<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 明治10年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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年表 |
社会文化事項:1月 矯志社・強忍社・堅志社が合体し「十一学舎」創立。2月 西郷軍の挙兵に対し福岡3大隊第2・第4中隊が小倉第14連隊長乃木希典の指揮下に福岡を出発(18日)、植木で軍旗を失う(22日)。征討総督有栖川宮熾仁親王が海路福岡に到着し(26日)、翌日橋口町勝立寺に官軍本営を設置(27日*本営は3月1日に福岡城内、16日に久留米と移転)。3月 大山巌少将が4箇大隊を率いて博多に上陸(3日)。藤井孫次郎【★21】・森泰(元・三潴県官吏)が西南戦争の戦況報告を主目的に「筑紫新聞」【★22】(福岡区下名島町弘聞社)創刊(24日)。西南の役に呼応し福岡県士族の越智彦四郎・武部小四郎ら挙兵を試みて失敗(=福岡の変)【★ 23】(27日)。6月 修猷館内の診療所を博多中島町の「精錬所」(*弘化4年創立)跡地に新築移転し、福岡区立「福岡医院」として開院(*12年7月福岡医学校開設)。8月 成美社(福岡下橋口町)から「福岡新聞」【★24】創刊(28日*のち「成美義塾」を創立か)。9月 頭山満ら萩の獄舎から釈放帰福。10月 石蔵酒蔵場(大浜)開業。11月 九州初の国立銀行として第十七国立銀行【★25】、橋口町(福岡県筑前国第1大区1小区福岡橋口町86番地)に設立(1日*設立免許は9月22日付)。頭山満・奈良原至・進藤喜平太【★26】・来島恒喜らが糟屋郡向浜(海の中道)に「開墾社」を興し「向浜塾」を開いて10万余坪の山林開墾に着手(7日)。江藤正澄【★27】が簀子町に古書・古器販売店を開業。この年、東公園【★28】開園(*明治33年県営移管)。この頃、藤井孫次郎が出版販売書肆「五楽堂(悟楽社)」創業。古賀男夫が出版販売書肆「鴻文堂」。
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日本・世界事項:1月 西南の役始まる(30日)。2月 京都―大阪間に鉄道開通(5日)。西郷隆盛、鹿児島を出発(15日*同年9月24日西郷隆盛自刃)。小倉第14連隊(連隊長は乃木希典少佐)、福岡の分隊と合流し、熊本へ急行(18日)。3月 増田栄太郎ら西郷軍に呼応し中津隊挙兵(31日)。4月 東京大学創立(12日)。5月 佐野常民ら博愛社創立(1日*20年日本赤十字社と改称)。8月 第1回内国勧業博覧会、上野公園で開催(21日)。この年、コレラ大流行。
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【★21】藤井孫次郎:博多中島町の薬商「悟楽社(五楽堂)」の主人。詩人の那珂太郎の実祖父。藤井孫次郎は明治5年、商用のため上京して「東京日日新聞」を目にし、帰福後、店の一部を新聞縦覧に供した。以後、地方新聞発刊の望みを持ち、折から旧三潴県出身で官製新聞発行の経験をもつ森泰や植木園二と知り合い、明治5年6月(*7年2月とも)発行許可を取得。西南戦争の討征本営設置直前の10年3月24日付で「筑紫新聞」を創刊した。発行所は下名島町弘聞社(横田活版印刷所)。17年5月、福岡県会議員に当選。明治40年9月16日没。万行寺に埋骨。●「藤井孫次郎君小伝」がある。●回想記=「福岡日日新聞」明15・12・15
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【★22】「筑紫新聞」:「筑紫新聞は美濃判半折二つ折の和紙九枚(または十枚)綴り本で、一枚刷りのものではないから、むしろ単行本の感じのするものであつた。題号を印刷した表紙につぎ、二枚目から(第二十号以下は表紙の裏から)「雑録」すなわちニュース欄があり、次に「寄書」欄、最終面が広告、物価、奥附となつている。もちろん、紙面の体裁は後になつて多少変つて「雑録」欄が「本県事録」と「雑報」に分類されているが、大体の仕組はそう違つていない。」「筑紫新聞は月十冊発行(三日に一度)で、定価一冊三銭、十冊二十八銭、福岡、博多両区外逓送の分は郵便税一冊一銭となつている。(略)同紙の販売所は、筑前で福岡橋口町書肆鴻文堂、博多中島町藤井孫次郎、筑後で久留米両替町亀游堂、三池新町永康堂の四店が奥附に掲げられている。その分布区域が大体において、福岡、博多、久留米、三池中心であつたことが察知される。」(『西日本新聞社史』西日本新聞社、昭26・4)●芝尾入真「回顧廿九年」(「福岡日日新聞」明39・4・15)
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【★23】福岡の変:明治10年2月の西郷隆盛の挙兵に呼応して、福岡県士族の越智彦士郎、武部小四郎らが福岡党を結成し同年3月28日を期して蜂起する計画を立てたが、事前に計画がもれており、当日挙兵した約150人は全員逮捕。主謀者の越智・武部ら5人は死刑。戦死者58人、獄死者40人、逮捕者約460人。●夢野久作『近世快人伝』
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【★24】「福岡新聞」:「『筑紫新聞』の廃刊と前後して、同年八月『福岡新聞』が創刊された。これは秋月の士族吉田利行氏が福岡通丁に私塾成美塾を開いていたが、そのかたわら創刊したもので、報道機関としてよりも言論機関としての色彩濃く、数回の筆禍にあい、編集長植木園二氏のごときは入獄までしている。『筑紫新聞』の廃刊後は、その記者たちを引受けて、郷土の文化運動に指導的役割を果したが十二年頭山満氏らが子弟養成のため吉田氏の成美塾を譲り受け、玄洋社の前身である向陽塾を開くことになつたため、『福岡新聞』も同年七月ついに廃刊した。これに代つて頭山氏らと関係のあつた国学者松田敏足氏はその私塾博多金屋町の漸強塾から、同年八月五日『博多新聞』を発刊したが、隔日刊、一部一銭で美濃判四頁の新聞紙であつた。この間十一年六月には『ひらかな新聞』が発刊されているが、これはわずか十一号で泡沫のように消え失せている。『博多新聞』も原因は明らかでないが『事故有之今般廃業致』と広告を出して翌十三年六月には廃刊し、代りに『勉強雑誌』を月三回発行している。」(権藤猛「新聞—沿革と現状」、「福岡」其刊行会、昭25・3)
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【★25】第十七国立銀行:「株式会社十七銀行は明治十年の設立にして第十七国立銀行と称し資本金十万五千円を以て同年十一月一日福岡市博多橋口町に開業し十六年小河久四郎氏新に頭取に就任し二十二年九月資本金三十万円とせり三十年六月株式会社十七銀行と改め普通銀行として営業を継続し資本金を増加して一百万円とし市内唯一の金融機関として財界に貢献する事となれり爾来経営其宜しきを得ず窮境に陥り三十五年支払停止の巳むなきに至り遂に安田銀行に対して救済を求めるに決し主なる株主及び有志中より数名の委員を選びて東上せしめ金子子爵を煩して黒田侯爵家を動かし安田家に交渉を開始し更に優先株を発行して資本金百万円を増加するの協定成立し安田家に於て増資にかゝる株式の半額即ち一万株を引受くることゝなり安田系より飯田武也氏支配人に就任し三十六年六月を以て再び営業を開始するに至れり時偶住友銀行の支店を設立せると店舗全焼の不幸に遭遇せるにより再び蹉跌を来したるも四十五年に至り重役の更迭を行ひ安田善三郎氏頭取に古井由之氏専務取締役に志津田次郎氏支配人に任じ安田家の信用と古き暖簾を利用して局面の展開を策したるにより諸取引大に増進し利益亦逐年増加するに至り県下金融界の重鎮として今日に及べり現今小倉久留米直方の各地に支店を後藤寺町其他に出張所を有して全国枢要の個所千百四箇所に為替取組先を有せり大正六年末現在の預金額七百八十一万円同貸付金額六百九十一万円なり。」(『福岡市大観』博文社書店、大7・5)ちなみに『福岡銀行二十年史』(㈱福岡銀行、1969.12.1)によると、当時福岡県内に創設された国立銀行は次のとおり。第十七国立銀行 第一大区一小区福岡橋口町86番地 明治10年9月22日設立免許交付 11月1日営業開始、第六十一国立銀行 御井郡久留米片原町8番地 明治11年11月6日設立免許交付 11月20日営業開始、第八十七国立銀行 豊前国仲津郡大橋村21番地 明治11年11月2日設立免許交付 11月2日営業開始、第九十六国立銀行 山門郡柳河瀬高町100番地 明治11年11月28日設立免許交付、このほか民営の筑紫銀行(明治14年3月創業)が博多中対馬小路にあった。
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【★26】進藤喜平太:藩士進藤栄助の男。嘉永三年十二月福岡に生れ、幼にして藩黌(こう)文武館に学び、後箱田六輔等と共に高場乱の門に学んだ。明治八年武部小四郎が矯志社を興すや、箱田六輔、頭山満等と共に羽翼となり、九年萩の乱起こるに当り同志と共になす所あらんとして捕えられ、福岡及び山口の獄に繋(つな)がれ、西南の乱平定の後始めて釈放された。十二年四月(ママ)箱田六輔等と向陽社を組織し、その幹事となり、後ち向陽社を改めて玄洋社となすに及び頭山満、平岡浩太郎等と共にその牛耳を執り、箱田六輔の没後玄洋社々長となり、謹直重厚の性格をもって社中の健児を率い、稜々の気を九州の一角に吐いた。三十九年福岡市の補欠選挙で衆議院議員に選出せられ、次いで四十五年の総選挙には政友会の鶴原定吉に対し国民党から強いて擁立せられ、その激烈な競争は天下の耳目を聳動させた。当時鶴原派が豊富な軍資金を撒布するに対し、進藤派は半銭も費さず唯彼の徳望をもってこれと戦い、結局百十票の差をもって敗れたが、鶴原の後援者であった安川敬一郎をして『あれ程の金を使って僅かに百票の違いとは情ない』と嗟嘆せしめた程で、福岡に於いて何人と雖も彼の徳望に比肩する者なく、謹厳寡黙な古武士的な風格は接する者をして何ともいわれぬ床しさを感じさせた。この逐鹿戦を機会に政界を退いて爾後また出でず、玄洋社の志士が国の内外に活動する時に当り、彼は社中の長老として独り郷関に留まり、子弟の撫育に身を委ねて老の至るを忘れ、そのなす所は華々しくなかったが隠れた功績は甚だ大なるものがあった。(略)斯くて終生を玄洋社のために捧げ、時に民権伸張を呼号し、時に国権伸張を高調し、常に報国尽忠を期して終始一貫し、大正十四年五月十一日七十六歳をもって世を去った。」(吉田公正『近世快人伝』九州公論社、昭44・12)
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【★27】江藤正澄:天保7(1836)年10月20日、秋月藩士上野忠右衛門の次男に生まれ、文久2(1862)年27歳のとき秋月藩医江藤良禎の養子になった。幕末期は国事に奔走。明治3年神祇官権少史、6年5月3日筑前太宰府神社宮司、以後各地の宮司を歴任。10年、実父の大患に際して奈良県広瀬神社大宮司を辞して帰郷。11月、福岡に移住し簀子町37番地に古書・古器物販売店を開業した。明治20年、古賀勇夫らと私立号砲会社設立。34年、帝国古跡調査会福岡支部幹事。35年、私立福岡図書館設立。44年11月22日没。墓所は崇福寺。
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【★28】東公園:「石堂橋東数町古昔ノ所謂十里松林ノ中央ニアリ明治十年中開園スル処ニシテ眺望ニ乏シト雖トモ松青ク砂白クシテ頗フル消閑ノ地タルニ適シ且ツ開園ノ初メ県庁専ラ力ヲコレニ致シタルニヨリ各種ノ設備西公園ニ比スレハ大ニ整頓セリ」(『福岡市誌』福岡市役所、明24・10)。なお、公園内に瓦葺二階建「皆松館」一棟があった。
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関連情報 |
レコードID |
410543
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1877
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和暦 |
明治10年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |