<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 明治4年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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年表 |
社会文化事項:3月 福岡藩に演武場を設立し修猷館と合併、修猷館を藩学校と改称、文武館は廃止(28*3年10月とも)。須崎浜に徒刑場設置。6月 流罪を廃止し准流徒罪に改め筑前大島に徒罪場を増設(*6年9月大島徒刑場廃止)。7月 福岡藩贋札事件で判決、知藩事黒田長知は罷免・閉門60日、大参事郡成己は取調中に発狂し蟄居、大参事立花増美以下5名は東京伝馬町牢屋にて斬罪(2日)。新福岡知藩事の有栖川宮熾仁親王、軍艦「鳳翔」で海路箱崎海岸に到着(10日*14日廃藩置県、15日初代福岡県知事に就任、5年4月5日退任)。廃藩置県により現・福岡県区域は、福岡・秋月・久留米・柳河・三池・中津・豊津(のち小倉)・千束(ちづか)の8県設置(14日)。8月 光雲(てるも)神社を福岡城本丸から小烏馬場に移転(19日)。黒田長知、博多港を出航し東京へ移住(23日)。9月 洲崎で大火、29軒焼失(25日)。名島町の藩庁を福岡城内に移転し「県庁」となす(30日)。10月 青柳喜平出生(18日)。11月 團琢磨【★9】・金子堅太郎が元福岡藩主黒田長溥の留学生として米国汽船「アメリカ号」で横浜出港(12日*岩倉具視ら新政府の遣欧使節団も同乗)。秋月県を福岡県に統合、柳河・久留米・三池の3県を三潴(みずま)県に統合、中津・豊津・千束の3県を小倉県に統合(14日)。12月 福岡郵便取扱所(簀子町駅逓所)開設。この年、頭山満【★10】が高場乱(たかば・おさむ)【★11】の興志塾(人参畑塾)に入塾。
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日本・世界事項:3月 東京―京都―大阪間に郵便開始(24日)。4月 戸籍編成法(壬申戸籍)公布。5月 新貨条例で円・銭・厘(10日)。7月 廃藩置県で3府302県誕生(14日)。文部省設置(18日)。8月 断髪令(9日)。9月 熊本洋学開校(1日)、米人ジェーンズ着任。午時号砲制(9日)。11月 県知事を県令と改称(2日)。全国の県を改廃再編(13日―22日*3府72県に)。
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【★9】團琢磨:安政5(1858)年8月1日、筑前国荒戸町の馬廻役神屋宅之丞の4男に生まれた。幼名は駒吉。13歳のとき藩士の團尚静の養子となり、14歳で留学。マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び、明治11年帰国。大阪専門学校助教、東京大学助教授をへて17年、工部省鉱山課に入省。21年、三井鉱山に入社し、以後、同社取締役会長、三井合名会社理事長を歴任。昭和7年3月5日、血盟団の襲撃を受けて死去した。
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【★10】頭山満:安政2(1855)年4月12日、福岡西新町(現・福岡市早良区西新)の生まれ。黒田藩馬廻役百石取の筒井亀策と母イソの3男。幼名は筒井乙次郎。イソの実家の頭山家(18石5人扶持の下級武士)の養嗣子となり頭山姓を名のった。明治4年、高場乱の興志塾(人参畑塾)に入門。9年、萩の乱に連座し入獄(翌年釈放)。10年、開墾社結成。11年、土佐に植木枝盛を訪問、自由民権運動に共鳴し、政治結社「向陽社」(のち「玄洋社」)結成。20年、「福陵新報」(のち「九州日報」)創刊。昭和19年10月5日没。享年89歳。
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【★11】高場乱:「高場乱女史の生れた所は、博多萬行寺の横の瓦町である。父祖の業を継いで眼医者となつたが、『医は仁術也』の語をそのまゝに、収支損得に頓着なく、薬価は安く、薬は上等を用ひ、貧者には無料施術すると云ふ風であつたから、遂に経営が駄目になつたらしい。女史はまた医学の傍、儒学を亀井昭陽門下に修め、坂巻周太郎、上野友五郎、吉田元良と共に、亀井の四天王と称せられ、瓦町に居る頃から既に少しづゝの塾生を置いてゐたが、後人参畑塾に移り住むに及び、専ら子弟教養の道に努め、当時福岡で有名な学者正木昌陽の鳥飼の塾と相並んで、各独特の学風を発揮するに至つた。即ち正木塾に入る者が一般に、温厚篤実の青年であるに反し、高場塾には豪放不羈で、手にもおへない乱暴塾生が集つた。子爵金子堅太郎氏の如きは又木塾出身である。」「女史は徹頭徹尾男まさりの女であつた。その修むる所のものは治国平天下の学であり、その交る所の者は憂国の志士であり、その楽む所のものは唯国事を談ずるの一事にあつた。身体は極めて小柄で、梅干婆さんなどゝ悪口を云ふ者もあつた。それに病弱であつたが、自分が医者でありながら医者の診療を受けるが嫌ひで、また自分が漢方医でありながら、大の漢方医嫌ひであつた。病身ではあつたが其気力は旺盛なもので、殆ど気で生きてゐたと云つて宜しい。」「婆さんは常に男装し、外出に当つては常に竹の皮製の甚八笠を被り、未だ曽て傘を用ひなかつた。夏は浴衣一枚、冬はそれを三枚襲ね、嘗て袷や綿入れなどを着た事がなかつた。さうして大小を手挟んで歩き、時には乗馬を用ひた。」(藤本尚則『巨人頭山満翁』文雅堂書店、昭17・2)人参畑塾(人参畑堂)は那珂郡人参畑に安政元年開塾、明治22年閉塾。門下生は頭山満の他に、武部小四郎・越智彦四郎・箱田六輔・進藤喜平太・奈良原到らがいる。石瀧豊美「高場乱旧蔵書目録」(「暗河」20、昭53・9)がある。
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関連情報 |
レコードID |
410537
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1871
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和暦 |
明治4年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |