<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和12年
| 編者 | |
|---|---|
| データベース名 | |
| 年表 | |
| 注記 | |
| 関連情報 |
詳細
| レコードID | |
|---|---|
| 権利情報 | |
| 西暦 | |
| 和暦 | |
| 登録日 | 2013.08.21 |
| 更新日 | 2021.12.14 |
| 編者 |
花田, 俊典
|
|---|---|
|
スカラベの会
|
|
| データベース名 | |
| 年表 |
文学作品:1月 久保猪之吉「立春五十」・柳原白蓮「赤心賦」(「福岡日日新聞」3日―?)浦瀬白雨「心頭雑草」・森田緑雨「夢を集む」・鏡一樹「純文学撲滅論」・橋爪政成「文学の本質」・篠山二郎「バルザツクの生涯と文学(三)」(「九州文壇」)吉岡禅寺洞「俳句の形式に対する一考察」(「天の川」)吉岡修一郎「ヒューマニズムの進歩性と反動性」(「科学評論」)松田常憲『秋風抄』(水甕社)2月 浦瀬白雨「様相」・篠山二郎「文壇直言」・篠山二郎「殴られて損をした話」(「九州文壇」)林逸馬「地方主義文学」(「福岡日日新聞」8日―11日)火野葦平「氷山の道」・長井盛之「皺」・浦瀬白雨「秋十句」・酒井秀「淡雲」・川端生樹(青柳喜兵衛)「世紀の妻」・山田牙城「年賀」・原田種夫「羇旅」・川端生樹(青柳喜兵衛)「赤い自転車」(「九州芸術」11)3月 竹下しづの女「近詠」(「木犀」)俵会一「九州文芸会鳥瞰図」(「福岡日日新聞」1―15日)吉岡禅寺洞「再び広く自由に」(「天の川」)〈文芸の科学〉(「科学評論」)4月 鏡一樹「大衆小説笑殺論」・浦瀬白雨「おひいのおばゝ」・板橋謙吉「銀座二題」・赤沼三郎「邪教談義」(「九州文壇」)吉岡禅寺洞「海の中道」「ブラジレイロにて」(「俳句研究」)日比進「新生活運動としての文化の大衆化」(「科学評論」)石中象治「独逸の文芸政策と文学」(「福岡日日新聞」5日―12日)黒田静男「十一谷義三郎を悼む」(「福岡日日新聞」5日)本多顕彰「九州と九州の人々」(「福岡日日新聞」19日)水浦充太郎『岬のある風景』【★472】(九州文壇社)5月 大塚幸男「故郷の春」(「福岡日日新聞」3日)〈特輯国語・国字問題〉(「科学評論」)石川淳「福岡の思出」(「福岡日日新聞」24日)6月 『九州詩集 第三輯』(九州芸術家聯盟)7月 檀一雄『花筺』(赤塚書房)浦瀬白雨「現代詩を一瞥して九州詩集に及ぶ」(「福岡日日新聞」12日)8月 篠山二郎「街の寄食者(一)」・橋爪政成「『良き芸術』と『偉大な芸術』(現代ヒューマニズムへの一指針として)」・板橋謙吉「ジイドのソヴィエット旅行記に関連して」・浦瀬白雨「死の行進曲」・森田緑雨「あどけなき神性」・板橋謙吉「おもかげの詩」・秋山六郎兵衛「地下室」(「九州文学」)〈性科学の問題〉(「科学評論」)持田勝穂「土鈴」・青柳喜兵衛「ごろっちよを買ふ」・原田種夫「流し雛の歌」・山田牙城「玩具随筆」(「べにうし」3)9月 橋本賢輔(九大航空学教授)「伊庭孝と僕」(「科学評論」)『菊竹六皷追想録』【★473】(新聞評論社)10月 福田清人「従軍作家としての作家」(「福岡日日新聞」3日―4日)火野葦平『山上軍艦』(とらんしつと詩社)吉岡禅寺洞「銃後」・杉鮫太郎「篠原鳳作論」小田武雄「戦争と俳句」(「天の川」)目加田誠「支那の戦争の詩」(「福岡日日新聞」16日―21日)佐藤通次「「武」について」(「福岡日日新聞」22日―27日)11月 火野葦平「糞尿譚」(「文学会議」4)〈特輯科学雑誌の任務〉(「科学評論」)田丸高夫詩集『微笑』(近代短歌福岡支社)堀季実『聖愛集』(金文堂)12月 『荒潮(第十三年刊歌集)』(九大医学部短歌会)■この年、堀季実(ほり・すえざね)『郷土小説 聖愛集』(金文堂)
|
|
文学的事跡:1月 水谷蘭秋を囲む座談会(野村望東尼映画化記念・九州文壇社主催)、ブラジレイロで開催(*長井盛之年譜)。石川淳が「普賢」で第4回(昭和11年下半期)芥川賞に決定(●日*同時受賞は富澤有為男「地中海」)。3月 田丸高夫が死去(9日)、翌日葬式(10日)、原田種夫・星野胤弘・長井盛之・持田勝穂らがブラジレイロで田丸高夫追悼会(14日)。俳誌「木犀」同人が市内の旧久保猪之吉邸・大隈言道旧邸で吟行会【★474】(14日)。吉岡禅寺洞が「河東碧梧桐先生を語る」を福岡放送局からラジオ放送(22日)。福岡高等学校生が中心となり「高等学校俳句連盟」(のち「学生俳句連盟」と改称)を結成し、機関誌「成層圏」【★475】創刊(25日)。眞鍋呉夫が福岡商業学校を卒業し、受験準備のため上京(*翌年3月慶応大学を受験し不合格のため帰郷)。福永武彦が一高を卒業し東大法学部入試に不合格。この頃、林芙美子が来福し、橋爪政成らが歓迎会開催(*橋爪政成「詩魂彷徨(続)」、「九州文学」昭36・●)。4月 小島直記【★476】が福岡高等学校(文丙)に入学(*翌年留年して那珂太郎らと同級生)。矢野朗・池上憲介・丸山豊らが久留米で「文学会議」【★477】創刊(8日*同年11月まで全4冊)。6月 『九州詩集 第三輯』出版記念会、小倉到津の子供ホールで開催(12日)。7月 伊藤痴遊独演会、福日講堂で開催(11日)。檀一雄が召集を受け久留米の独立山砲兵第3連隊に入隊(*15年12月除隊)。8月 秋山六郎兵衛・黒田静男・橋爪政成・浦瀬白雨らが「九州文学」(第1期)【★478】創刊(1日)。上野英信、山口県吉敷郡で出生(7日)。9月 火野葦平が歩兵第14連隊留守隊(小倉)に応召し新設の歩兵第114連隊第7中隊に同日付で編入(10日)。小倉で火野葦平詩集『山上軍艦』出版祝賀会(22日)。10月 九州在住文芸家の親睦を目的に全九州文芸家懇親会(●九州文芸懇話会?)、福岡市内で開催【★479】。12月 川端生樹(青柳喜兵衛)・原田種夫・劉寒吉らが青柳喜兵衛玩具版画頒布会パンフレット「すらんみる」創刊【★480】(25日)。
|
|
|
社会文化事項:1月 須崎裏の福岡女専校舎から深夜出火、講堂・雨天体操場・運動器具庫を除く木造2階建校舎14教室・2階建寄宿舎を全焼(27日)。2月 東中洲のカフェ街から出火し、火元の「カフエーリラ」ほか「カフエーチグサ」「カフエーオランダ屋敷」「カフエー白鶴」「カフエー中洲会館」「「カフエーおた福」など全焼(1日)。大浜(千歳町・冷泉町)で大火(5日*20戸全半焼)。3月 福岡高等商業学校第1回卒業式・同窓会創立発会式(7日)。第3回二科西人社展、福岡日日新聞社講堂で開催(10日―14日)。4月 福岡女子専門学校、因幡町の県立福岡高等女学校跡地(*昭和8年、平尾の新校舎に移転)の仮校舎で授業開始(12日)。九大第3学生集会所「三畏閣」落成。5月 軍艦「妙高」「菊月」「夕月」「三日月」が博多湾に入港(1日)。「第二民衆クラブ」を「博多演芸館」(漫才・レビュー専門館)と改称し第1回興行に「白鳥舞踊団」公演(1日)。黒門(新大工町)で大火(2日*7戸全半焼)。科学文化協会主催「科学文化大講演会」、福岡日日新聞社講堂で開催(16日)。ヘレン・ケラーが来福【★481】(26日)。三浦環「お蝶夫人」(全幕)、九州劇場で公演(29日)。近県中等学校弁論大会(福岡高商弁論部主催)、県公会堂で開催(●日*福岡師範が優勝)。6月 駆逐艦「海風」が博多湾に入港(1日)。雁ノ巣飛行場に日華航空就航(1日)。福島健吉執筆のパンフレット「彼女達はなぜ脱走したか」(九州社会情報社、昭12・6)、遊女の悲惨な生活を惨忍なる記述で暴露したと風俗禁止で発禁・一部削除(8日)。大阪朝日新聞2万号記念新聞文化展、市内で開催(24日)。渡辺恭一郎がアメリカ製救急自動車を福岡市に寄贈。7月 雁ノ巣飛行場で空中ページェント(12日)。「九州日報」17日付「各地短信」欄、軍動員推知のため安寧禁止で記事差止(17日)。長谷川正が箱崎町に新刊書店「金進堂」を開業(20日)。時局市民大会、東公園で開催(21日)。福岡日日新聞社副社長の菊竹淳(六皷)死去(21日)。8月 日米水上競技大会(福岡日日新聞社主催)、大濠公園の県営プールで開催(3日)。福岡地区防空演習(27日)。森川信の率いる「ピエル・ボーイズ」【★482】が来福し、川丈座で公演(*翌年7月まで滞在)。9月 雁ノ巣飛行場で献納報国機「第一・第二西日本号」・「福岡県産業組合号」献納式【★483】(7日)。「日支事変画報」第1集(福岡日日新聞合資会社)刊行(15日)。「福岡毎朝新聞」22日付紙面、軍関係機密事項記述のため安寧禁止で発禁(24日)。在福半島人国防会創立大会(25日)。日赤福岡支部社屋で第85救護班(上海第一兵站病院)・第114救護班(同)・第161救護班(小倉陸軍病院)の合同編成式(26日)。平野部隊祈願祭・歓送会。手塚・小堺部隊祈願祭・歓送会。10月 清水芳太郎が九州日報社長に就任【★484】(4日)。「世界館」(東中洲)、市内初のニュース映画専門封切館に転身(7日)。第17回元寇記念祭記念講演会、県公会堂で開催、福日従軍記者が戦況報告(20日)。上海陥落旗提灯行列【★485】(30日)。11月 対英国交断絶促進市民大会、西中洲の県公会堂で開催(11日)。日独伊防共協定成立祝賀の旗行列(25日)。12月 南京陥落祝賀旗提灯行列(12日)。国民精神総動員大講演会、武徳殿で開催(14日*講師は有馬頼寧農相他)。福岡高商同窓会誌「有信」創刊(15日)。「九州日報」16日付紙面、政府と出先軍部の摩擦憶測のため安寧禁止で発禁(16日)。日赤福岡支部社屋で第174救護班(小倉陸軍病院)編成式(19日)。福日講堂で戦況報告講演会開催、山下特派員「中支攻略の重要性」・津田特派員「北支の政治経済工作」・三苫特派員「小堺部隊に従軍して」(25日)。『西日本産業要覧』(福岡日日新聞社)刊行(30日)。
|
|
|
日本・世界事項:1月 横山白虹ら俳誌「自鳴鐘(とけい)」創刊。「新女苑」創刊。2月 河東碧梧桐没(1日)。林銑十郎内閣成立(2日)。文化勲章令を公布施行、幸田露伴・佐佐木信綱ら9人が受章(11日)。「婦人朝日」創刊。3月 「日本読書新聞」創刊。『新万葉集』(改造社)刊行開始(*13年9月まで)。4月 防空法公布(5日)。朝日新聞社の訪欧機「神風号」、ロンドンへ出発(6日)。衆議院議員総選挙。ヘレン・ケラーが横浜着(15日)。正木ひろし個人誌「近きより」創刊(*20年12月まで、再刊21年1月―4月、復刊24年8月―10月)。5月 詩誌「新領土」創刊。文部省、『国体の本義』編纂配布(31日)。6月 近衛文麿内閣(第1次)成立(4日)。国語協会結成(28日)。7月 東京―神戸間に特急列車「かもめ号」運行開始(1日)。蘆溝橋事件(7日*日中戦争開始)。松本学・林房雄・佐藤春夫ら「新日本文化の会」結成(17日)。文部省が思想局を拡充し教学局を設置(21日)。8月 政府、「国民精神総動員実施要項」決定(24日)。9月 第2次国共合作(23日)。内閣情報部設置(25日)。大牟田で赤痢患者多発。11月 杭州湾敵前上陸(5日)。イタリアが日独防共協定に参加(6日)。中井正一・新村猛ら「世界文化」グループ検挙=第1次人民戦線事件(8日)。12月 イタリアが国際連盟脱退(11日)。南京陥落(13日)。この年、歌謡曲「人生の並木路」「別れのブルース」、映画「人情紙風船」「浅草の灯」。
|
|
| 注記 |
【★472】『岬のある風景』:小説集。昭和12年4月5日発行。九州文壇叢書第一篇。清水よしを装幀。発行者は森田与一郎(福岡市平尾白金町)、発行所(版元)は九州文壇社(福岡市平尾白金町73ノ5)。水足蘭秋の「序文」と林逸馬の「跋」を付す。収録作品は「岬のある風景」「青春譜」「エルマ」の3篇。
|
|
【★473】『菊竹六皷追想録』:装幀は青柳喜兵衛。「序に代へて—故菊竹淳先生追想録刊行まで」に、「福日が生んだ稀世の大人格、福日の比類なき社風を完成した偉大なる記者として菊竹先生三十五年の足跡を新聞史上に止むるは世の新聞人に不滅の教訓を垂れるもの——私共平素より先生の高風清節を景仰欽慕、同「一死君国に奉ずる心境(令嬢に送つた書信全文)」、永江真郷(福日社長)「福日精神の守護神」、村上巧児(九州電気軌道社長)「偉大な勇士心友菊竹君を讃ふ」、原田徳次郎(福日副社長)「廉潔無比の士」、阿部暢太郎(福日主筆)「形影伴ふ三十年」、光永星郎「私の良き理解者」、坂口二郎「卅五年を一貫する菊竹スピリツト」、中根栄「菊竹兄の事ども」、蔵重貞次「刎頸の交友四十年」、菊竹貞吉「父の憶ひ出」、荒巻昌吉「菊竹さんの親心」、竹林巌「吁、菊竹先生」、田中紫江「菊竹さんの事」、石川孝太郎「至誠人を動かす」、橋本善次「菊竹さんとコスモスの花」、篠原雷次郎「慈父の音容今や亡し」、中原繁登「十余年の恩寵に哭く」
|
|
|
【★474】久保・大隈旧邸へ吟行会:田中草夢「旧久保邸とさゝのや」(「木犀」昭12・4)は、昭和12年3月14日午後の久保猪之吉旧邸(福岡市大名町105)および大隈言道旧邸への同人による吟行会の記。「今日の旧久保邸吟行については、しづの女先生に肝入役をお願ひし、現家主小倉の曾田公孫樹博士の御厚意によりいつも閉ざされてあるお邸を開放していたゞき、わざ/\小倉より御家族の方御来福、久保先生よりも御鄭重なる御茶菓を頂戴する等行届いた御接待に一同只々恐縮の外なかつた」とある。「曾田公孫樹」は後年「小倉郷土会」の活動で有名な曾田共助のこと。
|
|
|
【★475】歌誌「成層圏」:隔月刊。福岡俳句連盟の参加校は、旧制福岡高等学校のほか姫路高等学校・山口高等学校など。やがて六高や七高からの参加者もあり、また東大生らによる「成層圏東京」も結成された。福高俳句会の中心にいたのは竹下しづの女の長男の吉信(俳号龍骨)で、「成層圏」創刊当初の編集に携わり、発行所も引き受けた。顧問の中村草田男は創刊まもなく多忙のため退いたが東京句会などでは支援し、しづの女は「成層圏」誌上の雑詠欄の選者を引き受け、草田男もやがて選者に加わった。昭和15年に矢山哲治、翌年には東大生の金子兜太・安東次男も入会。「成層圏」発行は昭和16年6月発行の第15号で終刊。句会のみ続けられたが、それも18年冬頃には絶えたらしい。
|
|
|
【★476】小島直記:大正8年5月1日、福岡県八女郡福島町の生まれ。八女中学、福岡高等学校(文科丙類)をへて東京帝大経済学部卒。福高時代は文芸同人誌「こをろ」に参加し、戦後は、第三期「九州文学」を主宰。「人間勘定」で第34回芥川賞候補。「私の郷里は久留米市から十二キロ、福岡県南部の肥沃な八女郡の中心、もとは福島町、いま八女市と改称された静かな町である。」(『君子の交わり紳士の嗜み』新潮社、昭60・11)
|
|
|
【★477】文芸誌「文学会議」:「九州文壇」(福岡市)から離反した矢野朗が地元(久留米市)の若手文学愛好者を集めて創刊した文芸同人誌。同人は田中稲城・池上憲介・池田岬ら。のちに火野葦平も参加し、同誌第4冊掲載の「糞尿譚」で芥川賞を受賞した。坂口博「矢野朗と「文学会議」」(「敍説」ⅩⅤ、1997.8)に全4冊の総目次と論評がある。「もと医院であつたと云ふ、久留米小頭町(*「本町」が正しい)の矢野宅には家族と別れた矢野兄と池上憲介の二人が女手なくして住んでゐた。階下はがら空きで二階の二部屋は、何時も沢山の受贈雑誌や原稿紙などが散乱してゐた。その部屋に岡部(*隆助)、池田(*岬)、佐藤(*隆)、綾木(*●)、それからその頃「糧」を出してゐた野田君(*宇太郎)なども出入りしてゐたやうだつた。」(田中稲城「立秋記」昭15・10)
|
|
|
【★478】文芸誌「九州文学」(第1期):昭和12年8月1日創刊。編集人は森田与一郎(緑雨)、のち児玉敬治。「福岡日日新聞社」と旧制福岡高等学校の文学愛好メンバーが主体となった。「第二期 九州文学」創刊のため、13年7月終刊。全8冊発行。「第一期『九州文学』が創刊されたのは昭和十二年の八月号であつた。いわばこれの前身たる『九州文壇』が、林逸馬の編集にあき足らぬ士の離反から崩壊したのがこの年の正月で、それ以後、新しい構想の下に、新しいメンバーを揃えて新出発したのが黒田静男、浦瀬白雨、秋山六郎兵衛と私だつた。/矢野朗はすでに林と決裂して久留米に奔りここで同窓と語らつて純文学の牙城として『文学会議』を発刊して居り、『九州文壇』という拠りどころを失つた福博の文学者達は突然新風を孕んだ新誌の出現を期待していた。私達は新誌を計画するといつも後見的役割を果している黒田氏の説を容れ、誌名を『九州文学』に決定した。そうして編集兼発行人の名義は『九州文壇』のときのそれを踏襲して緑雨森田与一郎にしたが、その実際の仕事は秋山と私が委嘱された。/私達は創刊号を五月に予定して仕事をすすめたが、種々の都合で延び延びになり、これが発刊を見たのは、前述のように七月末の印刷で八月号となつた。これには珍しく在京の作家細田源吉、沢西健両氏の寄稿を得、私達の他に吉井一男、板橋謙吉、能美千秋、綱島寒潮園、井川速夫の諸君がくつわを並べた。林逸馬も大いに意向を改め、篠山二郎という筆名を用いて「街の寄食者」という創作を書いて吉井君の「白粉」という小説と肩を並べた。秋山は「地下室」と題する掌篇オムニバス連載のスタートを切り、私は「良き芸術と偉大なる芸術」という評論を書いた。表紙の題字は黒田静男、表紙絵をその頃「地中海」で芥川賞を受賞した富沢有為男君が書いてくれた。富沢君は文学よりも早く文展派の画家として令名があつたのである。私達数名はこの雑誌の発刊を祝つて一夜那珂川畔のアサヒビールに集つてジョッキの満をひいたが、折も折こんどの大戦争の緒戦日支事変勃発して漢江が攻略され、街にはそれを祝う提灯行列の騒ぎが渦巻いていた。/その後雑誌は号を逐つて順調に刊行され、同人同志も続々と集つてきた。二号からは大塚幸男、三木一雄、井手文雄、後藤一民の諸氏が加わり、東京よりは徳永直、武藤藤介、宮地嘉六の諸氏も応援寄稿をしてくれた。翌十三年の新年号からは、詩人岡田華秋、恒屋喜壮(矢山哲治)越智弾政の他に松原一枝、南条たか子、古賀由紀氏らの女流が加わつた。このようにして私達の活動は号を重ねる度にその華やかさ加えて行つたが、遂に翌年四月号に到つて、私が連載してきた「市乾鹿文」という熊襲の娘を扱つた小説の完結篇が時の軍部の宣撫工作を模しているというのと、吉井一男の「芥沼」が風俗を壊乱するというのと合せて当局の忌諱に触れて、残念ながらこの号の憂き目を見た。」(橋爪政成「若き獅子の群—詩魂彷徨(三)」、「九州文学」昭36・6)
|
|
|
【★479】全九州文芸家懇親会(九州文芸懇話会):●「日本の文壇はあまりにも中央集権だ。これに対して地方文学の大同団結がなければならぬ」という主旨の下に、九州文芸懇話会が結成された。十月三十一日、新川端町の水炊き屋「角丸」で午後二時からその会がひらかれた。黒田静男、浦瀬百雨、秋山六郎兵衛などが音頭をとったのである。佐世保の詩人、上村肇、同じく佐世保の探偵作家の赤沼三郎、久留米から矢野朗、地もとから浦瀬、黒田、秋山、林逸馬、わたしなどで皆で三十五人も集まった。会長に浦瀬百雨、常任委員に林を推し、各地文学グループに一人ずつの連絡責任者をおくことに決まった。/会員相互の融和親睦を図る恒久的の団体とする、というのがうたい文句だったが、会報を一号だしたきりで会は雲散霧消してしまった。(略)しかし、失敗であったにしても、この会というのは、後に起こってくる『九州文学』『とらんしつと』『九州芸術』『文学会議』四誌合同の前哨戦であった、とわたしは思っている。」(原田種夫『実説火野葦平』)*長井盛之年譜によると→上川端作人橋際「角マル」で開催し、浦瀬白雨・秋山六郎兵衛・原田種夫・野田宇太郎・長井盛之・福田秀実らが参加、13年1月に第2回を開催。
|
|
|
【★480】パンフレット「すらんみる」創刊:B5版4頁のパンフレット。全2冊。第1輯は昭和12年12月25日発行。第2輯は昭和13年3月10日発行。第1輯の奥付には「すらんみる第一輯発行者東京市豊島区池袋二の一〇九八 青柳方 川端生樹 編輯者福岡市春吉花園一六六五の八 原田種夫 発兌所東京市豊島区池袋二の一〇九八 三樹荘」とあり、第2輯も同様。第1輯掲載の「青柳喜兵衛玩具版画頒布規定」によると、昭和12年9月から翌13年8月にかけて毎月の会費3円で青柳喜兵衛の創作版画(合羽版=「すらんみる版画」)を2枚ずつ会員の手元に届けるというもの。第1回頒布は12年12月に「オツポ姉さん」「異人さん」(2点とも博多土偶)、13年1月中旬に「払郎察人(長崎古賀)」「千里虎(中国上海)」を届けるとある。第1回の2点は「三樹荘自慢の帝展の青柳喜兵衛画伯の彩筆、旺玄社の鈴木金平先生の手刷、石渡庄一郎先生の彫刀」で「十二月初旬に」届けたとあるが、第2回目は「青柳画伯御病気の為め第二回頒画が遅れます次第」云々とあり不明。第1輯には原田種夫の詩「鯨潮吹(肥前長崎) 原名(くぢらんしよひき)」「昇り猿(宮崎)」、丸山義二のエッセイ「青柳さんの版画」、青柳喜兵衛「創作すらんみる版画講習(一)」、第2輯には劉寒吉の詩「異人館抒情 第一回頒布版画博多古玩異人さんに寄せて」、方等みゆき(北陸高岡市)のエッセイ「雪だより」、青柳喜兵衛「庶民芸術/創作 すらんみる版画」(福日新聞所載の再掲)、青柳喜兵衛「創作すらんみる版画講習(二)」、原田種夫の詩「阿茶さん(古賀)」、原田カ子の短歌「雑司ヶ谷の木菟の歌」(5首)、原田種夫の小文「雑司ヶ谷の木菟」が掲載されている。
|
|
|
【★481】ヘレン・ケラー来福:「奇蹟の人」ヘレン・ケラーは当初、5月18日に九大での講演会を予定していたが過労のためキャンセル。同月26日、博多駅に到着した。福岡市は事前に久世庸夫市長を会長にヘレン・ケラー福岡後援会を結成し、熱烈歓迎。ヘレンはそのまま県知事・市長を表敬訪問し、九大で講演会をすませ、同夜は西南学院内のミセスC.K.ドージャー宅に宿泊。翌27日午後1時から福岡仏教青年館で西南学院・福岡女学校共催の講演会をこなし、28日、次の講演地の長崎に向かった。
|
|
|
【★482】森川信と「ピエル・ボーイズ」:●『博多中洲ものがたり(後編)』405ページ&森川信
|
|
|
【★483】献納報国機:「本紙読者からの寄託による国防献金で造つた献納報国機の命名式は、十一月七日午後二時より福岡第一飛行場で行われた。いずれも艦上軽爆撃機で「報国第一二一号第一西日本号」「報国第一二二号第二西日本号」と命名され、大村海軍航空隊の所属となつた。/この日同時に福岡県産業組合からの献納機一台も命名されたが、海軍大臣代理鹽沢佐世保鎮守府長官、児玉西部防衛司令官、赤松福岡県知事ら臨席し、参列者数千名に達した。/翌十三年八月六日には各方面の献金百万円を突破した。一部は恤兵にも振向けられたがその後の献納機は、翌十三年八月二十七日「第三西日本号」、同九月十日、海軍機、同十二月十八日、陸軍戦闘機「西日本号」四機、十四年三月二十五日「報国第四、第五西日本号」、同十月十七日「西日本愛国号」等々である。」(『西日本新聞社史』)
|
|
|
【★484】清水芳太郎が九州日報社長に就任:「森田久社長(元時事新報編集局長、10年5月1日社長就任)は経営の合理化と、紙面の地方本位化に努力し成果すこぶる見るべきものがあつたが、昭和十一年四月満洲弘報協会が設立されることとなり、同時に満洲国通信社の新設を見るに至つたとき、関係方面の推薦により、満洲弘報協会理事長兼満州国通信社長として赴任したので、九州日報社は定款ならびに職制を改めて、、十二年中野正剛を取締役会長に、主筆清水芳太郎を取締役社長に、中野泰介、木村富蔵を常務取締役に、永津常泰を取締役兼広告部長として社務の遂行を図ることとなつた。」(『西日本新聞社史』)
|
|
|
【★485】上海陥落旗提灯行列:「十月三十日、上海陥落の祝賀の旗行列とちょうちん行列が行なわれた。全市は戦勝の興奮に渦巻き、日の丸の旗がへんぽんとひるがえっていた。わたしは幼い子を抱いた妻と、夜になって、火竜がえんえんとねるちまたを歩いた。みんなの顔はちょうちんの影に明るく笑いさざめいているようであった。わたしたちは「ブラジレイロ」の川べりのイスに腰をおろして、橋を渡る灯の行列をじっと見ていた。わたしはそういう歓喜の中に溶けこめない自分をわびしく思った。コーヒーがへんににがかった。」(原田種夫『実説・火野葦平』二一~二二頁●)
|
|
| 関連情報 |
| レコードID |
410603
|
|---|---|
| 権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
|
| 西暦 |
1937
|
| 和暦 |
昭和12年
|
| 登録日 | 2013.08.21 |
| 更新日 | 2021.12.14 |