日本語
English
ログイン
お問合わせ
サイトポリシー
寄附
HOME
探す・調べる
九大コレクション
世界の文献
データベース
所蔵コレクション
九大出版物
電子展示
Cute.Guides
図書館を使う
利用ガイド
学生・教員の方
一般の方
各図書館
中央図書館
理系図書館
医学図書館
芸術工学図書館
筑紫図書館
記録資料館
九大コレクション
図書・雑誌
リポジトリ(QIR)
学位論文
貴重資料
麻生家文書
蔵書印画像
炭鉱画像
水素材料DB
目録カード画像
所蔵コレクション
この情報を出力する
印刷
メール送信
Mendeley出力
このページのリンク
引用にはこちらのURLをご利用ください
コピー
他の検索サイト
世界の文献
CiNii Research (Articles)
CiNii Books
CiNii Research (Dissertations)
国立国会図書館サーチ
Google
Google Scholar
Google Books
カーリル
利用統計
このページへのアクセス:822回
CLOSE
»
<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 明治4年
編者
花田, 俊典
スカラベの会
データベース名
福岡都市圏近代文学文化史年表
年表
社会文化事項:3月 福岡藩に演武場を設立し修猷館と合併、修猷館を藩学校と改称、文武館は廃止(28*3年10月とも)。須崎浜に徒刑場設置。6月 流罪を廃止し准流徒罪に改め筑前大島に徒罪場を増設(*6年9月大島徒刑場廃止)。7月 福岡藩贋札事件で判決、知藩事黒田長知は罷免・閉門60日、大参事郡成己は取調中に発狂し蟄居、大参事立花増美以下5名は東京伝馬町牢屋にて斬罪(2日)。新福岡知藩事の有栖川宮熾仁親王、軍艦「鳳翔」で海路箱崎海岸に到着(10日*14日廃藩置県、15日初代福岡県知事に就任、5年4月5日退任)。廃藩置県により現・福岡県区域は、福岡・秋月・久留米・柳河・三池・中津・豊津(のち小倉)・千束(ちづか)の8県設置(14日)。8月 光雲(てるも)神社を福岡城本丸から小烏馬場に移転(19日)。黒田長知、博多港を出航し東京へ移住(23日)。9月 洲崎で大火、29軒焼失(25日)。名島町の藩庁を福岡城内に移転し「県庁」となす(30日)。10月 青柳喜平出生(18日)。11月 團琢磨【★9】・金子堅太郎が元福岡藩主黒田長溥の留学生として米国汽船「アメリカ号」で横浜出港(12日*岩倉具視ら新政府の遣欧使節団も同乗)。秋月県を福岡県に統合、柳河・久留米・三池の3県を三潴(みずま)県に統合、中津・豊津・千束の3県を小倉県に統合(14日)。12月 福岡郵便取扱所(簀子町駅逓所)開設。この年、頭山満【★10】が高場乱(たかば・おさむ)【★11】の興志塾(人参畑塾)に入塾。
日本・世界事項:3月 東京―京都―大阪間に郵便開始(24日)。4月 戸籍編成法(壬申戸籍)公布。5月 新貨条例で円・銭・厘(10日)。7月 廃藩置県で3府302県誕生(14日)。文部省設置(18日)。8月 断髪令(9日)。9月 熊本洋学開校(1日)、米人ジェーンズ着任。午時号砲制(9日)。11月 県知事を県令と改称(2日)。全国の県を改廃再編(13日―22日*3府72県に)。
注記
【★9】團琢磨:安政5(1858)年8月1日、筑前国荒戸町の馬廻役神屋宅之丞の4男に生まれた。幼名は駒吉。13歳のとき藩士の團尚静の養子となり、14歳で留学。マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び、明治11年帰国。大阪専門学校助教、東京大学助教授をへて17年、工部省鉱山課に入省。21年、三井鉱山に入社し、以後、同社取締役会長、三井合名会社理事長を歴任。昭和7年3月5日、血盟団の襲撃を受けて死去した。
【★10】頭山満:安政2(1855)年4月12日、福岡西新町(現・福岡市早良区西新)の生まれ。黒田藩馬廻役百石取の筒井亀策と母イソの3男。幼名は筒井乙次郎。イソの実家の頭山家(18石5人扶持の下級武士)の養嗣子となり頭山姓を名のった。明治4年、高場乱の興志塾(人参畑塾)に入門。9年、萩の乱に連座し入獄(翌年釈放)。10年、開墾社結成。11年、土佐に植木枝盛を訪問、自由民権運動に共鳴し、政治結社「向陽社」(のち「玄洋社」)結成。20年、「福陵新報」(のち「九州日報」)創刊。昭和19年10月5日没。享年89歳。
【★11】高場乱:「高場乱女史の生れた所は、博多萬行寺の横の瓦町である。父祖の業を継いで眼医者となつたが、『医は仁術也』の語をそのまゝに、収支損得に頓着なく、薬価は安く、薬は上等を用ひ、貧者には無料施術すると云ふ風であつたから、遂に経営が駄目になつたらしい。女史はまた医学の傍、儒学を亀井昭陽門下に修め、坂巻周太郎、上野友五郎、吉田元良と共に、亀井の四天王と称せられ、瓦町に居る頃から既に少しづゝの塾生を置いてゐたが、後人参畑塾に移り住むに及び、専ら子弟教養の道に努め、当時福岡で有名な学者正木昌陽の鳥飼の塾と相並んで、各独特の学風を発揮するに至つた。即ち正木塾に入る者が一般に、温厚篤実の青年であるに反し、高場塾には豪放不羈で、手にもおへない乱暴塾生が集つた。子爵金子堅太郎氏の如きは又木塾出身である。」「女史は徹頭徹尾男まさりの女であつた。その修むる所のものは治国平天下の学であり、その交る所の者は憂国の志士であり、その楽む所のものは唯国事を談ずるの一事にあつた。身体は極めて小柄で、梅干婆さんなどゝ悪口を云ふ者もあつた。それに病弱であつたが、自分が医者でありながら医者の診療を受けるが嫌ひで、また自分が漢方医でありながら、大の漢方医嫌ひであつた。病身ではあつたが其気力は旺盛なもので、殆ど気で生きてゐたと云つて宜しい。」「婆さんは常に男装し、外出に当つては常に竹の皮製の甚八笠を被り、未だ曽て傘を用ひなかつた。夏は浴衣一枚、冬はそれを三枚襲ね、嘗て袷や綿入れなどを着た事がなかつた。さうして大小を手挟んで歩き、時には乗馬を用ひた。」(藤本尚則『巨人頭山満翁』文雅堂書店、昭17・2)人参畑塾(人参畑堂)は那珂郡人参畑に安政元年開塾、明治22年閉塾。門下生は頭山満の他に、武部小四郎・越智彦四郎・箱田六輔・進藤喜平太・奈良原到らがいる。石瀧豊美「高場乱旧蔵書目録」(「暗河」20、昭53・9)がある。
関連情報
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/collections/q_fukukin_chr
詳細
レコードID
410537
権利情報
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
西暦
1871
和暦
明治4年
登録日
2013.08.21
更新日
2021.12.14