<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 大正11年
編者 | |
---|---|
データベース名 | |
年表 | |
注記 | |
関連情報 |
詳細
レコードID | |
---|---|
権利情報 | |
西暦 | |
和暦 | |
登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
編者 |
花田, 俊典
|
---|---|
スカラベの会
|
|
データベース名 | |
年表 |
文学作品:1月 北原白秋「柳河抄(民謡二十一章)」(「福岡日日新聞」1日)久保猪之吉「学術上のボイコツト」(「九州日報」1日)2月 杉田久女「足袋つぐやノラともならず教師妻」他(「ホトトギス」)大泉黒石「アービング物語」(「福岡日日新聞」5―11日)11月 坪内逍遙「博多二輪加とペゼント」(「福岡日日新聞」13日)杉山萠圓(夢野久作)『白髪小僧』(誠文堂)■この年、大杉栄/伊藤野枝『二人の革命家』(アルス)
|
文学的事跡:1月 伊藤野枝の4女・ルイズ、東京で出生(15日)。那珂太郎、福岡市麹屋町で出生(23日)。3月 関西・九州旅行途次の高浜虚子が来福し(23日)、虚子は吉岡禅寺洞らと久保猪之吉邸で昼食をとり、午後学士会館で開催の福日俳句会に出席(24日)、翌日は小倉の橋本多佳子邸「櫓山荘」で杉田久女らと句会(25日)。進藤一馬が福岡中学(第1回生)を卒業し、上京。原田種夫が慶応・早稲田の入試に失敗し、東京薬学専門学校も退学。4月 吉岡禅寺洞が日原方舟の斡旋で門司新報社に入社し新設の文芸部長に就任【★255】(1日*13年1月27日退社)。林逸馬【★256】・中村能三らが新設の福岡高等学校に第1期生として入学。5月 白水吉次郎が上京し、鹿児島寿蔵方に寄宿、大坪草二郎らと知る。7月 西谷勢之介(福岡日日新聞社編集局勤務)・縄手琢磨・中島公・横尾農夫像・山田牙城(弘)らが炎上詩社を結成し、詩誌「炎上」(「土」改題)創刊(*生田春月・千家元麿・中西悟堂・佐藤惣之助・高橋新吉・多田不二らも寄稿、大正12年3月まで)。8月 宮崎湖処子没(9日)。9月 中村光至、熊本県山鹿町で出生(16日)。11月 原田種夫が父・寿多の死去(2日)により帰郷。この年、渋谷潤・今井慎之介ら詩誌「萌」創刊。新劇団体「現代劇社」結成。新劇団体「異端座」【★257】結成。「九大演劇研究会」発足【★258】。大阪の青木月斗が来福し歓迎句会開催、九大医学部生の横山白虹【★259】らが出席。この年、「天の川」編集所を門司市の奈良鹿郎宅に移転。
|
|
社会文化事項:1月 「福博座」が春吉橋通りに開場(1日*翌年1月1日「南座」と改称)。伊藤伝右衛門の別邸「銅(あかがね)御殿」(天神町)新築落成披露(9日*祝儀で市に1万円、市青年会に2000円寄付)。福岡高等学校、第1回入学者選抜試験実施(16日*志願者1035名、合格者発表は4月1日)。「福岡地方専売局ニ於テ巻煙草ノ製造開始ニ関スル請願」(博多商業会議所)、貴衆院議長に提出【★260】(18日)。(財)太田家報徳会が福岡職業紹介所を因幡町福岡市役所裏に開設。2月 永田錦心(東京浪曲界の名手)・白浪庵滔天(宮崎滔天の息子)の浪曲試演会、カフェーパウリスタで開催(3日)。3月 皇后行啓【★261】。「那珂川噴泉浴場」落成開業、料理部「那珂川」も同時開業(26日)。4月 早良郡西新町を福岡市に編入(1日)。黒田長政公300年祭記念美術展、福岡市通俗博物館で開催(2日―8日)。家庭博覧会開催(2日―●日)。福岡高等学校第1回入学式挙行、文科3組・理科2組の計200名が入学(11日*卒業者は155名)。福岡女学校(現・福岡女学院)、制服制帽を定め、セーラー服を全国で初めて採用。県立糸島中学開校(10日)。県立糟屋中学開校(11日)。川島アクリが川島裁縫女学校を創立(*昭和18年川島女学校、29年川島学園川島女子専門学校と改称)。5月 「博多劇場」(のち「帝キネ倶楽部」)が東中洲の明治座跡に新築落成し開場(4日)。城南町に市営住宅51戸建設(小学校教員用)。6月 筑紫郡住吉町を福岡市に編入(1日)。三浦環演奏会、大博劇場で開催(3日―4日)。三浦環歓迎会(九大フィルハーモニー会主催)、カフェーパウリスタで開催(4日)。福岡県立女子専門学校(現・福岡女子大学)創立(7日)。三浦環演奏会(日本蓄音機協会主催)、九州劇場で開催(26日*入場料は1等5円)。福岡美術会結成。九州電燈鉄道と関西電気が合併し東邦電力㈱創立。7月 糟屋高等女学校を香椎高等女学校と改称(29日)。9月 福岡高等学校に東寮落成【★262】(4日)。市内にコレラが大流行し177人が発病、79人が死亡(『福岡市史』)。10月 博多新道を「寿通り」と改称(10日)。福岡高等学校と佐賀高等学校の第1回対抗戦開催(17日)。福岡商工会議所主催で自転車競争大会(20日―21日)。博多信用組合(呉服町)設立。11月 片土居新道開通(14日)。福岡高等学校開校記念式(18日)。井上胡蝶(本名は才蔵)が「博多少女歌劇養成会」を設立、翌年夏に「青黛座(せいたいざ)」を組織し九州座で公演。12月 福岡仏心会経営の養老院開設(1日)。尾上松之助が来福し、舞台挨拶と亡兄の墓参【★263】(19日)。精養(洋)亭(東中洲)でロシア人ダンサー公演、以後同亭の専属に(20日)。東中洲に洋画専門の常設活動写真館「バツテン(抜天)館」【★264】落成開館(22日)。改造社の招きで訪日中のアインシュタインが来福し大博劇場で講演【★265】(24日)。この年、上野瓶城が「博多老人ホーム」設立、明光寺(吉塚)住職の水嶋城も協力(*戦後は理事長に就任)。
|
|
日本・世界事項:2月 「旬刊朝日」創刊(25日*4月2日「週刊朝日」と改題)。3月 京都の岡崎公会堂で全国水平社結成大会(3日)。上野で平和祈念東京博覧会開催(10日)。サンガー夫人来日(10日)。未成年者飲酒禁止法公布(30日)。4月 「サンデー毎日」創刊(2日)。日本農民組合、神戸で創立大会(9日)。「令女界」創刊(*28年9月まで)。5月 文芸誌「女性」創刊。6月 東京牛込に文化裁縫学院(のち文化服装学院)開院。文芸誌「人間」創刊。7月 森鷗外没(9日)。日本共産党非合法結成(15日)。有島武郎、北海道の樺太農場400町歩を小作人に無償提供(18日)。「映画之友」・創刊。中島哀浪主宰の短歌誌「ひのくに」(佐賀)創刊。10月 「女性改造」創刊。イタリアにファシスト政権成立(31日)。11月 大阪毎日新聞門司支局が本紙付録「西部毎日」【★266】発行(1日)。学生社会科学連合会(学連)結成(7日)。アインシュタイン来日(18日)。12月 宮崎滔天没(6日)。ソビエト社会主義共和国連邦成立(30日)。
|
|
注記 |
【★255】吉岡禅寺洞が門司新報社に入社:「大正十年の春といえば四十数年前のことになる。同じ会社(*大阪商船)で机を並べていた鹿郎(*奈良鹿郎、のち大阪商船社長)と私とが門司でふとした縁で禅寺洞に出会ったことが、二人を俳句に取りつかせることになった動機で、今日までつづけることになった。/その頃は三人とも三十歳そこそこで若いし張切っていた。各々一つ違いで禅寺洞が一番年下であった。従って鹿郎も私も禅寺洞を師匠というより友だちという気で扱っていた。吾々は禅寺洞の迷惑などお構いなしで俳句につかれたように真一文字に飛び込んでいった。福岡から出て来る禅寺洞を門司に幾日も引留めて、夜ごと鹿郎宅にてい座して時間を忘れた。/その頃『天の川』は小川素風郎が福岡で編集に当っていたが、同氏の都合が悪るくなったため次第に遅刊を重ねるようになった。これを見かねた鹿郎が編集を買って出て、自宅を編集室に当てて一人で忙しい思いをしながら世話を焼くことになった。天の川が一時的に門司に移ったというのはこの事である。/そんな関係で禅寺洞も門司に出て来て住みたいが何か職はないだろうかということだった。この方は私が世話をすることになり懇意にしていた門司新報のT主筆に頼み込んだところ、文芸欄を新設して禅寺洞を迎えて呉れたのでほっとした事を今でも忘れない。何しろ生れてはじめて一人前の男の就職斡旋に成功した為であった。早速紙上に俳壇が出来これが地方の俳人とのつながりを弘めることに大いに役立ったようだ。/こうして関門地方と禅寺洞とのつながりができて次第に多くの俳人が天の川に集まるようになり、以後しばらくは天の川が北九州、関門地方の俳句界を牛耳ることになった。またその頃から九州各地に有力な支持者、多くの投句者ができて九州は勿論関西方面迄も、『禅寺洞、天の川』という呼び名が少し仰山に言えば響きわたったとも言える。」(日原方舟「古い思い出」、「天の川」昭36・8)
|
【★256】林逸馬:明治36年6月23日、福岡県三井郡宮ノ陣村(現・久留米市)の生まれ。小説家・新聞記者。林逸馬は本名だが、「鏡一樹」・「篠山二郎」の筆名も用いた。県立中学明善校をへて福岡高等学校文科丙類に入学。大正14年春、同校を卒業し、東京帝大文学部に進学し社会学科卒。昭和4年6月、「福岡日日新聞」の大衆文芸に「大虚」が2等入選(1等該当なし)。同紙夕刊に連載(昭5・3・8—10・14)、また日活で映画化。9年8月、文芸同人誌「九州文化」創刊同人。11年3月、「九州文壇」創刊同人。「九州文学」(第1期)へて第2期「九州文学」創刊同人。19年、『筑後川』(正続)で第4回九州文学賞。戦後は黒田静男創刊の雑誌「芸林」にも同人参加。昭和47年9月2日没。著書に『新女性観』(金文堂福岡支店、昭9・8*発禁)『大虚』(金文堂福岡支店、昭10・3)『筑後川』前篇(第一文芸社、昭18・1)『続筑後川』(第一文芸社、昭18・6)『ドストイエフスキー—生涯とその芸術』(若い人社、昭18・8)『筑後川(正続合本版)』(第一文芸社、昭18・11)『旅宿』(五月書房、昭33・6)『サルと人間の間』(五月書房、昭33・9)『危険な娘』(東京ライフ社、昭33・11)がある。
|
|
【★257】異端座:「瘋癲病院」第10輯(昭4・7)に広告あり。山田牙城・星野胤弘らが中心人物。
|
|
【★258】新劇団体:「「現代劇社」にはオペラ女優の北御門華子や、のちに映画俳優となる高田稔らがいて第一回の公演ではダヌンチオの「忘れてきたシルクハット」と瀬戸英一の「集散」を上演した。高田稔は当時洋劇専門の「バッテン館」の楽手をつとめ、バイオリンをひいていたのである。また「異端座」は、七月に鈴木泉三郎の「火あぶり」と渡平民の「木賃宿」を南座で上演し、十月には九州劇場で、久米正雄の「地蔵経由来」と水村静也の「元寇」を上演している。「現代劇社」「異端座」とも、二・三回公演を行なっただけで二二年の暮に解散した。「九大劇研究会」は、演劇公演や劇団会、脚本朗読会などを活発に展開した。また、機関紙を発行して演劇運動の理論的な面で一定の役割を果たした。「九大劇研究会」の活動は相当の期間つづいたようで、その影響でのちに西南学院や女子専門学校(現在福岡県立女子大学)に演劇研究グループができている。」(今井慎之介「福岡県の戦前におけるプロレタリア文化運動(おぼえ書)」)*青山光世「福岡における『新劇』運動の十年」参照。
|
|
【★259】横山白虹:明治32年11月8日、東京生まれ。本名は健夫。一高をへて大正9年9月、九大医学部に入学。13年4月卒業。同大医学部外科学第一講座教室三宅(のち赤岩)外科に勤務し、14年6月、「天の川」に投句開始。昭和2年1月、「天の川」編集長となり3月号から編集を担当。6年1月、福岡県折尾町に三好鑛業所の三好徳松社長が新設した三好病院の初代院長に乞われて就任。赴任後、白土古鼎を副院長兼外科部長に招いた。9年11月、小倉市に横山外科病院を開院。12年1月、俳誌「自鳴鐘(とけい)」創刊。30年4月、小倉市会議員当選(*40年2月まで)。58年11月18日没。なお、自筆「横山白虹年譜」(「自鳴鐘」昭38・6)に、大正11年「青木月斗来福の句会に松下鷲巣と出席。特選に入り急遽俳号を『白虹』と名乗る。後年、白秋、柳虹両氏の承認を受く。石山助教授(葉流子)の外科俳句会に屡々出席、雑誌部員となる。」とある。松下鷲巣は同じ一高出身の九大医学部生。「石山助教授」は後年の生体解剖事件に関係し自殺した医学部教授石山福二郎。
|
|
【★260】巻煙草ノ製造開始ニ関スル請願:「福岡地方に於ける巻煙草需要の円滑を図ると共に、福岡市及其附近に居住せる多数の労働者に対し就職の途を与へ、一面地方産業の発達を期するが為、福岡地方専売局に於て、巻煙草の製造を開始されんことを望む」(請願要旨)「当時福岡市周辺における大規模工場としては、鐘紡博多工場(住吉町)渡辺鉄工所(千代町)大日本麦酒博多工場(竹下)福岡地方専売局(千代町)などがあるにすぎず、専売局の工場は雇用人員の多いことでも群を抜いており、この工場拡張について市民の関心も深く商工業界を挙げて運動したことが偲ばれる。」(『福岡工場 たばこ80年史』日本専売公社福岡工場、昭60・3)
|
|
【★261】皇后行啓:皇太子訪欧の無事帰国お礼に皇后は香椎宮参拝を目的に来福。3月19日午後、博多駅着。浜の町の黒田侯爵別邸に4泊。20日は県庁・県商品陳列所・九州帝大医学部・同工学部に行啓。21日は香椎宮・筥崎宮・太宰府天満宮に参拝。22日は福岡県立高等女学校・福岡女子師範学校・福岡盲啞学校、西公園などに立ち寄り、23日朝博多駅から帰京の途についた。
|
|
【★262】学而寮:翌年3月に西寮完成。昭和6年秋に寮名を募集し、「学而寮」と命名。学則により自宅通学者と特別の理由ある者以外は全員入寮した。『学而寮史』(昭●)がある。
|
|
【★263】尾上松之助が来福墓参:「大正十一年十二月十九日尾上松之助が来るというので市内は大騒ぎであった。大正十二年一月十七日〝中洲大火〟の一ケ月前である。これは世界館で上映される〝真田幸村〟の舞台挨拶(十九日、二十日)と、祇園町〝願正寺〟に葬っている兄の墓参を兼ねていた。帯同したのは伜の房雄、日活幹部俳優の実川延三郎、片岡長正、中村仙之、尾上松三郎(のちの池田富保監督)らで、宿舎は水野旅館であった。/松之助は、牧野省三に見出される以前、旅役者として巡業、明治四十年三月博多に来て、教楽社で阪東太郎と歌舞伎の合同公演、四十二年には明治座で興行を行っている。元々が旅廻りの役者で、兄はその衣裳方をしていた。兄の死亡時期は不明だが、埋葬された寺が後に初めて判ったということは旅役者の生活の苦しさを物語っている。(略)/駅頭には、松之助ファンの会である〝愛松会〟(入会金二円、名誉会員十円)や各券番の奇麗どころが出迎えた。祇園町の順正寺までは、博多駅から僅か二町位であるが、歩いてゆけぬ程の群衆の殺到ぶりであった。松之助は大正十五年九月に五十二歳で亡くなっているから、この頃が彼の絶頂期であり、また最後の博多入りでもあった。」(咲山恭三『博多中洲ものがたり(後編)』)
|
|
【★264】バッテン(抜天)館:「バツテン館の出現/多彩な中洲映画史の巻頭に画期的一ページを印したのはバツテン館の誕生である。博多の匂いに満ちたユニークな館名をつけて大正十一年十二月に颯爽とデビユーしたバツテン館は、パラマウント映画のなつかしいマークをかかげ、アメリカ映画の専門館として第一週の「愚か者の楽園」を皮切りに「地獄花」「血と砂」「東への道」「オーバー・ゼ・ヒル」などの名作を次から次に封切り、映画の魅力に憑かれて日参するフアンに随喜の涙をこぼさせたが、特にバツテン館の出現を契機として弁士が解説者という新しい名称で呼ばれ、伴奏や間奏楽に良心的考慮が払われるようになつたことが注目される。開館と同時に『パラマウント週報』も発行され、熱心なフアンの投書も積極的に掲載されたが、これらの投書家から幾多の優れた映画人が生れたこともいまはなつかしい思い出である」。(「福岡」、「福岡」刊行会、昭25・3)
|
|
【★265】アインシュタイン来福:アインシュタインは宮島を見物したあと23日午後8時50分下関着、連絡船で門司に渡り門司市谷町の三井倶楽部に1泊。翌24日朝10時50分発の汽車で福岡市へ。大博劇場で「特殊&一般相対性理論について」と題して講演。九州一円より約3000人の聴衆が集まった。同夜は本人の希望で和式旅館「栄屋」に宿泊。はじめて畳・布団で就寝した。25日夕刻6時の汽車(二等車)で門司に戻り、午後8時30分門司着。YMCA門司合同キリスト教会の聖誕祭に参加し、バイオリンでアベマリアを演奏。翌日は三井倶楽部で過ごし、大谷山に出かけ、27日は三井物産の汽船で海峡見物。28日は三井物産門司支店の招待で義太夫・謡曲・長唄などの日本芸能を楽しみ、29日午後3時、門司発の日本郵船「榛名丸」で帰国した。「大正十一年十一月、相対性原理のアインスタイン博士を日本に迎えた改造社は、その九州における講演会に関し、本社の協力を求めたので、本社は喜んでこれを後援、とくに桑木彧雄(いくお)、三宅速の九大両教授とも連絡して、同年十二月二十四日午後一時より福岡市大博劇場において、博士の講演会を開催した。この碩学の風貌を見、その新学説の片鱗をうかがわんとする知識階級は全九州におよび、広島、山口両県よりも熱狂的に殺到し、聴衆三千余、真野九大総長、沢田福岡県知事、久世福岡市長らも熱心に聴講、学術講演としては未曾有の盛況を呈した。通訳には石原純博士があたり、講演五時間に及んだ。終つて同夜は栄屋に一泊、さらに翌二十五日九大の歓迎会にのぞみ、二十九日門司出帆の郵船ハルナ丸で帰国した。」(『西日本新聞社史』)
|
|
【★266】「西部毎日」:「大正十一年(一九二二)十月二十日、大阪毎日新聞紙上に「西部毎日」の発行が次のように社告された。/(略)大阪毎日新聞は来る十一月一日から門司において日刊『西部毎日』と称する二㌻の付録を発行する。この『西部毎日』は九州版および鮮満版の二に分かれ本紙に添付して日日同地方の月極読者に無代配布されるのである。すなわち九州および朝鮮、満州地方の読者は、今後十二㌻の本紙のほかに二㌻の付録を読み得るわけで、驚くべき本紙紙面の大拡張というべく、実に『西部毎日』は大阪毎日の分身であり、別動隊であり、しかして延長である。大阪毎日新聞が多大の犠牲をなげうって関門支局に活字および印刷場を新設して『西部毎日』という独立した日刊付録を発行する理由は、もちろん同地方の読者が激増して自然施設の拡大を必要としたためであるが、実は列車輸送時間の関係からこの方面へ積み出す新聞は編集締切時間が早いために、当日の出来事の大部分わ掲載することができなかった。この欠陥をおぎなうためにはぜひ九州の一角に印刷場を置いて、九州および鮮満行の本紙が大阪本社で印刷発行された後に到着した内外の大小記事をそこで電話で送りそこで印刷せねばならぬ。わが『西部毎日』はこの目的を達成するために発行するもので、したがって本紙印刷後の最新記事はことごとくこの『西部毎日』に満載するのである。同時に同方面の地方記事もできるだけこれに収録し、一つの地方記事としても十分活動することを期するものである」/という一面四段の大社告である。/この社告は少し説明字句を省略して二十二、二十六と合わせて三回掲載された。(略)大正十四年四月一日、朝日はついに門司で「九州朝日」の印刷を始め、毎日の後を追った。/『西部毎日』は、各地で好評、無代紙であったが単独申込みが相つぎ、本社はついに一部一銭、月極二十銭の定価をつけて一部に配達した。」(『毎日新聞西部本社五十年史』毎日新聞社、昭48・3)なお、門司で朝夕刊紙の印刷を開始したのは昭和10年2月11日付朝刊からである。
|
|
関連情報 |
レコードID |
410588
|
---|---|
権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
|
西暦 |
1922
|
和暦 |
大正11年
|
登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |