<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和6年
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 大屋無亭「ひよん笛」連作(「天の川」)久保猪之吉「大隈言道と野村望東尼」(「福岡日日新聞」1日―6日)原田種夫「痴者の唄三篇」・山田牙城「生命を与へよ」・星野胤弘「城南荘随筆 詩心喪失の記」(「銛」1)福田清人「一九三一年の文壇と新人の拠るところ」(「福岡日日新聞」12―19日)2月 『篁林(年刊歌集第七)』(九大医学部短歌会)3月 山田牙城「詩四篇」・星野胤弘「春待つ心」・原田種夫「痴者の唄三篇」・山田牙城「随筆風なる論文三篇」・加藤介春「ナンセンスとナツシング(其他)」(「瘋癲病院」22)4月 原田種夫「痴者の唄五篇」・山田牙城「淫売窟」・加藤介春「扉と声」(「銛」2)5月 加藤介春「子供と大人」・山田牙城「風 外四篇」・原田種夫「千生瓢箪」「獣」「足」(「先発隊」1)6月 福田清人「多良の思出」(「福岡日日新聞」8日―22日)加藤介春「秋日野原」・山田牙城「暗夜殺気集」「立腹恐怖集」・原田種夫「落葉の詩」他(「先発隊」2)7月 一刀研二「荊府」(「九州日報」7日―7年5月7日)8月 加藤介春「斧」・山田牙城「占 外三篇」・原田種夫「業」他(「先発隊」3)久保猪之吉「いかづち館」(「福岡日日新聞」9日)9月 林逸馬「昭和の大衆文壇に活躍する五人男」(「福岡日日新聞」3日―8日)堺利彦「三十五年前」(「福岡日日新聞」4日)久保より江「古い写真から」(「福岡日日新聞」5日―6日)夢野久作(青柳喜兵衛画)「犬神博士」(「福岡日日新聞」夕刊、23日―7年1月26日)山田牙城『詩と絶望の書』(芸術家協会)10月 八波則吉『唱歌作歌法講話』(京文社)11月 〈山田牙城詩集『詩と絶望の書』記念号〉(「先発隊」4)12月 水上一俊(檀一雄)「或家の断層」「晴色」他(福岡高等学校「校友会雑誌」17)山田狂二「博多のわかれ」(「九州」)■この年、竹田秋楼編『博多方言集』(福岡・土俗玩具研究会▲東大総合図書館)
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文学的事跡:1月 原田種夫が個人詩誌「銛」【★384】創刊(1日)。福田秀実らが新短歌誌「るるるる」創刊(*6年2月刊の第2輯で終刊)。2月 九大医学部短歌会が『年刊歌集第七 篁林』刊行【★385】(1日)。長井盛之・福田秀実・畑一実・安部源太郎らが歌誌「るるるる」創刊(*2号で終刊)。3月 詩誌「瘋癲病院」廃刊【★386】(1日)。井手文雄【★387】が九州帝大法文学部経済科を卒業し翌月同大副手に。4月 この頃、一刀(いっとう)研二【★388】が東京から九州に戻り、福岡市内のホテル共進亭で結婚式。5月 斎藤茂吉が来福し、九大短歌会主催で全九州歌会開催(3日)。山田牙城・原田種夫らが詩誌「先発隊」【★389】創刊(10日)。6月 東京左翼劇場が来福し大博劇場で「太陽のない街」公演(14日―15日)、翌日は市内の仏教青年会館で演劇講演会開催【★390】 (16日)。岡松和夫、福岡市妙楽寺町で出生(23日)。7月 真鍋天門の香港赴任に際し、「天の川」同人が歓送句会、織女(妻)・呉夫(長男12歳)も参加(*山田静史「眞鍋天門氏歓迎小集句会」、「天の川」昭6・8)。8月 杉野朴(歌誌「地上」選者)が来福し、短歌結社地上社・ひのくに社同人らが西公園の荒津亭で歓迎歌話会(4日*午後7時30分より)。長井盛之・福田秀実らが福岡歌人大会を県教育会館で開催。9月 明石善之助、福岡市で出生(7日)。吉岡禅寺洞が「釜山日報」俳壇選者を担当。山田牙城詩集『死と絶望の書』出版記念会開催。夢野久作が「福岡日日新聞」夕刊紙上に「犬神博士」連載開始、挿絵は青柳喜兵衛が担当【★391】(22日)。10月 江川英親(詩人)、大分県で出生(8日)。11月 白石一郎、釜山で出生(9日*長崎県壱岐の出身)。長井盛之・福田秀実らが新短歌雑誌「仙人掌(さぼてん)」【★392】創刊。12月 福岡高等学校文芸部主催の福高創立10周年記念懸賞募集、1等賞は檀一雄「或家の断層」【★393】(●日)。種田山頭火が行乞の旅の途次、太宰府天満宮に参詣(27日)。この頃、藤口透吉(透吾)・中島極らが文芸同人誌「群羊」【★394】 創刊(*8年12月「南風」と改題)。
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社会文化事項:1月 東中洲で大火、「京極百貨店」「松居」など全焼(10日*18戸全焼5戸半焼)。2月 九大農学部で火災(10日)。15年ぶりの大雪で市内の積雪5寸(10日)。3月 松居博多織店が元・不二屋デパート別館跡に「博多名産館」を開店(11日)。中央気象台福岡支台が大濠に開庁(22日)。海軍第2艦隊「妙高」他の駆逐艦12隻・潜水艦2隻が博多湾に入港【★395】(25日)。午砲「ドン」廃止(31日)。4月 「サロンアイ」、明治橋通りに開店(10日)。「サイセリア」(大阪美人座博多支店経営)、元・報徳銀行跡(向川端)に開店(11日*6月6日「美人会館」と改称)。「リンデン」開業(26日)。福岡興行組合結成(28日)。朝鮮郵船の大連―博多間航路が就航。双葉保育園開園。5月 軍艦「夕張」が博多湾に入港(14日)。学制頒布50周年記念事業で福岡県教育会館落成式(17日)。博多港修築起工式、築石町の埋立地で挙行(18日)。男爵山川健次郎没(26日)。住吉橋竣工。6月 「サロンツバサ」、東中洲大衆座前に開店(12日)。吉塚うなぎ店(吉塚町)、改装開店(23日)。東京左翼劇場が来福し、南座で公演【★396】。中央気象台福岡支庁開庁(25日)。福岡盲学校舎が完成し、福岡盲啞学校で盲部・啞部の分離式(29日*4月1日付で福岡県福岡聾学校と改称、7月2日分離祝賀懇親会)。中券美誠会舞踊大会、九州劇場で開催(27日)。7月 「カフエー美人座」でボヤ騒ぎ(1日)。福岡市初の防空演習予行演習(灯火管制)実施(1日)。市初の燈火管制(1日―2日)。福岡市役所塔上設置の時報サイレン始動(6日)。博多商工会議所で末永節(みさお)【★397】が演説(7日)。寿橋際に共同便所設置(15日)。北九州防空大演習(16日―17日●18日?)。福岡喫茶店組合結成、清流荘で会合(27日)。「福岡前衛劇団」結成(*8年秋解散)。8月 浴場兼ホテル「楽天閣」が博多東中洲南新地の元那珂川噴泉浴場(休業中)を改築改装して開業【★398】(4日*17年9月18日「大和ホテル」)。「ブラジル」(西中洲)を「水上閣」と改称改装開店(7日)。「川丈座」改装落成、九州一の寄席として開業(22日)。全協本部から山内秀雄がオルグに来福し全協福岡支部協議会結成(*12月7日若松市で全協福岡県支部協議会結成)。プロキノが福岡公演、前衛劇団も応援出演。9月 リンドバーグ夫妻が大阪木津川尻の国際飛行場から名島水上飛行場に到着、見物人3000人【★399】(17日*共進亭ホテルに2泊後、19日上海・南京へ出発)。有吉憲彰編『福岡県郷土叢書』第1輯(東西文化社)刊行(25日)。下須崎町で大火、岩崎組製材所など材木街全焼(26日)。10月 多々良三平(鬼頭鎮雄)『九州帝大人物風景』(国際書院)刊行(10日)。11月 九大生らが箱崎町一帯の下宿料値下げ運動。福岡高等学校「学而寮」命名式(14日)。九大満蒙問題研究会結成、第1回研究会を開催(26日)。九州日報社主催の満洲慰問団出発(*12月9日帰国)。12月 福岡市観光協会設立(1日)。河村幹雄没(27日)。この年、活動写真(映画)人気【★400】。橋詰武生が「都久志」創刊。
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日本・世界事項:1月 田河水泡、「のらくら二等卒」を「少年倶楽部」に連載開始。4月 「オール讀物」創刊。大阪帝国大学創立(30日)。5月 「セルパン」創刊。6月 男爵山川健次郎没(26日)。7月 文部省が学生思想問題調査委員会を設置(1日)。全国労農大衆党結成し書記長に麻生久(5日)。9月 上越線の清水トンネル開通(1日)。満州事変開始(18日)。11月 日本プロレタリア文化連盟(コップ)結成(27日)。12月 「浅草オペラ館」開館(16日)。新宿に「ムーラン=ルージュ」開館(31日)。この年、東北冷害で娘の身売り急増。
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注記 |
【★384】詩誌「銛」:原田種夫個人詩誌。「第1閃」(第1号)は昭和6年1月1日発行。編輯兼発行者は原田種夫(福岡市春吉上寺町)。発行所は「(銛)発行所」(福岡市春吉上寺町)。表紙には「福岡・芸術協会編輯処刊」とある。題字は萩原朔太郎。同年4月1日発行の「第2閃」(第2号)で終刊。
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【★385】九大医学部短歌会年刊歌集:発行人は向田民夫。発行所は九大医学部短歌会。印刷所は関西印刷合資会社、印刷人は天野応助(福岡市上州崎町二〇)。「あとがき」に、「◇我が短歌会が一九三〇年度になした仕事は毎月の例会と五月の聯合短歌会である。聯合短歌会に佐賀の中島哀浪先生を御迎えするを得て盛会であつた事を附記す。」とある。「昭和五年までは、医学部短歌会詠草集として、年二、三回発行し、第六輯まで出してゐる。その前、即ち短歌会結成の当初は、謄写版刷として出してゐたが、之は三、四回ある。」(入江秀雄「序」、『春峡(第十七年刊歌集)』九大医学部短歌会、昭26・2)
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【★386】詩誌「瘋癲病院」廃刊:「思へば、「瘋癲病院」なる名詞は、我々の詩生活四ケ年の道標として、切なる愛着がないでもない、然し誌名を抹殺することはやがて、我々の中なる或物の清算わ遂げ、或物を爆砕し、より真摯なる努力を持つて、よりよき、より義しき方向にまで新らしき建設を遂げむとする、切なる意思のしからしむる所である。今我々の英気は弓づるの如く張つてゐる。/さらば見よ!「瘋癲病院」はこゝに目出度く解脱を遂げ、一の潔き転身を遂ぐる。/古き物の解体は、やがて新らしき建設への必然なる段階ではないか!仮面として役割を果たしたるなつかしき誌名、それをこゝに抹殺することを宣して置く。詩誌「瘋癲病院」は本輯を以つて永遠なる廃刊を遂ぐることを識れ!!その理由は又如上に尽くる。/我々は既に充分なる準備に於てある、本誌は四月、新しき誌名を刻して出現し、より一義的なる文学行動に就く筈である。幸ひに、本誌の廃刊を祝し、やがて鋭気溌剌たる我々の手によつて甦生する、新らしき詩誌の上に期待を乞ふ。1931.1.21」(原田種夫「「瘋癲病院」の廃刊に就いて」、「瘋癲病院」22、昭6・3)
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【★387】井手文雄:●年生まれ。詩人・経済学者。大正14年、佐賀中学を4年修了して佐賀高等学校に進学。昭和3年、同校を卒業し、九州帝国大学法文学部経済科に入学。同6年3月、同校を卒業後、同大の副手に。昭和9年、同大助手。12年、東京高等師範学校講師。15年、横浜高等商業学校講師(16年教授)。25年、横浜国立大学教授。49年退職後、東海大学教授・日本大学教授・大東文化大学教授を歴任した。詩作は福岡在住時代から試みていたが、東京の詩誌「詩と散文」「磁場」「麺麭」などの同人として井上良雄・北川冬彦・神保光太郎らに親炙し、福岡の詩壇とは深いつながりはなかったという(井手文雄「「風に与える」を祝って」、長井盛之全家集『風に与える』長井盛之全家集刊行会、平1・2)。後年、日本詩人クラブ会長詩集もつとめ、詩集に『樹海』『井手文雄詩集』『ガラスの魚』『籐椅子に寄って』などがある。
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【★388】一刀研二:明治33年3月16日、佐賀県三養基郡基山村の生まれ。歌人・漫画家。本名は松隈研二。大正8年、佐賀中学卒。熊本の薬学専門学校に進学したが文学美術への夢断ちがたく一年有半にして退学上京。川端画学校などの洋画研究所を転々とし絵画を勉強。関東大震災後、佐賀民衆新聞社に入社し、また九州社会主義同盟(のち日本農民組合福佐連合会)を結成。舟木千早を伴って再度上京し、昭和3年、三好十郎・壺井繁治・高見順らと左翼芸術同盟を結成し機関誌「左翼芸術」創刊。三好十郎のすすめで書いた小説「冥府から来た女」が「サンデー毎日」懸賞に当選(賞金500円)。雑誌「改造」第1回懸賞小説に「陸地の上の島」で応募したが次点。生活費捻出のため漫画を描いた。「私のそうした作品を一番最初に買って下さったのは忘れもせぬ当時の(苦楽)編集長で現在(博多余情)社長の西口紫溟氏であった。/爾来福岡日々新聞(現西日本新聞)学芸部長黒田静男氏をはじめ多数先輩の方々のお世話の下にどうやら一人前になり、亡妻の卒業と共に帰省してその頃福岡に唯一つしかなかったホテル共進亭で、シルクハットにモーニングと言う、およそ今の私からは想像もつかぬ豪華さで、知名士の方々の祝福を受けて正式の結婚披露を行った。当時報知新聞と国民新聞に連載漫画を、九州日報に連載小説を書いていて私の運命の最高潮時であったように思われる。/だが、運命とは実に非情なものである。二児を得てようやく人生の落ちつきを得たかに見えたが、突如として病魔が妻を襲ったのである。(喘息)という業病であった。/(略)医師のすすめで、昭和十一年遂に生活の一切を放てきして郷里に転地した。」(一刀研二「あとがき」、『萬物流転』)昭和16年1月5日、妻千早没。その後、妻の末妹輝子と再婚。大陸に渡り満洲製鉄(旧昭和製鋼所)に入社、理事長直属の報道班員として宣撫工作に従事。敗戦の翌年、引き揚げ帰国。22年、九州漫画協会を結成し会長に就任。昭和50年7月7日没。歌集『萬物流転』(鶯書房、昭40・5)がある。
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【★389】詩誌「先発隊」:昭和6年5月10日創刊。編輯・印刷は原田種夫、発行・謀議は山田牙城。発行所は芸術家協会(福岡市六本松638山田牙城方)。「瘋癲病院」以来の盟友・星野胤弘は離脱。表紙に「「瘋癲病院」改題第一巻第一号(通巻第二十三冊) 題字 加藤介春氏」と明記する。「「瘋癲病院」は、こゝに「先発隊」と改題、変貌したる第一輯を世に送る。/小誌は盟友星野胤弘去り、今後、同志山田牙城と僕二人の結束に依つて真摯なる進路を辿つて行く、よき友の鞭撻を惜しむ勿れ!/乱れざる歩調、正しき方向、常に剣を構へたる心構へで本気に仕事にうつゝかつて行く、鞭よ鳴れ!鞭よ鳴れ!我らが皮膚に。小誌の誌名「先発隊」ならびに題字は、加藤介春氏に戴いた、こゝに明記して鳴謝する次第。/本輯に限り、寄贈詩誌、詩集の紹介を中止した。新らしき出発である、白紙である。この点よろしく理解ありたい。」(「後記に代えて」、「先発隊」1、昭6・5)昭和8年8月10日終刊。全8冊(通巻第30輯)。「九州詩壇」へと発展的解消。
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【★390】東京左翼劇場の福岡県公演:「左翼劇場は、昭和六年の三月末から四月にかけて市村座で「西部戦線異状なし」を、今度は佐野碩の演出で上演し、五月には築地小劇場で村山知義の新作「勝利の記録」を杉本良吉の演出で上演した。私はそのいずれにも俳優として出演した。/六月には、「太陽のない街」をもつて、新築地からの応援メンバーを加えた大一座で、九州数地区での巡演に出掛けた。/予定では、熊本を振り出しに、博多、若松、八幡、小倉、門司と打つて廻る筈であつた。いずれも地元の労働組合や農民組合などの主催または後援ということになつていた。/ところが熊本では県当局から上演を禁止されたので、やむを得ず博多が振り出しになつた。/六月十四、十五両日の、博多大博劇場での公演はどうやらことなく済み、われわれは次の公演地若松へ乗り込んだが、ここで事件が起きた。/若松での公演の主催者は、「若松沖仲仕労働組合」で、その組合のリーダーが玉井勝則、すなわち火野葦平であつた。(私はこの時初めて葦平さんに会つた)/ところで、初日を前にして、若松警察署は主催者に対して、興行許可を与えることをしぶつているというのだ。熊本の場合とは違い、ここでは福岡県警察部の脚本検閲を通過しているのであり、それだからこそ、博多では既に二日間公演を済ましてきているのである。県警察部の許可したものを、地方の警察署長が不許可にする権限はない。が若松には、サーベルをつつた警察の外に(いや、その上にといつた方がよいかも知れぬ)も一つの、どえらい警察があつた。北九州の大ボス吉田磯吉一家である。この磯吉親分に一睨みされると、警察などは、テもなく縮み上つてしまうほどだといわれていた。(略)/「俺の眼の黒いうちは、俺の膝許の若松で赤い芝居などやらせることまかりならん。絶対に興行を許すな」/という「命令」が、磯吉親分から警察署長宛てに通達されている。」(佐々木孝丸『風雪新劇志—わが半生の記』現代社、昭34・1)「左翼劇場の北九州公演の一行が出発する。私はそれに同行する。一行二十名を越えたから旅公演としては大世帯である。先乗りしているものを加えれば二十五名にはなる。私は知らなかったけれど、熊本も予定に入れていたのが、県庁で脚本に許可を与えてくれなくて、福岡県公演だけとなったのである。博多、若松、小倉、八幡、門司を予定とする「太陽のない街」の巡演である。すべて買取り契約で、博多の二日は有力な未解放部落運動の水平社の受入れで心配ないのであるが、あとは一日ずつで、情報不足のところもあって不安であった。若松は全協(日本労働組合全国協議会)系の沖仲仕組合で、小倉は支持者の自主組織の受入れ、八幡と門司は大衆党系の受入れとなっていた。(略)/博多のあと一日の予備があって、杉本良吉がヨット事件というものを起していた。女優たちをヨットに乗せて博多湾の潮流のため漂流して、水平社の手でモータ船を仕立てて連れ戻すという幕があった。渋い会計の老人が、また余分な三十数円を支払わせられた。(略)/博多の大博劇場の二日は超満員の盛況であった。ただ主催者会計を受持つ老人が極端に手堅く、大量の現金を身に着けてこちらの契約金の完納をしようとせず、私と押し問答になり、囲りからの取り成しでやっと支払われて、私は急いで小倉へ発った。」(宅昌一『回想のプロレタリア演劇』未来社、昭58・9)
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【★391】夢野久作「犬神博士」連載開始、挿絵は青柳喜兵衛:「青柳喜兵衛君は云ふまでもなく帝展派中堅洋画家として既に久しく名声を博してゐる。これに加へて挿絵画家としての青柳喜兵衛の名も中央地方を通じて周く知られてゐるる/その挿絵の描き初めは何の時かを知らない。福岡日々新聞に夢野久作君の「犬神博士」を連載したとき、その挿絵を描き久作の怪奇的浪漫派に調和する名作を添へて江湖の賞讃を博した。このとき久作君嘆じて「挿絵の力に押され気味で筆をすゝめるに苦吟する、」と。その当時、話題に登つた「犬神博士」は、小説も挿絵も気合ひのかゝつた傑作であつた。/次に福岡日日新聞が、我文壇に潔癖と凝り性で鳴らしてゐる十一谷義三郎君の「神風連」を連載したとき、再び青柳君はその挿絵を描いた。十一谷君の凛とした気品のある小説に、巧く調子を合せて「非常時」を背景にした情艶史の挿絵を浪漫的に艶麗に、そして上品さを失はず一年半の長きに亘つて描きつゞけて、読者の間に絶讃を博した。/今、片岡鉄兵君の「皮膚なき顔」に挿絵を描いてゐる青柳君は、現文壇中の才人たる片岡君の才気縦横な表現に対して充分な女房役を勤め遺憾なくその日/\の雰囲気を描き出してゐる。/斯く挿絵画家としての彼を見れば、常に作者の特長に乗じて、その持ち味を助長する為に彩管を渾ひながら、尚且つ自らの個性を失はぬ挿絵を描いてゐる。実に挿絵界に於ける異才と云ふべきである。」(黒田静男「東洋的性格の画人」、「青柳喜兵衛個展目録帖」九州芸術家聯盟事務局、昭11・5・26)
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【★392】歌誌「仙人掌」:月刊短歌誌。主宰は長井盛之。創刊記念会は市内の凪洲屋で開催。橋本甲矢雄・森田緑雨・砥上栄二郎・平野寿太郎・川崎豊次郎・持田勝穂ら39人が参加。昭和7年11月刊の第8号で終刊。
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【★393】「或家の断層」:「その年の秋の文芸部で懸賞小説をぼしゅうしたことがあったが、部長は浦瀬白雨さんでわたしは頼まれてその選にあたって学生の作品を読んでいると、その中に檀君の『わが家の断層』という、変わった表題の短編があった。わたしはそれを一読してこれは出色だと思ったので浦瀬さんにすいせんしたら、浦瀬さんも一読してこれならよかろうということになって、賞金の金十円也は檀君の着服するところとなったわけである。」(秋山六郎兵衛『不知火の記』白水社、昭43・1)
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【★394】文芸誌「群羊」(のち「南風」と改題)創刊:「『九州文化』が生れる少し前の、六年頃に、先駆的文芸雑誌として『群羊(2字傍点)』(それは二年余り続いて後『南風(2字傍点)』と改題)があつた。/同人の顔振れは藤口透吉、篠原誠一、奥田邦男、都築頼輔等であつたが、そのうち小説を頻りに発表してゐたのは藤口透吉である。/(藤口はその後間もなく上京して文学の道に精進し、現在『文芸首都』系の有力な作家であるが、近作『老骨の座』『秋情』『骨肉慙愧』が引続いて芥川賞候補となり、注目されてゐる)/当時、福日の学芸部長であつた黒田静男は、この雑誌の顧問格となり、新聞で紹介、宣伝してやつたりしたので、一時は二百部も予約を受けたが、やがい潰ぶれた。/(外に、同じ頃(*正しくは昭和2年11月)九大から『筑紫文学』等が出たが、一、二号で廃刊し、問題とするに足りない)」(篠山二郎(林逸馬)「九州の文学運動史—初期より昭和十五年末迄」、「九州文学」昭16・12)「中島極は私がまだ福岡にいる頃、『群羊』という同人雑誌をやつていたときの同人で、その頃、橋爪政成(峰絢一郎)、林逸馬、篠原誠一、江頭貢など十人あまりの同人がいた。後に『南風』と改題したが、はじめて『群羊』を出すとき、十一谷義三郎氏が福岡日日新聞に『神風連』を連載するために来福され、東中洲の水野旅館に泊つているのを新聞で見、私はさつそく訪ねてゆき、こんど『群羊』という同人雑誌を出したいので、何か原稿を書いてくれませんかと切り出した。盲蛇におじずとはこのことである。ところが、私は真剣で結局、『純文学と大衆文学との相違点』とか、何とか、質問して筆記をし、それを原稿にしてしまつた。その点で当時、福岡日日新聞の学芸部長をしておられた黒田静男氏を訪ねて、十一谷氏を囲む座談会をやりたいから何とかご後援をおねがいしたいと、これまた、盲蛇におじない申出をした。結局、座談会は十一谷氏が多忙なためお流れになつたが、いま考えると、まつたく冷汗ものである。」(藤口透吾「文学小僧二十年」、「芸林」昭29・12)「私がこれらの仲間と知合いになつたのは、詩人祭の前年昭和八年の夏であつたと記憶する。その晩何気なく中洲の繁華街を歩いていた私が偶々ある喫茶店の店頭で眼にしたのは「群羊座談会」という貼紙だつた。来会歓迎という字につられて、ついふらふらと会場になつていたその店の二階に上つた私は、久しく文学的な友達から離れて暮していたために、そうした雰囲気が懐かしく、急に往年のことなど思い浮かべて参加してしまつた。/しかし、ここに集つていた人達は、私が京都時代に逢つた人たち、例えば南江二郎、半井康次郎、竹内勝太郎、外山卯三郎などと云つた人達に比べたら、ずつと年齢の若い、従つて失礼だが、全体にまだ幼稚な、といつた感じしか受けなかつた。事実私の方がはるかに年かさだつたために、いつの間には私がアドヴァイザーの立場に立たされてしまつた。その仲間には篠原露星、宮原房郎、藤口透吉、中島極、群野一、水ノ江四郎などの諸君がいて、福岡日日新聞社の文芸部長の黒田静男氏が彼らを後援しているということだつた。/私は実のところ、こうした人達に少々物足りなさを感じながら、その熱意にほだされて仲間に加わることになり、この第七輯に『雨と少女達』という短篇を載せた。『群羊』は隔月刊行だつたので、この号が結局『群羊』の最終号で、次の編集会には私の提案で誌名を『南風』と改題し、大いに発展的な活動に盛りあげようと意気組んだ。/『南風』はこんな次第でこの年の十二月二十日群羊改題第三巻第一号として発行され、私はこれに『うきよのはなし』という短篇と「上林暁の『薔薇盗人』を評す」という評論を書いた。しかし改題して大いに意気込みはしたものの、すでに経済的に行きづまつていた雑誌は、その内容も変り映えせぬまま、遂に崩壊してしまい、翌年春には、同人諸君も藤口透吉君をはじめ、中島極、水ノ江四郎などと相次いで上京し、いつとはなく四散してしまつた。」
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【★395】第2艦隊が博多湾に初入港:「大浮城で埋まる/艦隊として最初の入港/市長から歓迎の挨拶/柔かくたそがれてゆく二十五日午後五時——中村司令長官の率ゐる第二艦隊の精鋭・旗艦・妙高を先頭に、第四戦隊那智、足柄、羽黒、松山少将率ゐる第三戦隊青葉、古鷹、後藤少将の第二水雷戦隊鬼怒以下浦波、敷波、綾波、磯波、吹雪、初雪、深雪、白雪、田辺少将の第二潜水戦隊長鯨以下伊号五十六、五十七、五十八、五十九、六十三、五十等の都合二十八隻が、一部の先発艦を除き、薄明りの博多港に、一糸乱れず堂々たる勇姿を現はし、空には颯爽たる銀の鵬翼あざやかに、十数台の海軍機乱舞するうちに、朦艟相次いで投錨、博多湾頭の春の海にぽつかりぽつかりと、時ならぬ浮城を現はし、文字通り空前の偉観・壮観を呈した。/これと同時刻に、久世福岡市長は福博市民を代表して公式訪問し、艦上にも春の新鮮味を盛つてゐる旗艦妙高の司令官室に於て、久世市長より今日艦隊として当市に初めての訪問を受けた歓迎の挨拶をなしたが、甲板・舷側では、元気で無邪気で溌剌とあぶらぎる水兵が、二十六日の上陸を楽しそうに、一々ラツパの音に動くさまも一段と快よさを感じた」(「九州日報」昭6・3・26)
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【★396】東京左翼劇場の福岡公演:演目は「太陽のない街」・「プロ裁判」。入場者数は2日間で約3400名(7割は労働者と農民)。入場料は労働者30銭(平場)・学生50銭(追いこみ)・一般1円(2階)。(*今井慎之介「福岡県の戦前におけるプロレタリア文化運動年表」)
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【★397】末永節:明治2年11月12日、筑前国(現・福岡市)春吉村の生まれ。政治家・言論人。福岡藩士・末永茂世の子で、兄の純一郎は新聞人。節は若き日から海外雄飛の夢をもち、日清戦争の際は新聞「日本」の記者として従軍。明治34年、玄洋社に入社し、黒龍会の結成に参加。大正11年、東京で「肇国会」を結成主宰。昭和35年8月18日没。
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【★398】「楽天閣」開業:「楽天閣開業 博多東中洲南新地に久しく休業中であつた元那珂川噴泉浴場が今回建物内部の大改築を施して甦り楽天閣と改称し浴場兼ホテルを山田鉱●鉄?吉氏が経営で華々しく今四日から開業する事になつたが此楽天閣は浴場を普通湯、上等湯、特等湯の三つに分け特等湯は室附の家族湯で一時間一円とし上等湯は一回十銭で階上に休憩室の設けがあり普通湯は四銭である又ホテルは和洋室間で一泊一円より一円五十銭迄とし食事は随意で大衆向きの食堂の設けもあり外に撞球部には撞球、ピンポン、理髪部、売店等の設備がありこの外に川畔清風の眺望絶佳な貸間があつて二時間七十銭で貸与するといひ全部が悉く大衆的に設備されてゐる今四日は開業と共に落成並に開業式を午後一時から四時迄行ふと」(「福岡日日新聞」昭6・8・4)
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【★399】リンドバーグ夫妻来福:「賑つた福岡名島飛行場/リンデイ夫妻来日/「空の英雄」リンドバーグ大佐夫妻(註・世界最初の太平洋無着陸横断飛行家・米人)は、遂に我等の前にそのさつそうたる勇姿を現はした。/十七日午後四時一分、リ大佐夫妻の愛機ロツクヒードが、名島飛行場の鏡の如き海に水けむり立てて、着水を了した時、福岡飛行場は開場二年にして、初めて「国際空港」の名に実あらしめた訳である。/然も、国際空港初の外人客は、「空の王者」として全世界の人気をあつめる航空大佐・チャールス・リンドバーグと、無線通信士アン夫人である。/されば珍客を迎へる福岡飛行場は、リ夫妻がまだ大阪で天候を見定めてゐる午前十一時頃には、三千を数へる盛況で、三時五十分リ大佐夫妻の飛行機が、真ッ赤な機翼を陽光に輝かせ、立花山を越えて目に入る時から、着水場岸壁や格納庫前広場を埋むる観衆は、旗を振り、万歳を叫んで熱狂した。/夫妻が陸上の人となれば、格納庫に設けた歓迎場では、夫妻は握手また握手の歓迎攻めに会ふ有様であつた。」(「福岡日日新聞」昭6・9・18)
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【★400】博多映画街:「昭和六年秋のころの博多映画街は、東中洲六館に蓮池町の帝国館を加えた七館が競いあった。日活系の寿座、松竹系の友楽館、新興キネマ系の民衆倶楽部、東活の東亜倶楽部、河合系の帝国館は、邦画のの時代劇と現代劇に洋画を加えた三本立を通常番組とし、このほかにパラマウント社直営の洋画専門の世界館と、河合と東活のセカンドラン(再映)の大衆座があった」(能間義弘「福岡市の映画と映画館100年の歩み」、『BACK TO THE MOVIES —福岡市の映画と映画館100年の歩み』葦書房、1995.8.12)
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関連情報 |
詳細
レコードID |
410597
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1931
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和暦 |
昭和6年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |