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福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和5年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 加藤介春「黎明に向つて」(「福岡日日新聞」1日)土屋文明「九州雑詠」(「短歌雑誌」)加藤介春「二つの暴力」・多田不二「大学病院」・加藤介春「三人組の正体」・正富汪洋「シヨオと「瘋癲病院」」・山田牙城「思想芸術の展開と瘋癲病院」・原田種夫「僕と詩誌『瘋癲病院』」・星野胤弘「昭和四年後期に於ける福岡詩壇」(「瘋癲病院」13)林逸馬「女についての断想」(「福岡日日新聞」13日―2月3日)阿部(安部)源太郎『そろばんの珠』(紅玉書店)2月 山田牙城「「こびを売る街」外一篇」・加藤介春「詩界随言」(「瘋癲病院」14)白土古鼎「学生俳句大会」(「天の川」)久保より江「柳坡がこと」(「福岡日日新聞」8日―9日)林逸馬「映画とその道徳主義」(「福岡日日新聞」12日―15日)加藤介春(共著)『現代詩人全集』第7巻(新潮社)3月 棚橋影草「『単一といふこと』に就て」(「天の川」)林逸馬「大虚」(「福岡日日新聞」夕刊、8日―10月14日)松田常憲『好日』(水甕社)4月 花田比露思「南京遊草」(「短歌雑誌」)加藤介春「詩界随言」・加藤介春「無智の勇士」・原田種夫「野獣に帰る」・星野胤弘「曇天の下に」・山田牙城「戯曲 深夜の街上」(「瘋癲病院」15)野村昌樹「一九三〇年三月十日」・平原龍「逆宣伝」・渋谷潤「建設の断面」(「衆像」)〈芝不器男君追悼号〉(「天の川」)福田清人「最近文壇の傾向」(「福岡日日新聞」7―14日)水守亀之助「九州ところどころ」(「福岡日日新聞」16日―19日)5月 山田牙城「百貨店」・星野胤弘「気紛れな季節」・原田種夫「抒情詩二篇」・山田牙城「池田某に教ゆ」(「瘋癲病院」16)6月 山田牙城「美くしき野獣」・原田種夫「夜鴉」・加藤介春「路上三章」・山田牙城「文学白痴派の爆撃」・原田種夫「否型の芸術を駁す―プロ詩派が痴態への抗議」(「瘋癲病院」17)林逸馬「「大虚」の映画化」(「福岡日日新聞」16日―19日)8月 〈織久順作追悼号〉(「瘋癲病院」19)10月 〈生田春月批判号〉・加藤回春「青い羽虫」・山田牙城「人生三部曲」・星野胤弘「自然は怒る」・原田種夫「痴者の唄二篇」■この年、秋山六郎兵衛『受験病患者』(考へ方研究社▲国会図)
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文学的事跡:1月 織坂幸治(詩人)、福岡市で出生(1日)。芸術家協会主催の文芸講演会、加藤介春の斡旋らより福岡日日新聞社講堂で開催、講師と演題は柴田武福「ラ・ポエムの生活相」・横山美智子「女性と文学」・福田正夫「詩を語る」・秋田雨雀「最近のロシヤ文学の諸流派」(12日*午後1時―4時30分、午後6時30分福岡図書館楼上で歓迎座談会)。安部源太郎歌集『そろばんの珠』出版記念会、福岡市内のフルーツパーラーで開催(12日)。2月 山埜井喜美枝、旅順で出生(5日)。「天の川」同人の芝不器男【★370】が福岡市庄の安養院前の仮寓で死去(24日)。詩誌「衆像」2巻4号、反軍主義的記事のため安寧禁止で発禁(29日)。3月 渡辺啓助が九州帝大を卒業し、翌月福岡県立八女中学に赴任。福岡高等学校左翼学生ストライキ処分で檀一雄は停学1年。4月 井上靖【★371】が九州帝大法文学部に入学。北垣一柿(馬場駿二)【★372】 が九大医学部に入学。岸秋渓子【★373】が福岡高等学校文乙に入学。板橋謙吉【★374】が福岡高等学校に入学。福永武彦が東京開成中学に入学し、中村真一郎と同級生に。柿添元が八女中学に入学。福田秀実が福岡市立奈良屋尋常小学校に赴任。5月 詩誌「衆像」に拠るプロレタリア派と詩誌「瘋癲病院」に拠る芸術派の間で論戦【★375】。長井盛之・福田秀実らが九州新興歌人連盟を結成し、機関誌「火山脈」創刊(*5年7月刊の第3号で終刊)。北原白秋が八幡製鉄所歌作詞の依嘱を受け九州旅行、柳川・船小屋・唐津・呼子・南関に立ち寄り帰京。6月 織久順作【★376】没(24日)。那須博(詩人)、福岡市で出生(25日)。8月 俳優坂東蓑助が舞踏後援で来福し、吉岡禅寺洞・三宅清三郎らが市内蓮池の「可楽庵」で歓迎句会。9月 境忠一(詩人)、大牟田市で出生(16日)。11(●10)月 大阪毎日新聞主催「名勝俳句募集」宣伝のため高浜虚子が来福し、吉岡禅寺洞らと市内今泉の仏教青年会館で講演会(23日)。虚子歓迎句会を「天の川」「木犀」同人らが香椎花壇で開催。12月 第2回学生俳句大会を福岡日日新聞社講堂で開催し、久保猪之吉・吉岡禅寺洞・安田某福高教授が講演(7日)。この年、林逸馬が福岡日日新聞社に入社。清原枴童が朝鮮木浦(もっぽ)に渡り木浦新報社に入社、「南鮮俳壇」選者をつとめる【★377】(*13年8月帰福)。この頃、文芸同人誌盛行【★378】。
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社会文化事項:1月 東中洲の明治製菓でレコードコンサート開催(19日)。西日本映画協会、福岡日日新聞社講堂で発会式、「ノアの箱船」(ワーナー)を試写(25日)。川丈主人の長尾寅吉が元・福岡日日新聞社屋(須崎土手町)を買収しホテルに改造着工(30日*「福岡ホテル」と命名)。九州日報社の清水芳太郎が市内薬院に「清水理化学研究所」【★379】設立。2月 「帝キネ倶楽部」閉館(1日*帝キネ映画は喜楽館で上映)。3月 日本航空輸送会社の福岡―上海間試験飛行(7日*所要時間4時間49分)。「サロン眸」、中新道寿通りに開店(22日)。名島飛行場【★380】開場式(27日)。大濠公園(県営)完成【★381】 。「バーエトアール」、中洲券番南通りに開店(28日)。「バー(カフエー)でかめろん」、東中洲帝キネ北通りに開店【★382】(29日)。4月 西口紫溟・吉田鞆明が「福岡毎日新聞」を創刊。春頃、「新築地劇団」が来福し福岡公演【★383】。5月 河村幹雄が「斯道塾」を下警固六軒家に開設(10日*12月柳原町1丁目に自宅兼塾を新築)。足立自転車店(中島町)開店10周年記念愛用者招待園遊会、奈多海岸で開催し300人が参加、自社自転車「斉田号」発売(13日)。福岡市下水道工事起工式(20日)。福岡商業学校新築落成(20日)。福岡洋画会を「竹童社」と改組改称。6月 第12代福岡市長に久世庸夫が就任(17日)。「バー冨士」、寿座通りに開店(17日)。精肉店「いろは」、上川端町に開店(19日)。7月 イロハタクシー(山本弥平社長)が創業3周年祝賀会を片倉ビル共進亭で開催(25日)。英国軍艦「ヘリック」号が博多湾に入港(30日)。西口紫溟が「日刊家庭毎日新聞」創刊。8月 「不二屋デパート」が閉店セール開始(6日)。博多自動車㈱(徳永勲美社長)創立(10日)。「福岡ホテル」(長尾寅吉社長)が開業(30日)。9月 軍艦「由良」「長良」「川内」「迅鯨」他が博多湾に入港(7日)。軍艦「鬼怒」他駆逐艦12隻が博多湾に入港(15日)。10月 第3回国勢調査(1日*市内人口は男114818人・女113471人)。大相撲福岡本場所、須崎裏運動場で開催(10日)。材木町で大火(12日*少林寺他11戸全焼)。仏教青年会館で教育勅語渙発40周年記念式(30日)。月末頃、清水芳太郎が九州日報社を退職。11月 児島善三郎歓迎会を東中洲の明治製菓2階で開催(19日)。「カフエーアジア」が東中洲に移転し新築開店(23日)。原三信病院新築落成式(30日)。12月 竹童社絵画展(九州日報社後援)、西中洲の大同生命楼上で開催(3日―7日)。日本放送協会(NHK)福岡演奏所が福岡放送局へ昇格し、西中洲博多商工会議所楼上で開局式典のあと福岡制作局作成番組放送(6日)、契約台数は翌年3月で約12000弱。「本興座」を「世界館」と改称開館(6日)。郷土雑誌「うわさ」創刊(6日*社長は寺田弘、主筆は梅野耿明)。「本興座」を「世界館」と改称開館(6日)。「帝キネ倶楽部」を「大衆座」と改称開館(9日)。「柳座」、新柳町に開業(13日)。「美人座」が明治橋通りに開店(13日)。「サロン春」、東中洲に開店(15日)。「台湾物産フルーツパーラー」東中洲支店が東中洲に開店(26日*階上は麻雀くらぶ)。この年、光安浩行らが洋画研究所「美生社」を開設。
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日本・世界事項:1月 ロンドンで海軍軍縮会議開催(21日)。2月 普選第2回衆院選挙、浅原健三当選(20日)。「北方教育」創刊。3月 谷口雅春、生長の家を開教(1日)。中村武羅夫ら新興芸術派倶楽部結成(15日)。帝都復興祭(24日)。4月 「短歌建設」創刊。5月 共産党シンパ嫌疑で東大経済学部助教授山田盛太郎・同法学部助教授平野義太郎・法政大学教授三木清を検挙(20日)。大阪のカフェが銀座に進出し、女給が濃厚サービス、横浜でキスガール出現。堀辰雄・井伏鱒二ら文芸誌「作品」創刊。6月 北川冬彦ら「詩・現実」創刊。8月 プロレタリア教育運動機関「新興教育研究所」(初代所長は山下徳治)創立(19日)。9月 ●「ナップ」創刊。10月 台湾で霧社事件(27日)。「モダン日本」創刊。11月 富士紡川崎工場ストで煙突男(16日)。この年、自殺者急増(1万3942人)。映画「何が彼女をさうさせたか」(帝国キネマ)「西部戦線異状なし」、紙芝居「黄金バット」、流行語はエロ・グロ・ナンセンス、ルンペン、銀ブラ。
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注記 |
【★370】芝不器男:芝不器男は前年(昭和4年)8月、肉腫のため来福して九大附属病院後藤外科に入院手術。後藤外科には俳誌「天の川」同人の松下鷲巣が勤務していた。12月に退院し、三宅外科に勤務する横山白虹らの世話で福岡市庄の仮寓に静養中だった。「芝不器男君は明治三十六年四月十八日、愛媛県北宇和島郡明治(アケハル)村松丸、芝来三郎氏の四男に生れ、三人の兄と二人の姉あり。/松丸小学校より宇和島中学校へ進み四年修了にて、松山高等学校を卒業、続いて東京帝大大森林科に入学したるも志を変じて仙台東北大学工科に転校し機械科を修む。俳句は同大学在学中より最も熱心に研究をはじめ、大正十四年冬より天の川にその作品を投ずるに至る。/夙に山岳登攀の選手として梟名あり、これ碧落坤霊の悠久に富む作品多き所以なり、業を卒へて後郷里にあり、昭和三年四月同郡二名村大内太宰家の養嗣子として入家、太宰孫九氏の長女文子氏と結婚、昭和四年夏病を得、八月福岡市九大附属医院後藤外科に入院、病名肉腫と決診、爾来療養思はしからず、十二月同市庄に移居、五年二月二十四日午前二時十五分、二十八歳にして永眠した。文子夫人(二十四歳)との仲に一子なし。」(「閲歴」、「天の川」第12巻第10号、昭5・4)
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【★371】井上靖:「四高を出ると私は九大の法文学部に二年間籍を置いたが、この期間、私はほとんど東京で過ごした。駒込の植木屋の二階に下宿し、駒込中学の校庭でテニスをやったり、気ままな読書をしたり、詩を書いたり、じつにのんびりした二年間をおくった。(略)それから私は京大へはいった。私はもともと京都大学の哲学科志望だったが、高校が理科だったため、欠員のない限り入学が許されず、しかたなく九大の法文科にはいったのであった。ところが三年目に京都大学の哲学科の志望者が定員に満たず、理科出身者でも願書さえ出しておけば入学できるということを知り、私は改めて京大へ移る気になったのであった。」(井上靖「私の自己形成史」)「私は九大に二年籍を置いた。三カ月ほど福岡の唐人町のしろうと屋の二階に置いてもらったが、試験だけ受ければ卒業できることを知って、福岡を引き上げ、東京へ移った。」(井上靖「青春放浪」)
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【★372】北垣一柿(馬場駿二):●昭和57年1月●日没。「私は昭和五年に九大医学部に入学した。九大には古くから九大俳句会という会があって、吉岡禅寺洞の指導をうけて「天の川」につながっており、しかも、その中心は医学部の学生によって占められていた。横山白虹、坂東章、大宅無亭、白土古鼎、棚橋影草等がその中心にいた人々であるが、昭和五年には、みんな卒業していて、私はひとりぼっちであった。/私は昭和七年の春頃から、天の川編集部に入って、仕事を手伝うようになった。「天の川」の編集部には、由来、学生が多くいた。九大や西南学院やの学生が禅寺洞をとりまいていた。ある時代のその中心が白虹であり、影草であったというように、九大医学部の先輩が編集主任の役をおのずからしていたようである。昭和七年のその頃は、横山白虹はもうあまり出入りしていなかった。中心は棚橋影草になっていたように思う。多少の時間のずれはあるかもしれないが。」(北垣一柿「「天の川」と新興俳句」、「薔薇」昭31・8、のち『吉岡禅寺洞覚書』三元社、昭56・1)。
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【★373】岸秋渓子(秀一):明治37年3月23●28日、福岡県宗像郡南郷村野坂(現・宗像市)の生まれ。俳人。本名は岸秀一。昭和5年春、鞍手中学を卒業し福岡高等学校文科乙類に入学。8年春、東京帝大文学部宗教史学科に入学。卒業後、門司高等女学校で教壇に立ち、以後、県内の稲築高校・東筑高校・戸畑高校の校長を歴任。昭和53年3月26日没。昭和14年から句作を開始し、29年、俳誌「雲母」同人。句集『日輪』(雲母社、昭37・5)『道』(竹頭社、昭41・7)『花野』(竹頭社、昭47・6*妻・美江と共著)遺句集『四温の石』(竹頭社、昭54・2)追悼文集『春落集』(私刊、昭54・3)がある。
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【★374】板橋謙吉:明治44年12月23日、岡山県笠岡市の生まれ。詩人。松浦亀太郎・タミの4男。大正12年、父親が亡くなり、福岡市在住の異父姉夫婦の板橋武雄・雪枝に引き取られた。13年、福岡中学に入学したが、15年、大阪・京都へ家出し、福岡中学は退学。昭和3年、立命館中学に編入し、この頃から文学に親炙。5年、再度異父姉夫婦の援助を得て、福岡高等学校に入学。翌年、異父姉夫婦の養子となり板橋姓を名のる。7年、同人誌「カイム」創刊。8年4月、京都帝大に入学し、同年5月滝川事件、治安維持法違反で検挙された。9年、第1詩集『第一紀層』上梓。11年、京大を卒業し、福岡日日新聞社に入社、熊本支局に勤務したが、上司と衝突し数箇月で退社。上京し、資生堂に就職。15年、病気のため資生堂を退社し、翌年日本ステンレスに就職。17年以降、職を転々とし、22年帰福。福岡県福岡地方労働委員会事務局に勤務し、24年、小島直記らの第三期「九州文学」に参加。28年、「九州作家」創刊同人。「詩科」創刊同人。37年、北川晃二・中村光至・牛島春子らと文芸誌「現代作家」創刊。40年、福岡県総務部県史編纂室長。45年、県庁退職。49年、福岡県須恵町立歴史民俗資料館館長に就任(翌年退任)。56年7月10日、脳内出血のため急逝。『秒のなかの全て』(南風書房、昭58・3)巻末に板橋旺爾編年譜がある。
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【★375】「衆像」vs.「瘋癲病院」:「衆像」昭和5年1月号掲載の池田元治の詩「妻よ、近き日だ」について、「瘋癲病院」第14輯(昭5・2)誌上の「検鏡室」欄で「鴉」(山田牙城)が酷評——こんな文字の陳列が詩とは凄まじい。まあ一種の宣伝ビラですなあ。赤大根、出直して来給へ。恐らくは同志が聞いて泣くだらう。——。これに対して池田元治が反駁(●未見)。これを受けて山田牙城は「瘋癲病院」第16輯(昭5・5)誌上に「池田某に教ゆ—彼れの逆上したる迷論の啓蒙として」を発表。「「衆像」誌上に於ける彼れの余に対して発せられた迷論は逆上し興奮し故なく血迷つて取りのぼせたる早発性痴呆症患者の痴愚にして弱々しき憫笑にまで値するものとして近日論戦に飽和されたる余の啓蒙心にまであるかなきかの興味を感起した。斯る痴態の限りをつくしのぼせ(3字傍点)上つた世迷言に於て論戦の好意を示し啓蒙のペンを振ふ大人気なさを知り又盲目蛇におじずとうろう(7字傍点)の龍車に歯向ふが如き彼れの態度を苦笑すると謂共一度此等芸術的に幼弱なる徒輩の啓蒙のペンを握りたる以上その迷論を啓蒙するの意味に於て再び怠屈なる論議を展開しやう。」云々と縷説し、原田種夫も同誌に「劣脳の徒への弔文—池田某が半馬鹿文(反駁文)への嘲文」を併載。第17輯(昭5・6)でも、山田牙城「文学白痴派の爆撃」、原田種夫「否型の芸術を駁す—プロ詩派が痴態への抗議」を掲載している。
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【★376】織久順作:詩誌「瘋癲病院」第19輯(昭5・8)は「織久順作追悼号—遙か詩人順作が霊に捧ぐ」。織久順作の詩(山田牙城選「夢。竹。猫。集」・「抒情篇」・「幼年追憶篇」・「小曲集」)・論文(「平和なる激文—公式的な基督への未熟なる発掘」)・日記(1928年—1929年)・年譜・山田牙城「詩人織久順作の死を凝視しつゝ」・星野胤弘「織久順作君の印象」・原田種夫「孤独の行者織久順作に就いて—今は亡き詩人順作が霊に」。年譜(原田種夫編)によると織久順作は明治35年3月15日、鳥取市の生まれ。本名は正男。志賀直哉「大津順吉」の「順」を借りて筆名とした。別名は李文叔。2歳のときから各地を転々とし、舞鶴・敦賀・岐阜・津・静岡・岐阜・広島・山口をへて福岡市に居住。大正5年、15歳のとき西南学院中学部に入学。吃音で孤独癖あり、文学と思索に沈潜。同級生に原田種夫がおり、愛唱するハイネ詩集が縁で親交を結んだ。大正10年中学部を卒業し、翌年高等部文科に進学。文芸部に所属し部誌「西南」に詩を発表。「大正十四年/当時悲痛なる運命的破綻より、激越の厭世者たりし原田種夫を、強ひてその書斎にて説伏し、共にカフエー・パウリスターに於ける福岡詩人の会合に列席し、次でその会合の成果として「福岡詩歌社」の生誕するや、原田と共に準同人となり、その機関誌「心象」に、ポーの「詩の原理」の訳、及び自らの作品を発表」。15年春、西南学院高等部文科を卒業し、単身上京。同年7月、徴兵検査のため帰郷し、尋常小学校の代用教員となるが翌年3月までで失職し、以後「貧乏と孤独と寂寞の中に歯がみつゝ、病臥せる胃癌の父を看護し、且つ家業(*福岡市勝立寺新町の飲食店)を手伝ひて労働す」。昭和3年8月、「瘋癲病院」創刊に参加。11月11日父親が死去。4年5月、肺患に罹り、8月、「信友、原田種夫と思想的背馳より訣別」。10月病臥し、翌5年6月24日没。遺骨は福岡市安国寺に埋葬。数年後、母親・るいも自宅寝室でガス自殺した。
