<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和9年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 夢野久作(青柳喜兵衛画)「名君忠之」(「福岡日日新聞」1日―6日)吉岡禅寺洞「アドバルーン」連作【★428】・棚橋影草「横山白虹論」(「天の川」)板橋謙吉『第一紀層』(現代書房)2月 酒井輝男「葱」「添髪」・山田牙城「菊」・星野胤弘「或ル戦慄」「百道にて」・板橋謙吉「関門海峡」「夜業」(「九州詩壇」9)『不器男句集』(天の川遠賀支社)吉岡禅寺洞選『句集 時雨』(時雨句会)【★429】3月 酒井輝男「小さな虫」「仮橋」・浦瀬白雨「冬の顔」・山田牙城「戦の歌」・板橋謙吉「雪の朝」「明石浦帆」「凧」・星野胤弘「九州詩壇と九州詩祭」(「九州詩壇」10)『山縵(第十年刊歌集)』(九大医学部短歌会)4月 原田種夫「中島四五六への書」(「福岡日日新聞」29日)吉岡禅寺洞「新俳句」(「天の川」)5月 後藤蓼虫子・他「新興俳句の心境を語る」・吉岡禅寺洞「無季の問題等」(「天の川」)6月 清原枴童『拐童句集』(素人社)7月 吉岡禅寺洞「新人への嘱望」(「俳句研究」)板橋謙吉「二十四歳のロマンティシズム」・山田牙城「老年」「喪章」・長井盛之「黙シタル浅春ノ章」・原田種夫「自虐の倫理」・川端生樹(青柳喜兵衛)「病む」・星野胤弘「雑草」・酒井輝男「筍」・田丸高夫「短章」・浦瀬白雨「書箋」(「九州芸術」1)8月 横山白虹「俳壇の分立を論ず」(「俳句研究」)林逸馬『新女性観』(金文堂福岡支店)末次早代子編『名士讃歌撰集』(人物讃歌刊行会)【★430】石中象治(翻訳)『浪漫派』(ハイネ著、春陽堂・世界名作文庫)9月 棚橋影草「北垣一柿論」(「天の川」)新井徹「北九州を巡る回想など」・加藤介春「すゝき」・林逸馬「或る魂の発展の記録(一)」・武田幸一「阿蘇街道」・鏡一樹(林逸馬)「一つの建設(*連載)」(「九州文化」)長井盛之「透影」・山田牙城「松花江」・酒井輝男「草」・田丸高夫「朝の言葉で」「独語の手帳」・浦瀬白雨「「坊や」に語る」・川端生樹(青柳喜兵衛)「風」・板橋謙吉「氷河」・原田種夫「鉄路」・星野胤弘「秋風雑記」(「九州芸術」2)10月 小堀甚二「プロレタリア文学の展望と批判」(「新潮」)原田種夫「一九三四年の福岡詩壇」(「福岡日日新聞」17日―24日)11月 酒井輝男「鬼瓦」・星野胤弘「白い風」・川端生樹(青柳喜兵衛)「白蝋の女」・山田牙城「十二月の歌」・原田種夫「或る日のカポネ」・長井盛之「秋風に賛す」・浦瀬白雨「秋十題」(「九州芸術」3)12月 夢野久(久作)「骸骨の黒穂(くろんぼ)」(「オール讀物」)XYZ「来福文士の横顔」・武田幸一「秋二題」(「九州文化」)■この年、杉山其日庵『義太夫論』(台華社)『芝不器男句集』(天の川遠賀支社)
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文学的事跡:2月 福岡県内の各詩社が共同企画して福岡市西中洲の水上閣で第1回「九州詩祭」を開催、「九州芸術家聯盟」結成と機関誌「九州芸術」発刊を決議【★431】(17日―18日)。3月 石沢英太郎が大連商業を卒業し満洲電業に就職(31日)。北垣一柿(「天の川」編輯部)が九大医学部卒業。帯谷瑛之介が光州中学を卒業(*この年、日活に入社)。4月 福岡高等学校に仏語担当講師の大塚幸男赴任(*12年11月教授昇格、19年7月まで在任)。福永武彦が第一高等学校文科丙類に入学。竹下しづの女の長男・吉信【★432】が福岡高等学校文科乙類に入学。6月 久保より江・竹下しづの女・杉田久女がホトトギス同人に。福岡詩人協会主催の関屋敏子独唱会、大博劇場で開催。7月 九州芸術家聯盟機関誌「九州芸術」【★433】創刊(1日)米倉斉加年(本名は扶三〔まさふみ〕)、福岡市赤坂で出生(10日)。藤口透吾が上京【★434】(19日)。8月 林逸馬(鏡一樹)・中村勉・渋谷潤(本名は喜太郎)らが文化誌「九州文化」【★435】創刊(1日)。林逸馬『新女性観』、貞操観念否定乱倫行為ノ奨励のため風俗禁止で発禁(14日)。10月 「九州芸術」第2冊批評座談会、ブラジレイロ階上で開催(6日*午後7時から)。文藝春秋社主催の全国巡回文芸講演会で菊池寛・大佛次郎・小島政二郎・徳川夢声が来福講演(8日)。12月 「九州芸術」第3冊批評座談会、ブラジレイロ会場で開催し、閉会後は薬院町の岩戸屋で忘年会(8日)。福岡詩人協会主催の川畑文子舞踏公演会(渡米記念)、大博劇場で開催。久保猪之吉教授退官記念講義、九州医学部中央講堂で開催。久保猪之吉還暦祝賀宴、東公園の一方亭で開催(26日*河田政一『閑雲野鶴』)。この頃、中島極【★436】が上京。
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社会文化事項:1月、「中洲演舞場」、旧名「南座」に改称(1日)。第6・12師団管下の在郷軍人大会、須崎裏グラウンドで開催(14日*のち市内行進で第2会場の東公園へ向かい閲兵式)。松屋デパート竣工(15日)。第2次九州共産党弾圧事件(26日―27日)。博多株式取引所、元・銅御殿跡地に新築落成(31日*4月15日落成式)。2月 新川端町大火(10日*11戸全半焼)。皇太子誕生奉祝式典(11日)。活動写真館「公園座」、東中洲に開館(11日*館名一般募集)。福岡市予算市会で博多部議員が「博多市」と市名改称を提言(23日*)。3月 福岡簡易保険支局新庁舎(九州最大のビル)、大濠に落成開局(1日*5月24日開局式)。練習艦「大井」が博多湾に入港(6日)。「西南学院新聞」創刊(10日)。建武中興六百年祭、県教育会館で執行(13日)。今泉公益質屋落成式(28日)。福岡市内の秘密ダンスホール4箇所、一斉検挙(31日)。この月、清水芳太郎が国家主義的思想運動団体「創生会」【★437】結成。福岡市内に公衆電話8台設置。4月 福岡市動植物園開園式(11日)。福岡市天神町に九州初の自動信号機を設置(15日)。喫茶店「ブラジレイロ」【★438】、中洲西大橋の那珂川畔(旧不二屋デパート別館跡)に開店(15日)。支那料理屋「中華園」(東中洲)改築開店(15日)。満洲国総理鄭孝胥が来福(23日)。5月 福岡飛行場で福岡教育会献納の海軍機「福岡県教員号」命名式(5日)。「カフエーハツピー」、東中洲に開店(10日)。軍艦「多摩」が博多湾に入港(16日)。福岡高等商業学校(現・福岡大学)【★439】第1回入学式(21日)。特務艦「見島」が博多湾に入港(27日)。特務艦「朝日」が博多湾に入港(31日)。6月 渡辺鉄工所の献納報国機「渡辺号」命名式(5日)。新柳町遊郭のカフェー・グローリーから出火(7日*5戸全半焼)。7月 佐世保・舞鶴鎮海連合演習のため軍艦「羽黒」「龍田」「久張」「常磐」等が博多湾に入港(1日)。第13代福岡市長に久世庸夫が再任(4日)。大干魃のため住吉神社で雨乞祈願祭(10日―12日)。福岡陸上飛行場は雁ノ巣と決定(26日)。9月 福岡市防護団結団式。九州帝大が防護団結成。九州帝大法文学部内に九州文化史研究所を設置。10月 日米陸上競技大会、春日原競技場で開催(6日―7日)。博多券番(取締役は長尾寅吉)を「東券番」と改称(24日)。神屋宗湛三百年祭、妙楽寺で催行(28日)。11月 福博電車(株)(博軌電車と東邦電車が合併)開業(1日)。生田菓子店改築落成(5日)。伊藤研之・伊藤静尾・松田諦晶・坂宗一・広瀬不可止ら福岡在住の二科系青年画家が坂本繁二郎を指導者に「二科西人社」を結成(17日)。早良郡鳥飼村出身の実業家安川敬一郎【★440】没(30日)。12月 児島善三郎没(5日)。警固神社竣工式(9日)。東中洲の喫茶店「ブラジレイロ」でクリスマス会開催(23―24日)。この年、白水ハツ子が筑紫高等女学校前に新刊書店「白水堂書店」を開業。
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日本・世界事項:1月 官営八幡製鉄所、釜石他4社と合併し日本製鉄㈱設立(29日)。3月 満州国皇帝に溥儀就任(1日)。「俳句研究」(改造社)創刊。4月 東京渋谷駅に忠犬ハチ公の銅像建立(21日)。5月 海軍大将東郷平八郎死去(30日*6月5日、国葬令による初の国葬)。文部省が学生部を拡充し思想局を設置(31日)。6月 桐生悠々「他山の石」創刊(*月2回刊・16年7月まで)。8月 ヒトラー、ドイツ総統に就任(19日)。10月 警視庁が学生・生徒・未成年者のカフェ・バー出入り禁止(6日)。11月 満鉄、大連―新京間に特急「あじあ号」雲底開始(1日)。12月 文部省が臨時国語調査会を廃止し国語審議会を設置(22日)。職業野球団「大日本東京野球倶楽部」結成(26日*10年「巨人軍」と改称)。この年、東北地方大凶作。映画「生きとし生けるもの」「街の灯」。
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【★428】「アドバルーン」連作:「アドバルーン冬木はづれに今日はなき/空凍てぬバルーン人にたかからず/光なくバルーンのゐてみぞるるか/バルーンといろけじめなく雲凍てぬ/バルーンをあげてをはれる年の空」(「天の川」昭9・1)「アドバルーン冬木はづれに今日はなき/警固神社(福岡)の大きな森が冬さびて、その向ふに博多の繁華街が隠されてゐる。/デパート玉屋が揚ぐるアドバルーンは、毎日その森の冬木はづれに眺められる。冬になつて万目荒涼としてくると、その銀色のアドバルーンの存在が目だつ。/東中洲は福岡の銀座だ。アドバルーンが見えない日は一抹の寂寥を感ずる。或る日いつもの処に佇んで、アドバルーンの揚つてゐない冬木はづれの空をみた。空虚なこころだ。どこかに巣つてゐる童心的な空虚——。」(「自句自解—黒き衣」、「俳句研究」昭12・8)
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【★429】『句集 時雨』:時雨句会は九大医学部附属病院勤務の「看護長」(看護婦)句会。昭和2年頃から耳鼻科の根尾一渓のすすめで毎週1回句会をもち、4年春頃からは月に1回禅寺洞に教えを受けた。『句集 時雨』は昭和9年2月11日発行、編輯兼発行人は棚橋陽吉。久保ゐの吉・より江・禅寺洞が「序」を寄せ、横山白虹・根尾一渓・北垣一柿ら8人が「句集『時雨』に寄す」、棚橋影草・吉田登女子が「跋」を添えている。
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【★430】『名士讃歌撰集』:福岡知名士の短歌のアンソロジー。「上」巻のみ確認。奥付には、著者は末次早代子、発行者は末次鳳堂(福岡市大浜本町一丁目卅一番地)、発行所は人物讃歌刊行会(住所は発行者に同じ)とある。巻頭「はしがき」は末次鳳堂が非常時国民の自覚を説き「名士の言行を讃美して一巻を物し、世の人々の警鐘となし艱難なる将来を精彩あれと切望して止まぬ」と述べている。「築かれしいしづゑもりて更にまたはづかしからぬ名をあげよ君。」(麻生多賀吉)「さかえゆく君ぞめでたき土のそこの黄金の蔓をさぐりいだして。」(伊藤伝右衛門)「いつしかもくもりやすると太刀ぬきてこゝろの鏡みがく君かな。」(内田良平)「たかどのにかがやく火影仰ぎみて名をあらはしし君をことほぐ。」(太田清蔵)「とし/\にいやさかえゆく老松は深きねざしに千代やこもれる。」(黒田長成)「正しくもわがおもふ事かたれかし世にも人にもはゞからずして。」(小田部博美)「常磐なる松にちぎりて国のためさきくましませあしたづのごと。」(頭山満)「尺にたらぬ筆もつ君が文かけば世のひとびとのこころみちびく」(西口紫溟)
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【★431】九州詩祭:「●」(星野胤弘「九州詩壇と九州詩祭」、「九州詩壇」10、昭9・3)「私がはじめて九州の詩人たちと交わる機会を得たのは、昭和九年二月十七日「九州詩人祭」の晩だつた。これは博多の那珂川畔にあつたブラジレイロという珈琲店で催されたが、私はすでにその頃博多に出てきていて、私の関係していた『群羊』というささやかな文芸雑誌の仲間に誘われて出席した。/私はそこではじめて原田種夫、山田牙城、劉寒吉、浦瀬白雨、中島四五六、淀川千鳥などの諸君に逢つた。その夜は加藤介春氏も出席される筈であつたが、都合で欠席された。総勢四十一名(その夜の写真による)で私の記憶から消え去つた諸氏も右の他に沢山あつたに違いない。その夜の集りは、直ちにこれを以て福岡詩人クラブの発会式に発展し、今後は福岡地方合同の詩活動のスタートが切られることになつたのだが、不幸私は福岡の詩人諸君と数名を除いて深く交わる機会のないまま福岡の詩人達から離れてしまつた。」(橋爪政成「詩魂彷徨」、「九州文学」昭35・12)
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【★432】竹下吉信:大正4年10月、小倉市の生まれ。竹下伴蔵・静廼の長男。昭和9年春、福岡中学を卒業し福岡高等学校文科乙類に入学。母の勧誘で俳句に親炙。俳号は「龍骨」。12年4月、九大農学部林学科に入学。吉信は東大法学部進学を希望したが、母しづの女の説得で九大に決めたという(竹下健次郎『解説しづの女句文集』)。15年3月卒業し、同大副手に。19年秋、結核のため九大附属病院に入院し、20年8月5日死去。
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【★433】文芸誌「九州芸術」:昭和9年7月1日創刊。九州芸術家聯盟の機関誌(隔月刊)。編輯発售兼印刷者は田丸高夫(福岡市吉塚5丁目)、発售処は九州芸術家聯盟(福岡局私書凾第26号)。第11輯から編輯者は原田種夫、発行者は山田弘(牙城)。13年6月5日終刊。全12冊発行。同人は山田牙城・原田種夫・星野胤弘・浦瀬白雨・劉寒吉・岩下俊作・火野葦平ら26名。創刊号巻末に「九州芸術家聯盟規約」が掲載されている。坂口博「詩と出版の狭間で—田丸高夫素描」(「敍説」ⅩⅣ、1997.1)に総目次がある。
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【★434】藤口透吾が上京:「七月十八日/明十九日、午後三時四十二分発の普通列車で博多を発つ。黒田学芸部長から名刺の裏に書いた紹介状を三枚貰う。一枚は実業之日本社「日本少年」編集長の二宮伊平氏、一枚は誠文堂新光社の「科学知識」編集長の柴田賢一氏、他の一枚は作家の武野藤介氏である。/「文学修業の道は嶮しい。確かりやんなさい」と黒田氏は励ましてくれた。気むづかしそうな黒田氏が三枚もこの私のために紹介状を書いてくれるなど予想もしないことだった。この三枚の名刺が私の新しい道を拓いてくれる道標のような気がして斗志が湧いて来る。/二、三日掛かりで荷造りをしてリヤカーで駅に運び、東京までの切符を買って荷物だけ先に送る。黙々と荷造りをしてくれた父の心境を思うと胸が塞がる。そんな父の姿を眺めながら私はふと、上京資金の中から割いて父に残してゆこうと思った。六月末の新聞配達の給料をふくめて三百五十二円ほどあった。その中からトランクや身の廻り品を買い、それに東京までの乗車券が学割で七円二十三銭だ。荷物の送料など差引くと手許に三百〇八円残った。/東京は物価が高いかも知れないが、百円あれば三ヵ月は食えると思う。紹介状は三枚あるし、三ヵ月のあいだには何とか就職口も見つかるに違いない。/「オレ、百円あればいい。二百円はあんたに上げる」/私は父の前に十円札二十枚差出した。/「二百円も……? お前、それだけで大丈夫か」/父は呆気にとられたように私の顔と畳の上の札を眺めた。父には予想もしないことだったに違いない。」(藤口透吾「三十年小僧の来歴」、「芸林」昭39・8)
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【★435】文化誌「九州文化」:昭和9年8月1日創刊。編輯発行人は渋谷喜太郎(潤)。発行所は九州文化社(福岡市中島町9金文堂内)。11年9月終刊。全18冊発行。「昭和九年八月、今日の『九州文学』の最初のスタートである『九州文化(4字傍点)』が創刊されたのである。/最初の同人は中村勉、渋谷喜太郎、篠山二郎(林逸馬)、牟田口宗一郎、今井慎之介、津田啓次郎及び青柳喜兵衛の七名であつたが、事実主として経営の衝にも当れば、よく書きもしたのは中村、渋谷、篠山の三人であつた。/『綜合文化雑誌』と銘打つて、同人が詩や小説を発表する外に、加藤介春、武田幸一、浦瀬白雨、夢野久作、内田博等の詩や随筆、三松荘一、吉町義雄、会田軍太夫等の郷土史や論文の寄稿を仰いだ。だが、毎月三十部位しか売れず、度々経営難に陥つたがよく健闘し、翌十年には次第に同人の数も増え、頒布区域もズツと広くなつて行つた。同年の末には廿名余りの同人となつてゐるが、主な同人は福岡の浦瀬白雨、森田緑雨、武田幸一、小倉の竹林淡、松本信一郎、阿南哲朗、若松の河原重美、飯塚の能美千秋、井上強一、久留米(小倉から移つて)の矢野朗、長崎の下田徳幸等である。所が、その頃から漸く同人間に軋轢が生じ、かつて運動をしてゐた転向者からなる文化派と、文学のみを目標としてゐる文学派とに分れて対立し、遂にその翌十一年二月に分裂した。/そして、翌三月より、文学のみを目標として精進する人々によつて新しく文学綜合雑誌『九州文壇(4字傍点)』が創刊された。/(残留組は、中村、渋谷を中心として新たに中村の義兄に当る火野等を加へて、『九州文化』の立直りを劃策したが、大多数脱退した為思はしくなく、後二、三回出して消滅した。然し、分裂後の『九州文化』に火野は、彼の最初の小説『帝釈峡記』及『修験道』を発表してゐる)」(篠山二郎「九州の文学運動史—初期より昭和十五年末迄」、「九州文学」昭16・12)*福岡市総合図書館原田種雄文庫は第1巻第2号(昭9・9)、第1巻第4号(昭9・12)、第2巻第5号(昭10・8)所蔵。第1巻第2号(昭9・9)には小熊秀雄「作家の二つの生活差に就いて」
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【★436】中島極:「私が上京するとまもなく、私のあとを追うようにして中島極という男が上京してきた。その頃、阿佐ヶ谷にいた私の近くに間借りして、毎日酒ばかり飲んでいた。中島極は郷里の兄からの仕送りで暮していたが、私は一銭の仕送りもなく、転々と職を求めて歩いた。中島極は梅崎春生と修猷館時代の同窓生で、その頃、梅崎春生はたしか東京都(その頃は市)の社会教育局あたりに勤めていた。/やがて、中島極は召集が来て郷里に帰つてゆき、梅崎春生もいつのまにか海軍にひつぱられていつた。『文芸首都』の同人だつた梅崎春生は戦後まもなく『文芸首都』の会合のとき、元気な姿を見せてくれたが、赤坂書店から出ていた『素直』という雑誌に『桜島』を発表して一躍文壇に打つて出た。が、中島極は戦死をし、ふたゝび顔を見ることは出来なかつた。」(藤口透吾「文学小僧二十年」、「芸林」昭29・12)
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【★437】「創生会」:●[記述なし]
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【★438】ブラジレイロ:「一階の中央には円型の池と噴水があって鯉が十数匹放たれており、その上は二階へ吹き抜けとなっていた。テーブルも椅子も高級で、色の濃い十銭のブラジルコーヒーがインテリ連中に受けた。二階は高級食堂で、特別定食三円五十銭という豪華さであったが、これは余り高価なために消えてなくなり、専ら十銭のコーヒーが売りものであった。」(咲山恭三『博多中洲ものがたり』後編)「そのころ、わたしたち文学青年のいこいの場といえば、いまの花の関ビルの手前の川べりにあった「ブラジレイロ」という喫茶店であった。当時としてはもっともハイカラな近代建築で、総ガラス張りになっていて、階下のまん中に泉水があり、丸いテーブルを囲んだ赤い革ばりのイスがあった。ひろかったので、二階では、作品の批評会とか出版記念会などの会合もできた。しゃれたふん気が好きだったので、わたしは毎日でかけていった。たしか、コーヒー一ぱい十銭だったと記憶している。詩を書いていた銀行員の森田緑雨の弟に修二という文学青年がいて、この人が、毎日のようにわたしをさそって「ブラジレイロ」にゆくきまりであった。/そこにゆくと、きまってだれか知った人がコーヒーをすすっていた。なくなった探偵作家の夢野久作、ロシア文学の中山省三郎、それから武田麟太郎と『人民文庫』によっていた平林彪吾と会ったのもここである。人と会うのに一ばん便利だし、コーヒー一ぱいで二時間も三時間もいられるのがありがたかった。/わたしは那珂川を見下ろす川べりのテーブルを愛し、そこにすわってコーヒーをすすり、タバコをふかして、新刊書のページを切るのが楽しみであった。山田牙城や劉寒吉ともたいていここで会い、『九州芸術』とか『九州詩集』の企画をねった。/(略)/「ブラジレイロ」というのは、昭和十九年に疎開で破壊されるまでは、わたしたちのいこいの場であったし、文学青年たちのただ一つのサロンでもあった。そこにゆけば、きっと、知った詩人か、歌人がいて、文学の話をする楽しさがあった。険悪なとげとげしい空気にみちた時代に、そこだけがボタンの花でも咲いたように、ぼうっと明るく、そしてなごやかであった。そこで何回となく話し合いがつづき、第二期『九州文学』が生まれることになったのである。」(原田種夫『実説・火野葦平』)「戦前、戦中の博多の街は学生にとって楽しいオアシスだった。中洲の喫茶店にはブラジレイロ、生田、サニーなどがあり、一杯飲み屋は窓の梅、鉄屋、淀吉。すし店の武蔵、食べ物屋は、おとっちゃんうどんに十五ぜんざい。そのころ酒一合が十銭、サカナは一皿十銭。五円もあったら芸者あげて豪遊が出来た。」(『松陵の日々』福岡大学同窓会社団法人有信会、昭59・11)
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【★439】福岡高等商業学校(福岡大学の前身):昭和9年4月26(27?)日、財団法人福岡高等商業学校設立認可。同年5月10—11日、九州帝大法文学部・工学部棟を借りて第1回入学試験実施。5月13日、合格発表。21日、第1回入学式を福岡県教育会館で挙行。24日、雁林町の九州電気工学校(17年4月九州高等工学校と改称)を仮校舎として開講。6月18日、校友会発足。10年3月31日、福岡市七隈に新校舎が落成し、4月10日、九州電気学校および英数学館の仮校舎から七隈の新校舎に移転。16年7月1日付文部省告示で「高等学校高等科若クハ大学予科ト同等以上ト指定」(*高等文官試験の予備試験免除)19年4月、九州外事専門学校と併合して九州経済専門学校と改称。24年3月10日、福岡商科大学設立認可。26年2月20日、福岡経済専門学校・福岡外事専門学校の解散決議。31年4月1日、福岡大学と校名を改めた。
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【★440】安川敬一郎:1849(嘉永2)年4月17日、福岡城外鳥飼村の生まれ。福岡藩士徳永家の3男。20歳のとき安川家の養子となり、藩費で京都・静岡・東京に学び帰郷。炭鉱業を引き継ぎ、若松築港・赤池炭坑・明治探鉱を創立。明治40年、明治鉱業を設立。さらに安川電機製作所(大4)・九州製鋼(大6)・黒崎窯業(大7)を設立した。一方、明治40年には市立明治専門学校(現・国立九州工業大学)を創立。また政治界にも進出し、大正3年、福岡市から立候補し衆議院議員(1期)、13年、貴族院議員。昭和9年11月30日没。安川第五郎は5男。
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