<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和21年
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 矢野朗「めとる」・古海卓二「それぞれの作品態度」(「九州文学」)中野秀人「都市再建への序説」(「真善美」)「特輯 胎動する西日本文化の展望」(「西日本新聞」14日)2月 野坂参三『亡命十六年』(伊藤書店)3月 長谷健「愛情」・伊波南哲「蛇皮線」(「九州文学」)眞鍋天門「阿部王樹に与ふ」・阿部王樹木「天門に与ふ」・眞鍋呉夫「別れのうた」(「筑豊文学」1)江崎伝『句集 寒ざらひ』(あけぼの社)4月 長谷健『民主主義の教育』(九州書房)5月 我孫子毅「歳月」・岡部隆助「山国」(「九州文学」)高木市之助「文学新生と古典」・穴山孝道「新文化と大乗仏教」・原志免太郎「文化と保健」・持田勝穂「敗北」・林逸馬「夕顔」(「叡智」)湯川達典「林市造のこと」(「止里可比」)高木市之助「文学新生と古典」(「叡智」)林逸馬「九州文芸界の胎動」(「西日本新聞」29日―30日)6月 秋山六郎兵衛「若い旅」(「叡智」)大塚幸男「民主革命と青年」・林逸馬「帯」・エムマゴールドマン(黒田静男訳)「革命三年目のモスクワ」(「九州評論」)劉寒吉「矢野朗論」(「新小説」)吉岡禅寺洞「復員船」(「西日本新聞」10日)古海卓二『九州の百姓一揆』(九州書房)九州文学同人『九州小説選 第1輯』【★615】(九州書房)北川晃二「逃亡」(「午前」)。7月 火野葦平「人間の真実について」(「月刊西日本」)川上一雄「鶏小屋」・庄野潤三「罪」・吉岡達一「夏草」(「午前」)〈座談会 今日の作家道を語る〉(「九州文学」)小島直記「希望の時」(「叡智」) 武田幸一『鴉の大将』(昭和出版)8月 檀一雄「詩人と死(連載)」(「午前」)東潤『土語』(九州書房)『新文学選書①』【★616】(燎原社)9月 丸山豊「鶴を斬る―雲南省」・〈混迷期の詩を語る座談会〉(「九州文学」)梅崎春生「桜島」(「素直」)阿川弘之「年年歳歳」(「世界」)鹿児島寿蔵『茉莉花』(青磁社)田中晃『随筆 南郊雑記』(惇信堂)10月 眞鍋呉夫「雁の旅」(「午前」)眞鍋呉夫「沫雪(あわゆき)」(「文化展望」)高木市之助「文芸論の論」・秋山六郎兵衛「文学と自由」・眞鍋呉夫「フアイーツンの日記」(「叡智」)花田清輝『復興期の精神』(我観社)矢野朗『神童伝』(和田堀書店)一丸章「春昼」(「九州詩人」1)牛島春子「手紙」(「九州文化新聞」14)11月 小山俊一「一つの部屋」(「午前」)古海卓二「贅沢」・原田種夫「白秋先生」(「想苑」2)12月 林逸馬「住(すみか)」(「九州文学」)中野秀人「魅せられた樹」(「真善美」)進藤誠一『フランス演劇』(惇信堂)■この年、武田幸一『月へ行く電車』(宝雲舎)
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文学的事跡:1月 文芸誌「第二期 九州文学」復刊【★617】(1日)。杉田久女が九州帝大筑紫保養院で死去(21日)。2月 川崎公弘が文芸誌「前進」(前進社)創刊(1日)。「我観」を「真善美」と改題し、花田清輝が編集に参加。3月 古海卓二・雨宮毅・原田種夫らが「庶民劇場」結成。島尾敏雄が大平ミホと神戸で結婚。阿川弘之が上海から博多港に帰国復員【★618】。森崎和江が福岡県女子専門学校家政科を卒業。川上宗薫が西南学院高等部を卒業し、翌月九大英文科に入学。4月 大西巨人らが三帆醤油の若主人宮崎宣久の資金をもとに総合文化誌「文化展望」【★619】(三帆書房)創刊 (1日)。福岡在住の文学関係者が「福岡文学者会」結成準備会(3日)。檀一雄の妻・律子が糸島半島の疎開先で死去【★620】(4日)。髙樹のぶ子、山口県防府市で出生(9日)。5月 高木市之助・原志免太郎・尾島信好らが出版社「叡智社」を設立し文化誌「叡智」【★621】創刊(2日)。「九州演劇」【★622】(九州演劇社)創刊(5日)。高松謙吉(文樹)・永野希典(菅原純)らが詩誌「白鳥」創刊(*8月まで全4号)。原田種夫が九州書房に入社。原三猿子ら木浦(朝鮮)から引き揚げてきた俳人が清原枴童を擁して俳誌「忍冬」を創刊(*枴童没後23年7月通巻21号で終刊)。6月 北川晃二・眞鍋呉夫らが文芸誌「午前」【★623】(南風書房)創刊(1日)。九大鳩笛句会が復活し、箱崎松原の九大学生集会所(三畏閣)で月例句会を開催。北朝鮮の清津製鉄所勤務の歌人・仰木実(八幡市)が一家して釜山から泰正丸で博多港に引き揚げ帰国【★624】(10日)。「第二期 九州文学」同人が岩田屋で色紙短冊展(15日―18日)。九州学生同盟(全九州の大学・高専生の組織)の機関誌「探求」創刊(15日*「西日本新聞」昭21・6・10「文化短信」欄)。「アララギ」「にぎたま」福岡地区歌会、筥崎宮社務所で開催(16日)。梅崎光生がフィリピンの俘虜収容所から佐世保港に復員帰国し汽車で博多着。檀一雄と太郎が山門郡東山村の村山家に寄宿(*翌月、同村女山(ぞやま)の善光寺に仮寓)。8月 「第二期 九州文学」同人の劉寒吉・矢野朗・原田種夫・火野葦平らが創作集『新文学選書1』(小倉・燎原社)刊行(10日)。9月 藤原ていが3人の子を連れて新京から釜山をへて博多港に引き揚げ帰国【★625】(12日)。小田島雄志が旧満洲から博多港に引き揚げ帰国【★626】。10月 詩誌「九州詩人」【★627】創刊。宮崎宣久が田岡鎮夫・占部博らと「映画展望」(三帆書房)創刊(*23年9月発行の第10号で終刊)。「西日本新聞」が連載小説再開(16日*芹澤光治良(三岸節子・絵)「真実紀」)。11月 檀一雄が与田凖一の紹介で山田ヨソ子(*山田酒造・山田清太郎の六女)と結婚、披露宴に中谷孝雄・眞鍋呉夫らが出席。西日本新聞社外信部編『世界人の横顔』(西日本新聞社)、「世紀の偉人マツクアーサー元帥」は「日本解放の使徒であつたのである」、「原子爆弾の父アインシタイン」が「異常な情熱をもつて不祥の児である原子爆弾を人類の使用から抹殺しようとしてゐる」と記述。12月 加藤介春没【★628】(18日)。この頃、歌誌「像(かたち)」【★629】創刊。この年、花田清輝が新日本文学会に入会。後藤明生が一家して北朝鮮から北緯38度線を越えて山口県仙崎港に引き揚げ帰国し、朝倉郡甘木町に居住(*引揚げ途中に父親と祖母は死去、きょうだいは7人)、福岡県立朝倉中学に編入学。藤口透吾が勤労者生活協同組合連合会に就職。
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社会文化事項:1月 GHQの軍国主義者の公職追放・超国家主義団体の解散命令で玄洋社解散(4日)。福岡市役所の工務部工営課を復興部計画課と建築課に改組改称(9日)。博多駅前大火で104戸焼失【★630】(9日*午前0時20分頃出火)。香椎の占領軍宿舎1棟(元・九州飛行機香椎工場内青年学校)全焼(9日*午後11時10分頃出火)。東中洲繁華街の復興が進み、映画館「有楽映劇」再建【★631】(10日)。野坂参三が同志3人と延安から京城をへて博釜連絡船「こがね丸」で博多港に引き揚げ帰国【★632】(12日)。大陸引揚者連絡本部救援促進部(本部は福岡市扇屋ホテル内)が主催して満鮮同胞救援九州地方大会を西日本新聞社講堂で開催(13日)。民主主義教育講座(西日本新聞社主催)、九大医学部中央講堂で開催(21日*講師と演題はサミュエル・ブルース「アメリカ教育総論について」)。西新町町内会11隣組が団結して「有限責任購買組合西新五丁目生活協同組合」を結成し、発会式(26日)。石井漠門下の寒水多久茂(唐津出身)が「福岡劇場」(柳町)専属舞踏団代表に就任。この頃、演劇活動が流行【★633】。2月 福岡市立拓殖専門学校を農業専門学校と改称(1日)。沖縄芸能公演(沖縄文化聯盟主催)、西日本新聞社講堂で開催(1日)。「キャバレー博多」が平和会館(片土居町)内に開業(1日*この頃、東公園内に「キャバレーナンバーワン」開業、新大工町には「占領軍将校クラブ」、二日市町紫には占領軍将校専用ダンスホール「紫園」があった)。泉靖一らが奔走して財団法人「在外同胞援護会救療部」【★634】を聖福寺に創設(2日)。共産党機関紙「アカハタ」読者大会、西日本新聞社講堂で開催(3日)。九大医学部教授会が民主化再建のため全教官の辞職を決議(7日)。福岡市立第一高等女学校校舎全焼(15日*1月15日千代町の校舎から赤坂門柳原の旧校舎に移転直後)。占領軍将兵厚生施設「レインボー・クラブ」【★635】開設(16日)。3月 西鉄市内電車の運賃を1区間20銭に値上げ(1日*現行の2倍半)。福岡市に都会地転入抑制令を適用(8日●市史年表は13日、「福岡日日新聞」は9日*全国35都市指定、24年1月1日解除)。福岡外国語学校、各種学校として発足(10日*6月30日入学式)。福岡市通常市会開催、畑山市長は都市復興事業を力説【★636】(15日)。福岡県庁職員組合結成大会(16日)。福岡県教員組合結成大会、福岡市千代国民学校で開催(24日)。筑紫郡二日市町武蔵温泉に「厚生省博多引揚援護局保養所(二日市保養所)」【★637】開設(25日)。向坂逸郎・石浜知行・今中次麿・高橋正雄の4教授が九大に復帰(30日)。4月 高等学校・中学の修業年限を3年・5年に復活。九州経済専門学校を「福岡経済専門学校」と改称(1日)。福岡女子商業学校が東京の雙葉高女の姉妹校となり福岡雙葉高等女学校と改称発足。山口淑子(李香蘭)が上海から博多港に引き揚げ帰国【★638】(1日)。東中洲にセントラル系米画封切館「大洋映劇」開館(3日)。衆院選福岡第1区各候補者立会演説会、天神町交差点横郵便局跡地で開催(3日―5日)。夕刊紙「夕刊フクニチ」【★639】・「九州タイムズ」【★640】 ・「夕刊新九州」【★641】創刊(8日)。福岡署がMPの協力で闇市を一斉検挙(19日)。長谷川町子の漫画「サザエさん」、「夕刊フクニチ」22日付紙面から連載開始。東公園の占領軍宿舎(元・一方亭)が漏電で全焼(22日)。福岡県教員組合連合会結成大会、福岡市千代国民学校で開催(26日)。(財)聖福病院(御供所町19聖福寺境内)開設。台湾花蓮港からの最後の引揚船「八雲」が博多港に入港(27日)。釜山からの引揚船「黄金丸」が博多港に入港、一般人208人、軍人510人、朝鮮軍の復員帰国は完了(29日)。「西日本新聞」が「戦犯列伝」連載開始(30日)。この月、早良炭鉱操業再開。「西部美術」【★642】(西日本新聞社)創刊。週刊「ワールド」(西日本新聞社)創刊(*6月号から月刊)。西口紫溟が九州地方劇団協会会長に就任。5月 11年ぶりの復活メーデー(第17回)、福岡市では雨の中、東公園に約2万人が集結し、市中デモ行進のあと実行委員らが市長室に押しかけ戦争責任を追及(1日*畑山四男美市長は10日辞表提出、18日退任)。海上保安庁が博多湾の掃海完了と発表(1日)鹿地亘が重慶から上海をへて一家で博多港に引揚帰国【★643】(3日)。第1回西部美術協会公募展、西日本新聞社講堂で開催(3日―9日)。満州から最初の引揚船雲仙丸が邦人1648人を載せて博多港に上陸(12日)。「国字問題、殊にカナモジに関する研究発表の会」(自由人協会・九州自由文化聯盟主催)、西日本新聞社3階会議室で開催(12日)。満洲壺蘆島から博多港へ初の引揚船「雲仙丸」が邦人1600余人を乗せて入港、帰国までに死亡1割(12日)。広田シズ(広田弘毅夫人)、狭心症のため神奈川県鵠沼の別邸で死去(18日)。博多復興祭(奈良屋校区住宅組合主催)、奈良屋国民学校を主会場に開催、7年ぶりに松ばやし・博多どんたく・子供山笠が復活(25日)。北朝鮮の邦人孤児142人が博多港に引揚帰国し、博多引揚援護局松原寮に保護(28日)。満洲奉天地区引揚邦人第1陣が博多港に到着上陸【★644】(29日)。釜山でコレラ続発、博多―釜山間の輸送停止(30日*釜山港に代えて仁川港を利用)。住吉南新町に「金龍館」(松竹系)開館(30日*24年2月末とも)。6月 上海から博多港入港の引揚船に真性コレラ発生(3日*6日―12月11日、博多湾の漁労・遊泳・海水使用禁止)。中村治四郎が「福岡外国語学校」を設立(*各種学校、9日入試、9月2日開講)。福岡市衛生課がコレラ予防注射を全市民に実施(6日―21日)。洋画封切館「国際映画」が千代町に開館(6日)。ビルマ派遣の龍部隊(久留米編成第56師団)復員第1陣、浦賀入港後(5月27日)に博多駅到着(7日)。NHK熊本中央放送局が「県民の時間」放送開始、月曜日放送の「尋ね人九州版」が好評(10日)。博多港入港の引揚船に発疹チフス発生(29日)。7月 市役所内に福岡市役所図書室【★645】を設置し一般公開(1日)。在福MPがアメリカ独立記念日を祝して市中行進(4日)。市役所内に福岡市食糧危機対策本部を設置。マ司令部が日本名政府に九大生体解剖事件の戦犯容疑で九大元総長荒川文六・同医学部外科学第一講座教授石山福二郎ら戦犯5名に逮捕命令【★646】(12日)。自由大学「近代思潮」講座(自由人協会・西日本新聞社主催)、西日本新聞社3階講堂で開催(13日・14日・20日・21日・27日・28日)。渡辺通4丁目に「日新映劇」(セントラル系)開館(17日)。朝日新聞西部本社、「月刊文化聯合」【★647】創刊(*12月まで全5号)。8月 福岡県立高女跡地に新天町商店街公社【★648】 開業(1日*10月15日創業祭式典)。福岡市内に占領軍専用電車運行開始【★649】(6日)。GHQが博多港をコレラ港に指定(8日)。福岡市役所議事堂で福岡県遺族連合会と福岡市遺族会の発会式、県遺族連合会長に村上巧児が就任(8日)。第17代福岡市長に三好弥六が就任(14日*21日初登庁)。引揚者医療孤児施設「聖福寮」【★650】開設(15日)。日本野球九州大会(西日本新聞社主催)開幕(16日熊本)、香椎球場で初のプロ野球試合(17日)。博多港引揚者数100万人突破(21日)。9月 福岡外国語学校、福岡城趾の旧兵舎を借用改築して開講(2日*22年4月福岡外事専門学校に昇格))。福岡高等学校入学式。福岡県軍政部がデモの届出制を実施(19日)。福岡市赤坂門に「駐福岡大韓民国代表部」設置(20日*41年1月27日総領事館に昇格)。10月 シベリアからの帰国の軍人軍属第1陣1400人(「福岡日日新聞」では1900人)が博多に上陸(4日*9月27日博多港着)。姪浜―残ノ島渡船「第二能古丸」(11トン)が転覆し乗客90人中28人が死亡(5日)。「ツナバ商店街」(綱場町)復興落成式(10日)。福岡商工会議所創立総会(12日)。新天町開業記念「新天まつり」開催(15日―17日)。第2回西部美術展、西日本新聞社講堂で開催(13日―22日)。福岡県教員組合協議会結成(28日)。北田倫、満洲から博多港に引き揚げ帰国。11月 この頃、博多港入港の引揚船でコレラ・天然痘頻発。西鉄文化会【★651】発会式(9日●10月15日?)。渇水で時間給水制実施(13日*22年5月13日まで)。新天町商店街が戦後初の「誓文晴」売り出し(18日―20日)。50メートル道路(現・昭和通り)起工式(18日)。日本社会党福岡県支部連合会結成大会開催し、委員長に松本治一郎(24日)。西日本教員組合協議会結成(29日)。福岡市内に発疹チフスが流行し国立筑紫病院に収容。12月 今宿国民学校でユニセフ支給の脱脂粉乳給食開始(1日)。太田嘉兵衛洋画展、福岡市上祇園町うわさ社で開催(1日―3日)。西鉄対巨人軍対実業野球(西日本新聞社主催)、第3戦は香椎球場で西日本鉄道と対戦、9対2で巨人軍勝利(10日)。百道松風園開設(14日)。占領軍慰問男女中等学校芸能展覧会、西日本新聞社講堂で開催(17日―21日)。朝鮮への引揚船「徳寿丸」が出航し公的送出業務は終結(28日)。
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日本・世界事項:1月 天皇の人間宣言【★652】(1日)。「展望」・「世界」創刊(1日)。GHQが日本政府に「望ましからざる人物の公職罷免排除に関する覚書」(4日*軍国主義者の公職追放指令)。国際連合第1回大会、ロンドンで開催(10日)。日本労働組合総同盟結成(17日)。幣原内閣改造、文部大臣は安部能成(13日)。マッカーサー、極東軍事裁判所の設置を命令(23日)。「近代文学」・「文学時標」創刊。「中央公論」・「改造」・「三田文学」復刊。GHQが北緯30度以南地域を行政分離言明(29日)。河上肇没(30日)。2月 GHQが北緯30度以南諸島の日本行政権を停止(2日)。中国通化で旧関東軍と国府軍が八路軍司令部を攻撃(3日*通化事件)。日本政府がGHQに「憲法改正要綱」を提出(8日*13日GHQは拒否し、日本側にGHQ案を提示)。舞鶴地方引揚援護局開庁式(13日)。金融緊急措置令公布(17日*新円発行・旧円預貯金封鎖)。公職追放令(28日)。3月 「新日本文学」創刊(1日*1月31日創刊準備号発行)。「筑豊文学」創刊(1日)。「朝日評論」創刊。「中国文学」復刊。文藝春秋新社創業。リーダーズダイジェスト日本支社創業。4月 婦人幼少年坑内作業禁止令施行(1日)。野田宇太郎編集「藝林閒歩」創刊。「婦人公論」・「日本評論」・「同人」復刊。新円切替(15日)。憲法改正草案発表(16日)。舞鶴港に中国からの引き揚げ第1船V39号が3273人を乗せて入港(16日)。沖縄民政府設立(24日)。三一書房創業。5月 第17回メーデー(1日)。極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷(3日)。東京で食糧メーデー(19日)。小倉市の山田弾薬庫が爆発して死傷者101人(21日)。第1次吉田茂内閣成立(22日)。6月 極東国際軍事裁判で連合国首席検事キーナンが天皇は戦争犯罪人としないと言明(18日)。7月 アメリカがビキニで原爆実験(1日)。NHKラジオ「尋ね人」放送開始(1日―37年3月31日)。中国で内戦開始(12日)。日本新聞協会創立。8月 「高原」・「文学季刊」創刊。労働組合総同盟結成第1回大会(1日―3日)。9月 政府がと現代仮名遣い告示(25日)。三井本社・三菱本社・安田保善社に解散命令(30日)。10月 「群像」創刊。ニュルンベルク国際軍事裁判で判決、12人に絞首刑(1日)。厚生省告示第65号・第66号により下関・田辺・唐津地方引揚援護局及び戸畑出張所を廃止、仙崎出張所を地方引揚援護局に昇格(1日)。新聞ゼネスト(5日)GHQ(文部省)が男女共学指示(10日)。GHQが21年12月31日以来禁止していた各学校における歴史教育の再開を許可(14日)。GHQ総司令部が神嘗祭(10月17日)の国旗掲揚を許可(14日)。日本商法会議所創立(20日)。第2次農地改革諸法令公布(21日)。日本出版配給統制㈱を日本出版配給㈱と改称。11月 第1回国民体育大会秋季大会開催(1日)。日本国憲法公布(3日*22年5月3日施行)。政府が当用漢字表(1850字)告示(16日)。用紙割当事務局を内閣に設置。大月書店創業。12月 主食配給基準量2合1勺を2合5勺に(1日)。樺太(真岡)から引揚第1船雲仙丸が函館入港(5日)。ソ連地区からの引揚船永徳丸・辰春丸、北満洲地区避難民6257人(6127人とも)をのせて佐世保港に到着(7日)。大連からの引揚第1船栄豊丸・辰日丸が佐世保に入港(8日)。シベリアからの引揚船大久保丸・恵山丸が軍人軍属ら約5000人をのせてナホトカから舞鶴港に入港(8日)。浦上天主堂再建落成式(15日)。仙崎地方引揚援護局廃止(16日)。教育刷新委員会、6・3制実施は中学は22年4月、高等学校は23年、大学は24年からと決定(27日)。密航朝鮮人45名乗船の機帆船、長崎県五島沖で難破し32名溺死(27日)。この年、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」「英語会話(カムカムエブリボディ)」「ラジオ体操」放送開始。流行歌は「東京の花売娘」「かえり船」「なくな小鳩よ」「みかんの花咲く丘」。流行語は「アプレ」「あッそう」「ハバハバ」「レッツゴー」「赤線」。書籍ベストセラーズは森正蔵『旋風二十年』(鱒書房)尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』(世界評論社)永井荷風『腕くらべ』(新生社)三木清『哲学ノート』(河出書房)サルトル『嘔吐』(青磁社)。
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注記 |
【★615】『九州小説選 第1輯』:収録作品は玉井政雄「花暦」劉寒吉「うきしづみ」志摩海夫「疎開の家」林逸馬「火宅」桜井造「星明」矢野朗「隣組界限」原田種夫「ふるさとの歌」峰絢一郎「ほととぎす」我孫子毅「老塵抄」長谷健「一風景」火野葦平「谷の宿」
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【★616】『新文学選書①』:● [記述なし]
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【★617】文芸誌「第二期 九州文学」復刊:「経営面は矢野の独裁だつたから、一応会計報告を聞くだけで、仲間の多くも立ち入らなかつたが、作品の採否決定をする編集面では、実に活溌に、編集委員みんなが書房(*九州書房)に集まつて、口角泡を飛ばし合い、威勢よくやつたものだつた。議論も声がはずめば、よそ目にはケンカと間違えられやすい。/丁度隣りの部屋に神経異常の女がいたので、しばしば相手もショックで、奇声をもつて応じてくることなどもあつたようだ。/ともあれ、採否はまことに厳密で、いよいよ掲載と決まればその旨通知を出し、採れないものにも懇切丁寧な批評と、激励の手紙をつけて返したものだ。私は、もちろん詩の部を担当したが、当時の批評に奮発して、今では大成した多くの詩人を見受け、なかんずく一部には「あの時こういう言葉だつた」と覚えてくれている人々もあるので、一入感慨深い。/そのころは二百人位の同人だつたので、経理面にも多少のゆとりを持つていたのだろう。月給を出して最初は梅北のりというインテリ婦人を一人やとい、それがやめると、作家志望の吉牟田稔という青年を入れたこともあつた。/しかし書房の衰退とともに、時代の波の連鎖誘起か、また別の原因もあつたろうが、漸次尻すぼみとなつて、幹部の渋面も次第に深まつていつたが、その「どん底」の面まで直接タッちしていたので、いわゆるピークとベースサイドに、私は一番深い関係をもつたことになる。」(東潤「特にタッチをしていた頃」、「九州文学」昭36・11)
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【★618】阿川弘之の帰国:大正9年12月24日、広島市の生まれ。旧「こをろ」同人。海軍中尉(ポツダム大尉)。漢口で敗戦を迎え、俘虜生活後、帰国。「一ゆれすると復員列車はゆつくり動き始めた。ベルも汽笛も鳴らなかつた。日は暮れかけ、こまかい霧のやうな雨が客車のガラス窓を雫になつてつたつてゐる。薄暗がりの中に脂じみた顔をした人々が荷物と一緒に折り重なつて乗つてゐる。車内灯はついてゐない。道雄の周りは皆、上海から一緒に帰つて来た海軍の者ばかりである。棒きれを持つた異国の兵士に、「ハシレ!」「イソゲ!」と急かれて、雨と汗とでべとべとになり乍ら、DDTの消毒、荷物の検査、証明書の交付、金銭の支給、食料と煙草と外食券の配給、と上陸してから、眼の廻るやうな数時間であつた。博多の町がどんなに焼けてしまつたかそれを見る暇もなかった。列車が動き出すと、ああすつかりすんでしまった——何も彼も、興奮が少し醒めて、一つの落ち着きが箱の中を流れて来た。」(阿川弘之「年年歳年」、「世界」昭21・9)
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【★619】文化誌「文化展望」:大西巨人と宮崎宣久は、旧制福高(文科甲類・昭和11年3月卒業)の同級生。三帆書房は市内住吉橋の宮崎の自宅・三帆醤油の中二階の一室に置かれた。第3号までタブロイド版、第4号からB5版。創刊号は三岸節子「美の道」・渡辺一夫「懐疑主義について」・太宰治「十五年間」・伊丹万作「喜劇の種」・芝木好子「淡雪」・大西巨人「小説展望」などが並び、次号以下、堀口大学・山川菊栄・井伏鱒二・村山知義・藤森成吉・菱山修三・伊東静雄・荒正人・花田清輝・野間宏・田中英光らが寄稿。終刊は昭和23年6月発行の第13号。赤塚正幸・長野秀樹「『午前』『文化展望』総目次」(「近代文学論集」12、1986.11)がある。
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【★620】リツ子終焉:「静かである。もう何事もなかったように平静な、清らかな姿である。五分—。十分—。おていさんが蝋燭の灯りを、一本一本と吹き消している。いつのまにか、仄かな、淡い曙光のようである。雨も、雷鳴もやんでいた。蒼白い、美しい、無心の顔だった。太郎が生まれた朝の、あの誇らかな、曙光の中のリツ子の顔のようだった。心持ち口をあけている。半開きの薄目のあたり、まつ毛が淡い光に濡れて、こまかにそよいでいる。典雅な聖アンナの鼻のようだった。私は相変わらず、手首を静かに握っている。ともすれば微弱な脈搏が絶えまのない波の音にまぎれそうになる—。/『あっ』と左手をリツ子の口にかざしたが、もうリツ子の息は絶えていた。」(檀一雄『リツ子・その死』)
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【★621】文化誌「叡智」:昭和21年5月2日発行。編輯兼発行者は青柳基幸。発行所は叡智社(福岡市渡辺通4丁目119)。叡智社東京支社(東京都滝野川町1740番地)を置いた。昭和23年12月まで全23号発行。一丸章・本多顕彰・野田宇太郎・眞鍋呉夫・那珂太郎らが寄稿。「ポツダム宣言の受諾によつて軍閥、財閥、官僚のもつ一切の権力、金力が剥奪されると共に、彼等の捧持せる凡ゆる上部構造も白日の下、国民審判の前に立された。/或るものは早くも悪夢の如く雲消霧散し或るものは金箔を剥れて醜き残骸を暴してゐる。併しより重要なる要素は言葉の魔術に依つて衣装を換え頑強に抗争を続けんとしてゐる。何時の時代にもかゝる反動の流れが大勢の流れの河岸を一部逆流するものである。/だが全国民の審判は日本歴史の源流に溯りあくまで執拗に続けねばならぬ。探求、摘発を深化して我々が日本民族の真髄を摑み得るならば、将来の再建問題のコースも自づと明瞭になり得るのである。そして内外叡智の結集による努力を世界史的に見る時、人類の翹望する世界聯合平和建設の命題の解決に一つの模像となり得るのであるから、今次の戦争を二〇年八月十五日で終つたことは実際奇しき新生の好機であつたと喜びを感ずるであらう。/そうだ! 真に平和と民主に徹する文化日本を建設しよう!/歴史は流転して止まぬ、日本民族の真の能力を誇示し具現するのはこれからだ。/日本民族が全力をあげて解決しなければならぬ眼前の事態は一つ一つ深刻極るものである、インフレは停止せず、資本家はサボタージユし、国民は慢性的失業群化と小ブローカー化し、人口は増大し領土は半減する、資源は涸渇し生産力は低下の一途を辿つてゐる。再建の言葉の蔭には崩壊の過程が潜行しつゝある。/此の奔流の中に立つて行為と情操を調和し世界の文化を摂取しつゝ愛する我が民族の動向を求めて吾社は誕生した。そして人類の最高峰を行く叡智の結集を必要とする意味に於て、文学、科学、宗教の綜合雑誌「叡智」を発刊するに至つた。我々は国際的包容力を以つて左右両極に走らず、ピツタリと日本人の身についた文化日本の建設を企図し続々とかゝる理論的所産を発表するであらう。/かくして真の民主主義日本建設ひいては列強諸国の世界平和国家への一端を擔ひ、その礎石となり媒助たらんとするものである。/終りに本誌発刊に御賛同御援助下されし諸兄に対し深甚なる謝意を表すると共に、天下同憂の士の熱誠なる御愛顧あらんことを願つてやまない。」(「発刊の辞」、「叡智」創刊号、昭21・5)
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【★622】演劇誌「九州演劇」 :月刊誌。創刊号は昭和21年5月5日発行。発行所は九州演劇社(福岡市警固本町33)。編輯兼発行人は雨宮毅。巻頭の「発刊の辞」では「社長」の中島守が、「云へば『九州演劇』は飽くまでも演劇文化の研鑽誌であり、地方に於ける隠れたる人材を創る推薦機関たることを期するものである。/より高く、より美しい演劇文化へ!」と書いている。以下、原田種夫の詩「不死鳥は羽博く—創刊号に寄せて」、進藤誠一「風刺喜劇について」、矢野朗「我観浄瑠璃史(第一回)」、雨宮毅「愛と美と演劇」、岩下俊作「無法松のモデルについて」、火野葦平「「幻燈部屋」上演の思ひ出」と並んでいる。全容は不明だが、昭和23年1月まで全14冊が発行されたか。①第1巻第1号(創刊号、昭21・5)②第1巻第2号、③第1巻第3/4号④第1巻第5号⑤第1巻第6号⑥第1巻第7/8号⑦第2巻第1号(昭22・1?)⑧第2巻第2号⑨第2巻第3/4号=オール作品集第1集⑩臨時増刊号童話集⑪第2巻第5/6/7号⑫第2巻第8/9号=オール作品集第2集⑬第2巻第10号(昭22・10)⑭第3巻第1号(昭23・1)
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【★623】文芸誌「午前」:発行所の南風書房(福岡市上店屋町16)は社会科学系の出版社の惇信堂が文芸出版を目的に設立した別会社。編集部は眞鍋呉夫・北川晃二・大塚靖・桜井冨美子の4人。「午前」編集には檀一雄が協力し、執筆者も「日本浪曼派」系の作家と、それから眞鍋呉夫の「こをろ」系の作家が多い。創刊号は湯浅芳子「科学と宗教」・那珂太郎「徒然草小論」・安西均「歌」・眞鍋呉夫「かつこうどり」・北川晃二「逃亡」など。15000部を刷ってほとんど売り切れたという。2号には三島由紀夫「わが世代の革命」・庄野潤三「罪」など、3号以下には檀一雄・前田純敬・林富士馬・島尾敏雄・伊東静雄・三好達治・佐藤春夫らが寄稿している。24年3月発行の4巻2号まで、全25冊。創刊号の後記(「南風」欄)には、「僕達はここに世代の自他を含めて『午前』に僕達の祈念と開花の一切を賭けます。いはば世代の可能と個性の花火を午前の青空に打ち上げるのです。」(眞鍋呉夫)などと見える。赤塚正幸・長野秀樹「『午前』『文化展望』総目次」(「近代文学論集」12、1986.11)がある。
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【★624】仰木実博多港に引き揚げ帰国:仰木実は明治32年11月8日、福岡県の生まれ。歌人。少年期し「仰木朱鳥」の筆名で歌作を試み、「文積少年」「街歌」を創刊。大正10年、内藤銀策の知遇を得て、「抒情詩」に参加。その後、同誌の廃刊のため、同系の「林鐘」「青杉」「短歌巡礼」をへて、昭和6年、歌誌「歌と観照」創刊と同時に入社し、主宰者の岡山巌に師事する。昭和14年10月、北朝鮮の清津製鉄所に転勤。20年8月13日のソ連軍参戦に遭遇。21年6月10日、博多港に引き揚げ帰国。敗戦後は「群炎」を編集発行。北九州歌人協会顧問、日本歌人クラブ福岡県委員。八幡製鉄所に技術者として勤務。昭和52年3月7日、福岡県宗像郡宗像町石丸348の赤間病院で心不全のため死去。八坂神社(北九州市小倉北区)に歌碑がある。著書は歌集『流民のうた』(北九州・群炎短歌会、昭44・10*群炎叢書第11集)がある。「手に提げし重き荷物を捨ててゆくわれのみならず避難民どち/男装の娘らを気にしつつそれとなく目くばせしつつ検問所に入る/武装解きし玲子を加え九人のわが一家族ひたすら生きむ/女らの凌辱さるるを聞くに堪えず敗北日本のゆくえを歎く/いけにえに小羊ならぬ女をとこの米兵らに吾が血たぎりく」(歌集『流民のうた』)「私たちは避難民として流離の淋しい旅を続けますが、二男二女の吾子たちと老齢の母と病弱な妻、それに姪を加えて八人の一群が、母国への帰還を一途に、異国を漂い歩きました。老母の手を引き、三歳の末っ子を背負い、リュックに鍋釜を結び、幾度か野宿をいたしました。家族の内、次女の玲子は、女学校卒業と同時に羅南師団に軍属として応召し女兵のもっとも重要な任務に従事しておりましたので、羅南師団被爆の報にもはや戦死したものとばかり思っていました……好運にも、日本人会日の出町民に救われ、五月十二日の夜、ひそかに同地九竜の浜に待機した闇船、漁船に便乗して海路待望の三十八度線を突破したのであります。これより帰還の途に着きますが、釜山より日本の引揚者輸送船泰正丸に乗り込み、博多港に運ばれ、昭和二十一年六月十日博多に上陸、無事家族揃って日本の地を踏むことが、出来たのであります。」(『流民のうた』あとがき)
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【★625】藤原ていが引き揚げ帰国:「昭和二十一年九月十二日。/私の第二の人生はこの日から始まつたように澄みきつた気持で下船を待つていた。タラップが下ろされた。人が動き出す。/日本の大地の端はすぐ其処に白いコンクリートとなつて光つている。/初めて踏んだ日本の土は私の足の裏に痛かつた。倉庫から倉庫へとぐるぐる廻しにされて、何が何んだか分らないうちに私たちは松原寮へ向つて波止場の柵を越えた。其処には初めて見る日本の姿があつた。(略)/松原寮は砂の上に三角の羊羹を置いたようにきちんと並んでいた。日本家屋の屋根だけを砂の上においたようにも見えた。中へ入つて見ると、両側に管単な板の間がついていて真中の通路は外から続く砂であつた。掃除がよく行届いていた。(略)/八月一日宣川出発以来、自分の寝具を着て眠るのは今日が初めてである。/松の無い松原寮には風だけ吹いていた。沖に浮いている引揚船の灯が、不知火(しらぬひ)のように光つていた。」(藤原てい『流れる星は生きている』日比谷出版社、昭24・9)「昭和二十一年九月十二日頃だったと思う。私は博多の砂浜を犬のように這っていた。すでに歩く力を失っているのだが、背中には咲子をくくりつけていた。正広と正彦はハダカ同然の姿で、栄養失調でふくらんだ腹をつき出して、私の両側によりそっている。/「お前達、ここが日本なんだよ」/そう説明してやっても、彼等にはピンと来ない様子で、ぼんやりとあたりを眺めていた。/「さあ、これからはお腹一杯ごはんを食べさせてやるからね」/「うん」/その時だけ眼を輝かせて元気な返事をする。私は眼の前の砂を手でかき分けて、日本の土の匂いほかいでみようとした。/その穴へ顔を近づけた時に急に頭が空洞になってゆくような気持におそわれた。砂の上へしりもち(4字傍点)をついたまま、どこかへ連れ去られて行く自分を全力で引き止めようとしたのだが、その努力はむなしかった。/私は現実に子供達三人を連れている母親であることを忘れてしまっていた。胸が苦しかったようにも思うし、頭が痛んだようにも思えるのだが、はっきりした記憶はない。/気がついた時には、長野県の上諏訪の母の家の座敷に寝ていた。どのような道をたどって博多から上諏訪までたどりついたのか、その辺も皆目わかってはいないが、途中、中央線の塩尻の駅で老婆からおにぎりを貰ったことだけは覚えている。」(藤原てい『わが夫 新田次郎』新潮社、昭56・4)
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【★626】小田島雄志が博多港に引き揚げ帰国:「父がようやく佐世保に定職を得、それを機に一家は世話になった親類の家から移転、姉は日本女子大に復学することになった。ぼくは一高受験をあきらめ、旧制福岡高校を受け、なんとか合格した。福岡は一九四六年九月、旧満州から引き揚げたとき上陸した町である。それから一年半後、ぼくはそこで学び、生活することになった。/最初にとまどったのは、ことばである。旧満州ではいわゆる標準語が使われていたし、父は秋田県の出身で親類にも東北弁をしゃべる人が何人かいたので少しは耳になじんでいたが、九州弁の中で暮らすとぴっくりすることが多かった。/授業がはじまってまもなく、級友のSが阿部次郎の『三太郎の日記』を読んでいた。当時の高校生必読の書の一冊である。ぼくも読みたい、と思って、「その本どうしたの?」と聞くと、「カッたんや」と答える。「どこで?」と聞くと、「友だちから」と答える。「?」ととまどうぼくに気がついてSは説明した、「コウたんやなくて、友だちから…借りたんです」/標準語になると、友だちことばではなく、丁寧語になる場面に、その後もしばしば出会うことになる。ちょっとさびしかった。だが彼らにとって、標準語は教科書とラジオのもの、日常語ではないのだろう、とあきらめた。だから、五月二十五日から六月八日までという大事な時期に父の故郷秋田県花輪町に、ぼくとしては三歳のとき以来二度目の訪問をするということはあったにしても、クラスの中に溶けこめたと感じたのは秋になってからだった。/それでもなれてくると、九州弁も好きになった。列車で前の席にすわった女学生が、「寒か……」とつぶやいたりすると、「よかねえ」と思うようになった。」(『半自伝 このままでいいのか、いけないのか』白水社、平11・6)
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【★627】詩誌「九州詩人」:発行所は碌々山房(福岡市渡辺通四、文化ハウス)で、九州書房内に置かれた。編輯委員は九州文学同人の小田雅彦・安西均・岡部隆助・風木雲太郎で、編輯人は貞島米親(風木雲太郎)。22年4月発行の第3号まで確認できる。第2号には淵上毛錢・与田凖一・安西均・丸山豊・一丸章・高松文樹らと並んで谷川雁が詩「恵可(題雪舟恵可断臂図)」を発表。当時、谷川雁は西日本新聞社編集局整理部記者で(のち労組書記長として編集放棄ストを指導して22年暮に解雇)、夕刊紙「九州タイムズ」に朝日新聞西部本社から出向して文化欄を担当していた安西均や、岡部隆助に勧められて寄稿したという。
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【★628】加藤介春没:「介春氏の発病は十二月十八(ママ)日で、直ちに切開手術を要する腸閉塞だったが、終戦後の混乱期で郷里に医者がなく、また、切開手術に必要な医薬、設備がなかった。その翌日、夫人トキさんは、介春氏ほリヤカーにのせて直方市西町大字山部七四一の行実外科医院に運ばれたが、時すでに遅く、十二月十八日に永眠された。享年六十三、遺骨は田川郡赤池町草場の加藤家累代の墓地に葬った。法名、久照院霜林寿光居士。寺は田川郡赤池町上野興国寺である。」(原田種夫「加藤介春さいごの作品」、「九州文学」昭44・9)
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【★629】歌誌「像」:「昭和二十一年の暮、古河俊雄、橋本満、片山百代らの短歌集団「柊会」と、戦時中に、九州飛行機産報短歌部から、橋本を中心にでていた「白翔」による二十代の歌人が合流して、プリント刷りの歌誌「像」というのをだしていた。二十二年に到って、満州から高田慎蔵が引揚げて来てからは「像」も、B4判の活字印刷となり、赤星孝の協力をえて装丁、装画をいれて大へんフレッシュなものになった。同人に、田口白汀、持田勝穂、平山敦、立川三郎がいて、会員もだんだんと増していった。当時の歌誌としては、内容、体裁ともに、立派なものであった。この誌は、のちに青年歌人集団と称し、八幡で田代俊夫、中野守らがだしていた「九州短歌」と合併して、誌名も〝西日本歌人〟と改称して活発な活動を、ひろく展開することになる。」(原田種夫『西日本文壇史』)なお、橋本満は第10回福岡市文学賞を受賞。
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【★630】博多駅前大火で104戸焼失:「全滅した旅館街/福岡市の大火・百四戸焼く/九日午前零時廿分ごろ福岡市停車場新道博多駅前鉄道青年寮(元丸明館)階下附近から出火、旱天続きのこととて東南の風に煽られ櫛比した旅館街に延焼し市内警防団をはじめ遠く二日市、久留米方面からかけつけた消防隊の活躍のほか博多ホテルに延焼することをおそれた占領軍M・P司令官ウエスト少佐以下約二百名の救援隊が破壊消防を決行し三回にわたりダイナマイト二百本を使用して爆破作業を行つたが木造の日本家屋は倒壊したまゝさらに延焼をつづけ、水不足も加はりつひに総戸数百四戸百二十世帯を焼いてやうやく午前五時三十分ごろ鎮火した、罹災区域は停車場新道、馬場新道、上祇園町、矢倉門にわたり福岡市唯一の旅館街で旅館のみでも博多ホテルをはじめ朝日屋、駅前ビル東洋館、みどり屋、蓬莱屋、丸明館など十七戸を数へ旅館不足の折柄痛手である、この他損害は甚大の見込みで投宿中罹災した約五百名の旅客を併せ約千百数十名の罹災者は附近の寺院や縁故先に収容されたが目下のところ死傷者はない」(「西日本新聞」昭21・1・10)
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【★631】東中洲の繁華街復興、映画館「有楽映劇」再建:「再現近し「懐しの東中洲/かつて西日本随一の殷盛を誇つた博多東中洲の歓楽街はいまどんなに変つたか——水美しい那珂川と博多川とに囲まれたこのデルタ地帯に戦災の劫火が吹きまくつてからすでに八ヶ月、櫛比した料亭、飲食店、映画館、劇場その他ありとあらゆる歓楽施設が一木一草も残さないまでに焼きつくされたあとにはただ六、七階を焼かれた玉屋デパートと福岡中央電話局だけがこの死の街に取残された、情緒の都博多の伝統をここ一ヶ所に集めた懐しい「東中洲」の風丰は永遠によみがへらないかに見えた、だが見給へ新生の春はもう、「焦土の歓楽地」に復興のいぶきを吹き込んだ、力強い槌の音、のみの響きは西大橋の橋脚にこだまして日ごと木の香新しい新築の風景がふえて来た、映画館では大映映画劇場の復興をトツプに有楽映画劇場も十日から新装成つて開館だ、その隣には寿座も復活するだらう、大映の向ひ電車通りには日活系の大洋映画劇場もいま板塀に囲まれて新築中、映画かへりの客を吸ひ込んでゐた食堂筑後屋ももとの敷地に建築計画成つていまは木材の山だ、華やかな千日前の再現は案外に早い、那珂川畔、西大橋の袂にいまは昔、夏の宵ごとにビール党をよんだビール園は隣接の中華園の敷地まで買ひ込んで拡張された新生の姿で復活するだらう、戦災に焼けた植木に代つて新しい緑の庭木がもう建物より先に植ゑこまれた、その他もろもろの計画はもうこのデルタ東中洲を蔽うてしまつた、東中洲はよみがへる、けふもまた北風が寒い、だが西大橋から川端へ中洲をよぎる電車通りの人波はもう再現も近いのだらう西日本一の歓楽街の追想に酔つてゐる、かうした復興の東中洲にもしかし戦禍のなごりはまだ深刻だ、電車停留所のあたり空つ風をさけた日■りの路傍にあはれな戦災孤児はもう人生の悲哀を忘れ果てて赤表紙の日米会話をひろげてゐた」(「西日本新聞」昭21・1・12)「コンクリート建のハカタ新興を除き東中洲の全館、新柳町の朝日、呉服町の第一の各館が戦災で焼失したが、一年半後の二十一年一月には有楽映劇が前館主岩崎茂成氏によつて再建成り、中洲映画街復興のトツプを切り、ハカタ新興も戦災による破損を修築して再発足、有楽に続いて四月には中洲の大洋、六月には千代町の国際など地の利を占めた新興館が新築され、さらに新柳町に朝日、福岡劇場、柳橋劇場、渡辺通り四丁目に新映劇(後に新演伎座と改称)が競い立ち、元九州日報跡の西日本会館三階ホールが西日本映劇に改装されるなど、福岡映画街の復興は着々と進められた。」(「福岡」。「福岡」刊行会、昭25・3)
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【★632】野坂参三が博多港に引き揚げ帰国:「日本共産党最高指導者野坂氏延安より帰る/天皇制、党議と一致/人民聯合戦線で再建設/海外亡命十六年、昭和十八年以来は延安にあつて日本人民解放聯盟を指導してゐた日本共産党の最高指導者野坂参三氏はさきに京城に到着し内地上陸の機会を待つてゐたが十二日早朝「こがね丸」で解放聯盟の同志三名とともに民主主義革命の激流渦巻く祖国博多港に上陸した、皮のジヤンパーに黒のオーバー、黒の鳥打帽子といふ瀟洒な姿である、明けて五十四歳の氏の頭髪や髭には白いものがまじつてはゐるが、明るい顔色には亡命苦闘の翳も見えず、大学教授型の見るからに上品な紳士である、しかし十六年ぶりに見る故国の風物を懐しさうに眺めながら「食糧事情はどうか」「炭鉱の状態は」「各政党活動ぶりは」と逆に記者矢つぎ早に問ひかけながら時折鋭く光る眼底に敗戦の祖国再建への氏の不屈の闘志がのぞかれる。(略)/なほ野坂氏一行は十二日午後六時四十分博多発急行で上京した」(「西日本新聞」昭21・1・13)
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【★633】演劇活動が流行:「演劇界は極めて活溌である、戦後編成された劇団は福岡市だけでも八つを数へ、移動演劇まで入るれば各地に新編成されたものは夥しい数に上るが、これらの舞台はいづれも浮薄な傾向のもののみ上せられ、娯楽に飢ゑた民衆の無條件な喝采をいゝことにして甘やかされるままにその日を送つてゐる、といふのが九州演劇界の現状のやうである。/福岡を中心とするものに花月、宮城千鶴子とその楽団、娯楽市場、新世紀、福岡芸能劇団、北九州楽団、朝日舞踊団、西村正人、花沢章とその楽団等々から劇団きびだんご、リズム・ハツタン・ボーイズ、剣戟の南條隆一座、春日新九郎、櫻富士子合同座、阪東多門、阪東多門から歌舞伎の八百蔵一座—もちろん、この中には戦時中から待たれてゐた劇団もあるが、いづれにせよ大衆を呼ぶのに何らの條件ね必要としないいはば演劇界の好景気の波にのつて誕生したこれらの劇団はいきおひにおいて限られた演技者の引抜きに□□せねばならないし、これを防止せんとする経営者側との葛藤の過程においてその芸術性は反比例してゆく危険がある。/その間演出家の貧困といふことも劇界低調の一原因であらう、興行界低調の一方純粋な芸術としての劇活動をもくろむものに九州演劇協会の演劇運動がある、これは雨宮毅、河原重己、望月孝丸、古海卓二、劉寒吉ほか九州文学の同人が主体となつて「庶民座」の仮称で年四回の公演を企画してゐるが果してどのやうな方向に進むかはほぼ四月頃と予定されてゐる初公演を観てからのことである、素人劇団に鶴岡高を中心にする八幡の「青春座」、下川健夫を主幹にする熊本の郷土劇団などもある」(無署名「胎動する西日本文化の展望」、「西日本新聞」昭21・1・14)
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【★634】在外同胞援護会救療部:「泉靖一氏は東京にある外務省の外郭団体、在外同胞援護会と交渉して資金的援助をとりつけた。そして財団法人として救療部を発足させた。越冬期間中、一時引揚業務が休止していた昭和二十一年二月のことである。/救療部はその本部を博多港に近い聖福寺においた。朝鮮から引揚げてきた医師グループの一人である緒方竜氏(緒方竹虎の実弟)が、父親が檀家総代をしている関係で直接寺と交渉して広大な寺院全部を借りうけてしまった。そしてここに総合病院を作った。名前は救療部聖福病院。そしてここを活動の拠点とした。」(上坪隆『水子の譜』)「在外同胞援護会の援助によって、経済的にゆきづまっていた京城の組織が蘇ると同時に、私たちの全組織を在外同胞援護会救療部として再組織することになった。部長には今村豊教授が、庶務課長には田中正四君、混乱のなかにあったとしても、私が会計課長になったのだからおかしなものである。救療部は本部を博多の聖福寺境内におき、仙崎、佐世保、広島、舞鶴に支所をもうけて関東より西の港を根拠とする引揚船に船医と看護婦を搭乗させ、それぞれ現地の医療機関と密接な連絡を保ちながら、病人の受けいれと、伝染病の侵入を予防するための準備をした。/私は、毎日毎日埠頭で上陸してくる病人をかついだり、孤児の手をひいたり、栄養失調児のための収容所や不法妊産婦の保養所の建設に大童であった。聖福寺の界隈は、駅のすぐそばで、そのころ闇市にかこまれていた。喧嘩や盗難は日常の茶飯事であったが、人ごみのなかには活気があった。私は、雑踏のなかで、山も学問も忘れてどろどろになって働いた。」(泉靖一『遙かな山やま』新潮社、昭47・2)
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【★635】レインボー・クラブ:「レインボー・クラブ□明け/福岡□区占領軍将兵に久しく待望されてゐた新設のレッド・クロスは「レインボー・クラブ」と銘打つて十六日より福岡市天神町旧大和生命ビルで□開けするが、同クラブは図書室、簡易酒場、娯楽室など諸般の施設を備へた素晴らしいもので、日米両国婦人が占領軍将兵のサーヴイスに当ることになつてゐる」(「西日本新聞」昭21・2・16)
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【★636】畑山市長の予算案演説:「終戦以来無条件降伏の悲哀と苦悩は、時日の経過に伴い正に冷厳なる現前の事実となって全国民の身辺を囲繞するに至ったのであります。刻下に見る経済生活の窮乏、社会生活の枯渇、将又政治文化の昏迷等生活の全部面に滲透せる酷烈なる苦難に苛まれつつ、吾が同胞八千万は、明治以前に還元せしめられた狭小なる国土に跼蹐しなければならなくなったのであります。荊棘に充ちたこの敗戦の道は、然しながら断じて国家崩壊の過程ではなく、民族滅亡の道であってはなりません。耐え難き困苦に耐え、忍び難き屈辱を忍んで、敢て万世の為に太平を開かせ給う大御心のままに、今こそ勇往以て降伏条件を忠実に履行し、誓を新にして平和新日本の建設と香り高き文化国家の再建に渾身の努力を傾倒しなければならないのであります。(略)/この根本方針より致しまして、本年度に於て何を措ても先ず以て主力を傾注すべきものは、本市復興事業の完遂であると信ずるのであります。」(『福岡市史』第5巻)
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【★637】二日市保養所:「昭和二十一年三月中旬、引揚者の大部分は北鮮よりの脱出者であつたが、殊に婦女子が多くその悲惨な姿は見る者をして眼を覆はしめた。これらの婦人の中には、終戦後憐れむべき環境の中で余儀なく汚辱せられ、性病にかかり或は妊娠した者があるにかかはらず、何等の対策施設も考慮せられなかった。/在外同胞援護会救療部は博多港を出港する船舶に対し、船医を送り輸送間の救療に任じておったが、以上の情況を注視し、船医の意見を徴して、早急にこれら患者のために病院を設立すべきであるとの意見を博多引揚援護局に具申し、両者の協力を以て之を開設するに決した。/依つて援護局は福岡県より筑紫郡二日市町にある旧愛国婦人会県支部武蔵温泉保養所を借用し、在外同胞援護会は診察に要する器械衛生材料を提供し、且つ所要の医師・従業員をも配置して、三月二十五日之が開所の運びとなった。」(博多引揚援護局「局史」厚生省引揚援護院、昭22・9)同保養所は京城帝大医学部関係者が担当。21年4月25日、博多埠頭に婦人相談所を設置。5月15日には埠頭近くの松原寮内に、7月25日には大濠寮内にも設置し、上陸してくる引揚婦人全員に面接を実施して「不法妊娠」および性病罹患者を保護した。ここ以外にも国立福岡療養所・九大附属病院・久留米医専付属病院でも同様の処置・治療を分担した。収容患者は不法妊娠218、正常妊娠87、性病35(淋23・梅12)、其の他45。
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【★638】山口淑子(李香蘭)帰国:「華やかな引揚げ/雲仙丸の話題/まあ!接吻映画なんて/銀幕はご免 破れ服の李香蘭/李香蘭帰る——一日博多入港の雲仙丸で多数の引揚者に交つて李香蘭や中華電影の川喜多長政氏、あるひはかつてスクリーンにをどつた名優藤井貢氏らが華やかに帰つてきた。憂愁こめた引揚船のなかにこれは明るい港の春にふさはしい話題の船だ、男の着るやうな焦茶のジヤンパーの上に薄茶のレインコートをひつかけ胸に「山口」と名前が入つてゐる紺のサージ地のズボンは裾が破れ擬革の茶靴、雑嚢をぶら下げた姿は苦しい集中営の生活がしのばれた。それでも真紅な唇と大きな眼は溌剌として新鮮だ、引揚援護局で記者団にとりまかれながら「もうステーヂとも銀幕ともお別れ、クラシツク音楽をやりたい」と次のやうに語つた/昨年五月中華提携映画を作るため上海に渡つてそのまま終戦、私は名前の関係などで中華人と間違へられ漢奸狩の時にも一時留置されたし、今年の二月にも中国の憲兵隊に呼び出されそのまゝしばらく軟禁みたいな状態におかれました、終戦になつてからは一回も唱つたことはありません(略)年は二十七、本籍は佐賀県杵島郡だがまだ一回も行つたことはありません、李香蘭といふ名前は北京で生れ北京で育つたので北京でラジオ放送する中国の名前がよからうといふことになつて李香蘭とつけたのです、本名は山口淑子、父は山口文雄、母はアイ、今は北京に居ます、また北京にゆきたいワ、もう李香蘭といふ名前は捨てました、これからは山口淑子です、日本映画にも接吻が出て来たんですつて——まアいや、いや絶対にお断りします/とあでやかな身振り、舞台を去りたいといひながらもまんざら色気がないわけでもないらしい、一日夜六時四十分博多発急行で川喜多長政氏とともに上京、当分鎌倉市雪ノ下の川喜多氏宅におちつくことになつてゐる」(「西日本新聞」昭21・4・2)「一九四六年(昭和二十一年)四月一日、私は川喜多長政氏とともに九州・博多に上陸した。/前夜、引揚げ船・雲仙丸の甲板で開かれた演芸会で乞われて「夜来香」をうたった折に「李香蘭は死にました。これからは山口淑子にもどりたい」とあいさつし、上陸後、新聞記者に今後の生き方を問われたときも同じように答えていた。この〝引退声明〟は〈李香蘭、映画界引退を表明〉という見出しよりも〈李香蘭実は日本人だった〉という報道のほうが多かった。大部分の日本人は、まだ李香蘭は中国人、と信じていたのだった。」(山口淑子・藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮社、昭62・7)
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【★639】「夕刊フクニチ」:夕刊紙発行は昭和19年3月に禁止となり、戦後もGHQにより朝刊紙発行会社の夕刊発行は禁止されたので、各社は別会社を設立し、夕刊を発行した。「夕刊フクニチ」は元西日本新聞社員の浦忠倫らが創刊。当初は西日本新聞社内に編集局を置き、西日本新聞社員も多数出向し、昭和24年3月まで委託印刷をおこなったが、24年に入って独立社屋に移転。やがて朝刊紙も発行する独立会社に発展した。
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【★640】「九州タイムズ」:朝日新聞西部本社が事実上の出資者となり「有限会社九州タイムズ」を設立。発刊当初の取締役社長は荒川文六(元・九大総長)。従業員数は朝日新聞西部本社からの出向社員も含めて約70人、最盛期は100人ほど(この出向社員に安西均がいた)。本社は福岡市天神町41番地の朝日新聞福岡総局内に置いたが、実質上は小倉市砂津の西部本社内にあった。昭和25年1月1日発行の第1356号で終刊。
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【★641】「夕刊新九州」:毎日新聞西部本社の子会社。当初は「夕刊九州新報」の紙名を計画したが熊本市内から同名の申請があったため「夕刊新九州」に変更した。新聞委員会の用紙割当は2頁で7万部。門司市大里東通町に仮本社を置き、福岡市に総局(玉屋3階の毎日新聞福岡総局内)、東京・飯塚・八幡・戸畑・若松・小倉・下関に支局を置いた。印刷・発送は毎日新聞社の施設を利用。紙面に「引揚者・復員者無料案内欄」を設け、「NHKではこれに刺激されてラジオ放送で「尋ね人」を始めた」(『毎日新聞西部本社五十年史』)。24年12月1日付で「毎日新聞」が夕刊復活。「夕刊新九州」は部数が低下し、25年3月6日付で「朝刊新九州」に転換したが好転せず、27年8月1日付で「夕刊新九州」に戻り、部数漸減のまま43年11月1日休刊。「新九州」の組織と施設はスポーツニッポン新聞西部本社(昭和30年5月、西部支社として発足)に引き継がれた。
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【★642】「西部美術」:22年11月「新文化」と改題。24年6月「農芸西日本」と改題。25年からは社外で発行。(『西日本新聞社史』)
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【★643】鹿地亘が博多港に引揚帰国:「鹿地亘氏懐しの故国へ帰る/在重慶日本人反戦同盟の指導者鹿地亘氏(四四)還る、三日午後六時上海から博多入港のVQ三九号はこの大陸の大いなる民主運動の雄を九年ぶりの祖国に送りこんだ、一行は鹿地氏のほかに反戦運動のよき伴侶となつた夫人池田幸子さん(三八)に愛嬢暁さん(七つ)同志澤村幸雄氏(三二)=三重県松阪市=岸本勝氏(三三)=栃木県=小林一加氏(四〇)と同勢五名、帰国を前に上海で急死した愛息潮君の遺骨は彼の地の土に埋め祖国の民主戦線統一に大きな希望を抱いての帰還である/さる三月十八日重慶から上海到着以来、幾度か故国への帰還を伝へられたが種々なる政治情勢のため遅延し、いま漸く祖国にかへつた鹿地氏の風丰は、過去九年間異郷にあつてのはげしい闘争の面影はどこにも見えぬ柔かな学究型、頭髪には幾らか白さを加へたが、清らかなワイシヤツにくひ入るやうなブルーのネクタイ、軽やかな上衣なしの姿で博多港の春雨にぬれて立つ鹿地氏は帰国に際し日本の人民大衆に告ぐるメッセージを発表、さらに記者団の質問にこたへて今後の同氏の政治活動の方向、民主戦線強力展開の必然性、中国の政治経済文化諸問題などについて語つたが、氏の帰国によつて反動勢力打倒にたち上る日本民主戦線の拡充はさらに一層の前進を見ることが期待される」(「西日本新聞」昭21・5・5)
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【★644】満洲奉天地区引揚邦人第1陣が博多港に到着上陸:「宛ら乞食の行列/涙誘ふ奉天引揚邦人の上陸姿/飢ゑや寒さと闘ひあるひは露天商人夫となるなどの生活苦をつづけてきた満洲奉天地区引揚者の第一陣が二十九日博多に上陸した、引揚者は海防艦二二七号によるもの六百二十九名、夕風丸五百六十七名で東満の三江、牡丹江、浜(ひん)江方面から奉天へ避難したのが大部分である。服装は綴り合せたやうなボロボロの服に履物とてなくはだしの者もゐるといふみすぼらしさ、午前八時上陸を開始したが、検問で遅れ埠頭を出たのは午後五時半で乞食のやうな姿は出迎への人たちの涙をさそつた/本州出身者は松原寮へ一泊、九州方面は同夜直ちに懐しの郷里へ向つた」(「西日本新聞」昭21・5・30)
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【★645】福岡市役所図書室:「福岡市役所図書室(福岡市因幡町福岡市役所三階) 福岡市役所の図書室は市役所職員組合の手によつて創設され、市吏員の教養娯楽と、一般市民の読書欲に答えて昭和二十一年七月一日より公開されたのである。昭和二十三年八月、市役所共済組合の発足と共にその所管に移されて今日に至つている。/閲覧様式はオープン・アクセス(接架式)で、出入者に自由に本の選択を委せている。貸出と閲覧の二本立であるが、閲覧室が狭隘で充分の満足を与え得ないのは遺憾である。それにも拘らず、吏員は元より一般市民、学校生徒児童より支持されて、四ケ年に亘る業績を挙げている。/本図書室を速やかに市立図書館に引直し、規模蔵書を充実させ、東の県立図書館と相俟つて市民に稗[裨]益あらしむることは今日の急務と思われる。」(「福岡」、「福岡」刊行会、昭25・3)
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【★646】九大生体解剖事件:昭和20年5月17日から6月12日にかけて西部軍管区司令部の意向を受けて九大医学部解剖学教室で米人捕虜8名を4回にわけて生体解剖し捕虜は全員死亡。石山福二郎教授は戦犯容疑で逮捕直後の7月21日午後、福岡刑務所(福岡市土手町)で縊死(享年55歳)。GHQは西部軍・九大関係者30人を起訴。23年3月から約5箇月間にわたる横浜軍事裁判所で公判の結果、絞首刑5名・終身刑4名・有期刑14名・無罪7名。●この事件に取材した著作に遠藤周作『海と毒薬』(文藝春秋新社、昭33・4)・上坂冬子『九大生体解剖事件』・仙波嘉清『生体解剖事件』・東野利夫『汚名 「九大生体解剖事件」の真相』などがある。
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【★647】文化誌「月刊文化聯合」:地方文化団体復興のための総合機関誌。朝日新聞西部本社編集発行。創刊号は全24ページ。発行部数は1万。創刊号には武者小路実篤・中島健蔵・長谷川如是閑・羽仁悦子・堀内敬三・進藤誠一・波多野鼎・吉岡修一郎・横山白虹・長谷健・中村地平らが執筆。創刊披露のビラは広告部の松本清張が描いたという。同西部本社は24年12月、週刊娯楽紙「朝日ウイクリー」も創刊し、25年9月24日付第43号まで発行した。(『朝日新聞西部本社五十年史』)
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【★648】新天町商店街:昭和20年12月末、県立高女敷地の貸借契約を県市と結び、21年5月、㈱西日本公正商店街公社を設立。同年8月、社名を㈱新天町商店街公社に変更。10月15日、落成式を催行した。『大福岡名士録』(大福岡発展研究会、昭23・2)によると、当時市内には「新天町商店街」「ツナバ商店街」「寿通商店街」「川端通商店街」「麹屋番商店街」「松屋通商店街(渡辺通一丁目)」があり、新天町商店街の店名一覧中には「度量衡、料理教授 ボンマルセ 江上トミ」とある。江上トミ(熊本県葦北郡田浦町出身)は、このあと上京し料理研究家として有名になる。
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【★649】占領軍専用電車:「福岡市内線に占領軍専用電車/占領軍へのサービスから西鉄市内線に六日から占領軍専用電車が動きはじめた。/西鉄では差当り四台の車輛を専用に確保、毎日午後一時から同十一時まで西公園—博多駅、西公園—大学前一丁目の各区間を運転する、これは胴体に白線がいれてありその下に英語と日本語で「占領軍用」とかいてあるから一般の乗客はのれない」(「西日本新聞」昭21・8・7)「終戦と同時に警察官と交通従業員は優先的に召集を解除されたため、市内線の復旧は旧ピッチで進んだ。しかしながら、走る電車の車体は戦時中からの酷使につぐ酷使と資材不足による無理がたたり、窓枠に至っては満足に窓ガラスがあるものは少く、かわりに粗末な板を間に合わせに張った満員電車が力なく走り、それでもこれに乗るために、乗客の長い列が停留所ごとにつづいた。/このような窮状とは裏腹に、整備された占領軍用の電車が二十一年八月から運行をはじめ、二十三年の後半までつづいた。しかし、これに乗る進駐軍人は少なく、ガラ空きのままの状態で走っていた。なお車の胴体に白線をつけて、この専用車と一般車を区別した。」(『福岡市史』第6巻)
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【★650】聖福寮:寮長は山本良健、医師は藤本茂と馬場静子(京城女子医専卒・小児科医)、看護婦は千原辰子、保母は石賀信子、内山和子ほか十数人のスタッフ。主任保母の石賀信子は、羽仁もと子主宰の自由学園を卒業し、「婦人之友」福岡友の会青年部の会員で、元福岡女学院の教員だった。「婦人之友」は当時、引揚援護事業を推進し、全読者に引揚家族に対する「親類づきあい」運動をよびかけている。石賀信子との関係から元「こをろ」グルッペで福岡女学院卒の山崎邦歌と、その姉の山崎邦栄らも保母として参加した。「聖福寮」は昭和22年3月閉鎖。この間、収容者数は164名。同年3月18日、宿泊託児所「聖福子供寮」として再出発(*22年末に児童福祉法制定後、保育所として認可)。27年、「いずみ保育園」と改称し、40年4月閉鎖。(*上坪隆『水子の譜』)
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【★651】西鉄文化会:「西鉄文化会設立趣意書/終戦後既に一ケ年。戦ひ敗れたる日本にとつて唯在るものは飢餓と、混乱と頽廃せる道徳の蔭に日毎累増する社会悪のみ。/此の混迷せる世相に直面し、祖国日本を救う唯一の方途は真に民主主義に徹したる平和なる文化国家を建設するより外にはない。/今や祖国再建に目覚めた若人達は焼落ちた瓦礫の中から、荒廃した草叢の蔭からはだか一貫雄々しく立上つた。今日も亦燎原の火の如く燃えさかる全国各地の青年文化運動の現実を凝視せよ! それは単に好奇や自己満足の為の方便からではない。暗い生活の中から、日々の現実の中から、この苦境を転じて生活の楽園たらしむべく日本文化建設と言ふ意欲となつて生れたものだ。いばらの道を切拓く熱汗こそはやがてそこに理智の光を我々に与へてくれるを信ずる。/歴史は教へる——偉大なる政治も宗教も、将亦文学も芸術も、それは真にドン底に呻吟した国民の手によつて打建てられたことを——その為には吾々の一人々々がもつと真剣に文化創造の担ひ手とならなくてはならぬ。それは他人ごとであり得ない、その文化の殿堂を開く鍵はたつた今、吾々自分の手に握られてゐるのだ。/斯くして吾々は微弱たりとも、自己の職場を通じ、西鉄人の情操と聡明なる智恵から湧出づる西鉄文化運動の種子を蒔くべく立上つたのだ。茲に西鉄文化会の設計を計画した。幸ひ諸兄姉の絶大なる御賛同を得てその第一歩を踏出すことを得ば喜びこれに過ぎるものはない。奮つて御賛同あらんことを切望する。/昭和二十一年十一月二日 西鉄文化会各委員」。同会の事業計画は、会誌「西鉄文化」の発行、定例研究会の隔月開催、政治経済部・文学部・芸術部の各部に分かち講師を招いて討論会開催、各種座談会の開催、各文化団体主催の文化行事への参加。
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【★652】天皇の人間宣言:「……/惟フニ長キニ亙レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦燥●ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭烈ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。/然レドモ朕ハ汝等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休威●ヲ分タント欲ス。朕ト汝等国民トノ間ノ紐帯ハ終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現人神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。……」(「詔書」)
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詳細
レコードID |
410612
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1946
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和暦 |
昭和21年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |