<その他>
古海卓二
ヨミ | |
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編者 | |
データベース名 | |
人物詳細 | |
関連情報 |
詳細
レコードID | |
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権利情報 | |
登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |
ヨミ |
フルミ タクジ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1894(明治27)年3月3日、福岡県遠賀郡黒崎村(現・北九州市八幡西区)に三原荒吉の二男として生まれ、3歳で親戚の古海家に養子として貰われる。明治41年黒崎小学校高等部卒業、八幡製鉄所に入社。明治45年家出して上京。以後、新聞記者などの職につく。大正5年浅草オペラの脚本を書きはじめ、貘与太平と称する。舞台監督も務めた「トスキナア」が評判となる。石井漠・伊庭孝・高田保・堺利彦・大杉栄らと交友する。9年女優の紅沢葉子と結婚、10年より映画監督として各社を転々とする。「旗本退屈男」(昭和5年)が代表作。昭和12年映画界を去り、故郷・黒崎へ帰る。13年に鉄工業経営の実弟三原三夫から一部敷地と工場をわけてもらい、末弟全氏と一緒に鉄工所経営を始め、軍需産業として進展する。17年北九州文化聯盟結成に、映画協会常任幹事として参加、後に聯盟幹事長に推される。この年「日本剣客伝」を福岡日日新聞夕刊に連載。19年強制疎開のため、工場とともに福岡に移転する。20年7月西部軍管区報道部に徴用される。経営の工場は閉鎖。21年九州書房の設立に参加、代表取締役に就任し、『九州の百姓一揆』(昭21・6、木の葉叢書2)を刊行する。23年の解散後は著述業。福岡において自立演劇・映画研究サークル活動の指導にも努めた。33年脳溢血のため倒れて、療養生活に入る。1961(昭和36)年4月10日午前8時死去。遺言には「戒名も墓もいらない、焼いた骨は捨ててよい」と記してあったという。長男の古海巨によって『映画に生きた古海卓二の追憶』(古海卓二遺稿集刊行会、昭37・5) が刊行された。同書には、遺稿のほか35名の追悼文、作品目録(映画・オペラほか)、年譜も収載されている。〔参考〕火野葦平「馬と人参―或る偉大なるオポチュニストの半生を走り書きに」、「新潮」昭32・3、のち『金銭を歌う』筑摩書房、昭33・3所収)、西日本新聞文化部編『昭和の尋ね人―アウトサイダー列伝』(不知火書房、平11・1) 【坂口 博】
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関連情報 |
レコードID |
442229
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |