ヨミ |
ハラグチ キクヤ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1923(大正11)年2月24日、長崎市磯道町の生まれ。詩人。父親は医院を開業しており、福田清人の父親も同地で開業していたため親交があり、文学者志望の原口喜久也は鎮西学院中学卒業後、昭和18年4月、在京の福田清人をたよって日本大学専門部芸術科に入学。同年末、応召して「大村西部四七部隊へ入営。沖縄派遣、宮崎護西二二四〇部隊に転属」。同地にて敗戦を迎え、9月1日、長崎に復員した。「棘の原子街を迷い歩き親戚や友の家を探がし第二次放射能を浴びる。その時から原爆の悲惨残酷さに怒り顫え、故郷長崎と亡きひとへの鎮魂歌をとなえ地球と人類の危機を哀訴し、救済するには文学(詩)によって人間の情感に訴えるほかないとし再び文学に生命を捧げることを誓って、福田清人先生を訪ね復学を決意する」(「年譜」)。昭和22年3月、日大卒業後、諸事情のため帰郷し、中学教師をしながら積極的な文学活動をつづけていったが、その彼がジャーナリズムの注目を浴びたのは思潮社から詩集『ふにくりふにくら』を上梓してからのこと。同詩集の序文も、阪本越郎(彼は、原口喜久也が福田清人の紹介で参加した公立学校共済組合発行の文芸誌「文芸広場」の選者を担当していた)が寄せているが、それは「一九四五年八月九日長崎は原子爆弾を受けて灰燼に帰した。この一瞬、日本が誇る異国情緒の町は槿花一期の夢と消え去つた。しかし長崎はこの大いなる虚無と荒廃の中から立ちあがつた。このように復興するエネルギーの中で、原口喜久也の詩は誕生した。(略)長崎におちた原子爆弾がこの書斎派詩人を外光の下にひき出したともいえよう」と書き出される一文であった。原爆詩人のデビューである。「年譜」によると、この年の八月六日(九日ではなく!)、「NHKより原爆詩人として朝の訪問を受け、原爆哀詩〈蟹狩りの里〉を朗読放送した」。昭和38年3月14日、縊死。〈詩集〉『現代のカルテ』(思潮社、1964.11)
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関連情報 |
レコードID |
442170
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |