<その他>
樋口謙太郎
ヨミ | |
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編者 | |
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人物詳細 | |
関連情報 |
詳細
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権利情報 | |
登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |
ヨミ |
ヒグチ ケンタロウ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
[一九〇七(明治40)・五・一四―九四(平成6)・三・八]エッセイスト・医学博士。福岡県三井郡立石村井上(現・小郡市)の生まれ。「私の生まれた家は村の真中に白い壁で取囲まれ、正面には大きな屋根つきの門がデンとかまえていて一種の城郭を形作っていた。城下町の家老級の屋敷をほうふつさせる。元来大庄屋の格で、当時は小地主であった」(樋口謙太郎「筑紫野の一角」)。朝倉中学を経て旧制福高(理乙)入学。小学校と中学では野田宇太郎の二級上。一九二九(昭和4)年三月、福高を卒業し、九州大学医学部に入学。「高等学校では一回の欠点もとらず、自分ながらよく勉強したと思い、そのため卒業試験も受けないまま卒業できたのであるが、大学ではほとんど勉強らしい勉強をしなかった。ただ、青年の情熱のほとばしりというか、何かしたくてたまらず、そのはけ口を新たに組織された九大セツルメントに向けた」(「樋口謙太郎「私の半生」)。三四年、同大を卒業。入局し、二年後に助手。別府の九大温研の医員として赴任し、半年後、九大に戻って講師を拝命。教室発行の医学雑誌「皮膚と泌尿」の編集を半年ほど担当した。その後、旧朝鮮の釜山府立病院の新設皮泌科長として赴任し、三年半勤務した。太平洋戦争がはじまり、軍医予備員として京城(現・ソウル)の部隊に入隊したが、九大の恩師から誘われて九大に戻り、助教授となった。四二年、陸軍省の応募するジャカルタ医大の軍政地教授に公募。同地に赴任し、四五年三月まで在籍。ジャカルタ医大はロックフェラーの寄付による南方第一の設備を誇る医科大学で、同大では皮膚科の教授と熱帯医学研究所の一部門である癩研究所長を兼任した。終戦後は国立大村病院・久留米医大をへて、四八年暮、九大附属病院皮膚科教授となる。六四年、九大附属病院の院長。九大在職中より福岡大学病院の開設に協力。九大定年退職後の七二年より福岡大学医学部教授となった。カネミ油症の際には臨床部会会長、原因究明と治療にあたった。七八年、勲二等瑞宝章。ロータリークラブ会員。俳人の北垣一柿とは九大医学部の同級生。文学的センスもあり、「西日本新聞」などに寄稿。名エッセイストとして定評があった。エッセイ集に『欧米紀行』(小山書店、59・9)『ひとりごと』(創言社、69・12)『どんたーく』(西日本新聞社、77・10)『巡る歯車』(秀巧社印刷、83・12)などがある。【和泉僚子】
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関連情報 |
レコードID |
442181
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |