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福岡都市圏近代文学文化年表 ; 大正14年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 堺利彦「堺利彦伝」(「改造」*9月号まで連載)久保泰造「弱き兄弟」(「福岡日日新聞」15日―7月8日)別所悌一「狂へるもの」(「福岡日日新聞」17日―6月4日)2月 阿部王樹「廻礼―福岡記にて」(「同人」)杉山其日庵(茂丸)『山形元帥』(博文館)5月 山田牙城「畑の中にうづくまる」(「九州日報」25日)西川虎次郎『忠孝義烈 吉岡大佐』(大道学館出版部)半田良平『新釈大隈言道歌集』(紅玉堂書店)6月 渋谷潤「麗日」(「九州日報」1日)渋谷潤「あんにゆい」(「九州日報」8日)星野胤弘「灰色の思想を投げ出す」(「九州日報」22日)7月 山田牙城「山峡の幽邃」(「九州日報」13日)今井慎之介「夜を接吻する」・星野胤弘「霖雨期の或深夜」(「九州日報」20日)8月 久保より江『嫁ぬすみ』(政教社)竹田秋楼『日本南国物語』【★295】(福岡・金文堂)10月 八波則吉『読本中心 創作本位の文章法』(教育研究会)12月 伊藤野枝『伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会*同全集の別巻)
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文学的事跡:1月 田中紫江ら俳誌「寒燈」【★296】創刊(*昭和5年11月終刊)。3月 清原枴童【★297】・河野静雲【★298】らが俳誌「木犀」創刊。長谷健が福岡師範学校第一部を卒業し、翌月柳川の城内小学校に奉職。川崎竹一【★299】が福岡高等学校文科丙類を卒業し、翌月九大法文学部文科(仏文学科)に進学。4月 杉山泰道(夢野久作)が九州日報社に復職(1日)。長井盛之が福岡師範学校本科第二部に入学(*翌年3月卒業して翌月嘉穂郡大谷尋常高等小学校訓導)。片山孤村(正雄)【★300】が九大法文学部に赴任。長井盛之【★301】・福田秀実が福岡師範学校本科2部に入学。山田牙城・星野胤弘・高本加夫・山口紅花らが奔走して「福岡詩人の集り」を東中洲の「カフエーパウリスタ」で開催し、市内の7詩結社が合同して「福岡詩社」を結成【★302】(11日・18日)。田中小実昌、東京千駄ヶ谷で出生(29日)。池田元治(筆名は藤井辰夫)が詩誌「単調時代」創刊(*1号のみ)。5月 福永武彦が福岡市立警固小学校に転校(9日)。九大で俳句会(=九大俳句会【★303】)開催し、「天の川」の禅寺洞・烏城らも出席(10日)6月 各務章、福岡市で出生(1日)。石村通泰(詩人)、福岡市で出生(9日)。7月 福岡詩社の機関誌「心象」【★304】創刊。大場可公、福岡県で出生(24日)。村上鬼麿・浜田虎三・川崎竹一・都秋瑪市らが詩誌「南方詩人」創刊。10月 成瀬正一(なるせ・せいいち)【★305】が九州帝大法文学部講師(フランス文学担当)として赴任。11月 若山牧水が妻・喜志子同伴で来福し(9日)、太宰府天満宮参拝後、呉服商倶楽部(中間新道=現・博多区綱場町)での若山牧水歓迎九州短歌大会(福岡日日新聞社主催)に出席、「創作」福岡支局同人の田中紫江・中野紫葉らが世話をし、中島哀浪【★306】も参加、半折揮毫展示会は福岡市記念館で開催(11日)。江頭光、台湾台南市で出生(26日)。12月 東北帝大工学部生の芝不狂(不器男)の作品が俳誌「天の川」に初登場(*「下萠のいたく踏まれて御開帳」)、翌年は巻頭句連取の活躍。
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社会文化事項:1月 九州帝大法文学部の第1回入試に女子高等師範学校卒業者3名が受験し2名が合格(14日)。2月 福岡市産婆会附属無料産院開院。3月 冨永朝堂個展、県庁前の福岡県商品陳列場で開催(1日―4日)。吉村好五郎が天神町に新刊書店「吉村書店」開業。4月 福岡県立女子専門学校を福岡県女子専門学校と改称(1日)。福岡県早良高等女学校、早良郡原村に開校(1日*当初は組合立、昭和2年4月県立移管)。福岡盲啞学校が本年度より新入学児に対して口話法を採用すると保護者に通告(6日)。浅原健三ら九州民憲党結成(6日)。北九州鉄道会社(筑肥線の前身・本社は唐津市)の「姪浜駅」開業(15日*博多駅開業は15年10月15日)。日本航空会社の福岡―大阪間の定期飛行郵便開始(20日)。福岡高等学校で非合法の社会科学研究会結成。5月 福岡県婦人水平社創立大会、市外東公園博多座で開催(1日)。福岡日日新聞社―西公園間の無線電話放送大会開催(4日)。湾鉄の新博多―宮地嶽間全通(●7月1日?)。第5代玄洋社社長・進藤喜平太没(11日)。福岡市立第一女学校、小烏馬場の福岡女子高等学校敷地内に独立校舎を建設し開校(15日)。第5回福岡美術協会展、福岡県商品陳列場で開催。福岡県警察の発足50周年を記念し機関誌「暁鐘」創刊。福岡市信用組合設立。7月 九大医学部特診事件【★307】発覚(17日)。8月 「紙与」閉店記念謝恩売り出し(4日)。博多タクシー開業1周年記念事業で無賃乗車サービス(17日)。九州帝大医学部で火災発生し、第1―3内科・第1外科・整形外科が全焼(30日*午後2時30分頃)。9月 郷土雑誌「福岡」(東西文化社)創刊(10日)。再び九州帝大医学部で火災発生し(9日*午後8時30分頃)、衛生学・法医学教室が全焼、細菌学教室その他が半焼、特診事件との関係が話題になった。10月 第2回国勢調査実施、福岡市の戸数は●、人口は143136人(1日)。玉屋呉服店が東中洲の福岡ビルデング(十七銀行・福岡ホテルが入居)を買収改装し「玉屋デパート」開店【★308】(4日)。東中洲で「大菊花壇」(菊人形展)開催(9日)。福岡市青年団自転車競技大会(17日―18日)。11月 福岡高等学校社研メンバーが東中洲の書店「積文館」3階広間で秘密裡にロシア革命記念祝賀会(7日)。佐野学講演会(福岡合同労働組合主催)、箱崎公会堂で開催(18日)。「博多劇場」を「帝キネ倶楽部」(のち「大衆座」) と改称改装し開館式(19日)。福岡高等学校の蜷川新講演会で一部学生(社研会員)が騒ぎ混乱【★309】(21日)。水上公園に音楽堂建設。この年、県下の自動車台数(1月調査)は乗用自動車409台(自家用65、営業用344)、貨物自動車84台(自家用51、営業用33)、オートバイ292台。荻野綾子【★310】、詩人の深尾須磨子とパリ留学。
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日本・世界事項:1月 孫文没(12日●2月3日)。梶井基次郎ら文芸誌「青空」創刊。3月 初の電波放送、東京高等工芸学校から発信。以後、東京放送局・名古屋放送局・大阪放送局が開局。4月 県立学校名を「福岡県立○○学校」から「福岡県○○学校」に改称(1日)。大阪朝日新聞門司支局が本紙付録「九州朝日」「朝鮮朝日」発刊【★311】(1日)。治安維持法公布(22日)。5月 「家の光」創刊(1日)。普通選挙法公布(5日)。上海の共同租界で学生2000人余、労働者虐殺に抗議し租界回収・打倒帝国主義の暴動=5・30事件(30日)。「家の光」創刊。6月 香港の労働者、5・30事件に呼応しゼネスト開始(19日)。水町京子ら歌誌「草の実」創刊。7月 佐藤惣之助ら詩誌「詩之家」創刊。中村武羅夫ら「不同調」創刊。10月 第2回国勢調査(1日*内地人口5917万9200人)。12月 日本プロレタリア文芸連盟結成(6日)。
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【★295】『日本南国物語』:大正14年11月20日発行。著者は竹田秋楼(福岡日日新聞記者)。発行所は金文堂(福岡市中島町9番地)。印刷所は唐文社(東京市牛込区早稲田鶴巻町107番地)。巻頭に坪内逍遙(*「早稲田学園の恩師」)・高田直屹(※同郷で「本邦製紙界の泰斗」)・著者の「序」があり、以下、「博多茶記」・「姫島破獄」(*野村望東尼の事跡)・「奥羽征伐」・「筑前琵琶」・「博多小女郎浪枕」・「非人小平」・「継高毒殺」・「漂流実話」(*唐泊孫七の事跡)・「宗像お政」・「博多古名物」・「少年の讐討」・「領分争ひ」・「覗きカラクリ」・「博多日記」・「狂女お松」・「五所権現」・「新演劇の開山」(*川上音二郎の事跡)。
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【★296】俳誌「寒燈」:田中紫江句集『菊』(昭29・6)巻末「年譜」の「大正十四年(四十二歳)」の項に「一月、俳誌「寒燈」創刊。霰刀の誌面自づと二派に分れたるより、相談の上「寒燈」と「木犀」(今の冬野の前身)とに各々独立したるなり。」とある。
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【★297】清原枴童:明治15年年1月6日、福岡県那珂郡の生まれ。俳人。本名は伊勢雄。20歳過ぎの頃、俳句を伊形青楓に学び、大正2年上京。高浜虚子に師事し、大正4年、帰郷。「博多毎日新聞」の俳壇の選者をつとめた。大正14年、俳誌「木犀」を創刊主宰。昭和5年、ホトトギス同人。同5年、旧朝鮮に渡り、木浦新聞社に入社、南鮮俳壇を結成した。13年8月、木浦新聞社学芸部長を辞し帰福。23年5月16日、脳溢血のため急逝。句集に『拐童句集』(素人社、昭9・6)『枯蘆』(近澤書店、昭18・12)がある。「本名伊勢雄 明治十五年一月六日福岡県那珂郡に生る。新聞記者。明治三十七・八年俳句に指を染めしも中止、大正元年より虚子先生を宗とし句作に励み、後博多毎日新聞・九州日報・釜山日報・木浦新報等に相次いで俳壇創設或は担当し今日に至る。大正末期、福岡に於いて末永感来・河野静雲等と結び、木犀会を組織、雑誌「木犀」を発行すること三年余、昭和三年東京に移居、同五年朝鮮木浦に住居、同十三年福岡に転住、昭和五年ホトトギス同人に列す。/*現住所 福岡市東堅粕(略)」((自筆略歴、麻田椎花編『ホトトギス同人句集』三省堂、昭13・12)
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【★298】河野静雲:明治20年11月6日、福岡市の生まれ。俳人。福岡市官内町(現・博多区)の一行寺(浄土宗)に生まれた。本名は裏辻定運(うらつじ・じょううん)。生後まもなく農家に里子に出され、同25年、市内片土井町(のち市内馬出に移転)にあった称名寺(時宗)住職の河野智眼の養子となった。中学修猷館に在学し、やがて神奈川県藤沢の時宗総本山遊行寺の時宗宗立学林に学んだ。明治38年、帰郷し、称名寺に寄寓。俳句は大正3年末から、ホトトギスに投句を始めた。大正7年から2年間、時宗総本山遊行寺の執事をつとめ、その後宮城県亘理町の専念寺の住職をしたあと大正12年6月に帰郷。翌年、福岡市の清原枴童(きよはら・かいどう)らと木犀会を結成し、大正14年3月、俳誌「木犀」を創刊。昭和5年、「木犀」主宰を枴童から引継ぐ。同9年、「ホトトギス」同人となり、同16年、戦時下の県下五俳誌(「雷鳥」「やまたろ」「貝柱」「無花果」「木犀」)合併による俳誌「冬野」を主宰。同24年、福岡県太宰府町観世音月山に「花鳥山仏心寺」を創建開山。多くの俳弟子たちが浄財をつのって創建した、いわば俳諧寺であった。同39年、西日本文化賞受賞。俳人協会名誉会員。昭和49年1月24日没。享年87。村上護『仏心の俳句』(佼成出版社、平4・3)に、河野静雲の生涯を素描した一章がある。静雲没後、俳誌「冬野」は小原菁々子が継承。句集に『閻魔』(静雲句集〝閻魔〟刊行会、昭15・12)『閻魔以後』(西日本新聞社、昭48・11)『〈脚註名句シリーズⅠ・7〉河野静雲集』(俳人協会、昭60・2*略年譜付載)がある。
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【★299】川崎竹一:明治37年3月23日、長崎県生まれ。昭和4年、九大卒業後、文藝春秋社に勤務し、14年、「文學界」編集長。19年退職し、著述業に専念。昭和57年4月28日没。
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【★300】片山孤村(正雄):明治12年8月29日、山口県佐波郡船路村の生まれ。明治35年、東京帝大文科大学独文科卒。七高、学習院で教壇に立ち、ドイツの象徴詩論を紹介。『最近独逸文学の研究』(博文館、明41・12)上梓。明治44年2月から大正2年までドイツ留学。帰国後、『独逸文法辞典』(博育堂、大5・8)上梓。10年、京大講師。14年九大法文学部に赴任し独文科を担当。大正5年以来執筆に取り組んだ日本初の本格的独和大辞典『双解 独和辞典』(南江堂、昭2・7)を上梓。昭和7年、九大を辞し上京したが8年12月18日没。「わたしがもと女子師範前の鳥飼二丁目にしばらくいた頃、片山さんも道路と空地をへだてて直ぐ前の鳥飼三丁目の、菰川にそった角の家に移ってこられたので、二三度お宅に伺ったことがあるが、片山さんは短かい廊下づたいの四畳半の離れにとじこもって『独和辞典』に相変わらず専念されていた。夕方などステッキをさげて散歩している姿も見かけたが、元来やせ型がいよいよ細くなり、顔色もすぐれず、いかにも仕事に精根かたむけつくしたと言う、見るもいたいたしい姿であった。」(秋山六郎兵衛『不知火の記』白水社、昭43・1)
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【★301】長井盛之:明治38年5月19日、福岡県飯塚町川島(現・飯塚市)の母キミの実家で生まれる。父親は頴田小学校長。立岩小学校、嘉穂中学をへて15年3月、福岡師範学校本科第2部卒。在学中は弁論部に所属し、同級の大津敏夫(松尾黙人)のすすめで福田秀実と一緒に新短歌に親しんだ。昭和3年6月、松尾黙人・福田秀実と新短歌雑誌「静脈」創刊、自宅(福岡県小竹町乱橋)に発行所を置いた。昭和4年3月、福岡市立大名尋常小学校訓導に転任。5年5月、九州新興歌人聯盟を結成し、機関誌「火山脈」を創刊。13年5月、福岡師範学校訓導。戦後は福岡県教育委員会、ついで福岡市教育委員会に勤務し、39年5月退職。一方、文芸活動は昭和25年5月、短詩型文学総合誌「日本短詩」創刊(翌年経営困難となり廃刊)。39年12月、「日本短詩」復刊。また「国語をよくする会」を結成した。
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【★302】「福岡詩社」結成:「彼(*山田牙城)は佐賀県人である。福岡への転住は大正十年十一月の東邦電力入社以来である。彼が大宇宙社を起し詩誌「燃ゆる血潮」を発刊し、始めて福岡詩壇に名乗を挙げたのは震災の年大正十二年九月であつた。僕等は丁度その頃既に「宇宙」と云ふ詩誌を出してゐたが、「大宇宙社」と「宇宙」との同名称は偶然と云へば実に偶然であつた。大正十三四年頃は実に福岡詩壇の黄金時代であつた。山田牙城の「燃ゆる血潮」村上鬼麿の「詩盟」今井慎之介、渋谷潤の「裸体」僕の「黎明」其他「芙蓉」「文芸人」「単調時代」「星潮」等々枚挙に暇なき群雄割拠の時代であつた。/其の頃の彼の詩風は、その誌名の示す如く、「燃ゆる血潮」の高鳴るまゝに、「十字街頭に吠え狂ふもの、そは××である。」と云つた恐ろしく鼻息の荒い当る可からざる気魄があつた。僕は一夕山口紅花君と相携へて千代真砂町なる彼の下宿を訪ふたことがあつたが、生憎不在で逢へなかつた。詩誌の交換は其の頃からだつたが、文通を始めたのは小烏馬場に居を転じたころからだと記憶する。その頃の彼は詩壇の熱血児たるやの感があり、福岡地方出版の詩誌の鋭利なる批評をやり、又福岡詩壇盛衰記をものしたことがあつた。彼の北九州詩人聯盟を高く叫んで立つたのは、其の頃であつたが、「吾笛吹けども人踊らず」それは遂に酬ひられなかつた。/(略)/始めて彼に逢つたのは大正十五年の晩春と想ふ。それは福岡詩人の提携一致運動を見る前提ともなつたのである。福岡詩人の一堂に於ける会合は其の直後に醸し出されたのである。彼と高本加夫と山口紅花と僕は、福岡詩人の戸別訪問を毎夜の如く重ねた。加藤介春氏、浦瀬白雨氏(氏には移転後で逢へなかつたが)富永夜詩枝、今井慎之介、池田元治、縄手琢磨、村上鬼麿諸氏の訪問は、遙かなる想ひ出となつた。そうした福岡詩人の会合の機運は福岡詩社の組織となり、機関誌「心象」の創刊となつたのである。此の間の彼の活動は実に福岡詩壇史に特筆大書すべきである。その福岡詩社は同人十七八名を数へたが、可惜二号に終つたのは遺憾の極みだつた。/此の同人の中に原田種夫、織久順作がゐたが、彼との交友は此処に始まり、討論に、散策に、将棋にその厚情は加り、僕も時々その一座に加り行を共にしたことがあるが、之は彼等の浪漫時代とも云ふ可きであろう。」(星野胤弘「詩人としての、人間としての山田牙城」、「先発隊」4、昭6・11)
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【★303】九大俳句会:「九大俳句会の始まりは、明治三十八、九年京都帝大分校のころである。当時学生であつた加藤鳥里、井尻長人等七、八名が集つて句会を行つたのが始めらしい。その後荘原麻雀、大屋扇城によつて孑孑(げつげつ)会が作られ、後に糸瓜会、六息会と改称された。従来の慰安的な句会から研究的な集りとなつたのもこのグループからである。当時俳壇で圧倒的勢力をもつていた河東碧梧桐の全国慢遊の途次、福岡に立ち寄つた際に彼等も馳せ参じたものと思われる。ホトトギスが復活し、吉岡禅寺洞が天の川を創刊した頃編集部に入り、熱心に活動したのは医学部生小川素風郎であり、九大俳句が本格的になつたのは実に彼によるものであつた。大正七年八月、九大俳句会は「有苞(アルツト)会」として新しく発足し、第二内科医局の人が多数を占めていたらしい。学外から当時福岡貯金支局長富安風生も参加している。素風郎は卒業後、呉内科に入りそこで医局の句会を起し一時盛んであつた。大正十四年には有苞会を拡大して九大全学部綜合の九大俳句会が今井常雄等によつて生れた。しかし数質とも医学部が占めていた。当時の俳壇は禅寺洞の提唱した新興俳句が機運に乗じて天下に拡がり、草城秋桜子等の新風俳樹立が成つた頃である。白虹は後日俳壇の一方の雄となり、彼についで棚橋影草、北垣一柿、坂口涯子が現れたが、この四人は各々特異の作風をもつて活躍しひとり「天の川」のルネツサンス時代を形成したのみならず、全俳壇の革新に貢献する所頗る大であつた。この会には当時の石原教授も謹厳な顔をのぞかせていたそうである。昭和十年頃楠内科に「水鶏会」があつた。昭和十年夏ごろから、九大俳句会は本格的活動を始め、禅寺洞も殆ど毎日出席しており、九大俳句会空前の盛況を呈したが、その後支那事変が拡大するにつれて下火となつた。加うるに「天の川」の廃刊で全く道場を失つてしまつた。終戦後の窮迫は又学生生活にも影響し、俳句どころではなかつた。昭和二十二年三月選者戸田河畔子(医学部長)の「ながらび」が発行され、学生医局員等二十名位の集りで句会が開かれていたが、これもやがて「ながらび」第五号で自然消滅の形で途切れ、全くブランクの状態が続いた。/昭和二十六年十月学生の中に俳句をやる者も次第に多くなり、句会を持ちたいという気運に、再び戸田河畔子の下に二十数名程集り、医学部俳句会が発足した。月一回の定期俳句会には市内のホトトギス同人竹末春野人も指導に参加した。二十七年四月には正式に躬行会文化部の傘下に認められてて今日に及んでいる。この間謄写版刷の句報が毎月発行され、お互いの自由な作句研究がなされている。又、解剖学教室では教室員のみよりなる句会をもち金関丈夫教授、森優教授を始め殆ど全員が参加している。」(「俳句会」、『九州大学医学部五十年史』)。なお、自筆「吉岡禅寺洞年譜」(『俳句文学全集 吉岡禅寺洞篇』)の「明治三十八年」の項には、「九大俳句会(糸瓜会のちに孑孑(ゲツゲツ)会、六息会)の故荘原麻音、間利子紙鳶城と親交を結ぶ。」とあり、また「大正十五年」の項に、「この頃、九大工科学生米沢吾亦紅親しく来社。今井嫦娥より徴されて「九大俳句会」と命名す。「九大有苞会」以後、、小川素風郎時代を経て、新しく九大の俳句団体生る。今井嫦娥、米沢吾亦紅、館林水羊、阪口涯子、横山白虹、松下鷲巣、板東章、白木但、中村一弛。他に白土古鼎、大屋無亭等の団体あり。」とある。板東章は卒業後、郷里徳島で医院を開業。白土古鼎は嘉穂中学、福岡高等学校をへて九大医学部に入学。陸上部の医学部主将。「天の川」に昭和2年12月号から投句を開始し昭和4年九大卒業。
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【★304】詩誌「心象」:詩の結社「福岡詩社」の機関誌。7つの詩結社とは「黎明」「超人」「詩盟」「ミドリ」「南潮」「南日本詩人」旧「炎上」(*山田牙城「昔を今に」(「九州文学」昭43・1)によると「黎明」「詩盟」「南日本詩人」「裸体」「芙蓉」「単調時代」など)。メンバーは顧問格に加藤介春・浦瀬白雨、同人は今井慎之介・井手芦博(八十島稔)・木下姫二郎・渋谷潤(喜太郎)・高本加夫・武田幸一・田中利男・辻本又造・中村勉・藤井辰夫・星野胤弘・村上鬼麿・森田与一郎(緑雨)・山口紅花・山田牙城ら、準同人は安東重紀・織久順作・原田種雄(種夫)・山下愁・山田湖詩人、会員は桂川落風・岸川康雄・白水真澄。大正14年7、8月と計2冊(*山田牙城「九州の文学運動史」によると計3冊)出したが、村上鬼麿らが盟約を破って「南方詩人」を同年9月に創刊したため、福岡詩社も瓦解した。「ちょうどそのころ、福岡在住の詩人たちの間に、大同団結して強力な詩誌を出す話が進められていた。この話が実を結び、各自の詩誌を終刊して「福岡詩社」を結成し、七月に機関誌「心象」を創刊した。わたしたちも含めて七つの詩社が合体して十六人の詩人が結集し、二人の準同人を加えた。この準同人の一人が原田種夫で、これが原田の文壇への第一歩となったのである。」(今井慎之介「福岡県の戦前におけるプロレタリア文化運動(おぼえ書)」)
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【★305】成瀬正一:明治25年4月26日、横浜市東神奈川の生まれ(本籍地は香川県木田郡井戸村4114番戸)。フランス文学者。明治43年3月、東京市立麻布中学を卒業し、同年9月、第一高等学校第一部文科乙類に入学。同級生に菊池寛・芥川龍之介・久米正雄・松岡譲・井川(のち恒藤)恭らがいた。大正2年7月同校を卒業し、同年9月東京帝大文科大学文科に入学。5年2月、級友の芥川龍之介・久米正雄・菊池寛・松岡譲らと第4次「新思潮」創刊。同誌に「最初の石」「罪」「航海」などの諸短篇を発表する一方、ロマン・ロランに傾倒し飜訳『トルストイ』(ロマン・ロラン作、新潮社、大5・3)を刊行。5年7月同校を卒業し、翌月アメリカをへてフランスに留学。8年1月7日帰国。翌月結婚。10年2月、フランス文学研究のため再度渡仏し、14年2月帰国。同年10月、九州帝国大学法文学部講師として単身赴任。当座は栄屋旅館に滞在し、まもなく家族を呼びよせて福岡市地行西町に居を構えた。15年5月教授昇進。10年1月欧米留学し11月帰国。翌11年4月13日、地行西町の自宅で死去。16日の浄満寺(地行)での葬儀には東京から飛行機で菊池寛が駆けつけた。遺著に『仏蘭西文学研究』第一・二輯(白水社、昭13・5、14・10)がある。
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【★306】中島哀浪:明治16年7月30日、佐賀県佐賀郡久保泉村に生まれる。本名は秀連。早大中退後、清和女専・福岡女専・竜谷高校などで万葉集などを講じた。大正2年、前田夕暮主宰の「詩歌」に参加。11年7月、深川平治と歌誌「ひのくに」創刊。昭和3年、同誌を復刊し、平明な生活的短歌の芸術性に練達を示した。
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【★307】九大医学部特診事件:九大医学部附属医院の充実にともない九州・関西・台湾などから診察希望者が激増し、医学部前の旅館に滞在して順番を待った。そこにつけこみ医者の公務以外の特別診察を斡旋する旅館業者が横行した。内偵を進めていた福岡地裁検事局と警察署は7月17日、医学部前の旅館「石城館」の家宅捜査から着手。旅館関係者の摘発と同時に大学側からも精神科教授榊保三郎、整形外科学教授住田正雄、附属医院長兼産婦人科学教授今淵恒寿らを喚問。3教授は辞表を提出し、8月11日付で依願免官。司法省は不起訴声明を出し、不透明のまま一件落着した。
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【★308】玉屋デパート開店:「佐世保玉屋」(大正9年創業)を経営する田中丸善蔵(父祖の地は佐賀県牛津)は、大正9年12月、福岡市内の老舗呉服店「紙与」を買収。福岡市進出の足がかりとし、14年4月、十七銀行東中洲支店の入居する福岡ビル(十七ビル)を買収。7月から内部改装工事にかかり、新館も増築、10月、株式会社玉屋呉服店を設立。取締役社長は田中丸善蔵、専務は田中丸清次、常務は田中丸善八。東京三越から営業支配人をスカウトし、4日開店した。売場は地階から5階まで。従業員は約200名。朝9時から夕方7時まで営業。全館、男性は靴カバー、女性は下足番に履物を預けて素足で店内に入った。(咲山恭三『博多中洲ものがたり(後編)』)●要新聞記事
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【★309】蜷川事件:学生・生徒の社会運動に対する思想善導のため文部省は法学博士蜷川新を福高に派遣し、講演会が開催されたが、その際会場の左翼系学生が怒号を浴びせ、大混乱に陥った。ために学校当局は26日、職員会議で処分を決定。放校2名・諭旨退学2名・無期停学6名・謹慎数十名。直ちに生徒大会が開かれ、学校側と対立。しばらく混迷を深めた。諭旨退学生の1人は笹月浄美(文三甲)。笹月は大正12年、嘉穂中学四修で福高文甲に入学。社研では幹部の1人。退学後は九大教授の河村幹雄が預かり、専検を受けて九大国文科に入学。春日政治教授に師事し、本居宣長研究を専攻。戦争中は神宮皇學館の教授、戦後は福岡女子大教授。
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【★310】荻野綾子:明治31年11月2日、福岡市の生まれ。福岡高等女学校をへて東京音楽学校声楽科卒。詩人の深尾須磨子と親交。文芸誌「明星」に詩を寄稿し(●要調査)、また歌曲の作曲も手がけた。大正14年、パリに留学し声楽とハープを学んで帰国。昭和5年、再度パリ留学。8年、東京音楽学校講師。9年、音楽研究家の大田太郎と結婚し退職。以後は演奏活動に専念。昭和19年没。
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【★311】「九州朝日」「朝鮮朝日」発刊:通常2頁立て。大正15年12月15日「山口朝日」発刊、昭和3年「朝鮮朝日」は「南鮮版」と「西北鮮版」の2版に、9年12月「満洲版」、10年2月「台湾版」も発刊した。
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関連情報 |
レコードID |
410591
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1925
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和暦 |
大正14年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |