<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和24年
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 秋山六郎兵衛「Santa Lucia」・林逸馬「自我の系譜」(「九州文学」)安西均「九州弁」(「若人」)檀一雄「照る陽の庭」(「文藝」)牛島春子「秋深む窓」(「女人芸術」)入江英雄「原子力と医学」(「西日本新聞」30日)中原勇夫『短歌と俳句の話』(西日本新聞社)2月 梅崎春生・火野葦平他「現代文学の諸問題(座談会)」(「午前」)秋山六郎兵衛「ドイツ浪漫主義」(「叡智」)3月 花田清輝『二つの世界』(月曜書房)4月 眞鍋呉夫「美しかつた日に」(「玄想」)大西巨人『精神の氷点』(改造社)眞鍋呉夫『サフォ追慕』(講談社)5月 吉岡禅寺洞「靴みがきの少女」(「天の川」)〈座談会=時代の文学を語る〉(「九州文学」)6月 檀一雄「熊山の女妖」(「オール讀物」)北垣一柿「わたしは、サナトリウムの医師である」(「新日本文学」)眞鍋天門「茅花を抜く(月評)」(「木賊」*9月号まで)大西巨人「天皇を見るの記」(「夕刊フクニチ」12日)火野葦平「落ちるもの残るもの」(「西日本新聞」19日)眞鍋呉夫『二十歳の周囲』(全国書房)松田常憲『良夜』(水甕社)8月 眞鍋呉夫「天命」(「個性」)梅崎春生「暑い日の感想」(「西日本新聞」7日)秋山六郎兵衛「ゲーテと現代」(「西日本新聞」27日)田中釣一『夢はウラルに消ゆ』(西日本新聞社)9月 梅崎春生「限りなき舞踏」(「西日本新聞」14日―12月31日*「北海道新聞」にも)10月 三木一雄「めかけ」(「九州文学」)横山白虹「煙草談義」(「西日本新聞」16日)梅崎春生「帰郷した旅人」(「西日本新聞」23日)11月 島尾敏雄「出孤島記」(「文芸」)原田種夫「私的ルポルタージュ」【★695】(「日本未来派」)12月 檀一雄『小説太宰治』(六興出版社)
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文学的事跡:1月 月刊文芸誌「若人」【★696】創刊。東潤が福岡石炭局に就職し広報編集を担当(7日)。吉岡禅寺洞が疎開先の桜井村から福岡市今泉94の新築自宅に戻る(8日)。3月 平田文也が福岡高等学校文科を卒業し、翌月東大文学部国文科に入学。筑後に疎開中の長谷健が上京(「離郷の弁」、「西日本新聞」3月27日)。この頃、入江杏子・羽鳥桂が演劇を志望し檀一雄を頼って上京。4月 武田鉄矢、福岡市麦野で出生(11日)。河野静雲が太宰府町観世に「花鳥山仏心寺」を建立計画【★697】。福岡高等学校第19回文甲同窓会編集発行「雁来紅―村上・林・中村三氏遺稿集」【★698】刊行。九州講談社(福岡市東中洲)発行の永井隆『この子を残して』・吉川英治『三国志』売れ行き好調。5月 「九州文学」の佐賀地方支部結成、支部長は松浦澤治、副支部長は角田嘉久。6月 岡松和夫が学制改革で新制東京大学文科二類を受験して不合格、東京の親戚を頼って上京し浪人生活。眞鍋呉夫が妻子を伴い上京。高浜年尾が来福し正定寺(上堅町)で福岡ホトトギス会主催の歓迎句会(24日)。7月 眞鍋呉夫が「サフォ追慕」で第21回(昭和24年上半期)芥川賞候補(*受賞は小谷剛「確証」・由起しげ子「本の話」)。夏頃、北川晃二が単身上京(*秋に妻子も上京、翌年体調をくずし帰郷)。糟屋郡古賀町の結核療養所「清光園」「福岡療養所」「福寿園」の3院合同俳句大会開催(9日)。8月 松崎笑三朗らが「福岡川柳倶楽部」結成し機関誌「どんたく」創刊(*22年5月か)。石田雅子(福岡市出身)の被爆体験記『雅子弊れず』(●)刊行(*「西日本新聞」昭24・8・8)。9月 梅崎春生が「西日本新聞」に長篇小説「限りなき舞踏」連載開始(14日)。10月 「第二期 九州文学」、第116号で終刊【★699】(1日*10月23日編集会議で決定)。川田禮子【★700】・石村通泰・荒津寛子らが詩誌「椅子」創刊(*第4号まで?)。民主主義科学者協会福岡支部・新日本文学会福岡支部共催の歴史と文学の講演会、福岡商工会議所で開催、講師は藤間生大と壺井繁治(18日)。梅崎春生が一時帰郷。萩原井泉水が来福。この年、湯川達典・鈴木召平・織坂幸治らが詩誌「浮彫」創刊。花田清輝が日本共産党に入党。小原菁々子がホトトギス同人に加えらる。
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社会文化事項:1月 特定戦災都市への転入抑制解除で福岡市内への転入は自由化(1日)。岩田屋・玉屋デパート新年初売開始(4日)。㈱水茶屋券番設立。博多港を引揚援護指定。新天町商店街に新天会館落成。3月 福岡第一師範附属中学校庭で抽選入試、1次選考合格者260人中「ガラガラ抽選器」で男女80人が合格(2日)。福岡財務局と各税務署がドブロク・焼酎の密造者を摘発、トラック50台分を押収(17日)。東京大相撲福岡場所、福岡市浜新地特設相撲場で興行(20日―22日)。因幡町商店街隣に木造3階建・水洗トイレの近代的飲食店街「福神街」(14店舗)開業。西南学院専門学校が新制の西南学院大学に。福岡経済専門学校と福岡外事専門学校が合併して新制の福岡商科大学に昇格、初代学長は花田大五郎(比露思)(25日*7月5日入学式、9月12日開講)。細川幽斎旧蔵書を九大が熊本市内の古物商から入手。(*総額30万円)4月 九州帝大が法文学部を廃して文学部・法学部・経済学部を設置(1日)。西南学院大学が学芸学部開設(1日)。福岡県中央図書館復興期成会(西日本新聞社提唱)、西日本新聞社講堂で発会式(1日)。福岡市営競輪事業を貝塚で開始(22日*37年10月廃止)。東公園に「子供の楽天地」造営計画浮上(*「西日本新聞」昭24・4・23)。NHKで流行の「素人のど自慢大会」、新天町の青空ステージで開催、聴衆は数千人(24日)。アメリカ極東艦隊第3掃海部隊6隻が博多湾の機雷撤去作業開始(25日*5月10日完了)。㈱渡辺鉄工所創立(*九州鉄工の第2会社)。5月 福岡市立母子寮を西新町に設置(2日)。交声曲「阿蘇」(持田勝穂作詞・森脇憲三作曲)発表演奏会、九大中央講堂で開催(5日*九大コーロステルラ合唱団演奏・安永武一郎指揮)。「西南大学新聞」創刊(20日)。昭和天皇が福岡市に巡幸、平和台総合運動場で奉迎、西公園など各所を訪問【★701】(21日)。日本交響楽団九州初演奏会(福岡放送局・西鉄文化部主催)、新演伎座(渡辺通り)で開催(21日―22日)。国立学校設置法施行、新制の九州大学など創立【★702】(31日)。福岡第一師範・第二師範・青年師範を統合し福岡学芸大学創立(31日)。6月 福岡司法事務局を福岡法務局と改称(1日)。ザビエル四百年祭参加の国際巡礼団の一行が来福し平和台で式典(1日*翌日山口へ)。新制国立大学入試(第1期校は8日―9日、第2期校は15日―16日)。博多港国際港開港安全宣言・同記念行事開催(10日)。「福岡商大新聞」創刊(11日)。福岡県美術協会結成し会長は坂本繁二郎(18日)。社団法人日韓貿易協会福岡支部発会式、福岡商工会議所で開催(22日)。7月 東公園内に福岡県立中央図書館【★703】落成(1日)。福岡市が船員等の宿泊・診療等の福利厚生施設「海員ホーム」【★704】を設置開業(1日)。GHQの九州軍政部・福岡軍政部は九州地方民事部・福岡民事部と改称(1日)。博多山笠5年ぶり復活、飾り山4・かき山6(10日―15日)。福岡地方簡易保険局新庁舎(西新町)開庁式(9日)。マッカーサー夫人ら一行が来福、新天町商店街を訪問(10日)。西日本新聞社が「西日本文化賞」復活・「西日本学生新聞賞」新設の社告(11日)。福岡地方貯金局(因幡町)火災(16日)。8月 大濠公園で納涼花火大会(19日)。9月 市設の観光案内所を博多駅前(馬場新町)に開設(1日)。新制九州大学の第1回入学式(10日*12日開講)。田中麗水(國介)編「復興大福岡之全貌(附福岡県勢一斑)」【★705】(大福岡社出版部*博多港再開記念出版)刊行(10日)。10月 日米交歓文化まつり、東公園で開催(13日―17日)。全国山林復興大会、九大講堂で開催(21日)、これを記念して「森林文化展」を玉屋デパートで開催(19日―26日)。福岡県美術協会復活第1回展(県展)、岩田屋デパートで開催(●日)。市制60周年記念第1回福岡市民体育大会、平和台総合運動場・他で開幕(22日)。秋、西鉄街開業。11月 第1回福岡県高校演劇コンクール、福岡中央高校講堂で開催(6日)。「西鉄商店街」(天神町)落成開店大売出し(12日―16日)。プロ野球2リーグ制で西鉄球団(西日本鉄道)はパシフィック、西日本球団(西日本新聞社)はセントラル・リーグに加盟(26日)。平和台球場開場記念の巨人―阪神戦開催(18日)。西日本新聞社が「夕刊西日本新聞」を発刊(29日*昭和26年11月10日終刊、朝夕刊セット販売は26年10月1日から)。12月 「夕刊朝日新聞」創刊(1日*26年9月30日まで)。「週刊西日本経済新聞」(西日本新聞社)を廃刊し「九州経済新聞」(九州経済新聞社)創刊(1日*25年2月1日終刊)。福岡市内に白衣の傷痍軍人3人組が登場【★706】。全日本学生新聞連盟九州支部結成(5日)。洋画封切館「金星映劇」開館(28日)。第一殖産無尽(株)設立(26日*登記完了、のち正金相互銀行)。柳橋連合市場で大火、8棟全半焼(29日*124世帯被災・死傷者41人)。この月、西日本新聞社が西日本野球㈱を創立し「西日本野球団」結成(*26年3月西日本鉄道野球団と合併)。福岡玉屋の屋上に小動物園(西日本新聞民生事業団主催)開設(23日)。柳橋連合市場で大火、全半焼114戸・死傷者45人(29日)。この年、中村ハルが唐人町公会堂を借りて中村割烹女学院創立。
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日本・世界事項:1月 マッカーサーが年頭の辞で日の丸の自由使用を許可(1日)。都会地転入抑制令解除(1日)。初の成人の日(15日)。法隆寺の壁画11面焼失(26日)。安部能成・大内兵衛・仁科芳雄・都留重人ら52人の科学者が「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」発表。2月 財団法人日本文学振興会総会で芥川賞・直木賞復活決定(17日)。連合軍総司令部最高経済顧問J・ドッジが来日(*3月7日記者会見=ドッジ・ライン、4月7日公式声明)。出水渓也編集「芸術前衛」創刊(*9月まで)。4月 検定教科書使用開始(1日)。NATO成立(4日)。第1回平和擁護世界大会、パリ・プラハで開催(20日―25日)。GHQ指令で1ドル=360円の単一為替レート設定(23日*25日実施)。中共軍が南京に無血入城(23日)。『現代日本小説大系』(河出書房)刊行開始。5月 健康保険法改正施行、初診料有料化(1日)。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府成立(6日)。学校教育法改正(18日*短期大学設置可)。新聞紙法・出版法廃止(24日)。新制国立大学69校、各都道府県に設置(31日)。6月 日本専売公社発足(1日)。ソ連からの再開引揚第1船「高砂丸」が舞鶴港に到着(27日)。7月 下山事件(5日)。三鷹事件(15日)。日本文学協会機関誌「日本文学」創刊。8月 松川事件(17日)。ジュディス台風、九州南部を横断(15日―17日)。シャウプ勧告(26日)。芥川賞・直木賞復活。9月 全日本学生新聞連盟結成(22日)。ソ連が原爆所有表明(24日)。10月 毛沢東が北京天安門広場で中華人民共和国成立宣言(1日)。ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立(7日)。日韓通商協定(15日)。日本戦没学生手記編集委員会編『きけわだつみのこえ』(●)刊行(20日)。「新日本詩人」創刊。11月 湯川秀樹にノーベル物理学賞決定(3日)。日本野球連盟は解体しセ・パ両リーグ制度を採用(26日)。新日本文学会第5回大会(29日―30日)。この年、書籍ベストセラーズは永井隆『長崎の鐘』(日比谷出版社)花山信勝『平和の発見』(朝日新聞社)谷崎潤一郎『細雪』(中央公論社)。流行歌は「長崎の鐘」「銀座カンカン娘」「悲しき口笛」「イヨマンテの夜」。映画は「青い山脈」「哀愁」。流行語は「アジャパー」「ギョッ」「温泉マーク」「ヒロポン」。
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注記 |
【★695】原田種夫「私的ルポルタージュ」:詩誌「日本未来派」(昭24・11)が各地の詩人に求めたアンケート回答の一つ。原田の一文は「住」「食」「衣」「補遺」の4節から成っている。「住/九州一の大都会など嘘つぱち、カストリの町福岡である。情緒の街などとんでもない、無職の徒が吸殻を拾ひ、くりから紋紋のゆすりたかりが巷に溢れ、税金苦に巷は苦渋の表情をたたへ、不景気の風が歪んだ街角で乱れてゐる没落のアプレ・ゲール福岡にすぎない。文化なんて薬にしたくもなく、ただ古風な陋習がのさばる人絹都市である。作家、詩人はうじやうじやゐるが、旅人ぞろひで、一致団結が望めない。みんな親分であり、一城の主であり、妥協よさらば、気に入らずば剣を持てである。/春吉花園町一六六五にわたしはゐる。たいそうよい響の町で、花園なんて誰がつけたか。味も香もなく花もない所だ。悲しいので茅屋を館(やかた)とよんでゐる。小さい館の花壇には、つまくれなゐ、鶏頭、ガーベラ、ダリヤ、ルコー草、カラー、バラまで植ゑてあり、レンガ塀には蔦の緑が一面に這ひ、ちよつとエキゾテックな匂ひもある。八、六、四・五、二の四間、いま湯殿を改造して瀟洒な書斎にしてゐる。家賃三百二十円、もう二箇月滞納してゐるところである。前は国民学校のグラウンド、昼間は子供らの喚声と砂塵が天に沖してゐる。ときどき野球のボールがはいつてくる。たまると古物商に売りにいつて、闇の高級タバコを買ふことにきまつてゐる。天の賜物であらう。八畳の座敷が客間、書斎、寝室となる。五つの本箱に三千八百五十冊の内外古今の典籍がつまつてゐる。おどかしである。本を開いたことがないのだ。押入れに、日本各地の郷土玩具がぎつちりはいつてゐる。玩具の鑑賞に耽つて久しく、『九州の玩具』の論稿があるのだが、出版をひきうける本屋がゐない。詩人の感覚と審美眼を信じないのであらう。/母が八十五歳、妻が三十八歳、十四、八つ、五つの三人の男児がある。天才の子供らしくなく、特色がない。一人ぐらゐ詩人になつて父の苦難に殉じてくれるといいのだが、まつたく豚児かも知れない。父は子の不幸、母は子の不幸、やがて三人の子が口を合はせて歌ふだらう。/食/火野葦平、劉寒吉らで興した有限会社『九州書房』を飲みつぶして一年四箇月、まつたく浪浪の涯にきた。負債五万九千二百円。生きることは借金がふえることである。この認識に到達した。さつぱり原稿の註文がなく、日ごとに貧窮にずり陥ちてゆく。毎月書物を九千円くらゐ払ひ、衣類を一万円ほど売つて凌いでゐる。本箱の三千八百五十冊は、ほとんど空のサックである。本を売つた跡は歯がぬけたみたいに侘しいので本のサックを立ててある。じつさいもう金になる本はなく、衣類もなくなつた。(略)/補遺/やはり喰ふことが一ばん問題である。この非文化的な風土には、コクトオもヴァレリイもボードレルも生まれない。詩人が生きる文化的環境など日本にうまれる日はないだらう。人間の中で一ばん贅沢でわがままで気むづかしい詩人といふ人種は、喰ふことなどに追つかけられてゐては、よい仕事ができはしない。美食をやり、酒を飲み、美女を抱いて放蕩の極地に遊ばなければ、すたすたと血がしたたる人間の詩の肉声はうまれてこない。」
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【★696】文芸誌「若人」:昭和24年4月1日発行の第1巻第3・4号(合併号)のみ確認済。同号の編集兼発行人は東田敏雄、発行所は不二出版(福岡市千代町三丁目五番地)。全78頁。九州・山口地区の新制高校文芸部の連合組織が母体になっているらしい。巻頭は元・九大総長で現・福岡県教育委員長の荒川文六「若人に寄す」、ついで安西均「九州弁」、持田勝穂「春夜」、風木雲太郎「新生」などが続き、学園紹介や高校生の創作が並んでいる。「朝倉高校 後藤明正」(*後藤明生)の創作「彼等の運命」がある。
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【★697】河野静雲が「花鳥山仏心寺」を建立計画:「九州の俳句道場/芭蕉などの像も安置/わが国唯一の昭和の俳諧寺花鳥山仏心寺が、俳壇の巨匠高浜虚子氏の命名で近く福岡市郊外観世音寺のかたほとりに生れる、敷地は五百坪、虚子門下の異色といわれる河野静雲氏(六三)が住職になり俳句による仏教の伝道に余生をささげるが、俳誌「ホトトギス」同人や全国俳句団体などによびかけて、九州各地に創立委員会をつくり寺堂を今秋までに完成する運動を進めている、仏心寺には阿弥陀仏本尊のほかに芭蕉、子規、虚子の三体の像を安置し全国にその例をみない俳句道場として九州俳壇のために開放される、静雲氏は夫人を亡くして十数年、清貧の生活をつづけてきたが、昨年十二月静雲門下のひとりである柳河の木下三丘子が死にのぞんで「俳句文学のために筑紫の五百坪の地所を静雲師にささげてくれ」と遺族に言遺して息をひきとり、この師弟愛のうるわしい心情に感動した虚子氏は先月「花鳥山」の扁額を揮ごうし静雲氏のもとへ送ってきた/河野静雲氏談 木下さんの遺言による広大な土地の寄贈と、九州の熱心な俳友の強力で生れることは誠にありがたい、こんどは力いっぱい仏道と俳句道に精進し、九州の文運のために骨を埋めたいと思う」(「西日本新聞」昭24・4・5)
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【★698】「雁来紅—村上・林・中村三氏遺稿集」:「昨年八月、ぼくは勤め先の同僚たちと一緒に南九州への小旅行をした。その旅行に出る前日、ぼくは旧知の秀村選三(九大経済学部長)を訪ねた。秀村は旧制福高時代から京大を通じて林の親友であった。ぼくもまた福高時代から彼ら二人を知り、京都では林と短い期間ではあったが、南禅寺で共同生活をした仲である。ぼくは昭和十八年九月に繰り上げ卒業で大学から押し出されて帰郷したが、二年下だった林はその年の十二月に学徒動員で佐世保海兵団に入団した。そして二十年四月、特別攻撃隊員として沖縄沖で戦死した。ぼくが秀村を訪ねたのは、林が鹿児島県鹿屋基地から飛び立ったと聞いていたので、それを確かめ、旅行のついでに鹿屋に立ち寄りたいと思ったからである。ところがここに思いがけないものがぼくを待っていた。「雁来紅」というガリ版刷りの一小冊子である。これは昭和二十四年四月に「福岡高等学校第十九回文甲同窓会」によって編集、印刷されたもので、サブ・タイトルとして「村上・林・中村三氏遺稿集」とある。秀村と同級の友人で戦死した村上雄一・林市造・中村邦春三氏の遺稿と、親族、友人の追悼の文とをまとめて一冊としたものである。」(湯川達典「ある遺書(1)」、「記録と芸術」№24、昭53・4)
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【★699】「第二期 九州文学」終刊:「昭和二十四年秋、九州文学に内乱が起った。同志は一人でない。田中艸太郎、都筑均、北九州の星加輝光、石山滋夫ら、当時若手と言われた連中がゲバをふるった。文化ハウスに集まり、宇野逸夫司会による座談会が開かれた。古い九州文学の同人は一人ずつ批判された。速記はそのまま掲載されて、九州文学は解散した。そして、佐賀では「未知派」が、北九州では「黄金部落」が誕生し、その他九州各地に新しい同人誌が誕生した。火野さんたちは旧同人を集めて「寂寥派」を結成した。」(角田嘉久「ふり返っての記」、「九州文学」昭45・3)
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【★700】川田禮子(森禮子):昭和3年7月7日、福岡市大円寺町の生まれ。小説家。本名は川田禮子。父親は高知県出身の建築設計技師で当時は福岡県庁に勤務していた。昭和6年、父親が大阪市港湾部に転勤となったため一家は大阪に転居。2年後、父親が病気で退職したため福岡に戻り、同年、父親は死去。10年、福岡市立当仁小学校に入学し、17年、県立福岡高等女学校に入学した。21年、同校を卒業し、西南学院英文科の聴講生となり、翌年、受洗。9月から半年間、西南学院図書館に勤めたあと、中村割烹学院や福岡レディス洋裁学院で学び、24年、詩誌「椅子」に参加。25年、隣家に引っ越してきた小島直記と知り、彼の主宰する「九州文学」(第3期)同人となった。以後、「九州文学」「九州作家」「芸林」などに作品を発表し、また放送劇の台本を書いた。31年11月、上京。放送劇の台本を書いて糊口をしのぎ、「文芸首都」に参加して小説や戯曲を発表した。50年6月、アメリカ在住の姉を訪ね、1箇月ほど滞在。55年1月、「モッキングバードのいる町」(「新潮」昭54・8)で芥川賞を受賞した。著書に『愛と迷いと』(聖文社、昭49・7)『モッキングバードのいる町』(新潮社、昭55・1)『五島崩れ』(主婦の友社、昭55・3)『光るひととき』(主婦の友社、昭55・6)『天の猟犬・他人の血』(文芸春秋、昭55・7)『ひとりの時間』(海竜社、昭55・9)『人生のまわり道』(潮出版社、昭56・7)などがある。
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【★701】昭和天皇が福岡市に巡幸:「天皇歓迎市民大会/平和台・廿一日午後二時卅五分/天皇陛下ご来福の五月二十一日、福岡市では午後二時三十五分から平和台で市民歓迎会を開くこととなった、この日参集の市民は八、九万を予想され、フィールドには学生、メィンスタンドを除く周囲のスタンドには一般市民が位置する、陛下は西側入口から三好市長の先導で入場されメィンスタンド前に設ける歓迎台にのぼられブラスバンド吹奏裏に君が代の高唱、万歳を受けられ約十五分ののち退場されるが、高齢者、未帰還者家族などにたいしては特別席を設ける、巡幸ご日程はつぎのとおり/△午前九時ご泊所二日市大丸別館ご発△同九時十分、水城村授産場(十分)千代町を経て△十時東公園貿易分館(二十分)千代町、二号国道を経て△十時五十分和白村青松園(十五分)二号国道、名島橋、一号国道を経て△十一時三十分、九大農学部工学部(二十分)一号国道を経て△十二時九大医学部(十分)千代町、呉服町を経て△午後零時二十分県庁ご中食(一時間)天神町を経て△同一時三十五分西公園市内ご展望(五分)西新町を経て△二時 百[道]松風園(十五分)西新町を経て△二時三十五分平和台市民歓迎場(十五分)中洲、住吉を経て△松居博多織工業(三十五分)住吉、中洲、呉服町、千代町を経て二日市ご泊所着」(「西日本新聞」昭24・4・29*「青松園」(和白)・「松風園」(百道)は孤児園)
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【★702】新制大学創立:●新制大学の創立にともない旧制高校の2・3年生は卒業まで在学し、1年生は一般入学資格者と同様に新制大学入試の受験可。また、九州大学は一般教養課程実施のため7月1日付で第1—3分校を設置(1日)。旧制福高を第1(文理科生・38年4月1日教養部に)、久留米工業専門学校(*昭和14年5月創立)を第2(理科生・30年10月30日廃止)、旧西部48部隊兵舎跡を第3分校(文科生・26年3月31日廃止)とした。
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【★703】福岡県立中央図書館:「福岡県立中央図書館(福岡市東公園内) 本館は大正天皇の御即位記念事業として創設建築され、大正七年三月に落成し、四月二十日より一般に公開され、多数の読書人に稗[裨]益していたが、昭和二十年六月、蔵書十六万四千余冊を戦災によつて灰燼に帰したのは惜しみても余りある。貴重な郷土資料等も一切なくなつた。/終戦後県立修猷館の一角にて復旧に努力していたが、五四〇万円(内建築費三五五万円)にて復興することに決定し、昭和二十四年三月に工を起して七月一日落成、七月四日より一般に公開している。/建坪延一七六坪余で、特に採光に意を用いた明るい一般閲覧室(定員一〇〇名)、児童室(定員三〇名)の外に休憩室等がある。/本館は県の中央図書館たる性質上、自動車による移動文庫や巡回文庫の発達を期し、各市町村図書館の育成を念じているる」(「福岡」、「福岡」刊行会、昭25・3)
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【★704】海員ホーム:●要調査*「西日本新聞」昭和22・5・14には「博多港に海員ホーム/三好市長の公約実現/自由の港の開放された博多港に海員ホームが生れる。これは三好福岡市長が昨夏海員組合にたいする公約がいよいよ実現するわけで、市は二百万円の追加予算を計上し元博多引揚援護局の食堂五棟五百九十坪を改築して作るが、近く三好市長から中央に建物の払下げを申請する」とある。これとの関係は?
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【★705】「復興 大福岡之全貌(附福岡県勢一斑)」:「商店街繁盛記/終戦後は各都市に於て集団商店街が生れ、福岡に於ても足場のよい街々の枢要地に設けられてある即ち商店街、マーケツト、市場等五十余ケ所あるが、その内最も繁華を極めてるものを挙げると那珂川を境にして。/一、新天町、因幡町、天神町、花園町松屋街、渡辺町一丁目、花園町、柳橋市場/二、寿通、ツナバ商店街、麹屋、下新川町、上新川町、川端通、博多駅前、祇園市場/其他市の東部では千代町、箱崎、西部では唐人町市場、西新市場、六本松市場、姪浜市場等であるがこれに食道街が伴つてる」、「映画館と劇場/娯楽といへば第一に指を屈するのが、映画と演劇である。福岡には映画会社の支社が殆ど揃つてゐる。大映、東宝、松竹、セントラル、MCC等の各九州支社があつて、東京大阪で封切りしたら直ぐ福岡に来るので地方では、マア新らしい映画が見られる訳だ。この映画の間に東京大阪の歌舞伎や新派俳優、歌劇とか楽団も来る。その他凡ゆる興行があつて賑やかなことだ。市内に於ける映画館と劇場は/有楽映画劇場 東中洲/大洋映画劇場 同/博多日活劇場 同/玉屋シネマ 同/多門座 同/新演伎座 渡辺通四/朝日館 同/柳橋劇場 同/高宮映画劇場 高宮/大橋映画劇場 大橋/西日本映画劇場 天神町/聚楽館 西新町/第一平和館 片土居町/福岡松竹劇場 蓮池町/大博映画劇場 上東町/国際映画劇場 千代町/東宝毎日館 箱崎/金龍館 住吉/吉塚映画劇場 吉塚/共楽亭 千代町」、「ダンスホールとキヤバレー/新人階級の娯楽としては、ダンスであるが、福岡市内のダンスホールとキヤバレーは次ぎの如くで尚この外にダンス教習所が十数ケ所ある。/ローズバツトホール 新大工町/ユニオンダンスホール 千代町三/ブルヱツトダンスホール 住吉横田町/キヤバレー・コクサイ 東中洲/ナンバーワン・キヤバレー 東松原/フロレンダー・キヤバレー 土居町/セントラル・キヤバレー 天神町/ハリウツト・キヤバレー 長浜町/キヤバレ・パラダイス 下名島町(天神市場裏)」、「学術技芸学校/櫛田裁縫専攻学校 社家/福岡家政専門学校 住吉/福岡文化女子高等学校 馬出/福岡高等女子専攻学校 千代町/西南保育専攻学校 鳥飼/福岡産婆学校 水茶屋/福岡看護婦学校 今泉町/九州タイピスト女学校 箱崎/昭和タイピスト女学校 新大工町/福岡洋裁学院 長浜/鮎川高等美容学校 浄水通/福岡高等美容学校 室見川/生活科学塾 鳥飼/松操学院 荒戸/ゴトウ洋裁学院 薬院堀割/福岡レデイス洋裁学院 荒戸/ミチヱル洋裁学院 土手町/箱崎服装文化女学院 姪浜/ドレスメーカー女学園 天狗松/オリエンタル洋裁学院 西唐人町/レデイス香蘭女学院 大工町/千代文化洋裁学院 千代町一/大濠ドレスメーカー女学院 菰川南/双葉洋裁専門学校 大名町/若草洋裁学院 渡辺通四/リヨン洋裁学院 住吉木下/フヱア女子学院 馬出/ドレスメーカーツル女学院 千代町/美和女学院 白金町/東京レデイス洋裁学院 唐人町/安川高等洋裁学院 今泉町/佐藤洋裁研究所 東中洲/福岡女子文化学院 西町/双葉ドレスメーカー学院 中庄町/西郷洋裁学院 御供所町/江上料理高等学院 薬院/扶桑高等女子学院 渡辺通五」、「福岡の社会事業施設/福岡県施設から述べると、児童保護施設として百道松風園、福岡学園、若久緑園、若草寮、百道寮の五箇所あり。浮浪者収容の清和寮。婦人保護施設として福岡婦人寮が設けられてある。また同胞援護会県支部経営の青松園がある。次ぎは福岡市施設として失業対策として共同作業場、公益金融所二箇所、西新町に母子寮を設け遺族授産所がある。保育所として市営二ケ所、個人経営が十三ケ所ある」
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【★706】福岡市内に白衣の傷痍軍人:「白衣で同情金/福博版「限りなき舞踏」/さいきん福岡市にアコーディオンを鳴らし、ギターをひき素人のど自慢的な歌をうたって人を集め同情金を募るという白衣の三人連れが現われ話題となっている、歌と音楽が一通り終ると黙然と頭を下げて喜捨を待つのだが「傷い者連盟」の箱に入る同情金は意外に多く附近の人からは果物や菓子類など与えられたりしている、師走の声をきくと道行く人の足もあわただしく、加えて金詰りとあればこうした募金方法が案出されたものと見られるが、この一行は数日前大阪から来て博多駅前の旅館に泊っての生活であり、かつ傷い軍人を売物にしての募金行為は昨年の次官通告で禁じられたものであり福岡警察署でも内査をはじめた(写真は歌う白衣の三人連れ)」(「西日本新聞」昭24・12・4)
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関連情報 |
詳細
レコードID |
410615
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1949
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和暦 |
昭和24年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |