<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和29年
編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 大西巨人「黄金伝説」(「新日本文学」)帯谷瑛之介「国際村記」・吉岡禅寺洞「曼珠沙華その他」(「九州文学」6)眞鍋呉夫『嵐の中の一本の木』(理論社)2月 原田種夫「加藤介春小論」・武田幸一「鶴」(「九州文学」*次号完結)『九州詩集 1954年版』(詩人社)3月 山田牙城「前方」・俣野衛「弱い焔」・樋口謙太郎「筑紫野の一角」(「九州文学」)4月 大西巨人「会本来の使命発展のために」(「新日本文学」)帯谷瑛之介「父祖の地」(「九州文学」)5月 牛島春子「知子」・秋山六郎兵衛「心象風景」(「芸林」)大靏竣朗「創世記」(「詩科」1)6月 〈九州詩人特集〉(*谷川雁「隊へ」・那須博「てすと・ぱたあん」・野田寿子「文字」・東潤「記事はシヤツポの中でまぜられた」・森崎和江「愛について」・他)・持田勝穂「〈古い地図〉いまむかし博多川―中島町界隈」(「九州文学」)森澄雄『雪櫟』(書肆ユリイカ)田中紫江『菊』(田中紫江古稀祝賀委員会)松田常憲『長歌自叙伝』(水甕社)白水廣『炎群』(水甕社)7月 向坂逸郎「つばめ」(「芸林」)〈平山敦追悼号〉(「群炎」)檀一雄『ペンギン記』(現代社)8月 梅崎春生「ボロ家の春秋」(「新潮」)橋爪政成「斎藤緑雨伝(連載)」(「芸林」)林逸馬「阿蘇山」・原田種夫「暴力者」(「九州文学」)安西均『真珠と鉛筆』(学風書院)9月 原田種夫「山賊」(「九州文学」)10月 原田種夫「竹槍騒動異聞」・川田禮子「茨の記憶」・林逸馬「一茶園」(「九州文学」)鹿児島寿蔵『麦を吹く風』(清新書房)花田清輝『アヴァンギャルド芸術』(未来社)檀一雄『虹を吹く少年』(同和春秋社)11月 吉岡禅寺洞「雑話―新しい俳句の道を」(「天の川」)山田牙城「黄昏」・牛島春子「山の宿」・林熊生(金関丈夫)「戎三郎」・原田種夫「流れる雲」(「九州文学」)谷川雁『大地の商人』(母音社)12月 藤口透吾「文学小僧二十年」(「芸林」)杉浦正一郎「『天の川』復刊と自然律俳句」(「天の川」*「夕刊フクニチ」から転載)宮崎耿平「てふてふ」(「九州文学」)■この年、野田宇太郎が「続九州文学散歩」を「西日本新聞」紙上に1月中旬から連載開始。
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文学的事跡:1月 庄野潤三が「流木」で、冨島健夫(朝鮮水原の生まれ・福岡県立豊津高校卒)が「喪家の狗」で第30回(昭和28年下半期)芥川賞候補(22日*該当作なし)。原田種夫が「南蛮絵師」で第30回(昭和28年下半期)直木賞候補(22日*該当作なし)。鳥巣太郎が巣鴨拘置所から出所。3月 多田茂治【★726】が九大経済学部を卒業。添田博彬が九大医学部を卒業。4月 中村光至・一丸章らが「地標」【★727】創刊(1日)。帯谷瑛之介【★728】がラジオ九州放送部嘱託学芸課事務取扱に就職。平山敦没(2日)。5月 黒田静男が郷土文化総合雑誌「芸林」【★729】創刊(1日)。板橋謙吉・織坂幸治・各務章らが詩誌「詩科」【★730】創刊(15日)。板橋謙吉・谷川雁・黒田達也ら九州在住・出身の詩人たちが九州詩人懇話会を結成(*熊本市で発会式開催)。横山白虹・橋本多佳子が現代俳句大会の途次、杉田久女終焉の筑紫保養院を訪問【★731】(28日)。6月 檀一雄の長女・ふみ誕生(5日)。7月 花田清輝が「新日本文学」編集長を解任される(14日)。川上宗薫が「その掟」で、庄野潤三が「黒い牧師」他で第31回(昭和29年上半期)芥川賞候補(21日*受賞は吉行淳之介「驟雨」他)。8月 野阿梓出生(18日)。9月 書肆ユリイカの伊達得夫、『戦後詩人全集』全5巻刊行開始(1日―30年5月30日)。10月 吉岡禅寺洞らが俳誌「天の川」再復刊【★732】(1日)。君島逸平(奥家由之)・鳴海浪太(貞包瞰)・大内田圭弥・林逸馬・原田種夫の5人が映画雑誌「シネ・ロマン」創刊(15日*第11号まで)。11月 佐藤春夫夫妻が来福(12日*檀一雄・火野葦平らと九州巡遊のため)。宇野浩二が来福(19日●22日=ハラタネ日記)。佐藤春夫・檀一雄がKBCラジオに出演、「九州を語る」放送(26日)。この年、広渡常敏ら俳優座3期生を中心に「三期会」(のち「東京演劇アンサンブル」)結成。
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社会文化事項:1月 九州朝日放送(KBCラジオ)が本放送開始(1日)。福岡県立福岡高校が第33回全国高校ラグビー大会で優勝(7日*昭和21年についで2度目)。2月 マリリン・モンロー、新婚旅行で夫の大リーガーのジョー・ディマジオと来日し福岡市を訪問(8日)。東邦生命ビル全館竣工落成式(*博多大丸が入居)。3月 博多大丸デパート(福岡東邦生命ビル)の7・8階に「博多帝国ホテル」開業(15日)。志賀島発掘の金印が国宝指定(20日)。東中洲で大火、食堂など17棟全焼(20日)。靖国神社奉賛会結成、福岡県本部長に杉本勝次知事(30日)。西鉄市内電車が「競輪場前」(現・貝塚)まで開通【★733】。4月 福岡市記念館・旧通俗博物館を転用し福岡市立中央公民館を設置(1日)。福岡市立隣保館・隣保館保育所を馬出に設置(1日*7月27日開館、全国4箇所)。全駐労板付支部・福岡支部決起大会(3日)。天神町に戦後初の鉄筋コンクリート造りの西日本ビル(西ビル)落成(*1階は高級紳士服店「ロビン」、地下はナイトレストラン「キング」が入店し生バンド演奏)。天神町に協和ビル落成。福岡学芸大学教授の昇地三郎が脳性マヒ児童施設「しいのみ学園」設立。5月 新天町商店街で大火発生し中央部3棟と隣接家屋3戸全焼(1日)。検察庁合同庁舎が舞鶴に竣工落成式(2日)。6月 平和台野球場に西日本初のナイター設備完成し対南海戦で点灯(2日)。沖の島遺跡第1回調査終了(4日)。山崎朝雲没(4日)。博多臨港鉄道(中央埠頭分岐点―福岡港駅)開業(15日)。西日本新聞社の後援で文化人の会「福岡懇話会」結成。天神町に渡辺ビル・福岡同和ビル落成。東中洲に「日活博多会館」(現・城山ホテル)落成(30日)。7月 西鉄福岡市内電車運賃改定し13円均一(1日)。8月 国立公園審議会特別委員会、全国17箇所を国立・国定公園に選定答申、玄海国定公園も(23日)。9月 全駐労福岡地区本部決起大会開催、組合員約500人が県庁へデモ(4日)。福岡5大学演劇連盟結成(*12月第1回5大学演劇祭開催)。福岡県地区労働組合連絡協議会結成(28日)。10月 筑紫郡曰佐(おさ)村・早良郡田隈村を福岡市に編入(1日)。西鉄ライオンズ、平和台球場でパ・リーグ初優勝(19日)。福岡県高等学校演劇連盟結成(16日)。この月、竹下の日本ゴム㈱福岡工場閉鎖(*31年2月九州松下電器㈱が跡地買収)。11月 中国抑留の漁船員128人・漁船30隻が釈放され博多港に帰港(3日)。夕刊フクニチ新聞社がフクニチ児童文化賞を創設(3日)、劇団「青踏座」が第1回フクニチ児童文化賞を受賞し、福岡市中央公民館で記念公演(22日―24日*県芸術祭参加公演)。12月 新東宝興業直営の映画館「文化劇場」開館(3日)。フランス美術展(朝日新聞社主催)、東公園で開催、18万人が入場(10―●日*会期20日間)。中州大通りに松竹直営の映画館「福岡松竹座」開館(16日)。フランス美術展、東公園で開催(17日)。福岡電電ビルが薬院堀端に落成。この年、末永直行らが福岡市音楽協会を結成。
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日本・世界事項:1月 アメリカ大統領アイゼンハワーが一般教書で沖縄の基地は無期限保持と言明(7日)。アメリカ原子力潜水艦ノーチラス号進水(21日)。2月 造船疑獄拡大(8日)。力道山・シャープ兄弟らのプロレス初興行(19日)。伊藤整『女性に関する十二章』(中央公論社)発売で新書版ブーム到来。3月 ビキニ水爆実験で第五福竜丸被爆(1日)。関門国道トンネル貫通式(4日)。第2次ソ連引揚船興安丸、420人をのせ舞鶴港に入港(20日)。4月 造船疑獄。5月 政府、放射能雨調査(19日)。6月 学校給食法公布(3日)。沖ノ島第1回遺跡調査終了(4日)。7月 防衛庁設置、自衛隊発足(1日)。㈱創元社(東京)が倒産して㈱東京創元社として再建(16日)。この頃、デフレ影響で倒産続出。8月 「知性」創刊。原水協発足(7日)。9月 『戦後詩人全集』全5巻(書肆ユリイカ*30年5月まで)。10月 宮崎県に航空大学校創立(1日)。カッパブックス(光文社)刊行開始。11月 初の怪獣映画「ゴジラ」封切(3日)。日本民主党結成(24日*総裁は鳩山一郎)諫早市に伊東静雄詩碑建立。12月 鳩山一郎内閣成立(10日)。この年、書籍ベストセラーズは伊藤整『女性に関する十二章』(中央公論社)ローゼンバーグ夫妻『愛は死を越えて』(光文社)三島由紀夫『潮騒』(新潮社)。流行歌は「岸壁の母」「高原列車」「お富さん」「原爆許すまじ」。映画は「七人の侍」「ゴジラ」「二十四の瞳」「ローマの休日」。流行語は「美容体操」「ロマンスグレー」「死の灰」。
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注記 |
【★726】多田茂治:昭和3年3月27日、福岡県三井郡小郡村寺福童(現・小郡市)の生まれ。県立中学明善校、旧制福高をへて九大経済学部卒。新聞記者・週刊誌編集者をへて文筆業。著書に『筑前江川谷—竹槍一揆から秋月の乱まで』(葦書房、昭54・10)『グラバー家の最期—日英のはざまで』(葦書房、平3・12)『夢野一族—杉山家三代の軌跡』(三一書房、平9・5)などがある。
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【★727】文芸誌「地標」:創刊号は昭和29年4月1日発行。編集発行人は中村光至。発行所は福岡市上堅町一ノ二蓮井利彦方・地標同人会。創刊号は詩作品に椎名猛夫「冬」・織坂幸治「無形のもの」・湯川達典「鶏鳴」など、小説に中村信三「階段」・天野哲夫「孤り雲」・安田満「蝙蝠館」の3篇。29年10月の第2号で終刊。
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【★728】帯谷(おびや)瑛之介(えいのすけ):大正5年8月6日、福岡市の生まれ。本名は英一郎。昭和9年、旧制光州中学校卒。同年、ヤクルト入社。16年、移動演劇聯盟専属劇団隊長。29年、RKB毎日放送入社(48年退社)。博多ぎゃまん帯屋主人。博多町人文化連盟事務局長。著書に第1詩集『玩具の異端者』(昭●)句集『阿呆な天使』(やぽんな工房、昭26・●)『女がいちばん美しいとき』(コンノ書房、昭45)『大正会夜話』(コンノ書房、昭45)『子守唄を歌ってください』(コンノ書房、昭47)『博多の味』(保育社カラーブックス、昭53・7)第2詩集『しあわせの唄』(やぽんな工房、昭57)『童歌幻燈記』(コンノ書房、平1)など。「七月二十一日の来ることが何より待遠しいかつた。小学校をすでに外地で送つていたボクには、内地へ帰ると云う、内地に棲んでいる人々には想像を絶した歓びが待つていたのである。内地の小学校の夏休みは八月一日からであつたが、ボクの学校は七月二十一日からで、その日は一年に一度、夢にまで見続けた内地への出発の日であつた。/一日揺られた汽車を降りて釜山の埠頭から、銅鑼の音と共に、黒と白と黄色の京城にある李王家の王宮の名をとつた昌慶丸、慶福丸などと云う連絡船の汽笛が響き、やがて白いレイを後にしだすと、寂しいランプと温突、禿山、カンチ(カササギ)とポプラの朝鮮と四十日の別れであつた。その夜の船室の中で、ボクはあらゆるものから懸命に内地の匂ひを嗅ぎとろうとした。船室を揺がすエンヂンの単調な響きも、明日は内地を踏めると云う少年の躍る心のリズムでさへあつた。どのような快楽も、美昧も、内地の土を踏むと云う歓びの前には色褪せてみえた。/(略)/上陸した下関にはまだ「外地」が到る所に見受けられた。此処ではまだ「外地」は完全にフツ切れてないのである。ボクは母に手を曳かれて門司へ渡つた。乗るのは今も走り続けているあの白い国鉄関門連絡船である。門司駅に降りると人力車に揺られて、法師庵の母の実家へ行つた。日の出町にはまだその頃石造りの深い溝とも堀割ともつかぬものが町の真中を、独特の匂ひをたてながら流れていた。角の米屋から山側へ一丁程入り、そこで人力俥を降り、山への狭い道をとろとろと上ると、そこに母の実家があつた。祖母と母の姉とその一人娘が、ひつそりと住んでいた。その家にも港からは鋭い汽笛(ホイツスル)の音や、ぼうーつと云う船の汽笛の音が流れてきて耳を打つた。それが内地へ来たと云う確信と共に歓びを更に深めた。/×/二三日そこにいて、ボクたちは父祖の地博多へ向かうのが常であつた。途中折尾の駅で、今も売つている「かしわ飯」をいつも貰つた。その頃その駅弁屋さんが、ボクの親類であつたからである。/博多に着くと、ボクたちは東中洲(四丁目)にあつた家に行つた。もうその頃、麹屋蕃の広大な家は人手に渡つていた。その家は博多の町を拓いて博多織を創業した祖先から十二代住み古した家であつたが、祖父が勤皇の志士達の資金に注ぎ込んだのと、明治十年西南の役に、盟友西郷隆盛の軍資金に全財産を投じたために人手に渡さねばならなかつた。しかしボクにもその家の記憶はかすかに残つている。前が平助筆で、岩田屋羅紗店、鶏卵素麺と隣り合つていた。裏に土蔵が七つ、表座敷は何十畳あつたろうか、土蔵造りの広い部屋で、祖父帯屋治平は家に置いていた落語家の噺を聞き乍ら食事を摂つたと云う話をよく父から聞いた。その家に地下室があつたが、その地下室は平野国臣が高杉晋作と始めて遭つた部屋である。/(略)/昭和十四年、ボクは放浪の青春に終止符を打つべく、中洲へ戻つて来た。日支事変中であつたが、この年が統制のない最后の自由な年であつた。(略)第二国民兵のボクに召集が来たのが終戦の年の一月十日、五月に龍王山と一緒に除隊になり、すぐに熊谷久虎、西谷彌兵衛に引つぱられて西部軍管区報道部員。火野、原田、劉、岩下、矢野、高田保、永田弁三郎、吉村廉、小石栄一、寺田竹雄、鈴木安蔵、松下井知夫などと云う強者共が山本ホテルに屯ろしていた。久留米が空襲で焼けるのを屋上から見ながら「ネツクスト・ハカタ」と皆を笑はしたのは、今は亡き中山省三郎さんではなかつたろうか。/×/その頃ボクは黒門書店の定連で、畏友宮本幹也の編集になる「公論」などをむさぼり読んだりした。唐人町に美しい姉妹のいる古本屋があり、そこで東潤の「アドヴアルーン」や上田宇沙(装幀青柳喜兵衛)の句集「駅館村」を買つたりした。ボクの第一詩集『玩具の異端者』が表の戸板の十銭均一本の中に曝されてあつたのもその古本屋である。/(略)/浪人町のヤクルト工場では、浪人町とは、いかにもボクにふさわしいと悦に入つたりしたのも、もう十五年も昔になつてしまつた。ともあれ、麹屋番、東中洲、大濠、四十八部隊第二機関銃隊、西部軍報道部と転々移り歩いたボクは、今もなほハカタ、フクオカと厳然と区別する老父からみれば、やはりアプレゲール、とても古い地図のペンをとる資格など無いようである。」(帯谷瑛之介「父祖の地」、「九州文学」昭29・4)「彼は幾多の伝説の持ち主である。三十幾才というから、まさに現代の奇蹟である。踊の名取りであり、陸上短距離の日本記録をもつたことがあり、今も水上競技、庭球の選手であり、コーチヤーでもある。油絵も描けば、盆太鼓も打つ。三味線もひき、トーダンスを踊り、芝居の経験があり、謄写版は本職クラス、小説では九州文学の同人である。ある識者級の集会に、突然の講演を依頼され、経験なしで時余をしやべりなどと、あげれば限りがない。/だから彼にしてみれば、俳句を作るなどおよそ朝飯前のことでしかあるまい。/おちそうな絵馬の胡粉端然といる/と友敬さんがうたつた昭和二十一年の紅梅の匂う日、門司のさる神社の句会で、はじめて会つた面白の青年が彼瑛之介であつたのだ。/彼は、伝統定型俳句の尾底骨を背負つていない。だから見ようによつては、彼の作品が口語俳句の本流ともいえる。というのがいいすぎであるとしても、たしかに彼は口語俳句に一つの新鮮な窓を開けてくれたのである。/帯谷姓は、帯屋であつて、宗湛の神屋などと同列の博多豪商の家筋である。彼は戦後下関の神鋼勤続に籍を置き、酸焼けした手で原書の翻訳をしたりなどして、永らくくすぶっていた。——彼をしていわしむれば、この神鋼金属勤務が、彼の生涯の履歴中最も長い勤続年数であるそうだが——昨年RKB開設以来、父祖の地福岡に帰つて、いそがしい毎日をすごしている。」(風鼓「同人素描 帯谷瑛之介」、「天の川」昭30・4)
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【★729】郷土文化総合雑誌「芸林」:● [記述なし]
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【★730】詩誌「詩科」:創刊号は昭和29年5月15日発行。編集者は板橋謙吉(福岡県庁勤務)、発行者は織坂幸治、発行所は福岡市東大橋町499板橋方・詩科の会。同人は板橋謙吉・織坂幸治・各務章・荒津寛子・野田寿子・鈴木召平・大靏竣朗ら。第17号(昭33・9)まで確認。「昭和二十八年頃であった。当時「海図」を出していた私達はいろんな事情で発行が難しくなっていた。板橋さんから「詩科」を出すのでという誘いの話しがあり、中島橋の日活会館の地下の喫茶「若草」で会った。「海図」の織坂、鈴木両君と亡くなった樋口君と私の四人であった。風月でときおり顔は見ていたが板橋さんと言葉を交したのはこのときがはじめてであった。以後詩科の同人に加えてもらった。詩科の同人となって多くの詩人を知った。海図の同人達を除き、いちばん会っていたのは東京へ行った大鶴(*竣朗)君であった。画家の桜井(*孝身)、尾畑(*●)両君も詩科の同人で詩も書いていた。表紙を画いていた二科の黒木耀治さん、寺田(*健一郎)さん、詩人の荒津(*寛子)さん、野田(*寿子)さん、滝(*勝子)さん、上田詩子さん、玉井向一郎さん、各務(*章)さん、いつもうるんだ人なつっこい瞳をしていた板橋さんは、当時活躍していた福岡の画家や詩人達との交りも深く多彩で、多くの人から愛される人であったので同人も多かった。/どぶ川沿いの労働会館の二階でいつも合評会があった。(略)/福岡で最初の詩劇が放送されたのも詩歌の鈴木(*召平)君の「ダマスの城」であった。同人の湯川(*達典)さんの詩集「流れのほとり」の出版記念会の帰り、お邪魔した伊藤研之さんも亡くなられた。合評会のとき激した議論になると涙を流して抗弁していた荒津(*寛子)さんも、ついで滝さんも亡くなった。あの頃顔を合せていた同人達もどうしているであろうか。」(山口要「「詩歌」の頃」、板橋謙吉詩集『秒のなかの全て』別冊「板橋謙吉の人と作品」、南風書房、昭58・3)
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【★731】横山白虹・橋本多佳子が筑紫保養院訪問:横山白虹の日録(中島昴『白虹俳句史』)によると、5月21日、俳誌「自鳴鐘」の現代俳句大会参加のため橋本多佳子と津田清子(第2回天狼賞)が板付空港着。空港休憩室で「夕刊フクニチ」企画の座談会「九州と現代俳句を語る」に出席(白虹・多佳子・杉浦正一郎・河野静雲)。22日、長崎着。23日、長崎大会出席。24日、長崎市内観光。25日、雲仙有明ホテル泊。26日、阿蘇行き。27日、大牟田泊。28日、二日市駅下車。多佳子の希望により夕刊フクニチ社の柳猛直の案内で筑紫保養院訪問。「筑紫保養院に急行。すでに官舎に戻りし野田寿一郎院長を訪ね、院長室に招ぜられて暫く会談、次いで久女死亡の室に至りて弔う。第二病棟三室なり。帰路につかんと保養院の丘下に至りし時、柳君、菜殻火の燃え上りしを発見、俄に車を転じて菜殻火見物となる。多佳子さんの感激高潮に達せる如し。久女を弔ひて直后、突如として菜殻火に逢ひしは不思議なり。多佳子さん二三束取りて火中に投ず。」29日、福岡市内西公園舞鶴館で福岡大会開催、杉浦正一郎が講演。30日、小倉大会。
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【★732】俳誌「天の川」再復刊:復刊第1号(通巻第332号)は昭和29年10月1日発行。発行所は「天の川発行所」(福岡市今泉94)。編集兼発行人は永海兼人(福岡市新柳町3丁目永海医院内)。「(略)終戦後天の川を復刊したが、木下、片山、萱島外諸氏の非常な努力にもかゝわらず中絶しなければならなかつた。もちろん私の非力によるが、時期尚早か無謀でさえあつたろう。しかしその後の状勢は変つてきた。捨石も決して無駄ではなかつたのである。/そこで過日二回に亘つて阪口涯子、岡田柿郎、佐伯信太郎、片山花御史、萱島風皷の諸氏、それに福岡側から高橋放心、真鍋尽平、勝屋弘雄、永海兼人、佐藤忠男(蕪生)村上喜八の諸氏が銀漢亭に会合して(木下氏外多忙で遠慮)天の川人総意のもとに、いよ/\福岡から復刊することとなつた次第である。俳句を現代詩として生起させるための、困難をぜひ克服してゆきたいと思う。切に協力して頂きたい。」(吉岡禅寺洞「天の川復刊の言葉」昭)
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【★733】西鉄市内電車が競輪場前まで開通:「市内の東部一帯は、住宅地域として、また工業地域として有望視され、立地条件にも恵まれているため、市内電車の宮地岳線・香椎駅までの延長問題が、市民の強い要望となった。それまで宮地岳線は、新博多駅から終点津屋崎までの区間を走っていたが、その運転回数はラッシュ時で十五分間隔、通常三十分間隔のため不便をかこっていたところ、沿線の貝塚に競輪場が登場したため、市議会も動きだし、つぎのような決議をするなど市民の要望は一段と強くなった。このため西鉄では、新博多駅(現在の千鳥橋)競輪場(現在の貝塚)間三・三キロの区間(途中の停留所は浜松町、箱崎浜、網屋立筋、箱崎松原、九大中門)に市内線を乗り入れることになり、二十九年一月から線路の幅を拡大するとともに複線工事をはじめ、同年三月開通した。(略)」(『福岡市史』第6巻)
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関連情報 |
詳細
レコードID |
410620
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1954
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和暦 |
昭和29年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |