ヨミ |
ナカシマ アイロウ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1883(明治16)年7月30日、佐賀県佐賀郡久保泉村の生まれ。歌人。本名は中島秀連。川久保尋常小学校、春日高等小学校をへて明治30年4月、佐賀中学に入学。同校を卒業し、35年、早稲田大学高等予科に入学。38年、早大本科2年に進級したが家庭の事情で中退し、帰郷。翌年、出奔し、神戸で洗礼を受けた。同年、福岡歩兵第24連隊に志願入隊(のち召集となり40年12月解除)。明治41年、「明星」に詩・短歌を発表。42年、春日高等小学校の代用教員となり、45年12月、川久保郵便局長となる。大正2年、前田夕暮主宰の白日社同人となり、翌3年、短歌雑誌「途上」を創刊(第3号まで)。大正11年7月、高尾朝花らと歌誌「火の国」創刊(第6号まで)。北原白秋の「日光」「近代風景」に短歌を発表。昭和3年7月、「火の国」を「ひのくに」と改題して復刊。4年、川久保郵便局長を辞し、一家して佐賀市内に移住。市立清和女学校、ついで佐賀農芸学校、龍谷中学に奉職し、また福岡女子専門学校(現・福岡女子大学)にも出講した。戦後、昭和24年5月、休刊中の「ひのくに」を「火の国」と改題し、中原勇夫方から復刊(26年1月から「ひのくに」と改題し主宰)。晩年は歌作のかたわら後進の指導や講演についやし、昭和41年1月16日、83歳にて没。第一歌集『背振』(甲鳥書林、昭17・9)以下、『勝烏』(佐賀・ひのくに社、昭16・9)『早春』(福岡・惇信堂、昭20・11)『柿百首』(柿百首刊行会、昭27・4)『堤防』(長谷川書房、昭27・12)がある。『中島哀浪全集』上・下巻(其刊行会、昭33・12)および『中島哀浪全歌集』(短歌新聞社、平3・1)が編まれ、後者の巻末に「中島哀浪年譜」が付されている。林眞「佐賀の歌人中島哀浪著作目録」(「西日本文化」262、平2・6)は労作。哀浪の二男の草市潤(本名・中島正實)は大正7年生まれ。『放浪地帯』『無意味な二行詩』『垂直的人間』などの著書があり、父親の生涯を対象化しつつ語った『父も風景―中島哀浪手控え』(佐賀・キノスノキ社、昭58・10)では、「父に、人生を計算する機能はなかった。文人特有の怯懦と怠惰が、ときには欠落として現われ、時には個有な資質をのぞかせたりもしたらしいが、所詮は臆病風に吹かれて生きたようなものであった」と述べている。ふるさとの山よ川よと帰るとも世のよぼよぼの隠遁ならず/鳶の声近し干潟のムツゴロウつかの間にして食われたるらし
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関連情報 |
レコードID |
442072
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |