ヨミ |
ダン カズオ
|
---|---|
編者 |
花田, 俊典
|
スカラベの会
|
|
データベース名 | |
人物詳細 |
1912(明治45)年2月3日、山梨県南都留郡谷村町五五六番地(現・都留市)の生まれ。小説家。父・参郎、母・とみの第1子(長男)。本籍地は福岡県山門郡沖端村大字沖端八一番地(現・柳川市)。その後、父の転勤等で、福岡県三井郡国分村(現・久留米市)の母方の実家や、福岡、東京、足利市などに転居を繰り返す。大正10年、母とみが出奔、のちに離婚する。昭和3年、足利中学を第4学年修了で、福岡高等学校を受験し、4月、文科乙類に入学した。同クラスには石橋弥左衛門・武富敏治、丙類クラスには坪井與・水田三郎らがいた。また、福岡市浄水通八九四番地には貿易商高岩勘次郎と再婚した母・とみが住んでいたが、高校時代は檀の方から一方的に母の姿を見かけただけであった。昭和4年、福高の共済部設置問題に端を発した同盟休校事件の首謀者の1人として、1週間の停学処分を受け、翌年にはマルキシズム研究の学内グループが摘発されたが、檀も1年間の停学処分を受け、留年した。新しいクラスには内田辰次・雪山俊之らがいた。この停学期間中にニーチェ・ショーペンハウエル・佐藤春夫・瀧井孝作・小林秀雄・横光利一らの著作を耽読した。昭和6年、「校友会雑誌」第17号の創立10周年記念懸賞に「水上一俊」のペンネームで小説「或家の断層」・詩五編を応募し、一等入選した。翌年、東京帝国大学(現・東京大学)経済学部に進学。坪井與・内田辰次・水田三郎らと共同生活を営み、授業にはほとんど出席しなかった。8年11、「新人」創刊号に「此家の性格」を発表、実質的なデビュー作となった。この作品発表をきっかけにして、文芸評論家の古谷綱武、小説家の尾崎一雄・太宰治らと知り合い、12月には古谷から佐藤春夫を紹介され、以後、終生、師と仰ぐこととなる。また、この年、母と東京で再会した。10年、太宰治らと文芸誌「日本浪曼派」に参加。12月に同誌に発表した「夕張湖亭塾景観」が第2回芥川賞候補となる。12年7月、第1短編集『花筺』(赤塚書房)を出版。同月応召し、除隊後は「満洲」へ渡った。詩人の逸見猶吉や、福高時代の同級生坪井與・内田辰次らと一緒に暮らし、17年帰国。5月、私立福岡高等女学校(現・福岡女学院高校)出身の高橋律子と結婚した。19年7月、長男太郎と律子を残し、中国戦線に従軍し、翌年5月に帰国するが、律子は結核で病臥していた。21年4月、律子死去。中国戦線への従軍と、律子の病と死去を題材に断続的に作品を発表し、25年に『リツ子・その愛』『リツ子・その死』(作品社)と題して出版。戦後の文学活動を再開した。26年に「長恨歌」「真説石川五右衛門」で直木賞を受賞し、以後大衆小説の分野でも活躍することになる。私生活では21年、山田ヨソ子と再婚したが、一方で、一時期は新劇女優の入江杏子(福岡市出身)と生活を共にした。次男の次郎の日本脳炎発病と、入江杏子との愛と別れをモデルに、亡くなる直前までかけて長篇小説『火宅の人』(新潮社、75・11)を執筆し、51年、読売文学大賞・日本文学大賞を受賞した。51年1月2日、悪性肺腫瘍により九州大学附属病院で死去した。檀の異父弟の高岩震は旧制福岡高等学校福高理科3組の第25回卒業。福高時代から広渡常敏らと演劇に打ち込み、現在はカメラマンとして活躍し、近年ではろうあ者を主人公にした忍足亜希子主演「アイ・ラブ・ユー」のスチール写真を担当した。同じく高岩淡は東映のプロデューサーとして活躍し、緒方拳主演の映画「火宅の人」などを制作し、社長を今年退任した。また、同級生だった坪井與は東大文学部卒業後、「満洲」へ渡り、満洲映画協会へ勤務し、後年、満洲映画協会時代の資料と思い出を「満洲映画協会の回想」(「映画史研究」19号、昭59)で語っている。【長野秀樹】
|
関連情報 |
レコードID |
442015
|
---|---|
権利情報 |
スカラベ人名事典の人物詳細の著作権は、それぞれの執筆者に属します
|
登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |