較的よく知られている事例である.第3は,労働手段の発達水準からの制約条件である.『農業全書』の段階の水田農業は犂耕の普及が一つの重要な成立条件をなしていた.1町歩内外の零細規模の耕作といえども,犂耕なしには中・晩稲を主体にした稲作の集約化と全面的な水田二毛作あるいは夏作における綿作を家族労働によって両立させていくことは困難であっただろう.しかしながら,近世の段階の犂耕はすべて長床犂によるそれである.したがって『全書』でたとえ乾田の「深耕」が強調されていたとしても,それは長床犂によるかぎり決して十分には実行されえないことであったといえるだろう.筆者はこの点に,近世の段階における反当2.0石内外の水準を上限とした水稲生産力の停滞,あるいはまた裏作生産力の低い水準での停滞の一つの根本的原因を求めたいと考えている.長床犂は,のちの時代の改良短床犂と比較すると,深耕能力において劣るばかりでなく,土壌の反転能力も劣り,裏作生産力の引き上げのために重要な深耕によるヨリ広幅の高畦の造成能力においてもはるかに劣る労働手段でしかありえなかったわけである.第4に,いま一つの重要な点として,近世の段階の農民による商品作物の限定性についても指摘しておく必要があるだろう.すなわち,近世の時代には,農民の水田作による換金作物は主として菜種,綿,藍等の特殊工芸作物に限定されている.水田二毛作においては一般には麦が基幹作物として展開しなければならないのだが,それは近世においては原則として農民家族の自給作物である.麦類の商品作物としての市場は未だ形成されていない.したがって稲麦二毛作が普及したとしても,そのために必要な購入肥料は裏作物によって贖うことはできず,地力補給の点で自立性をもつことが困難となるわけである.以上のような一連の理由から,近世における水田二毛作の展開に対しては,技術的・経済的理由から大きな「限界と制約」が伴っていたと考えることができるだろう.これらの制約条件が取り除かれ,水田の利用集積がまさに水田二毛作体系として確立され発展をとげるのは,明治期にはいってから,とりわけ明治30年代以降の近代の時代に至って日本資本主義の成立がわが国の農業に対して新しい社会経済条件をもたらし,改良犂が普及するようになり,永田裏作物のうち菜種の如き工芸用作物ばかりでなくまさに麦類に関しても市場が形成されるようになり,硫安等の化学肥料が購入有機質肥料にかかわってヨリ廉価に農民に供給されるようになってからである,と考えることができるだろう.しかしそれは,本稿で考察してきた近世の時代をとおした水田農業の発展の成果を受けつぎながら,その基礎のうえでもたらされた次の段階の農業前進に外ならない.
|