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概要 |
本論文は、これまでの日欧文化交渉史の研究において見落とされてきたドイツ東部ハルバーシュタット市出身コンラート・レーツェルを紹介したものである。博学者M.B.ヴァレンティーニの「Museum Museorum」を手掛かりにして、レーツェルが17世紀の30年代ごろ自費出版したコレクションの目録を調査した。記載されている収集品は彼が日本、中国、セラム島, アンボン島, バンダ島、チモール島、マカサル、大...小ジャワなどを12年間にわたって旅市、故郷へ持ち帰ったものである。ハルバーシュタットへの通りすがりの旅行者は彼の珍品展示室をいつでも見物でき、近隣、近郊の愛好家は、この宝物を火曜と金曜の午後、2時から4時の間、観賞することが許された。コレクションは動物、植物、鉱物、また人の手による「人工物」という4つの分野にわたっており、48部門に分かれいた。およそ250種の貝や蝸牛、6種のウニ、11種の珊瑚、100種近いヤドカリ、無数の虫や蝶、アルコール漬けの爬虫類、色模様のある蛇や魚、鰐、角、卵、ベゾアール石等多種多様な標本に見学者は思わず目を見張ったに違いない。さらに、日本製の漆塗りの筒、茶碗、金属製の鏡、扇や和紙、中国からは船模型、絵画、靴、茶碗、竹製の容器、漆塗りの箸、秤、墨、扇、またジャワの小刀や鞭、中国や、シャ厶、ベンガル、アラブ、マラバル地方及び日本の硬貨などもレーツェルの収集家としての情熱や彼の東インド滞在中恵まれたあたったことを如実に物語っている。目録の最後に描写されている戸棚には日本ないし中国製の銅鏡、煙管、「花瓶」、「マリア像」や数多の貴重な磁器が並んでいた。レーツェルが一人で集めたこのコレクションの規模は E . ケンペルなど、著名な旅行者の収集品を遥に越えるもので、極めて異例のものであった。残念ながら、彼がかいている旅行記は出版には至らず、散逸ししてしまったようである。これまでに入手した資料を照らし合わせて見ると、かつて薬剤師の見習いであったレーツェルは17世紀末ごろにオランダ東インド商会に採用され、12年間の勤務後、凡そ1710年ごろには帰郷していたのではないかと推測される。1719年から彼はプロシア王の免状を得て、ハルバーシュタット醸造者ギルドの「委託醸造場」を共同経営している。長旅を経験した彼が、その後市民社会へ順調に復帰したことは旧聖霊病院付属教会の円花窓下の碑文によっても証明される。1749年、上記目録のラテン語版が出る程有名になったレーツェルのコレクションは恐らく18世紀後半に消失してしまったものと思われる。その行方やこの旅行者兼収集家の生涯について、今後さらに詳細な研究が進み解明されることを期待する。続きを見る
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