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【★377】清原枴童が木浦新報社に入社:自筆略歴によると清原枴童は「昭和三年東京に移居、同五年朝鮮木浦に住居、同十三年福岡に転住」((自筆略歴、麻田椎花編『ホトトギス同人句集』三省堂、昭13・12)。原三猿子(大正3年9月18日福岡県浮羽郡吉井町の生まれ。本名は徹。俳人。昭和10年9月渡鮮し木浦新聞社に入社)の回想「俳諧春秋」(『句集 夏萩』新樹社、昭52・1)に、「大正十三年二月、朝鮮木浦府(現在木浦市)の公立小学校に出向。木浦在住の村上星洞、井上兎径子、朴魯植らと相諮り清原枴童を擁し俳誌「かりたご」を発刊」、「昭和十年九月、渡鮮、木浦新報社に入社。同社文芸部長は、清原枴童。爾来、枴童の指導を受ける。村上星洞、井上兎径子らの知遇を受く。のち同社編集長となる。/○/昭和十三年八月、清原枴童病のため木浦を離れ福岡へ帰らる。三吉野旅館にて惜別句会」とある。
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【★378】文芸同人誌盛行:「福岡県下で月刊の無保證出版物届出は十月中に二百廿五の多きを数へ、うち商報、日報等を除けば約四割は文芸ものゝ同人雑誌と云つても敢て誇張ではない〔。〕その多くは十四五ページ、廿ページを出づるものは少なくなかには表裏四ページ位のあつけないもの、絵表紙商業広告入りの堂々たるものもあればプリントの消えがてに読みづらい貧弱なものもある。頒価は大抵十銭内外、会員組織の非売品もあるが卅銭を出づるものは皆無と云つてもよい。/(略)/先づ俳句雑誌の『天の川』『火の国』詩の『瘋癲病院』等は同人雑誌であつても既にそのあるべき範疇を止揚して中央の詩俳壇に対して一種の権威と知己とを有してゐる。瘋癲病院のもつ蒼白芸術、薄暮芸術、浪漫美学等は如何にも世紀末的な畸型的芸術的存在として既に一般的認識を持つてゐる。/福岡市金文堂書店によつて聴けば同店取扱ひの同人雑誌も十数種に上つてゐる〔。〕そのうち九大法文学部中心の『筑紫文学』は年四回発行でさすがに帝国大学からの出版物らしい重厚さを持つてゐる。/同じく『能古』はその装幀に於いて同人雑誌中に断然豪華版たる地位を与へらるゝ俳句第一主義誌である。その他に福岡文芸、女人運動、火山脈、新興詩人、黒潮、文芸、背振、世紀文学、俳句前衛等新らしいところでは文芸双曲線、素描等がある。旻芬、萌芽等は未だあるか知ら。久しくその名を聞かぬ姿を見ぬ。プロフヰル、スタンチオンなどと云ふ名の雑誌もある筈だ。/これらがみな意識的にか無意識的にかブルジヨア文芸の城塞を守つてゐるのに対して今流行のプロ文学のがさつさ(4字傍点)に劣らぬ気焔を上げてゐるものに階級戦、前哨、農民等がある。階級戦(3字傍点)は九州全産業労働組合の同人によつて表面的には戦旗派(3字傍点)を支持してゐる。以上は福岡市中心に発行さるゝものゝみである。」(佐藤京之助「一握の砂?—同人雑誌風土記」、「九州日報」昭5・11・28—29)
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【★379】清水理化学研究所:清水芳太郎の主張によるとコロンブス以来の「地球の量的探見」の時代は完成し、今後は「地球の質的探見」の時代が到来する。ことに土地も資源も乏しい日本にあってはこれは必須の要件だとして科学技術による生活難の克服を説き、「独自の科学的発想でロータリーエンジン、ジェットエンジン、消えるインキ、灸点探索器、高圧鍋、高速無音機関銃、長距離飛行機の開発に取り組む。」(『福岡県百科事典』石村貞雄担当執筆)。*平井一臣「地域ファシズム運動のイデオロギー—清水理化学研究所と「技術」・「科学」思想」(「鹿児島大学「社会科学雑誌」13、1990.9」同「政党内閣期の国家主義者—清水芳太郎の場合」(鹿児島大学「社会科学雑誌」16、1993.9)参照。
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【★380】名島飛行場:「政府は昭和二年度予算に国際飛行場の設置費を計上し、第一期計画(昭和二・三年度完成)として、設置場所を名島海岸に決定したのが、昭和二年十二月で、東邦火力発電所の北側陸地五千七百坪、埋立地二千五百坪(地盤の高さ満潮面より四尺)埋立地の四周水面三万坪に安全区域を設定、更に第二期計画として海岸九万坪の埋築を予定し、昭和三年八月一日起工、四年三月二十五日飛行場約七千五百坪が竣工した。同飛行場に併設の福岡航空無電局も、総工費十万円の予算をもつて、三年十一月三日起工、四年六月末竣工、五年三月開場ならびに開局式があげられた。」(『西日本新聞社史』)
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【★381】大濠公園完成:●新聞参照 娯楽施設は貸船(ボート・スカール・和船計50艘)・釣魚場。園内施設は水泳場(長さ50米・幅16米、観覧席2500席)・競漕場(長さ600米・幅50米)・野球場(仮設)・庭球場(コート2面)・児童遊園(運動遊具・砂場等)。
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【★382】バー(カフヱー)でかめろん:「福岡の心臓、東中洲に「でかめろん」と云ふ「街の休憩所」が三月某日から出現する。久米正雄の名附けた「カフヱー」で、芸術家、映画人等々のクラブである。奇抜な変つた一九三〇年の尖端を往くであろう、カフヱー「でかめろん」に期待をかける。」(星野胤弘「鴉片室」、「瘋癲病院」15、昭5・4)
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【★383】新築地劇団の福岡公演:「「新築地劇団」が福岡に来演したのは、一九三〇年春である。「新築地劇団」は「築地小劇場」が分裂したさい、脱退組によつて結成されたもので、プロツト(*日本プロレタリア演劇同盟)加盟の劇団としてプロレタリア演劇の道を歩むのである。「新築地劇団」の福岡公演(南座)は、たしか同劇団地方公演最初のものであり、また、福岡におけるプロレタリア演劇の最初の上演であつた。出しものは、藤森成吉「何が彼女をそうさせたか」と落合三郎「筑波秘録」で、満員の観客を熱狂させた。この公演には、「自由舞台」の同人がエキストラで参加した。「新築地劇団」はまた、若松でも公演し、これには玉井勝則(のちの火野葦平故人)や河原重巳ら「街頭座」の同人が、やはりエキストラで出演した。」(今井慎之介「福岡県の戦前におけるプロレタリア文化運動(おぼえ書)」)
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関連情報 |
レコードID |
410596
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1930
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和暦 |
昭和5年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |