<その他>
小山俊一
ヨミ | |
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編者 | |
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人物詳細 | |
関連情報 |
詳細
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権利情報 | |
登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |
ヨミ |
オヤマ シュンイチ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1919(大正8)年3月13日、福岡県門司市の生まれ。評論家。2男3女の第2子。直方市に育ち、1935(昭和10)年4月、福岡高等学校理科乙類に入学。1年留年して、39年3月に卒業。矢山哲治とともに九州帝国大学農学部に進学した。同年10月、文芸同人誌「こおろ」(第4号より「こをろ」)創刊に参加し、「非論理の素描」を発表。以下、「感想」(第2号、昭15・3)「思想以前のこと」(第4号、昭15・9)「『人生論ノート』を廻って」(第10号、昭17・3)「省みて他をいふ説」「一つの註」(第11号、昭17・4)「現代の賢者」(第12号、昭 17・12)などを寄稿し、同誌の中軸を担った。41年12月、大学を繰り上げ卒業。43年の矢山の死去の直後、5月、ボルネオ行き陸軍雇員募集に応募し、6月、軍属として東京を出発。45年8月、ボルネオ山中のジャングルで敗戦を迎えた。マラリヤに罹ったまま、捕虜収容所に。1946年春、福岡に復員し、秋には福岡県庁農地部に就職したが、半年後に辞職。以後、中学・高校の教師などをしながら茨城・東京・福島・福岡・鹿児島・東京・千葉・東京・和歌山・愛媛と、全国各地を転々とする。引越し回数は、戦後だけでも軽く25回を越えるといい、72年7月の紀州隠遁後も10回近く引っ越している。この間、 1948年には「こをろ」同人の小宮山敦子と結婚。ともに長い闘病生活を送った時期もあった。52年、日本共産党に入党。「現在の会」など文学関係者のなかで、指導的立場から活発な活動を繰り広げたが、60年、脱党。この頃からの作品に、「一つの部屋」(「午前」昭21・11)、「続一つの部屋」(「午前」昭22・4)、「パスカルとテスト氏」(「人間」昭25・2)、「虜囚とその所有」(「文芸」昭26・5)、「友への手紙」(「現在」創刊号、昭 27・6)、「サルトル「墓場なき死者」について」(「現在」第3号、昭27・10)、「戦争とある文学グループの歴史」(「思想の科学」昭34・ 12)、「カウラの死臭」(「試行」第11号、昭38・6)、「中野重治ノート(上)」(「試行」第13号、昭40・3)、「中野重治ノート(下)」(「試行」第14号、昭40・6)、「〈生存感覚〉について」(「同時代」第25号、昭44・10)、「〈教育現象〉について」(「教育労働研究」第2号、昭48)などがある。1968年3月、ガリ版刷の個人誌「Ex―Post通信」を創刊し、それが内村剛介編集の「初原」などに転載され(「EX―POST通信(1)(2)」(「初原」創刊号、昭45・12)、「EX―POST通信(3)(4)」(「初原」第2号、昭46・5))、 1970年代の文学・思想界の一部に強い衝撃を与えた。71年11月、「Ex―Post通信」全17号号外2号にて終刊し、紀州に隠遁。翌72年10月、「オシャカ通信」創刊、74年1月全8号にて終刊。75年3月、「プソイド通信」創刊、77年1月、第12号にて終刊。78年7月、「アイゲン通信」創刊、81年12月、全12号・号外4号を発行して終刊。82年10月、「Da通信」創刊、84年9月、全6号にて終刊。このあとは、86年3月の「Da ノート」(12月第3号まで)や、90年(平成2)9月の「Daメモ」(翌年7月第2号まで)が遺されている。1991(平成3)年9月18日、仮寓先の松山市・日赤病院にて膵臓ガンで死去。著書に、『EX―POST通信 付オシャカ通信』(弓立社、昭49・6)、『プソイド通信』(伝統と現代社、昭 52・9)、『私家版 アイゲン通信』(松山・小山俊一、昭57・3)、『Da通信』(松山・高松源一郎、平4・3)がある。【坂口博】
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関連情報 |
レコードID |
441699
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |