<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和3年
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 春日政治「九州に於ける旅人と憶良」(「福岡日日新聞」1日)2月 古賀残星「筑紫野の詩人」(「福岡日日新聞」20日)3月 秋山六郎兵衛『薄明』(考へ方研究社●4月?=日外)5月 久保より江『より江句文集』(京鹿子発行所)7月 山口白陽(経光)「古代愛欲篇」(「福岡日日新聞」4日―8月24日)秋山六郎兵衛「芥川龍之介論」(「福岡日日新聞」2日―16日)花田徹太郎「鋭い屈折」(「福岡日日新聞」2日―16日)柳原燁子(白蓮)『筑紫集』(萬里閣書房)8月 井上強一「投刃」(「福岡日日新聞」夕刊、25日―10月4日)9月 山田牙城「ぎもんの切手」・星野胤弘「霖雨期と蝸牛」・李文叔(織久順作)「ビラ撒き」・原田種夫「那珂川畔」(「瘋癲病院」1)西谷勢之介「分身」(「福岡日日新聞」3日―10月28日)春日政治「言道と子供を謳へる歌」(「福岡日日新聞」17日)10月 加藤介春「野二つ」・織久順作「竹」・山田牙城「不思議なる芸術」・原田種夫「怠屈なる余りに怠屈なる」(「瘋癲病院」2)水足蘭秋(安嗣)「渦紋流し」(「福岡日日新聞」夕刊、5日―12月16日)星野胤弘『昼間の月』(大地舎*加藤介春序文、山田牙城・原田種夫・古賀残星跋文)秋山六郎兵衛「泡沫」(「福岡日日新聞」29日―12月30日)11月 北原白秋「福岡県聯合青年団団歌」(「福岡日日新聞」10日)星野胤弘「黙つてゐたい心」(「福岡日日新聞」13日)久保猪之吉「羅馬より」(「福岡日日新聞」15日)12月 林逸馬「大衆は如何なる文芸を好むか」(「福岡日日新聞」10日―11日)西谷勢之介「俳人漱石論」(「福岡日日新聞」22日―28日)■この年、花田比露思『万葉集私解』(紅玉堂書店*あけび叢書巻1)
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文学的事跡:1月 今村俊三(俳人)、大分市で出生(25日)。2月 火野葦平(玉井勝則)【★335】が幹部候補生として福岡の陸軍歩兵第24連隊第7中隊へ入隊(1日―11月30日)長井盛之らが「日本短詩」創刊(●?)。4月 檀一雄が足利中学4修で福岡高等学校文科乙類に入学【★336】。井出文雄【★337】が九大法文学部経済科に入学。5月 鈴木召平(詩人)、朝鮮釜山府で出生(9日)。萩原井泉水が九州一周の旅の途次来福【★338】(12日)、博多商業会議所の会議室で第二回層雲九州俳句大会に出席(13日)。6月 「福岡日日新聞」新年号で公募の大衆文芸懸賞小説入選作発表、1等は山口経光(熊本県・筆名は白陽)・2等は水足安嗣【★339】(福岡市・筆名は蘭秋)と井上強一(若松市、のち飯塚町)(1日*順次夕刊紙面に連載)。長井盛之・福田秀実が新短歌誌「静脈」【★340】創刊(1日)、松尾黙人【★341】も参加。有田忠郎、長崎県佐世保で出生(19日)。吉岡禅寺洞・棚橋影草ら『より江句文集』出版記念会を市内の料亭「新三浦」で開催【★342】。元・九州日報記者・今村外園没(25日)。「福岡日日新聞」大衆文芸作品当選発表(29日)。7月 森禮子(川田禮子)、福岡市大円寺町で出生(7日)。吉岡禅寺洞の自宅「銀漢亭」新築落成記念句会(15日)。北原白秋が招待されて太刀洗飛行場から大阪まで「芸術飛行」【★343】(●23?24日)。佐賀の中島哀浪が歌誌「ひのくに」を復刊し、持田勝穂が同人参加。8月 「福岡日日新聞」が賞金総額6000円の大衆文芸長篇小説を公募(1日)。9月 山田牙城・原田種夫・星野胤弘・織久順作・中島公・高本加夫らが「芸術家協会」を組織し、詩誌「瘋癲病院」【★344】を創刊(1日*昭和6年3月まで全22冊)。10月 ホトトギス系俳人らの第2回関西俳句大会(*四国松山で前年に第1回大会開催)、福岡県第一公会堂で開催し、「天の川」編集人の横山白虹らが世話を担当、高浜虚子・田中王城・久保より江・杉田久女・竹下しづの女ら約400人が参加(7日)。添田博彬、福岡県●で出生(10日)。山田牙城・原田種夫らの芸術家協会、西中洲の県第一公会堂で第1回「詩の展覧会」を開催【★345】(13日―14日)。星野胤弘『昼間の月』出版記念会(芸術家協会主催)、東中洲の中央亭で開催(21日)。吉岡禅寺洞が福高俳句会の指導を担当。11月 野口雨情が来福し、南国詩歌協会主催の歓迎座談会(6日)。柴田基典、福岡県飯塚町で出生(24日)。この年、フランス文学者の進藤誠一、九大法文学部に赴任。郷土史家の橋詰武生【★346】らが雑誌「九州文化」創刊。入江英雄・荒川浩一らが九大医学部短歌会【★347】を結成。
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社会文化事項:1月 九州日報社の新社長に中野正剛【★348】が就任(6日*4年6月まで在任)、加藤介春は辞職し清水芳太郎【★349】が主筆兼編集局長に就任。柳橋の架橋工事が竣工し渡橋式(30日)。九大セツルメントが活動開始。2月 福岡地方専売局煙草工場で両切り煙草「ゴールデンバット」製造開始(*全国6番目の両切煙草製造工場)。古川震次郎(写真家)没し、少林寺で葬儀(4日)。3月 「博多の名物男」長尾丈七没【★350】(5日)、川丈寄席で葬儀(9日*4年4月5日1周忌追善供養)。新天皇即位の大嘗祭の主基斎田(すきさいでん)に早良郡脇山村が決定、新聞は号外発行(15日)。3・15事件で県下の被検挙者は111人(15日―27日*うち35人は起訴公判)。玉屋デパートが全館土間式に改装(15日)。市会で千代町との合併案承認(23日*西日本一の都市人口へ)。4月 筑紫郡堅粕町を福岡市に編入(1日)。海軍博覧会(福岡日日新聞社主催)、箱崎浜で開催(1日―25日)。滝沢克己が東京帝大法学部を中退し(前年10月)、九州帝大法文学部に入学。九州帝大評議会が文部省の要請に応じ九大社会文化研究会の解散命令と共産党事件関係学生4名の退学処分を決議(19日)、石浜知行・佐々弘雄・向坂逸郎の3教授は大工原銀太郎総長の辞職勧告に先立ち自主的に連袂(れんべい)辞表提出【★351】(21日*24日付で辞職)。福岡救援委員会、土手町の鶴和夫弁護士宅で秘密裡に結成(26日)。5月 筑紫郡千代町を福岡市に編入(1日*9日堅粕・千代合併大祝賀会、東公園で開催)。東中洲の旧・商品館(九日商品館)を改装して「不二屋デパート」開店(10日*5年夏閉店)。入江広告社15周年祝賀式、九州劇場で挙行(21日)。6月 「福岡日日新聞」に「ラヂオ欄」登場(16日)。「喜楽館」を「ハカタ館」と改称開館(*同年8月1日「民衆倶楽部」と改称)。7月 福岡県庁別館上棟式(2日)。第4潜水艦隊が博多湾に入港。8月 「明治製菓博多売店」、東中洲電車通りに開店、2●1?階に喫茶部設置(1日)。「ハカタ館」を「民衆倶楽部」と改称開館(14日*前田幸作経営)。9月 中券芸妓しげる(中村なみ子)がユナイテット九州支社長鎌田稔と熊本で心中(15日)。因幡町の抜天運動場跡地に完成した日本放送協会福岡演奏所の開所式挙行(16日)。10月 御大典記念奉祝美術展、西公園で開催(4日)。舞踏家の石井獏・石井小波が来福公演、前田幸作らが企画し芸術家協会同人らと東中洲本興座3階で歓迎座談会開催(24日)。日本足袋福岡工場、蓑島に設立。11月 御大典奉祝市内各小学校聯合大運動会、福岡場内練兵場で開催(1日)。今上陛下即位式・祝賀式、東公園で挙行(10日)。御大礼奉祝音楽会、福岡市記念館で開催(12日―13日)。須崎運動場で市民奉祝会開催(16日)。御大典奉祝どんたく開催(16日―18日)。12月 田中万造(弘益社)・緒方煤鳥(川丈広告社)らが「光祖会」(ハゲの会)結成し、第1回会合を天神町・丸万食堂で開催(15日*久世市長も参加、毎月例会開催)。「福岡アマチュア洋画会」を「福岡洋画会」と改称し、青柳喜兵衛らも参加。精華女学校・女塾開校。この年、中州に福岡初のバー「はなや」開店。この頃、「フクオカ カナモジ カイ」(フクオカシ スミヨシ サクラマチ)が「ゲッカン カナノクニ」発行。
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日本・世界事項:2月 日本共産党中央機関紙「赤旗(せっき)」創刊(1日*非合法)。「文芸都市」創刊。「太陽」終刊。3月 共産党員1568名を検挙=3・15事件(15日)。東京の大礼記念博覧会場で初のマネキンガール登場。全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成(25日)。4月 解放運動犠牲者救援会(のち日本赤色救援会)創立(7日)。第2次山東出兵決定(19日)。5月 左翼文芸家総連合編『戦争に対する戦争』(南宋書院)。ナップ機関紙「戦旗」創刊。6月 関東軍、張作霖を爆殺(4日)。JOGK熊本放送局開局式(16日)。7月 アムステルダムで第9回オリンピック開催し、織田幹雄・人見絹枝ら活躍(8―12日)。山川均ら無産大衆党を結成(22日)。文芸誌「女人芸術」・「馬酔木」創刊。9月 「詩と詩論」創刊。10月 陪審法施行(1日)。水ノ江滝子ら東京松竹倶楽部を結成し浅草レビュー登場(12日)。文部省が思想問題取締りを目的に学生課を新設し、官立大学・高等専門学校に学生(生徒)主事を設置(30日*翌年7月1日「課」を「部」に昇格)。「悲劇喜劇」・「新興科学の旗のもとに」創刊。11月 警視庁、ダンスホール取締令実施し、御大礼記念の「ラヂオ体操」放送開始(1日)。18歳未満の入場禁止(10日)。京都御所で昭和天皇即位礼(10日)。12月 日本大衆党結成(20日)。日本労働組合全国協議会(全協)結成。
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注記 |
【★335】火野葦平(玉井勝則):明治40年1月25日(本人の弁によると前年の12月3日)、福岡県遠賀郡若松町(のち若松市、現・北九州市若松区)の生まれ。本名は玉井勝則。若松港石炭仲仕の父親玉井金五郎と母親マンの長男。若松尋常小学校をへて小倉中学を卒業後、上京して早稲田第一高等学院から早稲田大学英文科に進学し、文学仲間の中山省三郎・田畑修一郎・寺崎浩らと同人誌「街」を創刊。昭和3年、福岡歩兵第24連隊に幹部候補生として入営したがレーニンの訳本を所持していたため1階級下の伍長で除隊。この間、父親が退学届を提出していたため大学に戻らず、帰郷して若松港湾労働者のため組合を結成するなどした。劉寒吉、岩下俊作らの詩誌「とらんしつと」(小倉市)、矢野朗らの同人誌「文学会議」(久留米市)などに参加し、昭和12年9月、応召し、杭州湾上陸作戦に従軍。翌年2月、「糞尿譚」(「文学会議」4、昭12・11)で第6回芥川賞を受賞。これを機に陸軍中支那派遣軍報道部に転属となり、「麦と兵隊」(「改造」昭13・8)「土と兵隊」(「文芸春秋」昭13・11)「花と兵隊」(「朝日新聞」昭13・12・20—14・6・24)の〈兵隊三部作〉を発表して、いちやく兵隊作家として有名になった。敗戦当時は陸軍西部軍管区報道部。同年10月、「九州文学」の仲間と出版社「九州書房」を設立。やがて戦犯作家として責任を問われ、昭和23年5月から25年10まで文筆家追放指定を受けた。昭和24年、東京大田区池上徳持町(のち阿佐ヶ谷)に東京拠点として「鈍魚庵」を設け、以後、郷里若松との間を往来した。執筆意欲は衰えず、旺盛に作品を発表し続け、玉井金五郎一家の変転を描いた長篇「花と龍」(「読売新聞」昭27・6・20—28・5・11)や「革命前後」(「中央公論」昭34・5—12)の長篇などを残して、昭和35年1月24日、自宅で自死した。享年53歳。
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【★336】檀一雄:「数え年の十七歳の春に、福岡高等学校に合格して、そのまま入寮した。成績は二番だったと思う。」(「夢去りぬ」、「小説現代」昭42・5)「母は私が高校に学んでゐた同じ福岡の郊外に棲んでゐた。他家に縁づいて新しい弟妹達を産んでゐたのである。私はしばしば母と道のほとりで行き違うたが、成長のはげしさに見忘れてしまうたのであつたらう、母は気付かぬふうだつた。けれども十五年の永い歳月の間、ひたすらにその面影をのみ恋ひ慕うてゐた私は、母を見忘れる筈が無いのである。/行き過ぎる母の後ろ姿をそつと見遣りながら、私は『生きてゐてくれた』と盡きない安堵の情を味はうたが、言葉はかけられなかつた。/恋しくないのではない。私は屡々寮の夜々を脱け出して、母の家の燈火のほとりを逍遙した。裏山の松の木蔭の叢から、そつと家の様子をうかがうて、時折洩れる母の声を胸はずませて聞くのである。」(檀一雄「天明」、「現代」昭19・5—6)檀一雄は入学後、寮の文学仲間とガリ版刷り文芸同人誌「玄海」を創刊し、詩・小説・戯曲を発表したという。
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【★337】井出文雄:詩人。●年の生まれ。佐賀中学、佐賀高等学校をへて昭和3年4月、九大入学。6年3月、同大を卒業後、副手・助手。12年、東京高等師範学校講師。15年、横浜高等商業学校講師。30年、経済学博士。49年、横浜国立大学を退職し名誉教授。詩集に『樹海』『井出文雄詩集』『ガラスの魚』『藤椅子に寄って』などがある。
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【★338】井泉水が九州一周の旅の途次来福:「●」(三宅酒壺洞「福岡と井泉水」、「九州文学」昭30・10)
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【★339】水足蘭秋(安嗣):「元老の、福岡市の水足蘭秋(4字傍点)は昭和四(ママ)年福日の懸賞小説に時代物『渦紋流し』を当選して売り出し、其の後サンデー毎日、九州日日、福日等に十篇近い作品を発表し、一時名をうたはれたが、近来はすつかり沈黙してゐる。聞けば長大篇『元寇』に関するノートを十数冊取つて遠大な準備をしてゐるそうだ。」(篠山二郎「九州の文学運動史—初期より昭和十五年末迄」、「九州文学」昭16・12)
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【★340】歌誌「静脈」:月刊短歌誌。創刊号は昭和3年6月1日発行。編輯兼発行人は長井盛之。発行所は静脈山房(福岡県鞍手郡小竹町乱橋)。編集後記「静脈山房便り」で福田秀実が、「静養のつもりで長井のところにやつて来たのですが一緒に食つたり話したりしてゐる中に新短歌の雑誌を出さうといふことになつてしまひました。松尾(旧大津敏夫)も早速同意してくれましたので、三人で六月から出すことにしそれぞれ努めました。」と書いている。昭和4年4月、長井盛之の転勤に伴い発行所は福岡市に移転。同年12月、第19輯で終刊。
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【★341】松尾黙人:「松尾黙人は、福岡師範第2部の同窓である。その頃彼の本名は大津敏夫であった。長井盛之、福本弘、塚本弘と弁論部に入っていた。「口語歌を提唱す」の演題で、彼は市記念館で獅子吼し福岡高等学校弁論部主催の大会で一等の栄冠を獲得した。長井は「人間に帰れ」と叫び、僕は「無産階級の教育」「農民文学の前進方向」「表現主義時代」の演題で福農や佐高の大会に出場していた。第一回の練習会で黙人は、「黄昏の心」と題し、一茶の芸術と生活を語ったことを記憶している。大正14年のことである。/その頃、詩を作っていた僕に、「新興短歌」「草の実」「新時代」等の口語歌雑誌を見せてくれたのは黙人である。僕も口語歌を作るようになり、長井と自由律新短歌誌「静脈」を創刊すると、彼も自由律新短歌のすぐれた作品を寄せてくれた。(略)/師範を卒業して、彼は山門郡山川村北部小学校に勤めた。(略)/彼は昭和35年に退職して、ほんとうの百姓になったようだ。」(福田秀実「松尾黙人の人と作品」、「日本短詩」復刊15号、昭42・5)
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【★342】「より江句文集」出版記念会:●横山白虹「「より江句文集」記念の会」(「天の川」昭3・7)
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【★343】北原白秋の「芸術飛行」:●歌集『夢殿』(八雲書林、昭14・11)
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【★344】詩誌「瘋癲病院」:全22冊。創刊号は昭和3年9月1日発行。第22輯(終刊号)は昭和6年3月1日発行。創刊号から第11号(ⅩⅠ)まで「編輯発行兼印刷人」(または「編輯印刷兼発行者」)は星野胤弘、第12—22号(終刊号)は「謀議者」山田牙城・「編輯者」原田種夫・「発行者/印刷者」星野胤弘(第20号は未見)。同人は星野胤弘・織久順作(李文叔)・山田牙城・原田種夫・原善麿(佐世保市・「南国詩人協会」結成)・中村木槿・高本和夫・宮野金三郎(*途中参加同人も含む)。創刊号巻頭「孵卵球」欄に山田牙城・星野胤弘・原田種夫がマニフェストを執筆。星野胤弘のそれは「蝙蝠の卵—瘋癲病院と詩展に就て」と題するもの。いわく「福岡詩壇は余りに寂し過ぎた。冬眠は余りに長かつた。吾等はその惰眠より醒めて此処に爆弾の如き烽火を九州の一角より挙げる。/吾等は出発する、詩誌「瘋癲病院」を提げて地方詩壇へ堂々と進出する。之は福岡詩社以来の集団的ムーブメントであり、又その残党とも云ふ可き芸術家協会同人の掌と掌に為つた第一次運動である。/第二次運動としては九月末(又は十月初旬)に〝詩展〟を開催する。此の種の計画は地方詩壇には稀に見る処、先年福岡では〝詩盟社〟の手に依つて開催された事があつたが吾等は更に新奇の趣向の下に計劃中である。作品は芸術家協会同人及び中央詩壇の大家中堅新進詩人の凡ゆる傑作を一堂に聚め、以て眠れる地方詩壇に一大センセーシヨンを捲起そうと云ふのである。」—発行所は芸術家協会(福岡市六本松656星野胤弘方)。「その頃僕たちは世にも不思議な異端な雑誌「瘋癲病院」といふ詩の本を出して、世の俗悪と戦ひ、真理を失つた日本の詩人を罵倒してゐた。僕達の「瘋癲病院」の文学の本質は「詩を散文で書く」と言ふ運動であつた。このために原田種夫は「浪漫美学」といふエツセイを書き、僕は「蒼白芸術」といふ一聯のエツセイを書いてゐた。又「瘋癲病院」の中で「連鏡室」と題する批判室で、その頃日本詩界に発行されてゐた詩誌や詩集のしんらつな批評をやつた。実にこゝは仲間ぼめもなく、一つのおざなりもなく毒舌と言はれるまで赤裸々な直言をなしたため、日何回となく匿名の罵倒文が飛び込んだりした。その頃のことを考へると、僕達が文学に対するひたむきな、只一途な真劔さが思はれてなんとなく胸のしまる想がするのである。」(山田牙城「しはす」、「九州文学」昭16・12)「今日の人達からすれば、むしろ、むなじい努力であったし、あるといわれるかも知れないが、私達が初めて詩誌を創刊したとき、一切の仕事を、心を合した三、四人の同人で、各自分担してやった。昭和の初期に創刊した詩誌の「瘋癲病院」は、私が表紙絵を書き、これを原田種夫が工作ナイフを振って版画を作って、毎月印刷を廻した。その表紙絵のプランについては、私と原田と毎月企画立案して作った。この詩誌は初め三人で初めたもので、星野胤弘も参加していたが、もう戦後は星野は私達のグループから離れて終ったが、主として星野は校で、配本などの業務に廻っていた。当時の詩人たちを甚だしく刺激した「検鏡室」と題する批評欄は、極めて異色ある企画であり、その批言がしんらつでむしろ暴害に近いものであるといはれ、ごうごうたる反撃を受け、無名の投書が毎月何通も振込という実情であった。それでも私達は、かたくなまでに自分たちの立場を固守し、仲間賞めのどうでもいいような、あたりさはりのないような批判を、極度に嫌汚して、少しも私達の態度を変へなかった。しかしこれが当時の詩壇の進展によい新風を吹き込み、詩人たちの勉強に示さを与へ、その文学的態度によい意味の助力を、きっと付加したことだろうと、今に至るまで思っているし、また詩壇の批者たちに厳しい痛棒をもったであろうと信ずる。私達は、当時おおれるばかりの元気があり、自分一個の世評などは、勿論意に介しなかったし、務めて、文学のために、詩のために、という一念にこり固っていので、そうした、大方の人達から、最も嫌はれる努力に精根を傾けたのであった。」(山田牙城「千里の彼方に—兵山荘通信10」、「九州文学」昭38・1)
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【★345】詩の展覧会:「詩展開催に就いて/書斎より街頭への第一歩として、芸術家協会では、九州日報社、福岡日日新聞社及び燭台社後援の下に、十月十三、四日福岡県第一公会堂に於て、全日本文壇歌壇詩壇俳壇の大家中堅新進の作品を一堂に聚め東邦詩展を開催した。各大家の色紙短冊原稿書信其他出品二百余点にて、日本操觚界の縮図とも云ふ可き福岡市否全日本空前の挙行の事とて黄昏に至るまで引きもきらず、十三日二千人、十四日三千人、会場は文芸愛好家の大洪水であつた。/詩神は十月の蒼空に踊り、祝福の言葉をさんさんと投げかけ、芸術家協会同人の一月以来の宿願、三ケ月間の不眠不休の苦衷は此処に酬ひられたのである。/色紙は生田春月氏を筆頭に五十四点、短冊は北原白秋、大谷句佛、柳原白蓮氏等五十点、原稿は武者小路実篤、西條八十、久米正雄、島崎藤村氏等七十余点、絵画では星野胤弘の風貌、北原白秋の描ける白鳥省吾の顔、須山計一の詩壇歴参帖、詩壇漫画其他パステル画等で、参考品中には、大久保利通の書、白樺の樹皮、明治三十七年本郷座新派劇のプログラム、詩集〝昼間の月〟が出来上るまで、原田種夫の浪漫美学草稿、全国地方詩誌、福岡詩壇創立以来の詩雑誌、「黎明」創刊号より終刊号まで四十部、明治大正昭和に亘る詩書其他で、書信の部では坪内逍遙、川田順、白鳥省吾、桂川正秋等であつた。/参観者の熱心さは驚く程で、はるばる佐賀より二日間共来福する婦人があり、一々原稿をめくつて熱読する人が多く、ノートに筆記する学生があつた。全く福岡のインテリゲンチヤを凡て集めた観があり、図書館長や九大博士高校教授の顔も多く見られた。協会同人の街頭への試金石は斯く大成功を見たので大いに力を得、「詩展」を福岡の年中行事の一つに加へる計劃をしてゐる。/最後に、貧寒なる芸術家協会同人の微哀を諒とされて早速玉稿を御恵与下された諸家及び大地舎の白鳥省吾氏、燭台社の吉田常夏氏金文堂主人の尽力に官舎の辞を捧げる。」(「瘋癲病院」3〝詩展号〟、昭3・11)
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【★346】橋詰武生:明治24年12月30日、福岡市対馬小路の生まれ。東京で少年期を過ごし明治末年頃帰郷。大正2年、福岡日日新聞社主催元寇防塁跡発掘講習会に参加し考古学研究に着手。昭和54年11月18日没。
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【★347】九大医学部短歌会:「医学部短歌会の歩みは大体 一、医学部短歌会が結成されるまでの揺籃期。二、岩本栄一、田中隆寛が出現するまでの諸派隆盛期。三、アララギ隆盛期。四、戦後の四期に分けることが出来る。大正三年十月三十日「ラ・ボヘーム」なる会を作つて短歌愛好者の会合をなし、大正四年十月十六日九大短歌会と名称を変えて集合を開催した。其後一時休止の状態であつたが、亦九大短歌会を開催するに至つた。昭和三年入江秀雄及び荒川浩一によつて九大医学部短歌会が創設され、ここに医学部短歌会の輝かしい第一歩が印された。月一回の月例歌会が主に学生集会所で催され、時に全九大との合同歌会をもつていた。医学部短歌会詠草集は謄写版刷で三輯まで出し、四輯は印刷した。発行者は入江英雄である。これは年刊歌集の前身で現在まで二十五年の歴史をもつことになる。昭和四年第五(入江英雄)、第六(久場長章)詠草集が発行され、後者には「潮騒」の集名がつけられた。昭和五年毎月の例会の他に、五月に九大本部で連合歌会が催され、平光吾一が短歌会の会長に迎えられた。昭和六年向田民夫により「篁林」が発行された。五月三日アララギの土屋文明を迎え、全九州に呼びかけた歌会を主催した。昭和七年二月大野武により「春盤」が発行された。昭和八年五月岩本栄により「霽日」が発行され、昭和九年三月田中隆寛により歌集「山縵」が発行され、昭和十年鈴木剛秀により「群鶴」が発行された。短歌会長は大平得三がなり、秋よりアララギの松井一郎の出席をえた。昭和十一年十一月山崎実により「朝影」が発行された。昭和十二年十二月芳野により「荒潮」が発行された。昭和十三年頭に平光吾一の歌集「世界を巡る」が出版された。昭和十四年四月芳野滋により「響矢(なりや)」が発行され、年末大平得三の満洲移転により平光吾一が再び会長に就任した。昭和十六年二月阿武寿人により「青雲あおくも」が、十二月仙波嘉輝により「真朱(まそほ)」が発行された。戦後二十一年歌会が開催され、藤原哲夫が全九州及び山口県を含む「九州アララギ会」を創設し、五月十日歌誌「にぎたま」が発行された。医学部短歌会のアララギ系会員は殆ど全てが参加し、その中堅となつた。二十五年五月古賀により短歌会は再建され、会長に入江英雄を迎えた。二十六年二月歌集を出し巣鴨、チヤンギー獄よりも作品がよせられた。また添田により年刊歌集の復刊第一号「春峡」が発行され、六月市内各大学によびかけ、学生合同歌会を持つた。参加校は九大、商大、学芸大、西南大、女子大、修猷館高校である。二十七年添田博彬により「群生」(第十八集)が発行され、二十八年には年刊歌集(岡村重昭)、大石基成遺歌集(添田博彬)が発行された。/吾をめぐり春となる水の声やさし時折淡き夕日が差して 添田」(添田博彬「短歌会」、『九州大学医学部五十年史』)
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【★348】中野正剛:明治19年2月12日、福岡市西湊町に生まれ、中学修猷館をへて早稲田大学卒業。大正9年、衆議院議員に当選。昭和八年、東方会を組織し、全体主義的立場からの国家改造計画を主張。大政翼賛会成立と同時に常任総務に就任したが、まもなく辞職。東条英機独裁体制を批判、打倒計画を練ったが失敗。18年10月21日、検挙され一時帰宅中に割腹自殺。
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【★349】清水芳太郎:明治32年6月18日、和歌山県那智勝浦町の生まれ。大正14年、早稲田大学政治経済学部卒業後、三宅雪嶺主宰の雑誌「我観」の編集に従事。この縁から中野正剛が九州日報社を買収したのを機に主筆に迎えられた。昭和5年、清水理化学研究所を設立後、同年秋、九州日報社を退社。9年3月、国家主義思想団体「創生会」を結成。12年から15年まで九州日報社の社長をつとめた。退社直後の昭和16年12月18●13?日、立川から軍用機で福岡に向かう途中、飛騨山中に墜落して死去。享年43歳。
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【★350】「博多の名物男」長尾丈七没:「博多の名物男/川丈主人逝く/福岡市東中洲合名会社川丈主長尾丈七氏は数年前より病気に罹り自宅にて療養中昨五日午前零時廿分逝去した享年七十三葬儀は故人の遺志により川丈座に於て九日午後四時半より執行する由氏は博多一の名物男にて十三歳より野菜行商をなし廿六歳より大工餅屋風呂屋等をいとなみ辛酸を嘗め中年より川端町にて湯屋を開業し日清戦役頃現今の川丈本館を経営し奮闘の結果今日の地盤を築き引続き旅館や劇場を経営し一方明治四十二年より博多東中洲九丁目の町総代兼衛生組長を努め万行寺孤児院創設福岡盲啞学校創立等に尽力し明治四十三年共進会当時は演舞主任となり赤十字社総会の砌閑院宮同妃殿下の御前で翁得意の博多仁和加「二人羽織」を台覧に供し御賞美の言葉を賜つた同座前の作人橋架設は全く一人で多大の費用を投て完成された物で遺族は長男寅吉氏次男磯次郎氏等子女六人を有して居る翁の如き貧困より身を起し今日の盛を致したのは全く立志伝中の人である可惜」(「福岡日日新聞」昭3・3・6)
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【★351】九州帝大が左傾学生処分・3教授は連袂辞職:「昭和三年(一九二八)三月十五日未明、日本共産党などの関係者千数百名が治安維持法違反の容疑で全国的に検挙される三・一五事件が起こると、文部大臣水野練太郎は同事件被告学生の処分、社会科学研究会の解散、左傾教授に対する処置の三項目について徹底的取り締まりの方針を決め、ただちに各大学総長を招致してその意向を伝えた。左傾教授として処分されたのは、東京大学の大森義太郎、京都大学の河上肇、九州大学の向坂逸郎、石浜知行、佐佐弘雄で、九州大学はこの処分でもっとも大きな打撃を受けた。/九州大学では、四月十九日の評議会において、法文会内の社会文化研究会の解散を決定し、同日午後五時その解散を掲示した。また同事件に関係した法文学部学生二名、同選科生一名、農学部学生一名、計四名の放学処分、法文学部学生二名、医学部学生一名、計三名の諭旨退学処分を決定した。/四月二十日、学部長会議が開かれ、教授罷免問題について審議が行なわれた。翌二十一日、法文学部有志教授会が開かれた。教授の間には、学問の自由を守るという観点から、三教授の言い分を聞いたうえで、大学独自の判断をするようにとの意見も出されたが、大工原総長はこれらの意見については、「官憲の言い分を信ずるより外はない」といって再審理を拒み、結局総長の処置を認めることになった。こうして大工原総長は法文学部各教授の意見を徴し、その報告をまって三教授を招喚したが、三教授は招喚に応じなかった。/二十一日夜、向坂、石浜、佐佐の三教授は、総長の辞職勧告にさきだって、「大学存立の意義は一に研究の自由にある、而してその拡充は吾々の窃かに期したる処であった。然るに今やその自由は不当に縮少され終るのを見る、吾々はこれ以上かゝる学苑に留まるの無意義を信じ爰に連袂辞職を決意したのである」との声明を発表し、春日学部長の手を経て辞表を大工原総長に提出した。なお、助手塚本三吉については、総長が辞職をせまったため、やむなく辞職願いを提出した。/これよりさき、法文学部では昭和二年(一九二七)十月に法科の教官の間で内紛が生じ、同年十一月には、「文官分限令」第十一条第一項第四号「官庁事務ノ都合ニ依リ必要ナルトキ」との理由によって、東季彦、風早八十二、滝川政次郎、山之内一郎、木村亀二の五教授および助教授杉之原舜一の計六名が休職を命じられており、この内紛に続く三・一五事件による三教授の辞職によって、法文学部の教官は著しく減少することになった。このため、法文学部では後任補充問題、復職問題等でしばらく紛糾が続いた。」(『九州大学七十五年史 通史』)
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関連情報 |
詳細
レコードID |
410594
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1928
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和暦 |
昭和3年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |