ヨミ |
ヒラバヤシ ヒョウゴ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1903(明治36)年9月1日、鹿児島県姶良郡日当山村の生まれ。小説家。自作農松元萬之助の三男。本名は松元實。大正9年3月、鹿児島県立加治木工業高校を卒業し、大正12年7月、日本大学高等工学校建築科卒業。昭和2年4月、詩・評論誌「第一芸術」を創刊主宰。5月、東京府復興局建築技手となり、震災後の銀座で区画整理業務に携わった。詩人の会合には胸にボヘミアン・ネクタイをしめて長身颯爽として姿を現わしたという。昭和2年8月、鹿児島県国分町出身で同年の三嶋ノブ(信子=明治36年11月20日、鹿児島県姶良郡国分村上小川3352番地、士族の三嶋直熊・ヱイの三女として生れた。大正9年、鹿児島県立国分高等女学校卒業、鹿児島県立師範学校本科第二部に入学。大正11年3月卒業、西襲山村立小学校に赴任する。同村の松元家に下宿して平林彪吾と知りあって恋愛し、一緒に上京した)と結婚。昭和3年、日大予科卒業。同年9月、中野に移転し、喫茶店「木靴(サボ)」を開業し、翌年5月、五反田に移り、喫茶店「ナイト」を経営。昭和6年3月、日大法文学部社会学科を卒業。同年5月、復興局解散により免官。6月、日本プロレタリア作家同盟に加入。昭和9年、「文化集団」に短篇「南国踊り」を発表。筆名を平林彪吾と改める。昭和10年6月、「文芸」懸賞創作に短篇「鶏飼ひのコムミユニスト」が入選。昭和11年1月、伊藤整・本庄陸男らと「現実」を創刊。4月、「人民文庫」に参加。昭和11年7月、十年ぶりに帰郷し、「九州文学」同人との交流がはじまる。1939(昭和14)年4月、敗血症のため築地海軍病院に入院し、同月28日、死去。享年37。(〔参考〕『月のある庭』付載「平林彪吾年譜」)〈著書〉創作集『月のある庭』改造社、昭和15年3月刊、―短篇「月のある庭」「「フロツク」」「輸血協会」「焼酎村」「市井の隅」「鶏飼ひのコムミユニスト」「光ある庭」、「平林彪吾年譜」、跋・武田麟太郎「平林彪吾の文学」火野葦平「平林彪吾の思ひ出」、「あとがき」(上野壮夫)
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関連情報 |
レコードID |
442195
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |