ヨミ |
ヤマハタ ヨウスケ
|
---|---|
編者 |
花田, 俊典
|
スカラベの会
|
|
データベース名 | |
人物詳細 |
1917年(大正6年)8月6日、シンガポールの生まれ。カメラマン。写真家・写真事業家であった山端祥玉(本名・啓之助)の長男。本名は啓弌(けいいち)。姓名判断にこった父の意向により「庸介」と名乗る。妻・伸子(本名・さく)とのあいだに、長女・励子(現・青山姓)と長男・祥吾がいる。8歳のとき両親家族とともに東京に戻り、法政大学に進学するも中退し、父の仕事を受け継ぐ。1941年から44年まで、海軍報道班員(カメラマン)として徴用され、シンガポール・上海・マレー半島・中国の戦線に従軍する。45年8月1日、九州における「本土決戦」準備のために新たに創設された、西部軍管区司令部の報道部員として、東京から本部・福岡市へ赴く。ちなみに、関東地方「本土決戦」に対応した東部軍管区司令部には、まだ報道部が組織されていなかった。中央線を経由し、8月5日夜広島駅を通過して、6日28歳の誕生日に博多駅に着く。9日原爆の記録・調査取材のため、長崎に派遣命令され、10日早朝に到着。100枚以上の被爆直後の写真を撮影する。その衝撃的な映像は、部分的には山端庸介の名前の有無にかかわらず、早くから紹介されてきたが、アメリカの占領が終わった直後に刊行された北島宗人編『記録写真原爆の長崎』(第一出版社、1952・8)によって、山端の仕事が広く知られることとなった。同写真集は再刊(学風書院、1959・9)されたのち、多数の写真が、平和博物館を創る会編『写真物語あの日、広島と長崎で』(平和のアトリエ、1994・8 定価2200円・入手可能)に収録されている。同書の架空の「案内人」は山端庸介である。また、NHKスペシャル番組「長崎映像の証言~よみがえる115枚のネガ~」(1995.8.9)をもとにした、NHK取材班『長崎 よみがえる原爆写真』(日本放送出版協会、1995・8)も刊行されている。なお、山端庸介は放射能の「二次被害」と疑われる「十二指腸乳頭部ガン」により、1966年(昭和41年)4月18日午前11時58分、東京・慶応病院にて死去。享年49歳。早すぎた晩年には、父の起こした写真事業会社・ジーチーサン社(G.T.SUN)の社長に就任していた。
|
関連情報 |
レコードID |
442346
|
---|---|
権利情報 |
スカラベ人名事典の人物詳細の著作権は、それぞれの執筆者に属します
|
登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |