<その他>
阿川弘之
ヨミ | |
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編者 | |
データベース名 | |
人物詳細 | |
関連情報 |
詳細
レコードID | |
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権利情報 | |
登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |
ヨミ |
アガワ ヒロユキ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1920(大正9)年12月24日、広島市の生まれ。小説家。父親の阿川甲一は当時51歳、山口県の出身で、満洲阿川組や長春倉庫_鰍フ社長だったが、すでになかば一線を退いていた。母親のきみは41歳。弘之は戸籍上は長男だが、養子の兄・姉がいた。昭和2年、広島市の偕行社立済美小学校に入学(「こをろ」同人の吉岡達一と同級生)。8年、広島高等師範学校附属中学に入学。12年、広島高等学校文科乙類に入学し、文芸部に所属。高校生活の終わり頃、幼なじみで福岡高等学校生だった吉岡達一の紹介で同人誌「こをろ」に参加し、矢山哲治、島尾敏雄、眞鍋呉夫らと知った。 15年、東京帝大文学部国文科に入学。17年9月25日、繰り上げ卒業となり、同月30日、海軍予備学生を志願して佐世保海兵団に入団。台湾の高雄州東港海軍基地で基礎教育を受け、18年4月、帰国。横須賀海軍通信学校で特務班要員の訓練を受け、8月、少尉任官。翌年7月、中尉に進級。8月、支那方面艦隊司令部附となり、中国の漢口で通信諜報作業に従事した。20年8月、敗戦。ポツダム大尉に進級。俘虜となり、21年3月、復員帰国。「郷里は原子爆弾にやられ、七十年間生物の生存不可能などと聞かされていたので、両親とも死んだものと思って広島に帰ってみたら、父母は生きており、麦が青々と育っていて、まことに救われたような気持ちになった。しかし家産は皆広島と満洲とにあったので、一家は敗戦一夜にして大貧窮状態に陥っていた」(自筆「阿川弘之年譜」、『新日本文学全集第一巻 阿川弘之集/庄野潤三集』集英社、昭38・11)。4月、上京。志賀直哉を訪ね、定職につかずに執筆に専念することを決意し、「年年歳歳」(「世界」昭21・ 9)「八月六日」(「新潮」昭22・12)と発表。24年、結婚し、翌年、第一創作集『年年歳歳』(京橋書院、昭25・9)を上梓。長篇『春の城』(新潮社、昭27・7)で第4回読売文学賞を受賞。30年、「新潮」1―12月号に雲の墓標」を連載し(翌年1月、単行本化)、また『志賀直哉全集』(岩波書店)の編集を担当。11月から翌年12月までロックフェラー財団の留学生(フェロウ)としてアメリカに滞在した。以後、『夜の波音』(創元社、昭32・ 7)『坂の多い道』(新潮社、昭35・9)『山本五十六』(新潮社、昭40・11、第13回新潮文学賞)『暗い波濤』(新潮社、昭49・3)『井上成美』(新潮社、昭61・9、第19回日本文学大賞)などと書きついだ。54年、恩賜賞・日本芸術院賞。平成5年、文化功労者表彰。11年、文化勲章を受賞した。『阿川弘之自選作品』全10巻(新潮社)がある。
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関連情報 |
レコードID |
441446
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |