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福岡都市圏近代文学文化年表 ; 大正12年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 八波則吉「童謡・童話の世の中」(「福岡日日新聞」1日)久保猪之吉「鰐の涙」(「九州日報」2日)2月 高橋新吉「ダダ仏問答」・辻潤「ふあんたじあ」(「駄々」)4月 加藤介春「坪内博士の児童劇」(「九州日報」24日―30日)6月 原田謙次「愛国心と郷土芸術」(「福岡日日新聞」4日―11日)8月 大杉栄/伊藤野枝共訳(アンリイ・ファブル著)『〈アルス科学知識叢書〉科学の不思議』(アルス)9月 大杉栄/伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣)■この年、杉山茂丸『建白』(私刊)八波則吉『教育に安住して』(教育研究会)
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文学的事跡:1月 「福岡日日新聞」社告で賞金総額12300円の文芸・論策懸賞募集【★267】(1日)。福岡市内の水茶屋で古本屋をしていたダダイストの古賀光二【★268】が詩誌「駄々」【★269】創刊。3月 星野胤弘・山下清之介・石川孤木らが詩誌「大地」創刊(*7月「宇宙」と改題し1号で終刊)。森田緑雨(与一郎)が個人詩誌「みどり」創刊。第3回福岡美術会展、福岡市記念館で開催(25日―4月10日)。青柳喜兵衛が福岡商業学校卒業。筑紫豊が福岡中学を卒業。留学中の郭沫若・陶晶孫が九州帝大医学部を卒業。4月 福岡高等学校に英語担当教授の本多顕彰【★270】が赴任(10日*昭和2年9月14日付で東京女高師に転出)。福田清人【★271】・那須辰造【★272】が福岡高等学校に入学。原田種夫が西南学院高等学部文科に入学。小椎尾勇・大原紅羊・小野小代子らが文芸誌「詩と創作」創刊。安藤筑前郎・田中紫江・角菁果【★273】らが俳誌「霰刀(さんとう)」創刊。古賀光二が「ダダ講演会」を企画、辻潤が来福し福岡県公会堂で講演【★274】(13日)。6月 この頃、「天の川」編集所を奈良鹿郎宅から三井物産門司支店の独身寮に移し園田筑紫郎・中尾水■牛・村田桃源洞が編集担当。8月 今井慎之介【★275】・渋谷潤(喜太郎)・佐賀琢磨・萩原史郎らが詩誌「裸体」創刊(*13年11月まで)。上野英信(記録作家)、山口県吉敷郡で出生(7日)。9月 山田牙城が詩誌「燃ゆる血潮」【★276】(大宇宙社)を創刊し、高本加夫・山西斌文・山口紅花も参加(*19号をもって14年4月「南日本詩人」と改題)。杉山泰道(夢野久作)が九州日報社特派員として関東大震災の惨状を取材し【★277】、「九州日報」夕刊に「東京震災スケッチ」を連載開始(15日)。伊藤野枝が東京麹町憲兵分隊で扼殺さる(16日)。10月 上阪した西谷勢之介が当地で詩誌「風貌」を創刊(*縄手琢磨・今井慎之介も寄稿、大正13年6月まで)。12月 白水吉次郎が馬関毎日新聞社に校正係として勤務(*3箇月余で辞職)。谷川雁(本名は巌、詩人・評論家)、熊本県水俣町(現・水俣市)で出生(25日*16日とも)。この年、清原拐童らが俳誌「木犀」【★278】創刊。田中紫紅らが俳誌「木賊(とくさ)」【★279】創刊。
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社会文化事項:1月 「福博座」を「南座」と改称開場(1日)。山本芳太【★280】(弥助の弟)が金文堂福岡支店を辞し(8日)、東中洲玉屋横に文具・教科書販売店「金星堂」開店。早朝、東中洲「電気館」近くで大火発生し、「世界館」・「松葉屋呉服店」・「九州劇場」・「積文館」・「博多商業会議所」など全焼57戸・半焼7戸(17日*世界館は昭和2年末「本興座」として再建、博多商業会議所は天神町の東邦電力九州支社内に仮移転●⇒九州日報に中洲地図あり)。野口雨情が来福し、福岡中学で民謡・童謡について講演会(13日)。待合「まさ」(中券芸妓お政)、南新地春吉橋詰に開業(23日)。森下忠恕が私立九州産婆女学校を大乗寺前に開校。2月 東中洲初の高層ビル「福岡ビルデング」竣工【★281】(1日)。3月 福岡市の第1次上水道工事が竣工し因幡町の抜天運動場で通水式【★282】(1日)。(財)太田家報徳会が福岡貸家紹介所を開設。福岡高等学校に仏語担当の傭牧師エウジェーン・ジョリー【★283】が赴任。私立福岡夜間中学、大名小学校内に創立(24日*4月14日開校)。私立江本裁縫学校(住吉町)開校。4月 私立九州家政女学校、春吉久恵に創立(2日*昭和10年筑陽女学校、40年太宰府に移転し筑陽学園高校と改称)。増田龍雄が花柳雑誌「花ごよみ」(月刊)創刊(10日)。福岡県女子専門学校【★284】、須崎裏町に開校し第1回入学式(17日*公立女子専門学校の嚆矢)。私立福岡産婆学校(水茶屋)創立。堺タカが私立福岡家政女学校(春吉町)創立。博多仁和加の生田徳兵衛一座、ハワイ・カリフォルニア興行に横浜出航(28日)。5月 松本治一郎【★285】ら、市外東公園の「博多座」で全九州水平社創立大会開催(1日)。久邇宮良子(前年9月皇太子妃に内定)が両親・妹と九州旅行で来福(14日―16日)。6月 中洲大火で罹災の「生田菓子店」が再建落成、和洋菓子部・和洋食品部・家庭飲物部の3部で開店(23日)。7月 福岡市を都市計画法施行都市に指定(1日*14年4月22日区域決定)。中洲大火で罹災の西洋料理店「三笑軒」が再建開店(10日)。待合「はる美」が東中洲に開店(24日)。福助足袋会社が支店設置、中洲西大橋北側に高さ百尺余の福助足袋大電飾広告塔が完成(*昭和9年に西大橋架替工事で解体)。8月 待合「一すじ」(吉田すゑ子)、東中洲古川写真館裏に開業(6日)。第9代福岡市長に久世庸夫が再任(23日)9月 早良郡水平社創立大会、早良公会堂で開催(2日)。「福岡日日新聞」社説で関東大震災は「天警」と主張(5日)。中洲大火で罹災の潮湯「博栄館」、再建落成開業(15日)。中洲大火で罹災の「中央亭」、3階建新館落成し開業(19日)。福岡県に特別高等警察課設置(*15年5月25日「特別高等課」と改称)。10月 「カナリヤ画廊」(額縁・絵葉書・ブロマイド・文房具)、東中洲電車通りに開店(1日)。「福岡ホテル」、東中洲の福岡ビル4階に開業(4日)。早良郡農民大会を姪浜町で開催し官憲に殺害された伊藤野枝を追悼(16日)。中洲大火で罹災の「甘辛堂」が福助足袋広告塔下に「福助しるこ」と改名開店(21日)。西新町(百道松原)で元寇650年祭開催。日本農民組合九州聯合創立大会、市外箱崎町公会堂で開催(30日)。11月 筑前琵琶の吉田竹子没(5日)。中洲大火で罹災の「電気館」を「友楽館」(日活封切館、のち松竹直営館)と改称再建し開館披露式(11日)。県下初の二科展、福岡県商工陳列所で開催。北九州機械鉄工組合福岡支部が西中洲の支部事務所で総会(東邦電力労働者約70人)を開催し、労働時間短縮など7項目要求決定=東邦電力争議【★286】(23日)。12月 大火で罹災の「九州劇場」再建落成開場式(8日)。常設活動写真館「喜楽館」(松竹封切館)、東中州電車通りに落成披露式(18日*20日開館、戸畑の「東洋クラブ」の解体材料を利用)。市立実業補習学校を市立実業専修学校と改称(21日)。九大工学部応用化学教室から出火、工学部本館が全焼(26日)。松葉屋が罹災跡地で3階建雑居ビルを建築し「中洲京極」(中洲京極百貨店)と命名(*昭和6年1月全焼)。福岡高等学校に国漢担当の教授田村専一郎が赴任。この年、市内高宮に「文化村」(洋風建築11戸)出現。中島町に日本聖公会の「博多諸聖徒教会堂」落成。
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日本・世界事項:1月 「文藝春秋」・「赤と黒」・「少女倶楽部」「アサヒグラフ」創刊。3月 「アサヒスポーツ」創刊。4月 郡制廃止法施行(1日)。マキノ映画製作所創立(*社長牧野省三、俳優阪東妻三郎ら)。「赤旗」創刊。6月 有島武郎心中自殺(9日)。7月 福岡県水平社創立大会、嘉穂郡飯塚町で開催(1日)。村山知義・柳瀬正夢ら「マヴォ」結成し、浅草で第1回展(28日)。長谷川時雨ら「女人芸術」創刊。8月 「白樺」終刊。9月 関東大地震(1日*死者9万1344人、全壊焼失46万4909戸)。朝鮮人暴動のデマひろがり数千人の朝鮮人虐殺。甘粕正彦憲兵大尉、大杉栄・伊藤野枝を憲兵隊内で扼殺(16日)。10月 三宅雪嶺・中野正剛ら「我観」創刊。12月 アナルコ・サンジカズム系労働組合が合同し日本労働組合連合会を結成(*15年1月日本労働組合総連合に発展改称)。
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【★267】「福岡日日新聞」が文芸・論策懸賞募集:「福岡日日新聞の新年号第一面にハデな社告が出た。金壱万円懸賞で長篇小説を募集し、併せて金融・農村問題の論策その他に二千五百円の懸賞募集するという社告である。/これは多年、新聞連載小説の作家選択に困難を感じていた事実もあるが、地方の無名作家を発掘すると同時に、地方文芸を激励する方便とし、また応募の結果によって、地方の作家のありかたを判断することもでき、編集方針に参考したいと考えられた。/その外、この長篇小説募集の先例は、大阪朝日新聞が四年ほど前に、同じく金一万円を懸賞して、無名の文学少女、吉屋信子を発見したことに示唆されたものだが、朝日はこの十二年元日号にもまた同様の懸賞小説募集を社告している。やはりこの企画の効率を重んじているわけだろう。大阪と福岡との間に、ライバル意識を表面化したようで、感無量のお正月を送った。」(黒田静男『地方記者の回顧』黒田静男記念文集刊行会、昭38・12)
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【★268】古賀光二:「古賀光二は、福岡の文学運動の草分の一人で、嘗つて、辻潤、高橋新吉と共にダダイズムを提唱し、機関誌ダダを主宰してゐた特異な詩人であつた。又『新劇』に対する異常なる情熱は、その残されたノートに『新劇』の将来を綴り、勃興し来るプロレタリア演劇の必然的発展を識してゐたことなどに見るも、決して単なる芝居好きではなく演劇の社会的役割について真面目なる研究をなしてゐたことが頷づける。古賀は病死ではなくて姪浜の旅舎において自分から生命を断つたのである。然も十一回目の自殺であつたとは何と言ふ悲惨なことであらう。」(青山光世「福岡における『新劇』運動の十年」)
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【★269】詩誌「駄々」:「一九二二年、十一月の末頃のこと。福岡の古間(*古賀)という青年が手紙をよこした。」「正月から、雑誌「駄々」を出すから、原稿をなんでもいいから送れというのだ。——僕ばかりでなく、新吉(*高橋新吉)のも、それから出来るなら手近いところで無法庵(*武林無想庵)にも頼むというのだ。(略)先生(*古賀光二)はどうしても雑誌が出して見たくってたまらぬと見えて、とうとう一九二三年の、つまり去年の正月に「駄々」という雑誌を出し、僕のところへ三百ほど送ってきて、東京で売ってくれといって来た。」「ところが、古間は「駄々」の二月号の裏面に麗々と「ダダ講演会」の予告を出しているのだ。会場、福岡市於第一公会堂、期日、来る二月中旬頃、弁士、辻潤、高橋新吉、大山白石(*大泉黒石)。主催、福岡駄々社——といった風に。」「箱崎で下車した方が近いということを聴いていたので、箱崎で降りることにした。馬出松原添いというところに古間の下宿があるのだ。」(辻潤「陀々羅行脚」、「世紀」大13・12、のち『絶望の書』万里閣書房、昭5・11)*坂口博「辻潤の福岡講演」(「唯一者」5、1999.12)参照。
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【★270】本多顕彰:明治31年10月7日、愛知県愛知郡八幡村(現・名古屋市)の生まれ。英文学者・評論家。八高をへて大正12年、東大文学部英文科卒業。在学中は豊島与志雄らと親しく交わり、大正12年4月(同年7月10日とも)、福高に赴任した。友人の芥川龍之介が九大に新設予定の法文学部(大正13年9月設置)英文科主任教授として赴任する予定だったので、彼も福高からの招きに応じたという。しかし芥川龍之介はその後、九大赴任を断り、本多顕彰も昭和2年9月14日付で早々に東京女子高等師範学校へ転任。昭和8年、さらに法政大学へ転じた。シェイクスピアや英国近代文学の研究・翻訳が専門。昭和53年6月30日没。
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【★271】福田清人:明治37年11月29日、長崎県の生まれ。大村中学をへて大正12年4月、福岡高等学校文科丙類に入学。15年春、同校を卒業し東大文学部国文科に進学。卒業後、第一書房に入社し、雑誌「セルパン」の編集長を勤める傍ら、モダニズム小説を書く。やがて小説に専念し、戦後は児童文学者としての活動を展開。また研究・評論にもすぐれた業績を残した。著書も多く、小説に『若草』(第一書房、昭13・11)『春の目玉』(講談社、昭38・3)、研究書に『硯友社の文学運動』(山海堂出版部、昭8・2)などがある。「大村の中学をでて、福岡の高等学校に入つたのは、大正十二年の春である。開校第二回目で、しかも二年まで私は寮にゐたので、それほど博多といふ土地に、根をはつた思ひ出ものこらない。(略)私は文科丙類にゐたが、同じクラスから純文学方面に進んだのに那須辰造君がゐた、(略)当時の福高の先生から石川淳氏や、本多顕彰氏を文壇に送つた。石川さんからはフランス語を一年ほど教はつたが、本多さんからは教はる機会はなかつた。」(「博多へ繋る思ひ出—九州時代の話(下)」、「福岡日日新聞」昭16・1・22)
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【★272】那須辰造:明治37年7月30日、和歌山県田辺町の生まれ。小説家・フランス文学者・翻訳家・児童文学者・能楽研究家。大正11年、和歌山県立田辺中学を卒業後、第三高等学校を受験して失敗。12年4月、福岡高等学校文科丙類に入学。2年生のとき福高に赴任してきた石川淳のフランス語の授業を受けた。15年、東大文学部仏文科に入学し、昭和4年卒業。成瀬正勝・深田久弥・福田清人らと第10次「新思潮」を創刊。戦後は児童文学の創作も試み、また青山学院短大・実践女子大などで教壇に立った。昭和50年4月5日没。著書に『釦つけする女』(金星堂、昭8・7)『鯛舟』(報国社、昭17・3)『李花哀傷』(鎌倉書房、昭21・7)『哀傷日記—南海のほとり』(梧桐書院、昭23・10)『那須辰造著作集』全3巻(講談社、昭55・12)などがある。
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【★273】角菁果:明治28年8月21日、福岡県の生まれ。本名は角暢。田中紫江の弟。紫江のすすめで大正10年から句作を開始し、戦前の一時期、旧満洲奉天で過ごし、句集『石獣』上梓。花鳥諷詠を信奉し、戦後は「木賊」の編集をつとめた。*純真短大『現代西日本俳句集』巻末自筆略歴
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【★274】辻潤のダダ講演:福高第2回生(大正12年4月入学)の福田清人に後年の回想がある。「たぶん大正十三((ママ))年のことである。福岡市の郊外の当時の高校の門前に、ある日の放課時間に、二、三の青年をともなった黒マントの男があらわれた。彼は、/「今夜、ぼくたちの講演が公会堂にあるから聞きにきてくれたまえ」/と言って、プログラムをそえた入場券を売っていた。プログラムには、大泉黒石、高橋新吉、辻潤などという名前が印刷され、演題には「ダダイズムについて」などというのがあった。/その夕ぐれ西中洲の市公会堂に行くと、二、三百人の聴衆が集っていた。やがて切符を売っていた黒マント、黒ソフトの男が、それをそっくり身につけたまま壇上にあがった。テーブルの上には水のかわりに、ビール瓶が一本のっていた。/彼はそれをコップにつぎ、ぐっとあおってから、しゃべりだした。/「プログラムには、ほかに大泉黒石と高橋新吉とありますが、大泉は故郷の長崎に帰る途中下車して、ここへくる筈なのが、どうしたわけか来ないし、高橋は気がへんになって故郷の四国のほうに帰ったし、しかたがない、僕ひとりでやります」/そういうまえおきでしゃべりだし、ときどきビールをのんだ。」(福田清人「作家初見記—辻潤のこと」、「芸林」創刊号、昭29・5)
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【★275】今井慎之介:明治37年7月5日、福岡市の生まれ。父・栄次郎、母・ヒデの長男。家業は貴金属商。福岡市立呉服尋常小学校、福岡高等小学校をへて大正7年、県立福岡中学に入学。10年3月末で中退し家業に従事。13年10月6日付で福岡日日新聞社に入社(速記部に配属)。昭和24年1月24日付で依願退社。26年11月、毎日新聞社ラジオ報道部勤務。●
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【★276】詩誌「燃ゆる血潮」:「大正九年九月(ママ)、私は福岡に来た。そして大正十年(ママ)、「燃る血潮」という詩の雑誌を出した。同人には高本加夫、安西斌文、山口紅花がいたが、同人費は確か壱円位で、その外はすべて私が出した。私は下宿生活であったので、下宿代二十五円それに風呂代を差引いた残りを、全部雑誌につぎこんだ。この詩誌は後に「南日本詩人」と改題したが、たしか二十五冊続いた。」(山田牙城「〈兵山荘通信34〉昔を今に」、「九州文学」昭43・1)「私の詩の生活は「ハイネ」詩集「ゲエテ」詩集から初まる。新潮社の「袖珍版」である。訳者は生田春月、佐藤春夫だったと思ふ。今から五十年も昔のことである。それから「秀才文壇」「文章世界」「文芸倶楽部」といふ雑誌に読みふけった。それでも自分で詩を作っても、雑誌に投稿するといふことはなかった。自分で雑誌わ編集発行したのは、それから五年後のことである。福岡で「燃ゆる血潮」といふ個人誌を発行したが、これが二、三号後に同人に参加するものが出来て、同人雑誌といふものに発展した。高本加夫、山口紅花、山西斌文の三人に私を加へた四人であった。この雑誌も十九号で「南日本詩人」と改題した。それから福岡の同人誌の殆どが合同して「心象」となって、このとき原田種夫が同人として参加した。これが昭和の初め頃であるので原田種夫とは四十数年の文学の友といふことになる。不幸なことに「心象」が二号にしてつぶれ、その後「影」「瘋癲病院」「先発隊」「九州詩壇」「九州芸術」と私は原田種夫と二人いつも一緒でこれらの雑誌の編集発行を続けて来た。」(山田牙城「長大息しつゝ」、「九州文学」昭45・3)
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【★277】九州日報社の関東大震災取材:「大正十二年九月一日の関東大震災に際しては、今川英隆、村瀬時男(後年福日に転社)の両記者を現場に急派し、滞京中の杉山泰道(探偵小説作家、夢野久作)その他在京社員と協力して報道に勤めた。なお東京出張中の記者高田真太郎(後の大博証券社長)は、東京の惨害を体験し、命からがら九月六日帰社、数日にわたり「東京脱出記」をかかげた。また、大阪支社で組織した活動写真班が、京浜の惨状をフイルムにおさめたものを、県下各地で上映し、一方福岡県庁、福日と協力して義金の募集を行つた。」(『西日本新聞社史』)
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【★278】俳誌「木犀」:花鳥諷詠に立つホトトギス系の俳誌として、田中紫紅主宰の俳誌「霰刀(さんとう)」から分派して創刊。主宰は清原枴童、編集は角菁果(*紫江の実弟)。福岡を中心に九州各地や朝鮮・満州のホトトギス系同人が参集した。昭和5年以後、河野静雲が編集を担当し、さらに小原菁々子が引き継いだ。昭和16年、県下の他のホトトギス系俳誌と一緒に「冬野」に統合された。
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【★279】俳誌「木賊」:田中紫紅が俳誌「霰刀」を解散し、青木月斗主宰の俳誌「同人」の傍系誌として創刊した。戦争末期、休刊したが、22年1月復刊。紫江が30年12月28日に没し、同誌も終刊した。
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【★280】山本芳太:明治32年10月、八女郡星野村の生まれ。山本弥助の弟。大正3年、兄弥助をたよって金星堂に入店。5月11月、兄弥助が金星堂を閉じるすこし前に星野村に帰ったが2年ほど後に福岡に戻り金文堂福岡支店で働いた。11年10月末をもって退職し、東中洲に文房具・教科書販売店「金星堂」を開店。「こうして昭和十二年には、玉屋デパート横にあった店を、玉屋の前に移転、間口三間、奥行三間、売場九坪、三階建の店舗を造ることが出来た。昭和十四年には、栗田書店と取引が出来るようになった。/金星堂が、書籍送品の差別待遇から解放されたのは昭和十六年五月からで、日本出版配給株式会社、いわゆる日配が発足した時からであった。大正十一年の創業以来二十年間、本を売りたいと熱願しながら、流通ルートを阻(はば)まれ、願いが果せなかった。折角取った大量の注文すら、妨害を受けて納品出来なかったことがある。悲憤二十年、ようやく金星堂に陽の当る時が来たのである。書籍組合にも加盟、たちまち組合長に選出される。判断力、決断力があり、芳太の指導力は群を抜いていた。(略)/福岡市は昭和二十年六月十九日の空襲で、県庁周辺を残し全焼。金星堂も跡かたもなく灰になった。(略)/玉屋デパート前の店舗焼跡に行って見ると、既に他の業者が店をつくっていた。新天町商店街に出店の誘いをうけたが気が乗らず、芳太はこれを断ってしまった。とりあえず、教科書販売倉庫用地として使っていた春吉一丁目の土地二百七十坪の一隅に仮店をつくり一家は、ここで様子をみることにした。/昭和二十二年、中洲五丁目、西大橋のたもとに二十四坪の店をつくる。地主西島の家も同時に新築、三十六坪二階建、二十四坪部分を金星堂で使用。それまでここには水産食堂があった。この年十一月、土居町に山本書店十四坪を開業。旧い繁華街川端町の一隅、電車通りに面したこの店では、婦人誌が飛ぶように売れた。」(『書店人国記(三)』東販商事株式会社、昭59・7)
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【★281】福岡ビルデング:1階は福岡銀行中洲支店が入居。2—3階は貸事務所。4階は「福岡ホテル」が入居し10月4日開業。地階は3月8日「中洲食堂」(竹間萩三)が開店。12年9月1日、福岡銀行は十七銀行に吸収合併となり「十七銀行東中洲支店」と改称。これにともない「福岡ビル」は「十七ビル」とよばれることになった。大正14年4月、「佐世保玉屋」の田中丸善蔵がこのビルを買収し、同年10月、福岡市初の本格デパート「玉屋呉服店」を開店した。
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【★282】福岡市上水道通水式:水源は早良郡内野村曲淵の室見側上流(八丁川)のダム。平尾山頂に導水し、そこで濾過して市内全域と隣接町村の一部に排水した。着工以来7年の大工事。●新聞記事要調査 ジョリー ジョリーは大名町カトリック教会の神父で、翌年福高に赴任した石川淳とも交遊、また九州帝大講師(ラテン語担当)をも勤めた。大正15年12月まで在職。
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【★283】ジョリー:ジョリーは大名町カトリック教会の神父で、翌年福高に赴任した石川淳とも交遊、また九州帝大講師(ラテン語担当)をも勤めた。大正15年12月まで在職。
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【★284】福岡県女子専門学校:大正11年6月7日設立認可。日本初の公立女子専門学校。敷地は元福岡監獄署の跡地(須崎裏グラウンド)。修業年限は3年。第1期入学生は文科59名・家政科54名。仮校舎で開校し、大正15年3月24日校舎落成式、翌25日第1回卒業式。昭和12年1月27日、火災で校舎が全焼し、同年4月12日、因幡町の仮校舎で授業再開。25年4月、福岡県立女子大学と改組改称。
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【★285】松本治一郎:明治20年6月18日、那珂郡金平村(現・福岡市東区)に生まれる。明治40年、中国に渡り、山東省を中心に各地を行脚。民族解放の必用を痛感し、3年後、帰国して部落差別撤廃運動に着手。大正10年、筑前糾革団を組織。11年3月、全国水平社創立に応じ、翌年5月、全九州水平社を結成。昭和11年、衆議院議員当選。社会大衆党に属し、華族制度廃止や部落差別撤廃などを主張した。20年11月、日本社会党結成に参画し、また21年2月、部落解放全国委員会を組織してその中央執行委員長に選ばれた。22年、参議院議員選挙に全国区から当選、参議院の初代副議長をつとめた。23年9月、第2回通常国会開会式で、慣例の天皇に対するカニの横這い式の拝謁を拒絶、世間の耳目を集めた。30年、部落解放全国委員会を部落解放同盟と改称。アジア民族親善協会を設立し、日中友好協会の初代会長をつとめるなど、世界的な視野に立って被圧迫民族の解放にも奮闘し、〈解放の父〉と呼ばれた。昭和41年11月22日、死去。
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【★286】東邦電力争議:北九州機械鉄工組合は10月上旬の結成。総会の翌24日<労働時間短縮・3割昇給など7項目を会社側に要求。26日夜、事務所で協議中、福岡署が事務所を急襲し6人を召還検束(即日釈放)。28日早暁、争議団幹部の大塚了一らが東邦電力発電所(福岡市住吉)に侵入し、名島発電所からの送電機スイッチを切断、変圧器等を破壊したため、市内は西新・箱崎をのぞいて停電、混乱した。
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関連情報 |
レコードID |
410589
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1923
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和暦 |
大正12年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |