<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和23年
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 秋山六郎兵衛「与論と文化」(「九州与論」)雨宮毅「戯曲 花壇」(「九州演劇」)中野秀人『精霊の家』(真善美社)峰絢一郎「肉体の花」(「九州文学」)鹿児島寿蔵『〈互評自註歌集〉新冬』(講談社*橋本徳寿と共著)2月 雨宮毅「世代の羽ばたき」・山田牙城「菫花歌」(「九州文学」)秋山六郎兵衛「青春」(「西鉄文化」3)武田幸一『赤い湖』(宝雲舎)石中象治『芸術家の精神』(圭文社)3月 小島直記「絶景」(「午前」)〈座談会 九州の文学を語る〉【★679】・秋山六郎兵衛「深夜の対談」・丸山豊「石斧」(「九州文学」)火野葦平「菊池寛先生の死」(「西日本新聞」8日)福永武彦『塔』(真善美社)梅崎春生『桜島』(大地書房)4月 眞鍋呉夫「サフォ追慕」(「午前」)古海卓二「断層」(「九州文学」)松田常憲『現代短歌の研究』(学燈社)5月 都築均「眼・実験・虚構性―覚書梅崎春生」・安西均「痛みのポエジイ」(「九州文学」)島尾敏雄「夢の中の日常」(「綜合文化」)小島吉雄「へちまと夕顔」・矢野朗「男女同権」・古海卓二「あぶく放談」(「想苑」5)6月 谷川雁「詩人から詩人へ」(「午前」)牛島春子「青葉の季節」・中村光至「米五勺」(「九州文学」)眞鍋呉夫『二十歳の周囲』(全国書房)8月 大西巨人「志賀直哉論」(「綜合文化」)林逸馬「太宰治小論」(「九州文学」)林逸馬「肉体文学の系譜」・百田耕三「暗き黄昏」(「西鉄文化」4)梅崎春生『飢ゑの季節』(講談社)9月 柿添元『九重』(母音社)星加輝光「太宰治のある風景」(「九州文学」)北川晃二『逃亡』(講談社)佐久間鼎『日本語の言語理論的研究』(三省堂)向坂逸郎『疑い得る精神』(高島屋出版部)東潤「季節の斜面」(「西日本新聞」26日)10月 北川晃二「妖呪」(「別冊風雪」1)島尾敏雄『単独旅行者』(真善美社)秋山六郎兵衛『文学と真実』(晃文社)11月 眞鍋呉夫「二十歳の周囲」(「作品」)〈九州詩集〉(「詩と詩人」)石原精一『随筆筑紫路』(私刊)12月 持田勝穂『海光』(叡智社)■この年、「揺籃」(佐賀県基山町)第2号に牛島春子「引揚者の絵葉書」・中村光至「浮藻」(*「九州文学」12月号広告)鹿児島寿蔵『〈互評自註歌集〉海峡』(講談社*橋本徳寿と共著)
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文学的事跡:1月 北川晃二が桜井冨美子と結婚(8日)。「九州演劇」が第14号をもって終刊。花田清輝・梅崎春生・中野秀人・岡本太郎ら7人で「夜の会」を結成。2月 劇団珊瑚座の中心メンバー原田芳生が喀血後、九大病院で服毒死(13日)。旧制福岡高等学校出身の伊達得夫、東京で出版社「書肆ユリイカ」創業。笠信太郎がヨーロッパから帰国(20日)。赤川次郎、父親の赴任地の福岡市で出生(29日)。3月 広渡常敏【★680】が福岡高等学校を卒業し、翌月九大に進学。添田博彬が福岡高等学校(旧制)を卒業し、翌月九大医学部に入学。川崎洋が八女中学(旧制)を卒業し翌月西南学院専門学校英文科に入学(*翌年退学)。政府が著述家の第二次仮追放指定発表、火野葦平も(29日)。4月 岡松和夫【★681】・小田島雄志【★682】が福岡高等学校(旧制)文科1組に入学。のちに音楽家となる荒谷俊治(文科1組)・藤井凡大(理科1組)らも入学し、旧制高校最後の入学生となった。「九州文学」東京支部結成、在京同人会を銀座の喫茶店アイオイで開催(20日)。5月 龍秀実、福岡県で出生(12日)。清原枴童没【★683】(16日)。文筆家追放仮指定に対する異議申し立て最終審査、火野葦平(「戦友に愬ふ」「広東進軍抄」)は追放決定(*「西日本新聞」昭23・5・15)。阿波野青畝が来福し、福岡ホトトギス会・福岡玉藻会共催の歓迎句会を西公園の舞鶴館で開催(16日)。この頃、「ハカタ」(福岡市東中洲作人町ハカタ社)創刊。「九州文学」同人大会・九州文学賞授賞式、天神町の新天会館で開催(22日)。有限会社九州書房が福岡市春吉の専立寺で社員総会を開催し、会社解散を決議(23日*赤字80万円)。末頃、眞鍋呉夫が単身上京し石神井ホテルに滞在中の檀一雄を訪ねて同宿、翌月13日の太宰治の自殺に遭う【★684】 。6月 俳誌「自鳴鐘」(若松市)復刊。7月 初夏、佐賀の田中艸太郎・都筑均・大塚巌・角田嘉久が「九州文学佐賀支部」を結成し、佐賀市公会堂で矢野朗・岩下俊作の講演会開催(*田中艸太郎「トルのことドスのこと、など」、「九州文学」昭45・3)。火野葦平・原田種夫らが「おでん座」を結成し、タロー劇場(旧・福岡市記念館)で文士劇公演、火野葦平の文芸講演についで文士劇「酒と共に去りぬ」(雨宮毅作)を上演【★685】。8月 檀ヨソ子が太郎を連れて上京。9月 持田勝穂が疎開先の唐津から福岡市上鰯町の自宅に戻る。この頃、北川晃二『逃亡』出版記念会、西中洲の商工会議所内のレストラン「みかど」で開催【★686】。11月 花田清輝が「新日本文学」編集委員に就任。大西巨人が柴田美智子(福岡市田島)と結婚。12月 福岡地区新制高校綜合誌「波紋」(福岡地区高等学校連オールハイ)創刊。この年、大山安太郎(*因幡町商店街「文化堂」主人)らが「自鳴鐘」福岡支部俳句会を結成し、俳誌「秒針」創刊。この頃、言論誌「青年春秋」(福岡市千代本町青年春秋社)創刊。
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社会文化事項:1月 福岡県福岡保健所設置(1日)。福岡市消防団が大濠公園で第1回出初式(6日)。参院議員の松本治一郎が通常国会開会式で「カニの横這い」事件(21日)。西口紫溟が雑誌「九州春秋」復刊。2月 長谷川一夫一座が来福し新演伎座で公演(4日―6日)。福岡学生自治連盟結成(7日)。九大生体解剖事件の軍事裁判、横浜法廷で開廷(11日*横浜裁判)。福岡岩田屋デパートの屋上にプレイランド開設(11日)。福岡県農産漁村文化協会設立し(28日)、小台三四郎らが専属劇団「協同座」結成。3月 改正警察法(自治体警察の設置)施行により福岡市警察部を設置し福岡・東福岡・西福岡の3署を統括(7日*7月1日付で博多臨港警察署も)。自治体消防として福岡市消防本部を設置し福岡消防署を置く(7日)。県立修猷館高校に県下初の通信教育部を併設(15日)。「九州大学新聞」復刊(20日)。4月 新制高校発足(1日*県立高校は計115校、福岡市内は県立6校・市立3校・私立8校)。西鉄労組初の24時間スト決行、人力車・輪タクが活躍(13日)福岡SCAP・CIEライブラリー【★687】が東公園内の貿易分館(旧武徳殿)地下に開館(19日)。新制の福岡高等学校の開校式・始業式(20日)。福岡学生新聞連盟結成(20日)。福岡県教員組合結成(29日)。新天町の新天広場に屋外施設「新天ステージ」完成。5月 福岡市議会復興委員会で警固・須崎・舞鶴など市内15箇所の緑地公園敷地選定(6日)。シベリア引揚の西日本出身者を乗せた特別列車が門司に到着、博多駅下車は5人(10日)。博多ドンタク・港祭り開幕(10日)。博多検疫所発足し築港一号岸壁第二倉庫で記念式典(10日)。6月 鬼頭鎮雄『九大風雪記』(西日本新聞社)刊行(10日)。香椎税務署が多々良村名島の「朝鮮人部落文化村」を急襲し密造焼酎5石を押収(14日)。宇治山哲平版画展、岩田屋デパートで開催(15日―19日)。東京レディス洋裁学院の九州初公演「ニユーファッションショウ」歌と踊りとオペレッタの集い、新演伎座で開催(19日―20日)。小石原宗一編『教養えの道』【★688】(福岡市役所図書室)刊行(20日)。7月 私立香椎高校を県に移管し県立香椎高等女学校と統合して香椎高校創立(1日)。舁山笠(かきやまかさ)が4年ぶりに復活し櫛田入り(1日)。エジソン101年祭記念の蓄音器まつり(福岡蓄音器商組合・レコード製造協会主催)、西日本新聞社講堂でのど自慢大会や軽音楽大会などを開催(1日―5日)。福岡ユネスコ協会、福岡外事専門学校で創立総会(3日*事務所は丸善㈱福岡支店内)。週刊「西日本経済新聞」創刊(5日*「西日本新聞」姉妹紙、24年11月30日終刊)。博多山笠「すえ山」が7年ぶりに復活(15日*8日飾り付け)。福岡県下の43定時制高校、この月の下旬に開校。福岡県下に開設予定の学芸大学の誘致で福岡市と小倉市がせり合い。福岡軍政部が集会・行進・示威運動の規制緩和(*500人以下は届出の必要なし)。8月 「福岡県遺族会だより」創刊(1日)。福岡市役所総務部調査課編『福岡市勢要覧 昭和22年版(再版第1号)』刊行(6日)。「西日本新聞」紙上に「法廷から見た「生体解剖」の実相」(共同)掲載(15日)。横浜軍事裁判で九大生体解剖事件に判決、元西部軍管区司令官横山勇中将ら5人に絞首刑【★689】(27日)。棚町知彌ら演劇雑誌「リドウ」【★690】創刊。9月 北部九州に豪雨、死者121人、行方不明126人(11―12日)。セントラル福岡支社主催「アメリカ映画祭」、大濠公園納涼場で「アメリカ映画の夕」開催(14日―15日)。在日朝鮮人連盟福岡県支部第5回定期大会、朝鮮福岡初等学校(福岡市大石町)で開催(25日)。労働基準法施行1周年記念「秋の演劇祭」、有楽映画劇場で開催【★691】(28日)。10月 第5回西部美術展、西日本新聞社講堂で開幕(1日)。林逸馬らが「西日本文化人協会」を結成し(9日)、機関誌「文化人」発行(*事務局は福岡市役所図書室内)。大山郁夫講演会(西日本新聞社主催)、新制福岡高校と当仁小学校で開催(9日―10日)。ヘレン・ケラーが福岡市を訪問(15日*16日長崎へ)。平和台競技場完工式、「福岡平和台総合運動場」と命名(18日)。福岡県で第3回国民体育大会秋季大会開催(29日―11月3日*戦後初めてスポーツ大会に国旗掲揚許可)。新演劇人協会福岡支部結成【★692】。日本観光倶楽部福岡案内所設立(*翌年4月、九州観光社として独立)。福岡―欧州・インド間の電話線開通(26日)。11月 福岡県教育委員会が発足し、県庁内に福岡県教育庁を設置(1日)。タロー劇場で第1回福岡自立劇団公演で九大福高演劇部「モルモツト」(広渡常敏演出)・劇団ともだち座(下祇園町善照寺内)「雪」(原田匤巳演出)上演(28日)。能古渡船「平和丸」進水。12月 「福岡外専新聞」創刊(1日)。西鉄労組越年資金闘争で青年部推進隊長ら5名が本社廊下で血書ハンスト突入(13日)。広田弘毅元首相、巣鴨プリズンで絞首刑(23日)。横浜軍事裁判の福岡油山事件(米兵虐殺事件)に判決、元西部軍司令官横山勇中将ら9人に絞首刑・5人に終身刑など(29日)。日本共産党宣伝教育部編『日本共産党決定報告集』【★693】(人民科学社)発行(●日)。福岡県議会が国立博物館誘致議案を可決。戦災復興事業で因幡町商店街西側の土地を昌栄土地(のち西鉄不動産)が買い取り商店街を建設(*24年秋「西鉄街」として開店)。困窮学徒の勉学修道場「大憲塾」が福岡城跡に開塾(*30年3月大憲塾法学院、34年4月西日本法律専門学校と改組改称)。年末、県立福岡中央児童相談所(福岡市百道本町)にウソ発見器を設置【★694】。この年、タロー劇場(旧福岡市記念館)が返還となり中央公民館として再利用。この頃、福岡市内の実業学校は福岡高等経理学校(雁林町)米語専門学校(西公園前)鎮西高等経理学校(東薬院)福岡高等女子専攻学校(東公園)福岡文化女高専(馬出吉塚道)川島女学校(大名町)櫛田裁縫専攻学校(社家町)昭和タイピスト学校(新大工町)佐藤洋裁研究所(東中洲)など。
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日本・世界事項:1月 ビルマ連邦独立(4日)。山口誓子「天狼」創刊主宰。帝銀事件(26日)。「天狼」・「個性」創刊。ガンジー暗殺(31日)。公職追放令で出版関係者217人処分。2月 片山哲内閣総辞職(10日)。国立国会図書館法施行。3月 菊池寛没(6日)。芦田均連立内閣成立(10日)。「改造文芸」創刊。原書房・勁草書房・東京創元社創業。4月 6・3・3教育制度実施(1日)。新制高校発足(1日)。GHQが祝祭日の国旗掲揚許可(4日)。5月 軽犯罪法公布(1日)。サマータイム実施(2日)。石炭庁設置(10日)。美空ひばり、横浜国際劇場で歌手デビュー。6月 横山白虹ら俳誌「自鳴鐘(じめいしょう)」復刊(1日)。7月 原爆調査委員会(ABCC)開設(1日)。水産庁設置(1日)。建設省設置(10日)。優生保護法公布(13日*人口妊娠中絶の条件緩和等)。小学校教科書検定制度実施。第14回オリンピック、ロンドンで開幕(29日)。ユネスコが「戦争をひきおこす緊迫の原因に関する声明」発表。8月 「詩文化」・「作品」創刊。大韓民国成立、大統領は李承晩(13日)。秋田書房創業。民主主義擁護同盟準備会結成(*24年7月正式発足)。9月 新制中学の男女共学全面実施(1日)。文部省の実験教育「ローマ字による教育」(「国語」を除く)、全国46小学校66学級で開始(1日)。朝鮮民主主義人民共和国成立、首相は金日成(9日)。大韓民国独立式典、大統領は李承晩(15日)。全日本学生自治会総連合(全学連)結成(18日)。「暮しの手帖」創刊。10月 丹羽文雄主宰「文学者」創刊。第2次吉田内閣成立(19日)。新日本文学会第4回大会(26日)。11月 文芸誌「詩と真実」(熊本市)復刊。極東国際軍事裁判でA級25戦犯25人に判決、東條英機ら7人に絞首刑(12日)。小倉市で全国初の競輪開催(20日)。福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)の矢留小学校内に北原白秋の「帰去来」詩碑建立(2日)。12月 東京裁判で判決、東條英機・広田弘毅ら7名は絞首刑(12日*23日未明死刑執行)。国立国語研究所設置(20日)。東條英機・広田弘毅らの絞首刑執行(23日)。この年、流行歌は「湯の町エレジー」「東京ブギウギ」「異国の丘」「銀座カンカン娘」「憧れのハワイ航路」。映画は「酔いどれ天使」「美女と野獣」。流行語は「斜陽族」「てんやわんや」「冷たい戦争」「老いらくの恋」。書籍ベストセラーズは太宰治『斜陽』(新潮社)吉川英治『新書太閤記』(六興出版社)永井隆『この子を残して』(講談社)。
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注記 |
【★679】座談会 九州の文学を語る:「第二期 九州文学」第100冊記念の座談会。出席者は岩下俊作・長谷健・原田種夫・林逸馬・星野順一・劉寒吉・宇野逸夫・矢野朗・山田牙城・古海卓二・峰絢一郎・東潤・火野葦平。
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【★680】広渡常敏:昭和2年8月3日、福岡県宗像郡福間町の生まれ。劇作家・演出家。福間尋常小学校、福岡中学をへて23年3月、福岡高校文科卒業。25年、九州大学法文学部美学科中退。幼少のころ小児麻痺にかかり、右足のアキレス腱をなくした。中学・高校と水泳部に所属。戦時中は学徒動員で雑餉隈の九州兵器工場で働いた。戦後、学生演劇グループ「薔薇座」を結成。九大退学後に上京して俳優座に入団。東映助監督をへて29年に俳優座第三期生を中心に「三期会」(32年に「東京演劇アンサンブル」と改称)を結成主宰。ブレヒトに傾倒し、劇場「ブレヒトの芝居小屋」(55年練馬区に完成)を拠点に全国各地でブレヒトの作品「ガリレイの生涯」のほか、チェーホフ原作「かもめ」・木下順二作「オットーと呼ばれる日本人」・宮沢賢治原作「グスコーブドリの伝記」「銀河鉄道の夜」・坂口安吾原作「桜の森の満開の下」・太宰治原作「走れメロス」などを演出。42年、芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。著書に『稽古場の手帖—ブレヒトの芝居小屋からの報告』(三一書房、昭52・9)戯曲集『夜の空を翔ける』(三一書房、昭56・10)『戯曲銀河鉄道の夜』(新水社、平8・10)などがあり、また連載自伝エッセイ「青春無頼」(「西日本新聞」昭51・4・18—6・30)がある。
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【★681】岡松和夫:昭和6年6月23日、福岡市の生まれ。小説家。奈良屋小学校(国民学校)・旧制福岡中学(4年修了)をへて旧制福岡高等学校に入学。学制改革により翌24年、新制の東大を受験したが失敗し、1年後に合格した。仏文科を専攻し、のち国文科に学士入学、さらに大学院に進学した。32年2月、細田源吉の媒酌で瀬山梅子と結婚。34年、短篇「壁」で文學界新人賞。51年1月、「志賀の島」で第74回芥川賞を受賞した。「それにしても、辛うじて一年間だけは旧制高校の生活を経験できたのだから有難い。九州大学教養部のあるところが、旧制福高である。旧制高校生と言えば弊衣破帽が看板だが、私は黒い学制服など持たなかった。中学時代からの国民服や兄からもらった兵隊服を着ていた。帽子だけは近所にいた上級生から譲られたものをかぶった。(略)私の僅か一年間の高校生活を支配したのは青春の感傷性だった。ドイツ語の歌を覚えたり、女の子のことをメッチェンと言ったり、金のことをゲルと言ったりすることを覚えたのも、このなかに加えてよい。(略)小田島雄志も同級生である。彼は九州育ちではなかったので、なまりのない綺麗な言葉を話した。この年、全く教師の干渉のない自由な一年を初めて経験した。」(岡松和夫「こぞの雪」)
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【★682】小田島雄志:昭和5年12月18日、旧満州奉天の生まれ。父祖の地は秋田県花輪町。昭和21年9月、引き揚げで博多港に上陸。23年4月、福岡高等学校に入学したが、学制改革のため翌年度から大学受験が可能になり、東大文学部英文科に入学。シェイクスピアの翻訳・研究にすぐれ、白水社版シェイクスピア全集の翻訳を担当。また、軽妙洒脱なエッセイ集『シェイクスピアより愛をこめて』(晶文社、昭51・2)『珈琲店のシェイクスピア』(晶文社、昭53・9)『ハムレットと乾杯!』(昌文社、昭59・9)『詩とユーモア』(白水社、平7・1)『半自伝このままでいいのか、いけないのか』(白水社、平11・6)など著書多数。
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【★683】清原枴童没:「昭和二十三年五月十六日、清原枴童遠逝、享年六十四。法名は雅亮院釈枴童居士、墓所福岡市中央区寺町、専立寺。虚子より弔句。/人来れば卯の花腐しそのことを 虚子/○/昭和二十三年七月、俳誌「忍冬」は、虚子より「枴童を悼む」の追悼文を戴き、追悼号を最後に通巻二十一号を以て廃刊。/○/昭和二十三年八月号ホトトギス消息に次の章がある。/清原枴童君は五月十六日午前五時脳溢血のため急逝せられたとのことでありました。兼て軽微の脳溢血に罹つて歩行にも不自由なところが見えてゐたのでありましたが、つとめて俳句会に列席し、後進の誘導に怠らなかつたのでありました。高潔なる性情の持主でありまして、渡世の術にうとく、清貧に甘んじ身を持することが高く、若し師弟の友情といふ言葉を使ふことが許されるならば、最も私に対して友情の厚い人でありました。哀惜の情に堪へません。/人来れば卯の花腐しそのことを/(昭和二十三年五月二十八日)/(ホトトギス五一巻八号、「虚子消息」より転載)」(原三猿子「俳諧春秋」、『句集 夏萩』新樹社、昭52・1)
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【★684】太宰治自殺:「「檀さん! 太宰さんが失踪したそうですよ」/「えっ。太宰が……」/と檀さんは絶句したまま、私が渡した新聞の裾の方を胡坐あぐらの下に敷きこみ、しばらく頭を垂れてその記事に眼をはしらせていたが、そのうちひょっこり青黒くこわばった顔をあげたと思うと、/「ちょっと見晴亭みはらしていに行ってみましょう。ほかの新聞が見たいんです」/そう言ってもう立ちあがっていた。/(略)「無事だといいんですけど、どこに行ったんでしょうかねえ」/うっかり言わでものことを口にすると、/「いや、死にました。太宰は今度は死にました」/宙を見据えるようにそう言ってカストリを呷った一瞬、檀さんの目尻を横ざまに奔はしった短い涙の筋が、店の中の薄暗さのせいか、妙に白っぽく浮きあがって見えた。」(眞鍋呉夫「天馬漂泊」)
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【★685】「おでん座」の文士劇:「潰滅した書房のばん回策として、私らは、七月九日にタロー劇場、八月二十七日と二十九日、福岡県宮田と直方に、文士劇「おでん座」を組織して巡業した。当時「九州演劇」というのを出していた雨宮毅が「酒とともに去りぬ」という劇をわれわれのために書き、これを演出した。結果はさんざんの失敗で、恥をさらしたに過ぎなかった。皆が本名で舞台に出て、本物の酒やビールを飲むという、まことにつまらない芝居だった。」(原田種夫『西日本文壇史』)●東潤「遠い自画像」(「九州文学」51・7)
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【★686】北川晃二『逃亡』出版記念会:「北川晃二の「逃亡」出版記念会は翌年(*昭和23年)であった。西中洲の商工会議所内「みかど」だったと記憶する。隣りの座席にすわっていた彼は、自分の会だったせいか、指名されて短かく一言しゃべっただけで、始めから終りまで黙りこくっていた。」(角田嘉久「ふり返っての記」、「九州文学」昭45・3)
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【★687】福岡SCAP・CIEライブラリー:「福岡CIE図書館店開き/海の彼方の「新知識」/きようから一般に無料公開/〝一般日本人のため海の彼方の新しい知識を〟と総司令部民間情報教育局の好意で福岡市東公園貿易分館地階に生れた九州初のC・I・E図書館福岡分館の開館式は十九日午後二時からニスの香も新しい机、いす、書だなと約五千冊の英文書で埋もれた同館閲覧室で開かれ、九州軍政部司令官ヒルトン大佐、福岡軍政部司令官マンスキー中佐をはじめ両軍政部教育係官、杉本福岡県知事、三好福岡市長ら約百名が列席した。/まず総司令部民間情報教育局長ニユージエント中佐の祝辞(総司令部図書館係官マルホランド氏代読)についでヒルトン大佐、マンスキー中佐らのあいさつがあり同三時半散会した。二十日から一般日本人に無料公開されるが、日、月曜の休館日を除き毎日午前九時から午後五時まで、蔵書は学術専門書から各種雑誌まで備付けられている」(「西日本新聞」昭23・4・20)初代図書館長はドロシア・マンロー女史、昭和24年1月15日、札幌同図書館に転任となって離福し、後任には新潟の同図書館からロゼッタ・カードウェル女史が赴任(「西日本新聞」昭24・1・15)。「福岡C・I・E図書館(福岡市東公園内) 昭和二十三年四月、福岡市東公園内元武徳殿の一階に開設されたもので、蔵書は全部米本国其他より送附された洋書で、単行本の外多数の新らしい月刊雑誌等もあり、閲覧者は自由に出入して最近のアメリカの状況なども伺うことが出来る。/設備は図書閲覧室、雑誌閲覧室、児童閲覧室等がある。/なお、C・I・E図書館では、屡々レコード・コンサートや映画鑑賞会等を無料で公開し、豊かな教養の向上に努めている。」(「福岡」、「福岡」刊行会、昭25・3)
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【★688】『教養えの道』:昭和23年6月20日発行。発行所は福岡市役所図書室。全113頁。装幀は吉田新。「限定版 実費」とある。矢崎美盛(九大教授)「文化の本質」・黒田重太郎(前文展審査員・二紀会会員)「美術の鑑賞—東洋の美と西洋の美」・林逸馬(作家)「日本世界名著解題」の3編を収録。小石原宗一執筆の「あとがき」に、「私達はお互いが自らをきびしく反省し、自己革新より出発しなくてはならない。若者も、老人も、自己脱皮の実践生活を通じて近代人間の確立に苦闘することによつて、新らしい日本を世界の中に築かねばならない。その為に私達は、自己をみつめ、自己を知ることから始めよう。そして豊かな教養と、新らしいモラルを身につけることに努めよう。/こういつた意図のもとに、市役所の図書室が企画した文化講座の中から、茲に三篇を選んで上梓することにした。勿論講演の速記録を元にしたものであるから、文章としてぎこちない面は多々ある。然し首題については夫々の権威者の傾けられた蘊蓄であるから、玩味すべきもの多きを信ずる。/敢て『教養えの道』として送る次第である。」とある。
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【★689】九大生体解剖事件に判決:「西日本新聞」昭和23・8・28参照。絞首刑は横山勇(元・西部軍司令官、中将)・鳥巣太郎(元・九大医学部助教授)・平尾健一(元・九大医学部助教授)・森良雄(元・九大医学部講師)・佐藤吉直(元・西部軍参謀、大佐)の計5名、終身刑は穐田(あき)弘志(元・西部軍参謀、大佐)・薬丸勝哉(元・西部軍参謀、中佐)・森本憲治(元・九大医学部医局長)・仙波嘉孝(元・九大医学部医員)の計4名、わか重労働25年2名、重労働20年1名、重労働15年4名、重労働10年2名、重労働9年1名、重労働7年1名、重労働6年1名、重労働5年1名、重労働3年1名、無罪7名。
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【★690】演劇誌「リドウ」:創刊号(第1巻第1号)は昭和23年8月5日、第2号は9月25日、第3号は12月10日の発行。全3冊。編集人は高山朝光、発行人は棚町知彌。発行所は福岡市上小山町11山内商事内くるみ書房(*架空の書肆)。企画発案者の棚町知彌は大正14年8月31日、東京市の生まれ(本籍地は福岡県三井郡小郡村)。旧制成蹊高等学校文科をへて北海道帝大数学科休学。陸軍現役兵として応召し中国の戦地で1年間を過ごし、昭和20年12月佐世保針生島に復員帰国。当時は本籍地に住み、福岡市内のCCD(米陸軍第3地区民間検閲局)でマスコミ関係の検閲業務に従事(*24年10月末まで)。高山朝光(宗像郡大島村出身・早大演劇科卒)は職場の同僚。同人はもう一人、長尾豊夫がいた。棚町知彌はその後、スタンダード・バキューム石油に勤務し、さらに九大文学部国語学国文学科卒。博多工業高校教諭、有明高専教授、長岡技術科学大学教授・図書館長、国文学研究資料館研究情報部長、園田学園女子大学近松研究所長を歴任。
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【★691】秋の演劇祭:福岡労働基準局・福岡労働法普及協会共催、福岡自立劇団協議会・新演劇人協会福岡支部・夕刊フクニチ・九州地方勤労者文化連盟後援。賛助出演は西鉄バンド・専売局バンド・九配バンド。会場は有楽映画劇場で午後2時開演。プログラムは第一部「秋の子供たち」(小台三四郎作・赤とんぼ児童劇場)「盗電」(金子洋文作・日発演劇部)「おやぢ」(和田勝一作・西部ガス演劇部)、第二部「春の病葉」(阿木翁助作・岩田屋演劇研究部)「終列車の客」(北條秀司作・福岡専売局)「結婚の申込」(チェホフ原作・劇団ともだち座)。福岡市自立劇団協議会加盟団体は福岡地方専売局・西部ガス株式会社・大日本ビール株式会社・日本発送電九州支店・九州配電株式会社・第一生命保険会社・福岡銀行本店・全逓中央電信局・国鉄博多支部・配炭公団・ともだち座・風船座・大図座・土手町青年会演劇部(*「秋の演劇祭」パンフレットによる)。
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【★692】新演劇人協会福岡支部:新演劇人協会は昭和22年春、民主主義日本にふさわしい演劇の創造と普及を目的に東京で結成された進歩的演劇人集団。福岡支部の幹事は望月高丸(幹事長)・雨宮毅・中野一夫・小台三四郎・肥川治一郎・棚町知彌・原田匡己・広渡常敏・桜井敏郎・瓜生正美ら。事務所は福岡市唐人町96に置かれた。
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【★693】『日本共産党決定報告集』:●発行人は井上光晴
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【★694】県立福岡中央児童相談所にウソ発見器を設置:「浮浪児の身元がピタリ/ウソ発見器で善導/大人の犯罪捜査にだけ使われていた「ウソ発見器」がこんど「子供の世界」に登場、悪の道に染みかけた児童の善導に一役買つて出た、このウソ発見器は昨年末福岡市百道本町県立福岡中央児童相談所に十五万円で設置されたもので、同相談所は県下の浮浪児収容所百道寮に併設されているところからすでにここの新人浮浪児十余名がこれでテストされ成績は上乗、家庭のゴタゴタなどで家を飛出し「ぼくは戦災孤児だ」といつわつてながい放浪生活をつづけた子供でこのウソ発見器によつて一ぺんに両親のあるとわかり、これまで相談所だけにゆだねられていた指導方針を家庭と相談所の強力によつて新しくたてなおしたというのも数名出ている、いまのところ主として子供の身元調査にその偉力を発揮しているが、悪い考えを起したり、ウソをいつたり、イタズラをした子供たちのきよう正にも用いられ、子供たちの間には「やっぱり悪いことはできない」との考えが広がつている」(「西日本新聞」昭24・1・9)
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関連情報 |
詳細
レコードID |
410614
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1948
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和暦 |
昭和23年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |