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福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和17年
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 吉岡禅寺洞「阿久根の鶴」「「俳句を生起せしめよ」(「天の川」)石野経一郎「南島経営―冠船篇」(「九州文学」)中野秀人「真田幸村と七人の影武者」(「文化組織」)火野葦平「決戦文化」(「福岡日日新聞」16日)秋山六郎兵衛訳『情熱の書』(ハウプトマン原作、岩波書店)2月 〈皇軍に捧ぐ〉(「天の川」)秋山六郎兵衛「この日、この朝―大東亜文化の理念」(「九州文学」)石中象治(翻訳)『郷愁』(ヘッセ著・三笠書房)3月 吉岡禅寺洞「国民詩としての俳句」(「天の川」)〈愛国詩特集〉・林逸馬「筑後川(連載)」(「九州文学」)秋山六郎兵衛訳『孤独な魂(ヘルマン・ヘッセ全集)』(三笠書房)4月 吉岡禅寺洞「季に関する手記」(「天の川」)劉寒吉『山河の賦』(六芸社)中野正剛『世界維新の嵐に立つ』(鶴書房)5月 森田緑雨「薫れる魂―軍神古野少佐遺族弔問」・矢野朗「今昔長談義(連載)」(「九州文学」)6月 中野秀人「凝集」(「文化組織」)7月 吉岡禅寺洞「俳句作家と美」(「天の川」)中野秀人「凱旋」(「文化組織」)8月 吉岡禅寺洞「連句作家は無季俳句作家なり」(「天の川」)は高橋武成「巫女の居た島」(「九州文学」)秋山六郎兵衛・火野葦平編『九州文学選』【★550】(六芸社)9月 吉岡禅寺洞「俳句の形式を主として」(「天の川」)中野秀人「凱旋」(「文化組織」)高木市之助「国語や国字を議するには」(「福岡日日新聞」3日)八波則吉『母の勝利』(英進社)10月 花田清輝「星菫派」(「文化組織」)福本日南『日南抄』(博文館文庫)11月 檀一雄「母の手」(「知性」)萩野誠一郎「愁宴」(「九州文学」)吉岡禅寺洞「俳句の秩序」(「天の川」)高木市之助「愛国百人一首略解」(「福岡日日新聞」22日―12月16日*全23回連載)12月 勝野ふじ子「平田老人」・ 〈北原白秋追悼〉(「九州文学」)高木市之助「愛国百人一首余談―姫島を訪ねて」(「福岡日日新聞」30日)松原一枝『ふるさとはねぢあやめ咲く』(天佑書房)今田哲夫校註『日南歌集』(春陽堂書店・新文庫)■この年、福本日南(雑賀博愛編)『支那再造論』(東半球協会)
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文学的事跡:1月 大西巨人が対馬要塞重砲兵連隊に教育召集補充兵として入隊(10日*4月9日臨時召集)。檀一雄が満洲へ出発(17日*田尻啓・矢山哲治らが見送り)。火野葦平が徴用で東部軍司令部(東京)に出頭し(20日)、フィリピンへ出発(2月9日)。梅崎春生が応召し対馬重砲連隊に入隊したが肺患のため即日帰郷、年内は福岡県津屋崎町渡の結核療養所および自宅で静養。2月 矢山哲治が西部51部隊(久留米)に入隊(1日*10月5日両肺尖炎・両肺間浸潤と診断され現役免除)。神崎武雄が「揚子江」で第14回直木賞準候補(4日)。第3回福日文化賞授賞式、佐藤通次『皇道哲学』(朝倉書店、昭16・11)・横光利一『旅愁』など(11日)。第2回九州文学賞は田中稲城「山郷」・佐藤隆「匕首叙情」・森田緑雨「いのちのうた」・矢野朗「文学および文学者」(20日)。池上三重子が福岡女子師範学校第二部を卒業し、三池郡蒲池国民学校の教員になる。この頃、高木護(熊本県)が丸善福岡支店に就職。4月 庄野潤三【★551】が九州帝大法文学部文科に入学し、東洋史学科を専攻。田中小実昌【★552】が呉第一中学を修了し福岡高等学校文科乙類に入学。森禮子が県立福岡高等女学校に入学(*21年3月卒業)。5月 檀一雄が那珂川畔の中華料理店「太閤園」で高橋律子と結婚披露宴【★553】(24日*石神井公園傍の借家に転居)。眞鍋呉夫が教育召集を受けて文化学院を中退し、西部74部隊(下関重砲兵連隊)に入隊(*8月臨時召集で豊豫要塞重砲兵連隊芹崎砲台に転属、9月佐賀関沖の高島に配置)。九州専門学校文芸班短歌会が会誌「たみくさ」創刊。。戦地雑誌「兵隊」に九州の文学者が多数執筆【★554】。7月 火野葦平『童話 天文台の小父さん』(大衆文芸社、昭17・6)、児童への影響好ましからずと安寧禁止で絶版警告(13日)。秋、「九州文学」同人の勝野ふじ子(鹿児島県)が来福し、郊外の津屋崎結核療養所に詩人の夢野文代を訪問(*矢野朗「遠山ざくら」、「九州文学」19・6)。11月 北原白秋没【★555】(2日*5日青山斎場で葬儀・告別式)。「多磨」福岡支部主催の北原白秋追悼歌会開催(5日)。マレー方面陸軍報道班員の井伏鱒二が空路台北経由で福岡飛行場(雁ノ巣)到着、福岡市内の栄屋旅館に一泊し翌日上京(20日)。日本文学報国会文芸銃後講演会九州班の横光利一・谷川徹三らが来福し講演会【★556】(27日)。この年、高崎烏城没(●11月?)。福永武彦・中村真一郎・加藤周一らがマチネ・ポエチックを結成。藤口透吾が大日本産業報国会情報部に勤務。
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社会文化事項:1月 「大和民族と長期戦」展(海軍協会福岡県支部・福岡日日新聞社主催)、玉屋百貨店7階で開催(3―11日)。「太平洋断じて護る」展、岩田屋で開催(3―15日)。2月 大日本翼賛壮年団福岡県団結成(1日)。第3回福日文化賞決定発表【★557】(12日)。シンガポールが陥落し(15日)、戦捷祝賀会(18日*3月12日第2回実施)。3月 香椎新球場開場(1日*15日―16日福日杯争奪職業野球団試合)。「福岡日日新聞」8日付紙面、「来年の十月には平和来/興味ある八百年前の豫言」との記事を掲載し、楽観和平気分醸成にあたると安寧禁止で発禁(8日)。福岡私市立第一女学校を廃止し福岡市第一高等女学校設立(24日*23年市立第一女子高校、26年市立福岡女子高校)。「九軍神敬仰」展、玉屋百貨店で開催(24日―4月5日)。福博電車全線5銭均一料金制実施(25日)。九大法文学部教授今中次麿が出版法違反のため辞職(28日)。博多・千代地区の下水道工事完成(*9年着工・市内初の下水道)。4月 糸島郡今津村を福岡市に編入(1日)。九州配電㈱発足(1日)。福岡市中央火葬場(桧原)事業開始(1日*千代村竜頭﨑から移転)。第8回二科西人社展、岩田屋で開催(1日―5(8?)日)。淡谷のり子・伊藤久男らが博多演芸館で公演(4日)。福岡市に初の空襲警報(18日)。福岡地方海軍人事部が西中洲の県公会堂内に開庁(20日)。九州帝国大学報国隊を九州帝国大学防護団と改称(21日)。中野正剛演説会、九州劇場で開催(22日)。水谷八重子一座が博多大博劇場で公演(28日―5月2日)。川丈座で川丈劇団5周年記念興行開始(29日)。5月 福岡市立拓殖専門学校、福岡商業学校を仮校舎として開校(1日*3日開校式4日開講、21年2月農業専門学校と改称、24年8月県立移管、26年3月廃校)。「翼賛福岡」第9号、安寧禁止で発禁(2日)。博多織工業組合の海軍献納機「博多織号」他2機の命名式、筥崎宮前広場で開催(9日)。博多港が国策港指定を受け総工費580万円で浚渫・埋立等の事業着工へ(20日)。生田菓子舗から出火し東中洲で大火(22日)7月 貨物専用の博多臨港鉄道(香椎―博多港)開通竣工式(1日)。福岡市消防署開設(1日)。コロムビア歌謡大会、演芸館で開催、淡谷のり子・伊藤久男・豆千代らも出演(4日)。志賀廼家淡海、。九州劇場で「新淡海節」を披露(4日)。「支那事変五周年記念展」、玉屋6階で開催(7日―12日)。「銃後美術展」、岩田屋6階で開催(7日―16日)。「はかた新興」を「福岡大映映画劇場」と改称(16日)。8月 「帝国館」を「福岡松竹」と改称(1日)。政府の新聞統制政策により「福岡日日新聞」と「九州日報」が合併し、「西日本新聞」を創刊(10日)。9月 満洲建国十周年記念式典(慶祝会福岡県支部主催)、西中洲の県公会堂で開催(15日)。「西日本新聞」16日付紙面、安寧禁止で発禁(16日)。「大和ホテル」開業(18日)。航空記念日行事で大刀洗陸軍飛行学校少年航空兵(雛鷲)が郷土訪問飛行(20日)。福岡飛行場(雁ノ巣)で献納愛国機8機の命名式(20日)。九州電気軌道(社長=村上巧兒)・九州鉄道(社長=進藤甲兵)・博多湾鉄道汽船(社長=太田清蔵)・福博電車(社長=木村重吉)・筑前参宮鉄道(大神熊次郎)の5私鉄が統合し西日本鉄道㈱(社長=村上巧兒)創立(21日*22日商号変更登記完了)。九州帝大、6箇月短縮の繰上卒業式(23日)。福岡高商、6箇月短縮の繰上卒業式(25日)。「大東亜建設大博覧会」【★558】(西日本新聞社主催)、百道松原で開催(24日―11月12日)。10月 宝塚歌劇(月・雪・花組合同)九州公演、福岡市は大博劇場で(10日―11日)。改組第5回福岡美術会展、玉屋で開催(24日―28日)。11月 頭山満が墓参のため4年ぶりに帰福(2日)。博多駅で祝関門隧道旅客列車開通記念行事【★559】(15日)。東京大相撲福岡場所、西新町大東亜博覧会場跡地で開催(19日―21日)。御笠川の比恵新橋竣工し渡り初め式(20日)。第3回福岡県美術協会展(県展)、岩田屋百貨店7階で開催(21日―29日)。福岡佐賀長崎3県中等学校連合演習、佐賀県神埼東方地区・高良台で開催(27日―28日)。頭山満翁米寿祝賀会、博多商工会議所で開催(28日)。大日本学徒体育振興会九州支部発会式、九大工学部大講堂で開催(28日)。12月 「立ち上る印度展」(大阪毎日新聞西部支社主催)、福岡玉屋デパートで開催(12日―25日)。福岡地方における県立高等女学校に学区制通学区域導入を決定(16日)。中村研一、第1回大東亜戦争美術展で朝日賞。
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日本・世界事項:1月 毎月8日を大詔奉戴日と閣議決定(2日)。日本軍がマニラ占領、アメリカ東亜軍総司令官マッカーサーは敗退(2日)。学徒動員令公布(9日)。アイヒマンらナチ指導者が欧州ユダヤ人1100万人殺害を決定=ヴァンゼー会議(20日)。2月 大日本婦人会結成(2日)。日本新聞会設立(5日)。日本少国民文化協会発足(11日)。食糧管理法公布(21日*7月1日施行)。「少国民の友」(小学館)創刊(*23年11月まで)。3月 北九州文化聯盟が第2回総会をかねて「翼賛文化協力大会」開催(29日)。4月 米空軍が日本本土(東京)初空襲(18日)。第21回総選挙=翼賛選挙、神崎武雄が福岡4区から立候補し落選(30日)。5月 金属回収令により寺院の仏具梵鐘等強制供出(9日)。第1回芸術院賞に高村光太郎・川田順らに(21日)。日本文学報国会結成、丸之内産組会館で創立総会(26日*会長は徳富蘇峰)。与謝野晶子没(29日)。6月 ミッドウェー海戦開始(5日)。国語審議会が標準漢字表を答申(17日)。7月 平野謙ら大正文学研究会創立(5日)。文部省が高等女学校の英語を随意科目とし週3時間以内にすると通牒(8日)。朝日新聞社が全国中等学校野球大会中止を発表(12日)。情報局が東京・大阪・名古屋・福岡地区の主要新聞統合案大綱決定(24日)。8月 ドイツ軍、スターリングラード攻撃開始(22日)。9月 日本軍、ガダルカナル島攻撃開始し失敗。10月 青壮年国民登録(1日―10日)。「都新聞」と「国民新聞」が合体し「東京新聞」創刊。11月 大東亜省官制公布(1日*拓務省・興亜省など廃止)。第1回大東亜文学者大会、日満華蒙の文学者を一堂に集めて帝国劇場・大東亜会館で開催(3日―5日)。東京―長崎間の直通特急「富士」が東京駅を出発し、関門トンネルをへて翌日長崎着(14日)。関門鉄道トンネル下り第1線開通式【★560】(15日*故北原白秋作詞「関門海底トンネル」【★561】)。情報局が日本文学報国会選定「愛国百人一首」発表、平野国臣・野村望東尼・大隈言道(20日)。兵制発布70周年記念日(28日)。12月 北原白秋50日祭(多磨九州地区合同主催)、筑後柳河城内公会堂で開催(20日)。大日本言論報国会設立総会、東京大東亜会館で開催、会長は徳富蘇峰、専務理事事務局長は鹿子木員信(23日)。日本出版文化協会、用紙割当を大幅削減(28日*単行本5割・雑誌4割)。この年、戦時標語「欲しがりません勝つまでは」「月月火水木金土」、映画「ハワイ・マレー沖会戦」。
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注記 |
【★550】『九州文学選』:収録作品は秋山六郎兵衛「庭の春」荒木精之「波野高原」石野径一郎「よめとり」浦瀬白雨「おひいのおばば」長谷健「風のない日」原田種夫「つくし野抄」矢野朗「隣人の居る物情」安田貞雄「驢家村の話」峰絢一郎「緒環」山田牙城「朝霧」劉寒吉「碑文」火野葦平「銅像」
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【★551】庄野潤三:大正10年2月9日、大阪府の生まれ。小説家。父は庄野貞一、母は春慧。父貞一は帝塚山学院校長職を勤めた教育者。児童文学者の庄野英二は兄にあたる。昭和8年、大阪府立住吉中学に入学。1年生のとき国語教師で詩人の伊東静雄に習った。後年、彼が詩人と知り、以後しばしば訪問して親しんだ。17年4月、九州帝国大学法文学部に入学し東洋史学科専攻。同専攻の1学年上級の島尾敏雄を知った。自伝的小説「前途」(「群像」昭43・8)には最初の小説「雪・ほたる」を発表した同人誌「まほろば」への参加経緯も書かれている。18年12月、繰り上げ卒業。大学卒業まで1年間を残していたが、翌19年10月付の卒業証書を貰った。19年1月、武山海兵団の海軍予備学制隊に入隊。7月、館山砲術学校に移籍。20年1月、フィリピンに赴任の命を受け、佐世保に集結したが、米軍のフィリピン侵攻のため中止。2月、大竹潜水学校をへて館山砲術学校勤務となり、さらに伊豆半島の海岸基地部隊に移り砲台設置の作業に従事。20年8月、敗戦により復員した。21年5月、島尾敏雄・林富士馬らと同人誌「光耀」創刊。短篇「プールサイド小景」(「群像」昭29・12)で第32回芥川賞を受賞。以後、第7回新潮社文学賞、第17回読売文学賞、第24回野間文学賞など受賞多数。「病院を出て、露切町の重松先生のお家へ行った。いい具合に先生は居られて、二階に通された。いきなり、/『いま、君たちの努力された論文を見せて貰っているところです』/と云われたので、室と小高は同時に大へん恐縮した様子をした。(略)/奥さんがお茶を持って来られたが、あとで先生の茶碗が足りないことが分った。重松先生は階段から下へ向って、/『お母ちゃん、お父ちゃんの茶碗が来てないよ』/と云われた時、僕ら三人は顔をそっと見合せて、笑いをこらえた。」(庄野潤三『前途』講談社、昭43・10)
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【★552】田中小実昌:大正14年4月29日、東京市渋谷の生まれ。小説家・翻訳家。牧師の父親に伴い小倉・呉に転居。昭和13年4月、福岡市の西南学院中等部に入学したが、母親の意向で2年2学期から呉一中に転校。卒業後、福岡高等学校文科丙類に入学した。福高時代は寮生活を送り、映画に熱中して怠学放蕩。昭和19年12月、召集で山口県の連隊に入隊し中支戦線へ。戦後は捕虜生活ののち21年7月、神奈川県久里浜に帰国。バーテン・易者・ストリップ劇場など職業を転々とし、やがて文学に近づいた。ミステリー小説の翻訳も多い。昭和54年、短篇「浪曲師朝日丸の話」「ミミのこと」で第81回直木賞を受賞した。平成12年2月27日、旅先のロサンゼルスにて没(現地日付は26日)。著書に『自動巻時計の一日』(河出書房新社、昭46・8)『香具師の旅』(泰流社、昭54・2)『ポロポロ』(中央公論社、昭54・5)『アメン父』(河出書房新社、平1・2)などがある。「昭和十七年四月、ぼくは中学四年修了で旧制福岡高等学校にはいった。これはひじょうにラッキーだった。呉一中の五年生にすすんでいたら、ぼくは放校になっていたかもしれない。(略)/ぼくは旧制福岡高校の寮にはいり、寮の食事はお粗末で、量もすくなく、腹をへらしていたが、とにかくたのしかった。全国でも数すくない文丙、フランス語が第一外国語のクラスで、ぼくは受験勉強はあまりしなかったが、フランス語の動詞変化の本はいつももってあるいたりした。クラスでもフランス語の成績はよかった。旧制高校の文科は外国語さえやっていればいいようなもので、ぼくにはらくだった。/なによりも、自由に映画を見れるのがうれしかった。ただ映画が見られるというだけで、こんなにうれしかったとは、これまた、いまの人たちには想像もつかないだろう。/ぼくは福岡市の映画館でやってる映画はみんな見た。ほんとに、のこらず、どんな映画でも見た。(略)/昭和十八年(1943年)旧制高校の一年から二年になるときに、寮でぼくと同室だった男とほか二名が放校になった。ぼくも放校にされるところだったが、とくべつに落第にしてもらった。フランス語のクラスがなくなり、二度目の一年生はドイツ語のクラスだった。ドイツ語はフランス語ほど熱がはいらなかった。/落第生は寮にとどまることはできない。ぼくは寮をでて、福岡の鳥飼の長野さんのうちに下宿した。長野さんの次兄の武治さんは旧制福高の理科の先輩で東大の農学部にいったが、当時ほとんど失明していた。それでいて、映画が好きで、いっしょに映画を見にいったし、あきずに、映画のはなしをした。/すぐ近所に武治さんとは福高では同学年だった末次学さんがいて、結核で自宅療養しており、ぼくもいっしょに、しょっちゅう三人顔をあわせては、あそんでいた。二人とも根がかるーい人間で、よく気があった。末次学さんは、あとで九州他大学医学部を卒業して医者になった。/末次さんと学さんは短歌をやっていた。ぼくは福岡市内の古本屋をまわり、かなりたくさんの本をもっていた。新刊書はめっきりすくなくなった。(略)/ぼくたちは動員され、福岡郊外の九州飛行機の工場でもはたらいた。(略)/昭和十九年十二月二十三、四日に、ぼくは山口の連隊に入営した。とうとう、兵隊にとられたのだ。」(田中小実昌「父と特攻」、文藝春秋編『誰にも青春があった』文藝春秋、平1・2)
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【★553】檀一雄結婚:「私がリツ子と結婚したのは、昭和十七年の五月である。/当時、私は満洲に行っており、満洲から、式の前夜に帰ってきて、結婚した。/そのまま、東京の石神井に移り住んで、昭和十八年の八月には太郎が生れる。しかし、翌十九年七月には、またまた中国に旅立って、ほぼ一年、中国を転々とし、二十年の四月末に福岡に上陸した。福岡のリツ子の実家を訪ねてみると、リツ子は病臥しており、太郎は私の母があずかっていた。/リツ子が死んだのは、その翌年の二十一年四月、糸島の小田と云う疎開先であった。」(檀一雄「風土と揺れる心情と」、「問題小説」昭48・10)
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【★554】戦地雑誌「兵隊」に九州の文学者が総協力:「九州の文学者を総動員/陣中誌「兵隊」に慰問の筆陣/〝戦ふ勇士〟たちにこよなく愛読されてその部数も十数万に上るといふ南支戦線唯一の陣中雑誌〝兵隊〟にこんど九州の文学者たちが総動員で慰問の執筆を贈ることになつた、この陣中雑誌は〝兵隊作家〟火野葦平軍曹の南支郡報道部勤務時代同氏の手で創刊され同伍長の内地帰還後は同郷の文学者下田徳行伍長がこれを引き継いで編輯に携はり、いまでは現地勇士たちにとつてこよない陣中の伴侶となつてゐる、いはば九州人と関係深いこの〝兵隊〟に編輯者下田徳行伍長、九州文学同人森田緑雨両氏の斡旋でいま九州の地に澎湃たる地方文化の精鋭を網羅して〝慰問の筆陣〟を贈ることになつたもの、なほ一般からも形式自由の原稿を森田緑雨氏の手許に取りまとめて現地に贈ることになつた(略)」(「西日本新聞」昭17・5・23)
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【★555】北原白秋没:「私が阿佐谷の白秋先生のお宅に伺つたのは十一月の朔日、寒い雨がこまかに薔薇の葉を濡らしてゐる日暮だつた。先生がなくなられたのはその翌日の午前七時五十分。私はどうしためぐり合せであつたか、一代の巨星北原白秋先生の御臨終に侍してゐた自分の奇遇と、この機縁の浅からぬことをひとり切々と懼れたものである。(略)御臨終数刻前、先生がひとりでに漏らされた言葉がいまも私の心の中で生きてゐる。最後まで意識がはつきりしてゐられたし、特に感覚と言葉は実に鋭かつたが、瞼をかるく閉じてうつらうつらされてゐる時、夢からでも醒められたのであらうか、或は魂は幽瞑の境に在られたのかもしれないが突然発せられた言葉に私たちははつ(2字傍点)としたのである。それは、/『ああ、明るい、明るい。——光明だ!。』/これは詩人北原白秋の最期の言葉として私は何の不思議を懐く余地もない。こゝに至つては高僧智識の臨終と少しの変りもないのではないかと私は思つた。私は昭和十五年の夏鎌倉の円覚寺に於て開かれた多磨全日本大会の折りの先生の御講演の中に『光明』といふ言葉を多く用ひられたことを記憶している」(持田勝穂「北原白秋臨終記」、「九州文学」昭18・1)
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【★556】日本文学報国会文芸銃後運動講演会九州班の横光利一・谷川徹三らが来福し講演会:「文報講演九州班一行/文学報国会派遣文芸銃後運動講演会九州班の横光利一、谷川徹三、岡田三郎、浅原六郎諸氏の一行は二十七日夜福岡の講演ほ終り二十八日午前九時二十分博多発佐賀に向つたが一行は同日夜佐賀講演、二十九日は嬉野に休養、三十日佐世保、十二月一日大村、二日長崎でそれぞれ講演、三日雲仙に二泊休養して五日同所で解散帰京するはず」(「西日本新聞」昭17・11・29)
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【★557】第3回福日文化賞:受賞者は九大助教授佐藤通次、画家の坂本繁二郎、小説家の横光利一ら6人。
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【★558】大東亜建設大博覧会:西日本新聞社主催。会期は9月24日から11月12日まで50日間。入場者総数は100万人突破。会場は百道松原。施設は、屋外大パノラマ・ジャングル地帯、陸軍館、海軍館、航空館、武勲館、馬事館、大東亜共栄館、新興産業館・科学館、総力奉公館、通信交通館、特設館(朝鮮館・台湾館・満洲館・華北交通館)、盟主日本館、映画館・芸能奉仕館。
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【★559】博多駅で祝関門隧道旅客列車開通記念行事:「おゝ来た直通列車/博多駅頭に爆発する歓喜/世紀の感激をこめて関門海底トンネルを潜り東京—博多を結ぶ直通急行第五列車が世界に燦たる栄光を鉄輪に響かせつつ一路博多へ初の驀進をつゞけるのだ。/この日早朝から福岡市内では戸毎に国旗を掲げて祝意を表し博多駅頭は紅白だんだら幕の明粧も美々しく関係者一同が待ち侘るうち午前八時三十分、予定より少し遅れて京都発鹿児島行列車が晴れの関門トンネル一番乗りの感激を乗せて第三ホームに着いたのに続いて八時四十五分、待望の東京発博多止第五列車が轟々の輌音も高らかにホームに辷り込めば駅の拡声器は一斉に勇壮なる軍歌を奏してこれを迎へ、ホームを埋むる学童、鉄道関係者、知名士など手に手に〝関門鉄道旅客列車開通〟と書いた小旗を打ち振り、旗の波が波濤のやうにザーツと駅頭に砕ける、列車の窓からは知るも知らぬも顔が手が爆発する感激の風景に打ち顫へてゐるやうだ、再びドーツと歓呼の風が駅をゆるがす、この一瞬こそ正に国鉄七十年の成果を此ひとときにこめた世紀の凱歌であつた/かくて急行第五列車が五分停車の後竹下駅の検車支区に廻送されここで約五時間に亙り車輌の検査、修繕、洗滌など補修整備が行はれ十五日二十一時二十七分(午後九時二十七分)博多駅発の一番列車として歓送裡に超満員の車体を膨しつつ東京へ向つた」(「福岡日日新聞」昭17・11・16)
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【★560】関門鉄道トンネル下り第1線開通式:「興亜の響き・世紀の鉄輪/関門海底を貫く旅客列車愈よ運転/南国へ暁の一番列車/颯爽として隧道通過/〝夢の懸け橋〟から〝科学の大道〟へ関門大瀬戸の激潮下に新東亜の大交通動脈を実現させる〝歴史の日〟、鉄道関門トンネル直通旅客列車驀走開始の十五日はつひに来た、想へば新世界生誕の胎動に悩み多かつた過去六ヶ年間、三十一柱の殉職英霊を出し凡ゆる苦難を克服して一路建設の国策街道を突進して来たこの偉業は大東亜に曙光燦たる新秩序確立朗々たる進軍譜に伴れていまぞ全開通の国家的式典が挙行されることゝなつたのだ/去る昭和十一年九月十九日、陽炎燃ゆる門司小森江の海岸にトンネル開鑿の第一鍬が下されてより国鉄技術陣の総智傾けつくして昨年七月十日海底下の貫通を遂げその間、幡生、門司両大操車場の改良、下関、門司両駅の新築、全線の軌條並に関釜連絡桟橋の改良等々海底地上の新施設に投ぜられた工費は総額約五千五百万円と算せられ、本年七月一日より戦時陸運非常態勢に即応してまづ貨物運転のみ行つてゐた本連絡線がいまは客貨車運転の全面躍動を始める、けふの開通の日を迎へて地許関門は勿論西日本国鉄沿線各地はそれぞれ意義深き行事に希望あふれる明日への首途を祝福するのである/かくしてこの朝午前五時、早くも山陽の暁闇を衝いて下関駅を西へ馳せ下つた京都発鹿児島行き普通列車の鉄輪の響きこそは海底直通列車の歴史的第一声であり、筑紫路の人々は初冬の朝の快きこの天声に応じて颯爽たるその姿を見送つた筈であり、つゞく上り下り三十八本を各列車は開通記念乗車券を手に手に西へ東へまた大陸への興亜の旅客を満載して華やかにも偉大なる歴史を織りなして行くのである」(「西日本新聞」昭17・11・15)
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【★561】故北原白秋作詞「関門トンネル」:「関門海底トンネル/北原白秋/警笛鳴らす試運転/名誉の機関士誰でしよか/世紀の列車動かして/最初の驀進、驀進だ。/東亜のダイヤ、黒ダイヤ/貨車に積みこめ山ほども(略)/(附記本稿は関門海底トンネル貫通の際にものされた北原白秋の遺稿である)」(「西日本新聞」昭17・11・15)
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関連情報 |
詳細
レコードID |
410608
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1942
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和暦 |
昭和17年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |