<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和20年
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 秋山六郎兵衛「飛行雲」・長谷健「機械―第一章」・〈戦ふ学徒〉(「九州文学」)2月 峰絢一郎「文学維新論序説(個より全への発展)」・〈朗読小説〉(「九州文学」)3月 〈特輯朗読小説〉(「九州文学」)4月 火野葦平「九州文学論」・〈輸送決戦〉(「九州文学」)火野葦平「九州新戦場」・劉寒吉「沖縄の人に捧げる詩」(「西日本新聞」16日)5月 火野葦平「〈振武隊特別隊夜間出撃〉胸に抱く振袖人形」(「西日本新聞」5日)火野葦平「〈振武隊出撃〉大義に生きる」(「西日本新聞」28日)6月 火野葦平「焔のなかで」(「西日本新聞」22日)8月 火野葦平『陸軍』(朝日新聞社)10月 矢野朗「雲のかよひ路」(「文藝」)12月 小島直記『詩集 五月』(一雅堂)
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文学的事跡:1月 帯谷瑛之介が召集を受け西部第48部隊第2機関銃隊(久留米)に入隊(10日*5月除隊、7月西部軍管区報道部に徴用)。2月 「第二期 九州文学」同人の我孫子毅(小倉市)【★590】が「新田誌」(「九州文学」昭19・12―20・1)で第20回(昭和19年下半期)直木賞候補(8日*該当作なし)。尹東柱【★591】が福岡刑務所で死去(16日)。福永武彦が急性肋膜炎のため東大病院に入院、翌月退院して帯広市に疎開。眞鍋呉夫が久我正子と結婚。3月 日本文学報国会九州支部発会式、福岡市学士会支部で挙行、中村地平・海音寺潮五郎らも出席、同夜は西日本新聞社講堂で火野葦平・高木市之助らが講演(4日)。持田勝穂が入営(9日*9月9日復員)。宋夢奎が福岡刑務所で死去(10日)。4月 九州決戦文学講演会、西日本新聞社講堂で開催【★592】(10日)。林市造【★593】が与論島東方沖で特攻死(12日)。原田種夫が召集で佐世保相の浦海兵団に入団、翌日体格検査で不合格となり帰郷(15日―16日)。吉岡禅寺洞が糸島郡桜井村相園(現・唐津市)に疎開(29日)。檀一雄が陸軍報道班員として従軍中の中国から帰国し、腸結核で病臥中の律子と再会。5月 中尾武徳【★594】が沖縄本島沖で特攻死(4日)。決戦文学朗読の会(文報九州支部主催)、西日本新聞社講堂で開催、火野葦平ら17名が自作朗読(13日)。6月 火野葦平・原田種夫らが西部軍管区報道部結成打合せ会、帰途春吉付近で空襲に遭遇【★595】(19日)。吉岡禅寺洞の自宅「銀漢亭」焼尽(19日)。玉井千博(*火野葦平の弟・旧「こをろ」同人)が沖縄群島付近で戦死(20日)。福岡市内の国民学校3日間休校(25日―27日)。北川晃二が久留米の西部154部隊に転属(*9月復員)。壇一雄が妻・律子と太郎を三井郡松崎の母トミの疎開先に写す。7月 陸軍西部軍管区に報道部【★596】 結成、博多駅前の博多ホテルで入部式(7日)。8月 元寇記念伏敵週間行事で、西部軍報道部員が博多駅前で紙芝居【★597】(3日)。「伏敵文学の夕」(日本文学報国会九州支部主催)、櫛田神社で開催【★598】(3日)。原爆被災直後の長崎市内状況把握のため西部軍管区報道部長の命令で報道班員の東潤(詩人)・山田栄二(画家)・山端庸介(写真家)が長崎へ向かう【★599】(9日)。上旬、加藤介春が西日本新聞社を辞し、田川郡赤池町に帰郷。奄美群島加計呂麻島呑之浦に駐屯中の島尾敏雄が率いる第18震洋隊に出撃用意命令が下り待機のまま敗戦(13日―15日)。戦争終結後初の福岡市常会開催(25日)。下旬、梅崎春生が桜島から復員し福岡市近郊の宮地嶽神社(津屋崎町)の家族の疎開先で静養し翌月上京。9月 島尾敏雄が部隊を率いて奄美から佐世保海兵団へ復員(*1日奄美発、5日付で海軍大尉に昇任)。長谷川法世(漫画家)、福岡市で出生(6日)。五木寛之の母親・松延カシヱ(旧姓持丸)が平壌で死去【★600】(20日)。眞鍋呉夫が復員し夫婦して高宮の借家に両親と同居。末頃、白石一郎が釜山から博多港へ引き揚げ帰国、柳川の叔父宅に身を寄せ、1年後に佐世保へ転居。梅崎春生が上京。10月 大西巨人が対馬要塞重砲兵連隊から復員帰郷。朝日新聞西部本社(小倉市)の提唱で西部児童文化連盟結成、理事に佐久間鼎・遠城寺宗徳・阿南哲朗・長井盛之らが就任。中野達彦・中野泰雄の兄弟が三宅雪嶺主宰「我観」復刊。この頃、檀一雄が腸結核を病む妻の律子と長男の太郎を伴い糸島郡北崎(●西蒲)村小田に疎開。末頃、杉田久女が太宰府の県立筑紫保養院に入院。秋、冨島健夫が博多港に引き揚げ帰国【★601】。11月 「九州文学」同人が中心となり出版社「有限会社 九州書房」【★602】設立、創立総会開催(15日*21年3月2日設立登記、23年5月23日赤字解散)。12月 鹿児島寿蔵が歌誌「朝汐」創刊。田中艸太郎(佐賀県)が南朝鮮大邱の部隊駐屯地から博多港に帰国復員。大西巨人が毎日新聞西部本社(門司)を退社し福岡市友泉亭の実家に帰郷。この頃、左翼文化団体「福岡新人会」が活動(*「新日本文学」創刊準備号)。この年、小台三四郎が満州から博多港に引き揚げ帰国。一田牛畝(正定寺住職・浄土宗福岡教区長)ら浄土宗僧侶が河野静雲の選による月刊俳誌「花瓜」創刊。
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社会文化事項:1月 九州帝国大学女子挺身隊編成(13日*15日小倉造幣廠に出動)。2月 陸海軍飛行機献納座長大会、福岡宝塚劇場・大博劇場で開催(22日―28日)。九大医学部が恒例の学士鍋を中止し出陣壮行会(24日)。3月 枢密顧問官・野村吉三郎の推薦により海軍大将・百武源吾が第7代九州帝大総長に着任(12日*10月16日辞任)。関門港が機雷投下で関釜連絡船就航不能となり博多港に回航【★603】。市内の密集家屋の疎開開始。4月 県下の4銀行(十七銀行・筑豊銀行・嘉穂銀行・福岡貯蓄銀行)合併して福岡銀行創立開業(1日*創立総会は3月31日)。疎開家屋解体開始(10日)。福岡高等学校出身で東大生の林市造、学徒出陣で与論島沖の米機動艦隊に特攻死(12日)。5月 西部軍の要請で熊本中央放送局福岡分室設置(1日*福岡県下を管轄)。福岡高等学校出身で東大生の中尾武徳、学徒出陣で沖縄本島沖の米駆逐艦に特攻死(4日)。九州帝大医学部解剖学演習室で米軍捕虜8人を計4回生体解剖(16日―6月3日)。席田(むしろだ)飛行場滑走路が完成し南方出撃開始。B29が博多湾に機雷投下(27日)。第40回海軍記念日、筥崎宮・箱崎海岸で日本海海戦記念祭(27日)。6月 学徒隊結成協議会、福岡県庁で開催(7日)。福岡県義勇隊発足(8日)。「九州地方総監府」、福岡県庁内に設置(10日)。福岡市大空襲【★604】(19日)。福岡市立高等女学校の校庭でB29乗員捕虜12人を白昼斬殺(20日)。福岡城跡の第16方面郡司令部、筑紫郡山家の洞窟基地に移転(25日)。科学雑誌「青年技師」(西日本新聞社)創刊(*10月号から「サイエンス」と改題)。積文館書店が廃業広告を出し書店組合を退会。7月 九大医学部が浮羽郡吉井町近郊に疎開開始(17日)。8月 元寇記念伏敵週間開始(1日)。油山の市営火葬場の山中で米兵捕虜50余人を斬殺(9日―15日)。席田飛行場で海軍試作機「震電(J7)」【★605】試験飛行(11日)。B29一機が福岡市内に伝単を撒布(13日)。福岡市内に米軍上陸のデマ(流言飛語)が広がり婦女子の避難騒動【★606】(16日―17日)。青年将校2人が徹底抗戦を主張して油山で割腹自殺。燈火管制解除(20日)。博多港に朝鮮からの引揚船が入港(22日)。福岡市内電車の基幹路線が運転再開(22日)。九州地方総監府、福岡市に設置(26日)。九大原爆医療調査団、長崎到着(29日)。九州兵器㈱を九州鉄工兜危害社と改称。9月 「西日本新聞」に記事「相手に隙をみせるな―上陸軍に対する婦女子の心構へ」掲載(2日)。博釜連絡航路が再開し、南朝鮮からの引揚邦人2764人が「徳寿丸」(旧関釜連絡船)で博多港に入港上陸【★607】(3日)。在日朝鮮人が博多港から徳寿丸で故国に帰還(4日)。九州帝大医学部に原子爆弾症研究委員会設置(11日)。九州帝国大学学徒隊解散(12日)。福岡市会に復興対策委員会設置(13日)。米軍輸送機C47型2機が席田飛行場に飛来し、戦時俘虜の外国人兵を収容して沖縄へ(15日)。福岡市戦災地復興対策委員会設置(15日)。福岡高商授業再開(17日)。アメリカ第5海兵師団第28連隊(佐世保上陸)の先遣隊28人が席田飛行場に到着し飛行場私設を収容(22日)。進駐軍部隊1625名が臨時列車等で佐世保から博多駅に到着し、糟屋郡香椎町の陸軍軍需品廠倉庫の宿舎に【★608】(30日)。10月 GHQ総司令部指令(4日付)により県警察部機構を改革し、特高警察課・外事警察課を廃止(7日)。聯合軍が福岡市記念館を娯楽場として使用する旨申し入れ(9日)。戦傷復員者第1船(1275人)が博多港に入港(13日)。連合国軍総司令部、博多港を外地引揚援護港に指定(15日)。百武源吾が九大総長辞任(16日)。市内天神町の焼け跡に公認の自由市場開設(20日*12月14日進駐軍命令で閉鎖)。米軍が大濠の福岡地方簡易保険支局を接収し第118陸軍病院に転用(20日*31年8月31日返還)。進駐軍の指示により席田飛行場を「板付(いたづけ)空軍基地」と改称(29日)。福岡県が福岡復興事務所を設置し復興事業に着手(31日)。11月 全国人口調査実施、福岡市は25万580人(1日)。厚生省博多検疫所設置(1日)。福岡市記念館を進駐軍が接収し「タロー劇場」と命名(1日)。県経済保安課が市内の闇市場取締【★609】(5日)。岩田屋地階で「進駐軍との交歓バザー」開催(7日―9日)。九大総長選挙で奥田譲が当選(14日)。「メトロポールキヤヴアレー」(渡辺通り5丁目)開業(15日)。九州帝大法文学部、向坂逸郎ら5名の招請を決議(21日)。厚生省博多引揚援護局【★610】を博多埠頭に開局(24日*22年4月30日閉鎖)。戦後初の福岡県議会開催(28日)。占領軍が席田飛行場を接収し「板付飛行場」と改称(29日)。『日米日常会話』(西日本新聞出版局)刊行。末永博子が福岡市内でピアノリサイタル開催。12月 西日本新聞社従業員組合結成大会(1日)。泉靖一が博多港に引き揚げて(18日)、(財)在外同胞援護会に救療部設置を提言【★611】。進藤一馬、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に拘留(11日*22年8月30日、不起訴で釈放)。西口紫溟が「吉塚映画劇場」を開館経営(20日)。西日本鉄道従業員組合結成準備大会、西日本新聞社講堂で開催(22日)。第1回西部美術協会(*11月結成、会長は坂本繁二郎)会員展、西日本新聞社講堂で開催。この頃、映画館「高宮映劇」「博多日活劇場」「西日本映劇」「第一平和館」「朝日館」が相次いで開業。年末頃、福岡自由文化聯盟結成(*「前進」3号)。この年、博多港上陸の引揚邦人32万人、故国帰還朝鮮人49万人。須崎裏運動場・東公園動植物園跡地・大浜国民学校移転予定地に戦災者用市営簡易住宅300戸建設【★612】。
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日本・世界事項:1月 米軍がルソン島に上陸(9日)。2月 米英ソのヤルタ会談(4日)3月 硫黄島玉砕(25日)。米軍が太刀洗飛行場(福岡県)を空襲(27日)。三木清逮捕(28日)。「新潮」休刊。4月 米軍が沖縄本島に上陸開始(1日)。鈴木決戦内閣成立(7日)。戦艦大和撃沈(7日)。トルーマンがアメリカ合衆国大統領に就任(12日)。5月 ドイツ無条件降伏(7日)。アメリカ大統領トルーマンが日本に無条件降伏勧告(8日)。6月 西田幾多郎没(7日)。7月 文部省に学徒動員局設置(11日)。米英ソがポツダム会談(17日―8月2日)。米英中がポツダム宣言発表(26日)。8月 広島市に「新型爆弾」投下(6日)。ソ連が日本に宣戦布告(8日)。長崎市に「新型爆弾」投下(9日)。戸坂潤が長野刑務所で獄死(9日)。マッカーサーがアメリカ太平洋陸軍司令官・連合国最高司令官(SCAP)に就任(14日)。日本無条件降伏(15日)。東久邇宮稔彦内閣成立(17日*10月5日総辞職)。ソ連軍が千島列島の日本軍守備隊に攻撃開始(18日*9月5日千島列島・歯舞諸島を占領)。日本の航空機は全面飛行禁止(24日)。宮崎県に大暴風雨(30日)。マッカーサーが厚木飛行場に到着(30日)。日本文学報国会解散を理事会で決定(30日)。9月 米艦ミズーリ船上で降伏文書調印式(2日)。聯合国軍総司令部(GHQ)設置(2日)。GHQ指令「言論および新聞に関する覚書」(10日)。GHQが東條英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を命令(11日)。大本営廃止(13日)。舞鶴・西湾から朝鮮人送還第1船雲仙丸が釜山へ向けて出港(16日)。西日本に枕崎台風来襲、死者行方不明者2400人(17日)。GHQ指令「言論及び新聞の自由に関する覚書(プレスコード)」【★613】(19日)。連合国軍が佐世保進駐(22日)。天皇がマッカーサーを訪問(27日)。罹災都市応急簡易住宅建設要綱閣議決定。在対馬部隊の復員輸送着手(28日*福岡揚陸)。10月 「文藝春秋」・「文藝」復刊。「光」創刊(1日)。。舞鶴西港に釜山からの引揚第1船「雲仙丸」が陸軍復員兵2100人を乗せて入港(7日)。幣原喜重郎内閣成立(9日*21年4月23日総辞職)。政治犯約3000名釈放(10日)。阿久根台風(10日)。マッカーサーが幣原内閣に5大改革要求(11日*①婦人参政権②労働組合結成奨励③教育の自由主義化④秘密審問司法制度撤廃⑤独占的経済機構の民主化)。治安維持法・治安警察法廃止(15日)。大田正雄(木下杢太郎)没(15日)。「赤旗」復刊(20日)。国際連合成立(24日)。憲法問題調査委員会設置(25日)。陸海軍省廃止(30日)。佐世保引揚援護局設置。早川書房・凡人社(のち平凡社)創業。11月 全国人口調査実施(1日)。八幡市で詩誌「鵬」【★614】創刊(1日)。日本社会党結成(2日)。日本自由党結成(9日)。英彦山火薬庫で軍用火薬が爆発し大惨事(12日)。日本進歩党結成(16日)。GHQが航空機研究・教育の全面禁止指令(18日)。ニュルンベルク国際軍事裁判開廷(20日―21年10月1日)。長崎市内電車一部復旧(22日)角川書店創業(23日)。鹿児島引揚援護局設置(24日*21年1月31日廃止)。戦災復興院設置。「新生」創刊。「新潮」・「オール讀物」復刊。12月 第一・第二復員省設置(1日)。佐世保地方復員局・佐世保地方引揚援護局設置(1日)。GHQ財閥解体指令(11日)。GHQ神道指令(15日*「大東亜戦争」の呼称禁止等)。近衛文麿服毒自殺(16日)。労働組合法公布(22日*21年3月1日施行)。農地調整法改正法=第1次農地改革公布(29日)。GHQが修身・国史・地理の授業停止と教科書回収に関する覚書(31日)。この年、芥川賞・直木賞中断(昭和20年上半期から23年下半期まで)。戦時標語は「一億玉砕」「神州不滅」。流行歌は「お山の杉の子」「リンゴの歌」。映画は「勝利の日まで」「そよ風」。戦後流行語は「一億総懺悔」「四等国」「パンパン」。
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注記 |
【★590】我孫子毅:大正4年11月17日、小倉市の生まれ。小説家。本名は島村泰喜。蓮門教の開祖・島村みつの系族といい、「島村欣吾」の筆名で長篇小説「神と人の座—金蓮教始末記」(「九州文学」昭35・10—37・7*計11回連載)を発表している。昭和42年7月1日没。「十六歳の夏より家を離れて北海道、神戸等の学校に学ぶ。その間、種々の筆名を用ひて数篇の創作をプロレタリア的な雑誌に発表したり、薄命なる同人雑誌に関係したりしてゐたが、当時の進歩的青年の誰もがそうであつた如く、政治主義の俘虜となつて芸術を失ふ。其後、故郷に帰つて自己の道を求めて昏迷すること二歳、然し性来のマルデクソール(書く病気)は全治する可くもなく、猛然と芸術への再出発を決意した。そして現在の自分は詩に於ける「象徴的リアリズム」の手法を宣言して、無気力な詩壇へ捨身の突撃を行はふとしてゐる。「詩人時代」「九州文化」の同人を経て、現在「九州芸術家聯盟」に加盟。昭和十二年三月、「倭寇船」詩社を起す。現住所小倉市紺屋町(略)」(1937年版『九州詩集3』付載自筆「略歴」)
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【★591】尹東柱:1917年12月30日、中国東北部(当時の満洲間島(カンド)省和龍(ファリョン)県明東(ミョンドン)村)の生まれ。詩人。父は尹永錫(ユンヨンソク・1895—1962)、母は金龍(キムリョン・1891—1948)の長男。尹東柱と同じく福岡刑務所で獄死した宋夢奎(ソンモンギュ・1917.9.28—45.3.10)は従兄弟(父の妹の息子)にあたる。昭和13年4月、宋夢奎とともにソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校文科に入学。16年12月、戦時学制短縮により、同校を卒業。17年3月、平沼東柱と改姓(宋夢奎は宋村夢奎と改姓)して来日し、4月立教大学文学部英文科選科に入学。10月、京都の同志社大学文学部文化学科英語英文学専攻選科に転学。京都市左京区で下宿生活を始める。京都帝大在学中の宋夢奎も同市に下宿。18年7月10日、宋夢奎が「独立運動」の疑いで京都府警察部特高課内鮮係刑事に逮捕され、同月14日、尹東柱も逮捕、京都下鴨警察署に留置。12月6日、2人とも送検。翌19年2月22日起訴。3月31日、京都地方裁判所で懲役2年(治安維持法第5条違反)の判決を受け、4月1日に確定する(宋夢奎は、同じく懲役2年の判決を4月13日に受け、17日に確定)。2人とも福岡刑務所へ押送された。20年2月16日、尹東柱が獄死。3月10日、宋夢奎も獄死。死因は不明。没後、1948年1月、ソウルで遺稿詩集『空と風と星と詩』(正音社)が、実弟・尹一柱の編集によって刊行された。95年2月16日、同志社に「序詩」の詩碑が建立され、除幕式挙行。金賛汀『抵抗詩人尹東柱の死』(朝日新聞社、昭59・3)、伊吹郷訳『空と風と星と詩—尹東柱全詩集』(記録社 (発売・影書房)、昭59・11)、宋友恵(伊吹郷訳)『尹東柱—青春の詩人』(筑摩書房、平3・10)、日本基督教団出版局編『死ぬ日まで天を仰ぎ—キリスト者詩人・尹東柱』(日本基督教団出版局、平7・7)、尹東柱詩碑建立委員会編『星うたう詩人—尹東柱の詩と研究』(三五館、1997・2)がある。
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【★592】九州決戦文学講演会:主催は日本文学報国会九州支部、後援は西日本新聞社。午後1時、西日本新聞社講堂。プログラムは国民儀礼、矢野朗による開会の挨拶、火野葦平「九州決戦」、高木市之助「九州人よ蹶起せよ」、伊波南哲・劉寒吉による詩朗読、西部軍管区司令部薬丸勝哉中佐「沖縄周辺を繞る戦況」、高木市之助による閉会の挨拶。(「西日本新聞」昭20・4・10、同4・11、同4・16)
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【★593】林市造:大正11年2月6日、福岡市荒戸町の生まれ。3歳のとき父・俊造が東京で病死。宗像郡吉武村(現・宗像市)の吉武尋常小学校、福岡市立草香江尋常小学校をへて昭和14年3月、県立中学修猷館を卒業。翌年4月、福岡高等学校文科甲類に入学。17年、京都帝大経済学部に入学したが、18年12月、学徒出陣で佐世保第2海兵団に二等水兵として入団。入団直前の11月、福高同窓の猪城博之・湯川達典・園田稔と一緒に、アサ会牧師の河野博範の導きで田中遵聖(呉市)からバプテスマを受けた。19年2月、土浦海軍航空隊へ転属。海軍第14期飛行専修予備学生として朝鮮の元山で速成訓練を受け、20年4月12日、菊水第2号作戦で、神風特別攻撃隊第2七生隊員として与論島東方海上でアメリカ海軍機動艦隊に突入、戦死した。後年、福岡高等学校第19回文科甲類同窓会によってガリ版刷の文集「雁来紅」刊行。『きけわだつみのこえ』(●)『ああ同期の桜』(●)にも転載され、日記・書簡類は遺稿集『日なり楯なり』(櫂歌書房、平9・7)にまとめられた。湯川達典『ある遺書—特攻隊員林市造』(九州記録と芸術の会、平1・12)がある。
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【★594】中尾武徳:大正12年3月31日、福岡県香椎町の生まれ。香椎尋常小学校、県立福岡中学をへて昭和14年4月、福岡高等学校文科丙類に入学。2年生の秋、寮の仲間と回覧雑誌「ながれ」を創刊し、創作「はらから」を発表。17年4月、東京帝大法学部政治学科に入学。18年12月、学徒動員による佐世保第2海兵団に入団。土浦海軍航空隊、徳島海軍航空隊をへて四国の詫間基地に配属。20年4月、鹿児島の指宿航空基地に配備。5月4日、神風特別攻撃隊琴平水心隊員として指宿基地から発進、沖縄本島沖でアメリカ駆逐艦モリソン号に突入、戦死した。後年、彼の手記は『きけわだつみのこえ』(●)に採録。小学生時代からの日記と書簡類は『探求録─中尾武徳遺稿集・戦没学生の手記』(櫂歌書房、平9・5)と題して公刊された。
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【★595】焔の中で—:「白金町の友人の宅で、電車のなくなる頃まで雑談をしてゐた。三人つれだつて月明の表に出たと思ふと、警戒警報が鳴つて、城南線の電車が灯火を消して、空で疎開をはじめた。/歩いて渡辺通一丁目の交錯点に来ると、家の中でラジオが「西部防空情報」をつたへてゐる。(略)宿にかへるため、道を急いで柳橋から春吉の方へ川ふちを歩いて来ると、後方で鉦をたゝき、遠くで待避、待避とどなるものがあつた。/ふりむいて空を仰いだ眼に、B29が一機高度〇千位かと思はれるほど大きく、いやな青白さで三本の照空灯にとらへられてゐた。/真上だがと首をそらして進路を見てゐると、さゝゝゝといふやうな音が空間におこつた。とつさに「伏せろ」と私は叫んだ。」(火野葦平「焔の中で—」、「西日本新聞」昭20・6・22)●「盲目の暦」(「改造」昭27・1—6連載)
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【★596】西部軍管区報道部:西部軍管区報道部 「火野葦平の斡旋により、昭和二十年七月七日、火野を初め、劉 寒吉、岩下俊作、古海卓二、長谷 健、原田種夫、伊波南哲、河原重己、鶴岡 高、野村閏一、中島幸三郎、中西政次郎、それに私、外に東京から来た数人の西部軍報道部臨時嘱託は、部外臨時嘱託の矢野 朗、山田牙城、田中善徳、井上精三らと共に、博多駅前の博多ホテルに参集して、そこの広間で報道部長町田大佐を囲んで、おごそかに入部式が行なわれた。/宿舎は渡辺通りの山本ホテルであった。/このホテルは、木造三階建で、階下は広間と食堂なので、われわれは二階の個室を殆ど占め、一部を東京から来た連中に譲ったものだ。/三階には文化人で、兵隊として応召した者の内から選んだ人々を入居させていた。/その一部の名前を挙げれば、画家の山田栄二、改造編集者の北島宗人といったところだ。/東京から来た人といえば作家の高田 保、鈴木安蔵という憲法学者、詩人の中山省三郎、映画監督の熊谷久虎、写真家の山端庸介、外であったが、中山は特にわれらの仲間としてごく身近な部屋にいた。/事務所は西日本新聞社の三階で、粗末な机がごたごた並べられてあった。/宣伝班と資料班等々に分けられていたが、私はその資料班に属していた。」(東潤「遠い自画像」、「九州文学」51・7)報道部は敗戦後の8月17日解散。火野葦平の長篇小説『革命前後』(中央公論社、昭35・1)、および坂口博「山家洞窟司令部の幻景—「九州独立運動」前後」(「敍説」Ⅱ—04、2002.8)に詳しい。
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【★597】西部軍報道部員が博多駅前で紙芝居:「「元軍のため家は焼かれ田畑はこはされたがなげいてゐる秋ではない、戦ひはこれからだ」作者岩下俊作氏の口演で紙芝居「筑紫の防塁」はヨイコや兵隊さんや大人の目を集めてすゝめられる、このほかに元寇にちなんだ河童の竹蔵(長谷健作)神代一族(中島幸三郎作)と三つの紙芝居を製作した西部軍報道部では、元寇記念伏敵週間の三日目の三日、まだ空襲のあとをとどめる博多駅頭でこれを上演し「元寇のあの戦訓をいますぐに実行しようではありませんか」と市民の奮起を呼びかけた、なほこの三つの紙芝居は九州各県の国民学校、国民義勇隊、農業会へ配布される」(「西日本新聞」昭20・8・4)
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【★598】伏敵文学の夕:日本文学報国会九州支部主催、西部軍報道部・西日本新聞社後援。午後6時から櫛田神社にて。東潤・原田種夫の詩朗読、中西政次郎の小説朗読、火野葦平の講演「九州決戦」、高木市之助の講演「伏敵文学と元寇」など。(「西日本新聞」昭20・8・4)
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【★599】東潤・山田栄二・山端庸介が長崎原爆被害上京調査で長崎へ:『記録写真 原爆の長崎』(第一出版社、昭27・8、のち再刊、学風書院、昭34・9)東潤「あれから二十六年というが」(「九州文学」昭47・3)
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【★600】松延カシヱ没:「敗戦がきまると、父は虚脱状態におちいってしまい、なんの頼りにもならなかった。ソ連軍が官舎に乗りこんできたときもそうだった。彼はマンドリン銃や拳銃をかまえた囚人刈りの野戦兵たちの前で、両手をあげたまま、ほとんど身動きもしなかった。母が悲鳴をあげるのをきいても、そうだった。/その家を追われて、雨のなかをリヤカーで母を運んだ。日本人たちが集まっている旅館へ移って、しばらくして母は死んだ。/父は大声で泣きつづけ、私が「うるさい!」と父をどなりつけると、周囲の人は私を、不良少年だと言った。/それから博多へたどりつくまでの二年間、私はほとんど父にかわって家長の役割をはたしてすごした。父は私が煙草をすい、マッカリを飲んで酔っぱらっても、不良の私を叱ることができなかった。」(五木寛之『運命の足音』幻冬舎、平14・8)
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【★601】冨島健夫帰国:「少年の日、海彦はまずしかった。敗戦の年の秋、一家は朝鮮から引揚げてきた。そのとき、海彦は中学の二年生であった。リュックひとつを背に、ようやくの思いで日本にたどりついた一家に、親戚の眼はつめたかった。自分たちが生きてゆくのがせいいっぱいの、きびしい世相であったのだ。(略)/波の荒い夜の玄界灘をわたって夜明けがた、一家は博多の沖に、うすむらさきに煙る九州の山なみを見た。それより前、生命の危険にもいく度かさらされながら朝鮮の南端釜山の港に着いて、コンクリートの床の倉庫にうじ虫のような一週間ばかりを過した後、やって来た引揚船の船尾に小さな日の丸の旗がはためいているのを見たとき、海彦の心はどれほど熱くなったことだろう。敗戦以来、不吉な印象をともなっていたるところに見受けられた韓国の国旗は、中学二年生の海彦の眼には、美しい日の丸を汚してつくられたもののように見えたばかりでなく、日の丸のはためくのを見るのは、絶えて久しかったのである。/博多に上陸してすしずめの汽車をいく度か乗り換えて、炭坑町の、母の実家の雨戸を父がたたいたとき、静まり返った深夜の町にその音が力無く響いていった。」(冨島健夫『雪の記憶』平凡出版、昭33・10)
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【★602】九州書房:「社名は「九州書房」と呼称。資本金は十万円の有限会社。会社所在地は火野仮寓の文化ハウス内。出資者は玄人を入れない九州文学同人を建前とした一部の幹部に限る。社長の名称を執らず専務取締役を代表取締役とする。なお、火野は都合に依り表面には出ないことを本人が強く主張した。ただし覆面社長として全面的に指示すること、出版物は成るべく文芸書に限ること、など準備委員会で決められた。(略)そして最終的に役員も決まった。すなわち専務取締役は古海卓二、取締役は劉 寒吉、岩下俊作、長谷 健、矢野 朗、監査役は中村 勉、森田緑雨であった。/それに事務機構は、営業部長が宇野逸夫、編集部長が矢野 朗、庶務および経理部長が東 潤。また社員として風木雲太郎、岡部隆助、吉牟田 稔、林 少年(後、山田少年)、炊事の女性一人、といった膳立てだった。」(東潤「遠い自画像」、「九州文学」51・7)以後、九州書房は長谷健『民主主義の教育』(昭21・4)古海卓二『九州の百姓一揆』(昭21・6)坂口安吾『二流の人』(昭22・1)などを出版。23年5月23日、経営困難となり解散した。
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【★603】港湾被災:「昭和二十一年三月二十九日、ついに関門港は機雷の投下にあい、下関~釜山航路は閉鎖という事態が生じ、このため回航路を就航していた大型船天山・興安丸は博多港へ回航し、博多港の存在は一躍重大化した。/こうして貨客水陸の連絡基地は膨張と混雑によって、並々ならぬ苦斗が要求された。『博多港駅史』は、これについて、昭和二十年三月十九日の十六時、戦局重大化に伴い、大陸からの婦女子の避難民、作業要員、公用員等数千をのせた金剛丸が博多港に入港したが接岸不能のため、海上二キロの地点に停泊せざるをえなかった。このためハシケ連絡による混雑は言語に絶し、駅員の整理もついに及ばず、数千の滞貨、手小荷物の処理も併せて、管内各地から一〇〇〇名以上の助勤者を迎えねばならなかった、と誌している。/このように、戦争遂行のための動脈として重務にあえいでいたが、ついに昭和二十年五月二十七日、未だあけやらぬ三時、博多港は大型機三機によって、機雷の投下をうけた。このため、当時国鉄の豪華船金剛丸は触雷、大爆発を起し、沈没は免れたが航行不能となった。船客数千名のうち、死者一名、負傷者数名で不幸中の幸であった。爾来、格船便は欠航の余儀なきにいたり、専ら陸上輸送に移行した。その後、この機雷のため六月十二日曳船下関丸は沈没し、職員一名が死亡した。」(『博多港の歩み』福岡市役所、昭44・10)
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【★604】福岡市大空襲:午後11時10分頃—翌日午前1時頃。被災戸数12856戸・被災人口60599人・死者902人・負傷者1078人・行方不明者244人。「油脂爆弾は全市にバラまかれた。絶え間なく夜空を彩るその爆発閃光、雨とほとばしるその炸裂光の中に、黒い影絵を躍らして飛込んでゆく防空頭巾、モンペの婦人防火班の姿はさながらに尊い戦士である。/雨と降る焼夷弾の中に、毅然とホースの口を握りつゞける消防隊は、そのまゝに特攻魂に徹してゐた。申し分ない敢闘だつた。/「ふるさとの火となる夜に胸張りて敵撃滅の明日を思へり」/郷土作家火野葦平氏が、焼夷弾の雨の中に醜翼を睨んで詠つた感懐は、そのまゝに私ども福岡市民の烈々たる不屈の闘魂である。」(「西日本新聞」昭20・6・21)「本市の戦災区域は、東は御笠川より西は樋井川に至る延長約五キロメートル、北は博多港および福岡港の海岸線より南は櫛田神社と大濠公園を結ぶ線までの幅約一・八キロメートルにわたる区域のほとんど全域と、これを囲む新柳町および城南線沿いの薬院、平尾、六本松、鳥飼等の焼失区域(延長四〇〇—五〇〇メートル、幅二〇〇—三〇〇メートル)が半円状に点在していた。」(『福岡市史』第6巻)
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【★605】震電(J7):「「J7」はまたの名を「震電」とも呼ばれた。海軍の設計で、その試作を福岡の九州飛行機(株)の手で極秘裡に進めた。一万メートルの高々度に達するのに、僅か四分の上昇時間で、三十ミリ機関砲四門を備えてB29の来襲と同時に、瞬間的に飛び上がり、B29を遙かにしのぐ速度を利して、縦横の攻撃をかけようとするものであった。高々度でも、非常な高速を出さねばならぬ関係から、三菱発動機(株)で未曾有の高馬力エンジンを作り上げた。(略)この日、J7は、西部軍司令部、佐世保鎮守府、第六航空軍、第五航空艦隊、九州軍需監司令部などの関係官が見守る中に、席田飛行場の滑走路から見事に離陸、相当の高度を一気に上昇し、ついで緩速で福岡市上空を北から南に滑空して無事着陸した。」(上野文雄『終戦秘録 九州8月15日』白川書院、昭50・6)
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【★606】婦女子の避難騒動:「十六日の昼すぎ、どこからともなく妙なハナシが伝わった。/西部軍、九州総督府、県庁、軍需管理部など、軍の情報をいちばんはやく握っていたところの女の子が、みんなどこかに逃げるというのである。ただでさえ、生れてはじめての負け戦でどうなることやらと、不安な面持ちの福岡市民に与えた衝動は大きく、大変なサワギになった。/「アメリカ軍が来るげナ」/「黒ん坊が来るぞ。県庁では女の職員を全部早引けさして帰したそうだ」/それだけなら、米軍が進駐して来そうなところであればどこにでもあったであろうが、十六日から十七日朝にかけて、軍部、特殊官庁の女が博多駅から特別列車を仕立てるにおよんで、市中の混乱はいっそうつよまった。/若い娘をもつ家では、リュックをかつがせてお母さんともども、何かわからんがとにかく逃げようと表へとび出して行った。/この娘子軍が真夜中の福岡市をあとに、アテもなくゾロゾロと歩き出したのだから、何も知らない市の近郊の百姓家でも、それはたいへんとリヤカーから牛車までひき出してついてゆくという仕儀となった。(略)やがて一日たち、二日たち、上陸して来そうな気配もない。そのうち食糧が不足してきた。山の中に入った連中は、寒くはあるし心細いかぎりで、とうとう「その時はその時」とハラをきめて、三日目くらいで逆戻りしてきた。長いもので一週間位だったろう。」(鶴田敬一(西日本新聞社文化部次長)「呪われし空襲」、『秘録大東亜戦史 原爆国内篇』富士書苑、昭28・11)
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【★607】引揚船「徳寿丸」(旧関釜連絡船)が博多港に入港:「「博多引揚援護局史」によると、八月十八日から二十四日までに、朝鮮方面にいた貨物船明優丸・永昌丸等二十七隻の船が、博多に入港した。連合国軍の命令で周航した最初の船は、戦前、関釜連絡船であった徳寿丸である。終戦当時に山陰の須佐港に逃避していたが、朝鮮との間の就航を命ぜられ、九月一日に須佐港をでて釜山におもむき、軍人軍属二、五五二名、一般人一六名をのせて、九月三日朝、博多港に入港した。」(森田芳夫『朝鮮終戦の記録—米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』巌南堂書店、昭39・8)
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【★608】連合国軍の福岡進駐:連合国軍最高司令長官のマッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのは8月30日。九州地区は9月3日、鹿屋飛行場にアメリカ軍の第1陣が到着。9月21日、アメリカ海兵第5師団が佐世保に上陸開始。22日、第5師団第28連隊の先遣隊が板付飛行場に到着。30日午前11時25分、雨の中をギャラン少佐の率いる第1陣300人が佐世保から臨時列車で香椎町の陸軍需品廠の貨物ホームに到着。1時間後に自動車隊30台が到着、午後3時に第3陣200人が需品廠に到着した。総指揮官はロビンソン代将。9月1(●2?)日、同連隊600人が到着。「福岡地区に来駐した米軍は、総数約四、五〇〇人と推定され、司令部を東公園の旧一方亭に、軍政本部を天神町の千代田ビルに置いたが、席田飛行場をはじめとする旧軍関係施設や軍需工場などが占拠されるとともに、戦災を免れた公共建物、民有ビル、ホテル、一般住宅に至るまで、主要な建物のほとんどが接収された。」(福岡市総務局編『福岡の歴史(福岡市史普及版)』福岡市、昭54・10)
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【★609】闇市場の取締:「福岡の闇市場は、故国へ帰ろうと港に集まった朝鮮人による大浜の朝鮮市場と、博多駅前、因幡町(現在の西鉄商店街の位置)が三大闇市場であった。/便利だとの一部の声もあったが、県経済保安課では断圧することにきめて、これを急襲(二〇年一一月五日)、朝鮮市場二百五十名、駅前、因幡町約五十名を引致説諭し、押収の商品は統制会社に引渡した。しかし数日後の因幡町にはもう香具師連のバラック露店街ができた。これは自由市場と自称したが、前とかわったところはなく、これも十二月十四日には交通を妨害するとの理由で、とりこわされた。こうした闇屋と当局との攻防は、再三繰りかえされ、因幡町商店街が建設されるまでつづいた。」(井上精三編『新天町二十年のあゆみ』)
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【★610】厚生省博多引揚援護局:終戦直後から博多港には帰国を急ぐ朝鮮人・中国人が殺到し、福岡県は9月5日、博多埠頭に近い日本馬事会建物を借り受けて事務所を開設し、これの世話(宿舎・食事・乗船)にあたった。一方、外地からの引揚邦人は県厚生課が対応した。軍人軍属関係は陸軍は博多停車場司令部が、海軍は福岡地方海軍人事部が、それぞれ対応した。GHQ進駐後、福岡県は民生課事務所を博多埠頭内に移し、埠頭倉庫を朝鮮人宿舎に充当、引揚邦人については厚生課事務所を大浜国民学校に開設、戦災救護会福岡県支部内に引揚相談所を設置した。陸軍は10月13日「九州上陸地支局」(11月25日編成改正により「福岡上陸地支局」と改称)を春吉町に設置、海軍は西中洲に「復員収容部福岡支部」(12月1日復員省設置により「博多上陸地連絡所」と改称)を設置。福岡県はこれらの統一を図り、11月15日埠頭入口(大浜1丁目)の津田産業㈱倉庫を借り受け「福岡県臨時引揚民事務所」を開設。政府は11月24日厚生省告示で援護業務を厚生大臣の管轄下に置くと通達、「厚生省博多引揚援護局」が開設された。総務部は天神町の岩田屋デパート4Fに、業務部は津田産業倉庫内に、第一復員部は隣接倉庫に置かれた(まもなく業務部は埠頭内倉庫に移り、そのあとに総務部が移ってきた)。21年3月12日、新設の引揚救護院の管轄下に置かれ「博多引揚援護局」と改称。22年4月29日閉局式。この間、引揚・復員邦人数は139万2429人、外国人送出人数は50万5496●5497?人(『福岡市史』第5巻)。これらのなかに野坂参三・阿川弘之・冨島健夫・五木寛之・白石一郎・藤原てい・山口淑子(李香蘭)・小暮(和田)三千代・小台三四郎らが含まれている。なお、引揚港は博多のほか佐世保・唐津(実質活動せず)・鹿児島・門司・下関(機雷のため受入不能)・仙崎・呉・大竹・宇品・田辺・名古屋・舞鶴・浦賀・横浜・函館が、それぞれ援護局または同出張所として指定されていた。引揚邦人数(公式記録)は佐世保1396468が第1位、ついで博多、舞鶴664531、浦賀564625、大竹410783とつづく。*博多引揚援護局「局史」・『福岡市史』第5巻「昭和編後編(一)」・他参照
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【★611】泉精一:泉靖一は京城公立中学、京城帝大予科をへて昭和13年3月、京城帝大法文学部倫理学科を卒業。卒論は「済州島—その社会人類学的研究」。郷里旭川の部隊に入営しハルビンに派遣。16年12月10日除隊。京城に戻り各地の民族学調査に従事し奉天で敗戦。京城に引き返し「京城日本人世話会」に関係。同会は京城帝大医学部の協力で救護病院を開設し、各収容所に診療所を設置。また京城—釜山間の引揚列車や釜山—博多・仙崎間の引揚船に医療班を配置し、移動医療局(MRU)を組織した。南朝鮮からの引き揚げが一段落した20年12月、泉靖一は釜山から博多港に引き揚げ、「できたばかりの財団法人在外同胞援護会と話しあいをはじめ、ソウルの診療所と移動医療局をそっくりそのまま引きうけてくれるよう申しいれたのである。」(自伝『遙かな山やま』新潮社、昭47・2)「京城日本人世話会博多連絡所を設置/朝鮮から引揚げる邦人のよき相談相手となつて活躍をつづけて来た京城日本人世話会では在鮮邦人の数もあと僅かとなつたのでこのほどから福岡市高島屋旅館に京城日本人世話会博多連絡部を設置し、帰還する引揚者に対して宿舎、職業斡旋その他一切の身上相談に乗り出すこととなつた/なほ将来は現在福岡市内に相ついで生れてゐる朝鮮関係の引揚邦人相談機関を統一して強力な事業を行ふ」(「西日本新聞」昭21・2・16)
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【★612】戦災者用市営簡易住宅:「昭和二十年九月、閣議で三〇万戸の応急簡易住宅建設計画が決定すると、本市は住宅応急措置として公園敷、学校敷を利用した戦災者用市営簡易住宅三〇〇戸を昭和二十年度に建設したが、公園敷は須崎裏運動場の二二四戸、東公園内動植物園跡の四〇戸、学校敷は大浜国民学校移転予定地の三六戸、計三〇〇戸である。このほか営団住宅および被災を免れた余裕住宅の開放、旧軍兵舎の利用を図るとともに、民間自力建設者に対しては、資材の斡旋による建築促進に努めている。」(『福岡市史』第6巻)
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【★613】GHQの新聞政策:「新聞の自由奨励—民主的新聞の育成、指導を担当したのが民間情報教育局(CIE)である。その下に新聞課があり、直接日本新聞界の民主化促進に指導助言を与えた。課長はインボーデン少佐であった。/新聞の自由制限—その代表的なものが検閲制度だった。担当は参謀第二班(G2)に属する民間検閲部(CCD)である。同年(*昭和20年)十月から新聞の全般的な事前検閲を始め、通信社と東京、大阪および地方有力紙十紙が事前検閲、その他は事後検閲であった。事前検閲でもっともチェックされたのは、外電、論説、占領軍関係のニュースだった。」「GHQの事前検閲は二十三年(一九四八年)七月十五日に撤廃され、事後検閲となった。それも三ヵ月後の十月二十四日、日本新聞協会加盟紙については、事後検閲も廃止され、建前としては言論の自由は回復された。しかし民間情報教育局新聞課長インボーデン少佐を中心に新聞界に対する内面指導は継続された。」(『西日本新聞百二十年史』西日本新聞社、平9・4)
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【★614】詩誌「鵬」:同人は鶴岡高・岡田芳彦(八束龍平)・小田正彦ら。文学史上は戦後初創刊の詩誌と目されている。赤塚正幸編「詩誌『鵬』総目次」(「敍説」ⅩⅣ、1997.1)がある。
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関連情報 |
詳細
レコードID |
410611
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1945
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和暦 |
昭和20年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |