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福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和4年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 〈昼間の月批判〉・芸術家協会調査部「昭和三年度の福岡詩壇」(「瘋癲病院」4)横山白虹「白土古鼎論」(「天の川」)秋山六郎兵衛「文芸と形式と」(「福岡日日新聞」14日―19日)夢野久作「押絵の奇蹟」(「新青年」)2月 山田牙城「蒼白芸術に就て」・原田種夫「山田牙城論」(「瘋癲病院」5)3月 山田牙城「蒼白芸術の根本原理」・原田種夫「浪漫美学原論」(「瘋癲病院」6)杉山茂丸『俗戦国策』(大日本雄弁会講談社)林逸馬「新大衆文芸の理論」(「福岡日日新聞」23日―25日)杉田久女「俳句と近代女性の内面生活」(「福岡日日新聞」26―29日)4月 山田牙城「幻想主義論(未定稿)」・原田種夫「詩人と衆愚の背反」・山田牙城「詩的性格学(1)」(「瘋癲病院」7)5月 加藤介春「媚薬」・山田牙城「試論二つ」・原田種夫「悲観主義の原理」・星野胤弘「廃坑風景」(「瘋癲病院」8)林逸馬「時代映画の新傾向」(「福岡日日新聞」9日―11日)西岡水朗『民謡集 片しぶき』(全日本民謡詩人聯盟)6月 山田牙城「蒼白芸術二篇」・原田種夫「浪漫美学三篇」・加藤介春「女らしからず」・原田種夫「詩壇に於ける悪流行に就きて」(「瘋癲病院」)安部源太郎編『九州口語歌集』(●)7月 加藤介春「薄暮風景」・浦瀬白雨「凪」・星野胤弘「憂鬱な風景」・原田種夫「人間風景」・加藤介春「詩のジヤズ化」(「瘋癲病院」10)小堀甚二「プロレタリア芸術運動理論」(『プロレタリア芸術教程Ⅰ』世界社)8月 加藤介春「野にて」・浦瀬白雨「屁二題」・星野胤弘「風」・山田牙城「模倣と独白(別名「天才と非天才」)・原田種夫「あくびずむ(奇異なる論文)」(「瘋癲病院」11)河西春海「時代の踊子」(「福岡日日新聞」夕刊、1日―5年3月7日)『九州詩集1929年版』(全九州詩人協会)9月 佐久間鼎『国語音声学講話』(同文館)10月 岡茂政「郷土人としての白秋」(「福岡日日新聞」3日)花田比露思『歌に就ての考察』(紅玉堂書店*再刊)12月 林逸馬「最近抬頭したるプロ映画について」(「福岡日日新聞」4日―23日)福田清人「新文学の表現に就て」(「福岡日日新聞」25日)
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文学的事跡:1月 「福岡日日新聞」が大衆文芸長篇小説公募(4日)。原田種夫らの芸術家協会が企画し、大博劇場に来演中の岡田嘉子・竹内良一を囲む座談会、カフェーブラジルで開催(6日*午後1―3時30分、来会者数十人)。筑紫義郎(本姓は重松)、福岡市で出生(14日)。福岡高等学校生の檀一雄が寮の文学仲間と同人誌「髑髏」創刊。長井盛之らが九州新短歌人連盟結成。3月 平光吾一【★352】が九大医学部に赴任(30日)。4月 白水吉次郎没(5日)。天野健次・金子善次郎が詩誌「舗道」創刊。「天の川」同人の入沢禾生が京城へ転居。5月 福岡高等学校公開弁論大会開催、檀一雄「軟文学への宣戦」(24日)。北原白秋が帰省し柳川・南関ほか各地を訪問、太宰府・観世音寺・水城を訪ね、加野宗三郎【★353】の別邸「還水荘」(雑餉隈)に逗留。6月 安部源太郎【★354】編『九州口語歌集』出版記念会(5日)。長井盛之・福田秀実ら西中洲のカフェーブラジルで第1回九州新短歌総会開催。「福岡日日新聞」、前年8月募集の懸賞小説入選発表、1等は該当作なく2等に河西春海(横浜市)・林逸馬(九大大学院生・福岡県宮ノ陣村)・四宮ハナ(福岡市)が入選(30日)。8月 山田牙城・原田種夫らが「全九州詩人協会」を結成し『九州詩集 1929年版』を刊行(10日*30日カフェーブラジルで出版記念会【★355】)。芝不器男が九大附属医院後藤外科に入院。与謝野鉄幹・晶子が来福し、雑餉隈の「還水荘」に滞在。崎村久邦、福岡市で出生(●日)。9月 文芸誌「情熱時代」創刊ならず【★356】。片瀬博子、福岡市で出生(18日)。第2回「詩展(詩の展覧会)」(芸術家協会主催)開催【★357】(21日―23日)。10月 芸術家協会による「詩と音楽の夕」開催【★358】(2日)。渋谷潤(喜太郎)・林衛(今井慎之介)らが詩誌「衆像」【★359】(福岡金文堂発行)創刊、毎月1回文芸座談会を凪洲屋で開催。11月 岩井護(小説家)、福岡県飯塚町で出生(7日)。吉岡禅寺洞が大阪での第3回関西俳句大会に出席し、講演「単一といふこと」(23日*講演要旨は「山茶花」昭和5年2月号に掲載)、翌年の「天の川」3月号の裏表紙には「俳句の変動は、常に単一の軌条に還る。禅寺洞」と印刷。萩原井泉水が来福し、福岡女子専門学校で講演、仙厓の遺墨を見に幻住庵を訪問。12月 九大俳句会主催の第1回学生俳句大会、福岡日日新聞社講堂で開催【★360】(1日)。芝不器男の仮寓に吉岡禅寺洞・横山白虹・白土古鼎らが集まり小句会(29日)。この年、加藤介春、福岡日日新聞社に入社。この頃、古賀一らが「福岡文芸」【★361】創刊。武田幸一・浅田福生らが福岡童謡民謡協会を結成し機関誌「せふり」創刊【★362】。
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社会文化事項:1月 旬刊ゴシップ誌「博多新聞」【★363】創刊。3月 榊保三郎没(19日)。日本航空輸送㈱が発足し、西公園下の日本航空会社水上機基地(週3回定期飛行郵便)を閉鎖して太刀洗飛行場の仮社屋に移転(31日)。4月 早良郡原村・樋井川村を福岡市に編入【★364】(1日)。福岡市会、動植物園候補地は東公園と決議(4日)。加藤司書銅像(西公園)除幕式(13日*戦時中供出)。4・16事件で県下の検挙者は九大生の吉田法晴ら57人(16日*20人が起訴、うち15人が公判)。5月 元・日本蓄音機商会博多支店長の土屋寛が東中洲の有楽館横にレストラン「花輪」開店(23日)。この頃、大庭憲郎・高口哲夫らが九州地方全産業労働組合(全産)結成し、タブロイド版の機関紙「全産ガセツタ」創刊。高口哲夫ら印刷関係活動家が「福岡技工会」(のち九州印刷労働組合)結成。東中洲で大火(29日*6戸全焼2戸半焼)。6月 大衆党(浅原健三)系の福岡印刷労働組合創立大会(15日)。中野正剛、浜口内閣の逓信政務次官に就任のため九州日報社長を辞任(*翌月新社長に河野次郎が就任)。7月 「フルーツパーラー」(岡山吉英商店)、掛町岩田屋通に開店(1日)。福岡市外に日赤福岡支部が結核療養施設「今津療養院」(現・今津赤十字病院)開院(10日)。日本航空輸送㈱、福岡(陸軍太刀洗飛行場)―大阪―東京間に定期旅客輸送営業を開始(15日)。「フルーツパーラー」(台湾物産㈱)、片土居町電車通りに開店(17日)。福岡県水産試験場建物が須崎裏に竣工し落成式(18日)。8月 不二屋デパートで従業員スト(3日*即日解決)。菊竹六皷が福岡日日新聞社副社長兼主筆に就任。原志免太郎が東中洲博多川沿い(古川写真館跡)に灸法科医院を開業(12日)。青柳喜平【★365】没(25●27日*青柳喜兵衛の父・武術家)。9月 東中洲の食堂「百万両」開業1周年記念で「ユニオンビール園」を増築開店(1日)。松浦平(松浦病院長)没(3日*享年61歳、青木繁が入院死去)。福岡(太刀洗)―蔚山―京城―大連間の旅客飛行開業(10日)。市内のわいせつ人形を一斉検挙(13日)。博多どんたく団一行250人、朝鮮博覧会参加のため出発(21日)。東中洲の寿座で九州初の本格トーキー映画上演【★366】(27日)。福岡市が大浜町に大浜公益質屋を開設(*9年3月今泉、17年公益金融所と改称、18年姪浜に増設)。10月 松浦鎮次郎(京城帝国大学総長)が第4代九州帝大総長に就任(9日*11年5月1日辞意表明)。玉屋デパート5周年記念売り出しにマネキン・ガール登場(16日)。「松屋」が洋館3階建の「松屋デパート」(3階建)新築開店(18日)。博多湾で陸海軍合同演習(22日)。呉服町に片倉生命保険九州支店ビル竣工【★367】。東中洲那珂川畔の喫茶洋食店「パウリスタ」を改装してカフェ「太閤」開店(●3年?)。この頃、東中洲にカフェ「ナポリ」「百万両」「美人座」「ふくろう」「チグサ」「クロガネ」「サロン春」「サロンアイ」「日輪」「お月さん」「リンデン」「マル」「リラ」【★368】「天国」等が開店。11月 国際美術展覧会・藤田嗣治展、福岡日日新聞社講堂で開催(19日―●日)。福岡高等学校でストライキ騒動【★369】。12月 西部瓦斯設立(6日)。喫茶店「山の家」(青柳喜兵衛が設計)、東中洲のアサヒビール園横通りに開店(7日)。料亭「那珂川」(廃業)を増改築し大規模料亭「清流荘」開業(7日*15年12月20日「ホテル清流荘」)。崇徳保育園開園(*東公園に乳児部・馬出に幼児部)。
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日本・世界事項:3月 大卒者の就職難。第1回全国麻雀選手権大会(*10月、菊池寛を総裁に日本麻雀連盟結成)。築地小劇場分裂(25日)。4月清水 共産党幹部の市川正一・鍋山貞親ら大量検挙=4・16事件(16日)。「近代生活」・「白痴群」創刊。5月 「文学時代」・「演劇」・「少年戦旗」創刊。7月 榎本健一、東京浅草水族館にレビュー劇団「カジノ=フォーリー」設立(10日)。8月 宮本顕治「敗北の文学」(「改造」)。10月 ニューヨーク株暴落し世界恐慌始まる(24日)。「新興芸術」創刊。11月 全国の失業者30万人と内務省発表(1日)。朝鮮全羅南道光州の学生らが差別問題で反日本デモを起こし全土に波及=光州学生運動(3日)。12月 「東京朝日新聞」に川端康成「浅草紅団」連載。この年、映画「大学は出たけれど」、歌謡曲「東京行進曲」、宝塚花組公演「モン巴里」。
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【★352】平光吾一:昭和4年3月30日付で北海道大学教授から九州大学医学部解剖学教室第二講座教授として赴任。神経学が専門。短歌に造詣が深く、5年5月、九大医学部短歌会の会長に就任。16年5月、解剖学教室の一室を脳神経研究室とした。戦後は生体解剖事件に関係したとして21年8月8日付で免官。歌集に『世界を巡る』(昭13・1●?)がある。
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【★353】加野宗三郎と「還水荘」:加野宗三郎は明治22年7月14日、福岡市中奥堂町の生まれ。父親は吉田竹子と筑前琵琶の改良普及に貢献した加野熊次郎。中学修猷館をへて大阪高等工芸学校醸造科卒。家業の造り酒屋「萬屋」を営み、また美術や文学に関心を寄せて別邸「還水荘」・「柳北亭」には文人らが集まり芸術サロンを形成した。青木繁・冨永朝堂・与謝野鉄幹晶子・吉井勇・高浜虚子らも来福滞在した。昭和21年1月23日没。北原白秋は昭和4年5月、帰郷。一箇月余り滞在し、柳河・南関・太宰府・名護屋・呼子などを歴訪。帰途は太刀洗飛行場から大阪をへて東京まで空路帰京した。北原白秋の歌集『夢殿』(八雲書林、昭14・11)にこの帰郷体験を詠じた「郷土と雲海」の一章あり、「帰省篇」と「北九州雑唱」のうち後者に「雑餉隈、環水荘」の一項がある。「この行、この加野宗三郎氏の水荘に淹留することまた数日なりき。/水環(めぐ)る環水荘は降る雨のいろとりどりに夏いたりつつ/昼/雑餉隈(ざつしよのくま)池塘(つつみ)に映る床高き屋裏に赤き金魚鉢見ゆ/菱生ふる広き池塘(つつみ)の中道は雨通らせて後照(あとでり)暑し/老樫のこぼれ日あかく地にあるに蟻現るる待ち居り我は/積藁にひびく一つの爆音が太刀洗より近づくごとし/夜/ほのぼのとからし焼く火の夜は燃えて筑紫郡(ごほり)の春もいぬめり/鬼菱の花さく池の月しろは夜のいよいよに闌(ふ)けて後(のち)なり」「金盛醸造元として知られた万屋加野本店は、その創業の歴史古く明和四年即ち百五十一年以前にかゝり爾後数代を経て曾祖父惣平氏に及べり次で現店主の先代に及びて従来の九州酒が単に酔を買ふに止まり其香味に至りては到底灘の美醸に比較すべくものあらざるより率先して之れが改良を企図し於之摂津灘に人を派して其蘊奥を極め或は彼地より特に人を聘して其特技を究め当時精米界には驚異なる蒸気機関を設置して之れが改良を企つる等研鑽十年遂に銘酒金盛を産出するに至れり而して当今本県より関西地方に対し年額百万円を下らざる輸出を試み得るに至れるは九州改良酒の鼻祖として同店の功に負ふ所多しといふ/店主加野宗三郎君は明治四十四年大阪高工醸造科の出身にして専ら醸造と販売ょ司り市外姪浜町に醸造場を設置して水質の善良と相俟つて醸造高は逐年増加を告げ今や三千石に垂んとするの盛況を見るに至り尚近く分工場設置の運びに至り居れり大正五年聖上駐輦(ちゅうれん)を機として広告機関として傍ら市内麹屋町仲新道に金盛バーを自営し居れり販路は北九州一円の外対馬壱岐等の距島に対しては発動船を以て其需要に供し居れり同店の名誉とすべきは、今上陛下東宮の折台覧の栄を賜はり明治四十四年先帝の大演習御臨幸に際しては上覧及び御買上の栄を賜はり大正五年の肥筑大演習に際しては、今上陛下の御上覧及び御買上の光栄に浴し其他大本営売店出陳の光栄を擔ひ賞状としては九州清酒品評会に於て一等賞を受領せる外全国各地の品評会に於て賞状賞牌を受領して銘酒金盛の名遠近に高し。」(『福岡市大観』博文社書店、大7・5)
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【★354】安部源太郎:明治37年9月5日、福岡県糟屋郡青柳村の生まれ。歌人。青柳高等小学校を卒業し、久野製薬商会に就職。久野製薬製解熱剤「カイン」等の行商販売で全国を回り、久野家の長女・品子(香椎高女卒)と結婚。昭和3年、自由律新短歌雑誌「静脈」創刊(昭和3年6月)以来、長井盛之・福田秀実らと新短歌運動を推進し、『九州口語歌集』(昭3)を編み、また歌集『そろばんの歌』(紅玉堂書店、昭5・1)を上梓。以後、歌誌「火山脈」「るるるる」「仙人掌」「日本短詩」に参加。昭和12、13年頃、宇美八幡宮(糟屋郡宇美町)前に久野薬局宮前支店(のちアベゲン薬局と改称)を開店。昭和41年2月13日没。「日本短詩」復刊第9号(通巻49号、昭41・5)は追悼特集。
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【★355】『九州詩集 1929年版』出版記念会:「「九州詩集」出版記念会の夕/全九州詩人協会に於て編纂中であつた年鑑「九州詩集」一九二九年版は八月十日発刊上梓した。加盟者は北原白秋、加藤介春、浦瀬白雨氏を初め九州詩人三十余名六十余篇を網羅し附録に九州詩人録、九州詩壇史、昭和三年度九州詩壇に於ける重要事項其他で、九州詩壇最初の代表的アンソロジーである。今迄地方詩壇の一隅にかげの如き存在を示してゐた九州詩壇も、此の「九州詩集」の出現に依り日本詩壇に堂々と地歩を確得したわけである。此の出版を記念する為めに、芸術家協会に於ては八月三十日夜、カフヱーブラジルに於て、盛大なる「九州詩集の夕」を開催した。出席者は加藤介春氏を初め、原田種夫、渋谷潤、星野胤弘、北岡実、中島四五六、武田幸一氏外十数名で、星野胤弘氏の「九州詩集」及全九州詩人協会の発端より上梓迄の苦心談あり、雑談会に入り、盛会裡に意義ある記念会の幕を閉ぢた。(佐世保に於ては九月南国詩人社主催にて「九州詩集出版記念会」を開催した。)」(「瘋癲病院」12、昭4・11)
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【★356】文芸誌「情熱時代」創刊ならず:「瘋癲病院」第11輯に広告あり。昭和4年9月1日創刊予定。柴崎直編輯の「純文学総合雑誌」で、「●全誌面開放●投稿歓迎」とあり、投稿誌として発刊が企画されたものか。発行所は「「芸術」福岡出版社」(福岡市春吉寺町)、この春吉寺町は原田種夫の住所と同一。
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【★357】第2回詩展(詩の展覧会):「吾が芸術家協会に於ては、昨年十月第一回「詩展」を開催して大成功を収め地方文芸界及各方面に一大センセイシヨンを捲き起し、極めて好評を博したので福岡市年中行事の一として毎秋開催する事になつた。/本年は九月二十一日より三日間、福岡日日新聞社、九州日報社、大阪毎日福岡支局の各新聞社及び各雑誌社、文壇諸家の絶大なる御後援御尽力の下に、福岡市第一公会堂に於て第二回「詩展」の幕をあけた。(略)」(「瘋癲病院」12、昭4・11)
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【★358】詩と音楽の夕:「「詩と音楽の夕」開催/霊魂の澄む秋、十月二日夜吾が芸術家協会後援の下に、レストラン日輪主催にて「詩と音楽の夕」を福岡市記念館に於て開催した。演奏は泰西名曲及藤原義江、佐藤千夜子、関屋敏子等三十余種のレコードコンサートと、芸術家協会同人の「詩の朗読」で、聴衆六百極めて盛会であつた。/詩は文学の分野中最も音楽的なものである。然も此の音楽的な詩を更にリズムカルにした「詩の朗読」を演じた事は最も意義ある企であつた。「詩の朗読」は第二部の劈頭で、先づ星野胤弘の処女詩集「昼間の月」の中の「空と水と魚」と「鳴らぬ笛」の二篇で、次に山田牙城の講演「詩壇横議」、最後に原田種夫の浪漫美学「薄暮の窓から」を読んだが、何れも拍手に迎へられ、拍手裡無事に終へる事を得たのは喜ばしい限りであつた。同人は皆処女出演で、初めてステーヂに立つたのであるが、極めて成功を見せた事は此の種の出版に際し大いに意を強うする事が出来た。之は福岡に於ては初めての試みであつたが、此の成果に鑑みて、第二回「詩と音楽の夕」をクリスマス前に開催する計劃をしてゐる。又福岡の文芸団体を一丸として開催する筈の「芸術祭」も目下計劃中で、近く具体化する事になつてゐる。」(「瘋癲病院」12、昭4・11)「十月二日、市の記念館で『詩と音楽の夕』を開いた。これは私の従兄が東中洲で『日輪』というカフエーをやっていた、その『日輪』が主催であった。」(原田種夫『西日本文壇史』)*「カフエー日輪」(東中洲中券通り)の経営者は安永陵華。(「瘋癲病院」13広告)
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【★359】詩誌「衆像」:「・衆像・之は今井慎之介、渋谷潤、北岡実、池田元治、川崎竹一、高本加夫、村上鬼麿等を同人として十月に創刊された、之は何等特色はないが、地方詩壇に於ては整つた真摯な研究雑誌で、中央詩壇人の作品も毎号見え、加藤介春氏の「自由詩思出話」浦瀬白雨氏の訳詩、西谷勢之介氏の詩や随筆がある。「瘋癲病院」の飽く迄も得意なる異色に対するに、「衆像」は内容に豊富なる詩人の羅列を以て特色としてゐる。此の二誌に依り一九三〇年の福岡詩壇は如何なる進展を観せるか、面白き観物として期待されてゐる。」(星野胤弘「昭和四年後期に於ける福岡詩壇」、「瘋癲病院」13、昭5・1)「福岡地方でプロレタリア文化運動が展開されたのは、一九二九年秋から一九三四年秋までの六年間である。/一九二九年十月、林衛(筆者)と渋谷潤(渋谷信哉=現在日本社会党福岡県本部財政部長)が中心になって、同人雑誌「衆像」を創刊した。これが、福岡でプロレタリア文化運動が組織的に行なわれた始めである。「衆像」の同人は、翌一九三〇年九月遠地輝武(故人)らによって結成されたプロレタリア詩人会(P・D)が一九三一年機関紙「プロレタリア詩」を創刊したとき、全員プロレタリア詩人会に加盟した。(略)「衆像」は発刊と同時に、池田元治(故人)、松浦茂作(北岡実・故人)らすぐれた同人を迎えられ、翌一九三〇年には、赤い(2字傍点)雑誌としての存在を確立した。この年の三月、九州日報(福岡日日新聞と合併・現在西日本新聞)は「プロ・グロ時代」という長い文章をのせ、プロの代表誌として「衆像」を、グロの代表誌として「瘋癲病院」をとりあげて書いている。」(今井慎之介「福岡県の戦前におけるプロレタリア文化運動(おぼえ書)」)「衆像」は昭和5年夏頃に終刊した。*記事「プロ・グロ時代」は未確認
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【★360】学生俳句大会:白土古鼎(九大医学部卒)の報告「学生俳句大会」(「天の川」昭5・2)によると、大会は昭和4年12月1日午後、福岡女専俳句会などの協力をえて福岡日日新聞社講堂で開催。白土古鼎による開会の辞に続いて、横山白虹「雑感」・三宅清三郎「私の作句戒時代」・高崎烏城「学生と俳句」・岩田紫雲郎「思ひ出づるまゝに」・吉岡禅寺洞「単一といふこと」の講演があり、休憩後、代表句の披講、ついで小島良雄九大助教授「連句に就て」・鈴木福岡女専教授「俳句の一考察」・春日政治九大教授「短歌に比較したる俳句」の講演があり、午後5時30分閉会。当日の出席者は記帳簿によると男子85人、女子31人。学校別では九大26人、女専18人、福高・福岡師範各6人、大牟田高女2人、久留米医専・西南高等部・九州歯専・明善中・福工・夜間中・実業専各1人、その他51人。
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【★361】文芸誌「福岡文芸」:未詳。「現在の西日本新聞の前身である、福岡日日新聞の文撰工であつた兼吉の長兄の古賀一が「福岡文芸」を出したのは、四年の終りから五年にかけてであつたと思う。これは三号で終り、原田種夫の「西日本文壇史」にも、その誌名をとどめていない。(略)/「福岡文芸」の同人は、発行者の古賀一、斉藤一郎(佐藤孜)、その弟の佐藤尚、鷲尾不二夫、木下杢三郎などであつた。一郎、尚の兄弟が、西海日日新聞〔*西海毎日新聞〕の文撰,植字工であり、後に同盟大牟田支部に所属するが、杢三郎が西海日日新聞の記者であり、鷲尾が当時の大牟田日日新聞の文撰工(これも後に同盟支部に所属)であることなど、西海日日に投書をしていながら私は知らなかつた。/「福岡文芸」を、たぶん私は兼吉から渡されたのであつたろう。同人誌というものを初めて手にしたのであつた。/創刊号に、古賀一が「救世軍の男」と題した短編を出していた。」(内田博『小さな文学史』上巻、三池文学会、昭42・5)
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【★362】福岡童謡民謡協会機関誌「せふり」:「・せふり・之は最近起された福岡童謡民謡協会の機関誌で、その名の通り民謡童謡を主体として生れた隔月発行の研究雑誌で、武田幸一、浅田福生等がその牛耳を取つてゐるが野口雨情、西岡水朗、渋谷栄一、星野胤弘氏等の寄稿がある。その成績如何は今後に待たねばならぬ。」(星野胤弘「昭和四年後期に於ける福岡詩壇」、「瘋癲病院」13、昭5・1)
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【★363】「博多新聞」:「瘋癲病院」5(昭4・2)掲載広告「読め! 更生せる赤新聞を/関西唯一の赤新聞/旬刊 博多新聞/▽経済界の裏面毎号掲載/▽花柳界の怪聞艶聞/▽キネマ演芸界の内外総まくり/▽福岡市小壮実業家御紹介/博多川口町一七番地/博多新聞社/電話四九〇五番」とある。「瘋癲病院」4(昭4・1)に、「新年号愈々発売/九州一の憎れ口新聞/主筆=柴崎鬼佛 編輯=渡辺素明/九州パツク/—内容—/政治・経済・花柳・演芸・漫画・文芸・家庭/¥30 福岡市川口町一七番地/九州パツク社」とあるのがこれか。
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【★364】縮小し行く早良郡:「福岡市の膨張と反対に縮小し行く早良郡/村から一躍福岡市へ編入される原、樋井川の両村は、鳥飼及び西新町と背なか合はせの村であるが、郊外へ郊外へと伸びて行く福岡市街の素晴しい膨張につれ、グングン建込まれた家々が軒を並べて居るので、市、村の区別さへ容易につき難い処が少くない。(略)/ところが、両村のこの喜びにひきかへ、早良郡は一入哀愁を留めて日一日と減滅して行く——。/顧みれば、大正八年鳥飼村が福岡市に合併され、次いで間もなく西新町が相去り、今また原、樋井川の両村が姿を消したので、、今では僅に脇山、田隈、入部、内野,金武、壱岐、残島、姪浜の一町七ケ村となり、人口三万七千六十人、戸数五千八百七十六戸に減少して、昔の面影もない有様である。/若しそれ、云ふが如く、姪浜町と残島村が相続いて福岡へ去るとしたら、残る処は僅かに六ケ村、人口二万三千、戸数二千八百となつて、恐らく日本最小の郡となるであらう。/どこ迄も福岡市の合併騒ぎに祟られる世にも薄倖な郡ではある。」(「福岡日日新聞」昭4・2・21)
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【★365】青柳喜平:「第14代 青柳喜平正聡/明治4年10月18日博多の一商家に生れ幼にして力量群に秀で18年舌間の門に入りて修行を積みたり、巌丈なる体格は大磐石の如く一方商業に従事し日夜俗務に鞅掌せる傍ら心を教外烈伝不立文字の八字を練り一味清風道の為自力難業苦行せり。明治30年〔第13代舌間〕宗綱逝去するや師に代って指導教育せり、門下生二千余名あり。明治39年7月京都武徳会本部に於て柔道の形を制定せらるるに当り当時各流の師範20名と共にその制定委員に推薦せらる。元福岡師範学校柔道教師。元福岡商業学校柔道教師。大正15年5月7日柔道範士の称号を授与さる。昭和4年8月25日逝去59歳。」(隻流館由来書)「喜兵衛は、福岡市博多川端町の野菜屋の息子で、父の喜平は硬骨漢で町人ながら柔道の達人で福岡市金屋小路に隻流館という柔道道場を開いた。火野葦平が読売新聞に連載した『花と龍』の中に描かれているように、勝則と米丸が恋に陥ち、米丸が博多に出て隠れ家にするのが、この隻流館の二階の三畳の一室である。いま、この隻流館に、明治時代美人番付のナンバーワン、加野かめさんという老婆が住んでいる。」(原田種夫『名作のふるさと(九州篇)』読売新聞九州総局、昭31・8)
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【★366】九州初のトーキー映画:「九州では勿論のこと、福博映画界に未曾有の興味を投げかけた発声映画が、いよいよ二十七日から博多寿座で上映さるゝことゝなつた。/写真は、発声映画では世界映画界の最高位を占むるパラマウント社のもので、しかも同社一九二九年度の超特作品と銘うつた「四枚の羽根」と「支那の小娘」「螢の光り」「ブルーソング」の四篇を上映する。/しかもこの「四枚の羽根」は、東京が来月三日より上映するのに比して一週間早く、完全に日本最初の封切りであるといふ誇りを持つてゐる。/種類は「四枚の羽根」がサウンド・トーキー、「螢の光り」ガバート・トーキー、「ブルーソング」と「支那の娘」がオール・トーキーで、むこのうち「四枚の羽根」は会話を絶対に含んでゐない。」(「福岡日日新聞」昭49・9・27)
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【★367】片倉生命保険九州支店ビル:「ユニークな変五角形で地上八階、地下一階、時計塔がそびえ高さ三十七㍍、それまで福岡市内にビルは数少なく、それも五階どまりだったころ、人々の目にまぶしく映った。なにしろ各階に米国製メールシュート(郵便物投下装置)と電気時計、床はリノリュウム張り、エレベーターは大型十二人乗りと珍しい物づくめ。一階に日本航空福岡支店(現同名社とは別)、その雁の巣飛行場(現東区奈多)~東京線乗客待合室とカメラ店、二階に洋酒バー、七、八階は初めての西洋式共進亭ホテル、他の階を一流商社が埋め、九州では最高層、最モダンな建物である。話題を拾うと昭和六年七月、福岡県下で最初の防空演習に、陸軍久留米師団長・木原清中将らが屋上から統監した。(略)/太平洋戦争中は陸軍将校宿舎、終戦後は占領軍に接収されたあと、ビルの名も何度か変わり昭和五十六年姿を消したが「片倉ビル」は今もなお、多くの人の追憶を揺する。」(江頭光「思い出の片倉ビル」、『ふくおか歴史散歩』福岡市、平12・3)
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【★368】リラ:「竹子(*筑前琵琶吉田流の創始者)の死後、加野熊次郎との間に生れた真太郎が二代目瑞晃を継いだが、大正十四年三月、三十四歳で早逝。未亡人となったその妻は、亡父の実家銘酒「金盛」の援助を得て、東中洲錦町にサロン・リラを開店した。」(井上精三『博多風俗史 芸能編』*「亡父」は加野熊次郎、屋号は「萬屋」)
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【★369】福高のストライキ騒動:昭和4年9月、福高生の石橋弥左衛門(文2乙)が共済部設置を公約に総務に当選。しかし学校側は共済部設置を認めず、11月、文科2年乙類クラス生を中心に約100人がストライキに突入。学校側は臨時休校で対抗した。
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関連情報 |
レコードID |
410595
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1929
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和暦 |
昭和4年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |