ヨミ |
タナカ コミマサ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1925(大正14)年4月29日、東京都豊多摩郡千駄ケ谷町の生まれ。小説家・翻訳家。千駄ケ谷の東京市民教会(組合派)の牧師だった父親(田中種助、のち遵聖と号す)が、まもなく北九州市の西南女学院シオン山教会の牧師となったため、一家は転居。4歳のとき、呉市に移住。やがて牧師の父親は自分たちの力で十字架のない「独立教会」(アサ会=現めアメンの友)を創立した。 以下、彼の自伝エッセイ『不純異性交遊録』(三笠書房、昭49・4)などに従うと、昭和13年、福岡市内の西南学院中等部(現・西南学院高校)に入学。1年の2学期から寄宿舎生活を送ったが、「ここの神学部寮に、作家の川上宗薫先生は、西南学院高等部の学生だったころいて、裏の百々道の浜でひろった女をつれこんだことがある、と書いている」。中学2年の2学期に、かつて入試に失敗した、実家の近くの県立呉第一中学(現・三津田高校)に母親の意向で転校。同校を四年修了で卒業し、ふたたび福岡に戻って旧制福岡高校文科丙類に進学。「中学から脱出できて、ぼくがいちばんうれしかったのは、酒やタバコを飲めることや、こっそりだが遊廓にもいけるような自由ではなく、おおっぴらに映画が見れることだった」。旧制福高時代は勤労動員で佐世保の海軍工廠に行ったりしていたというが、昭和19年12月末、この年から徴兵年齢が1年くり下げられたので、満19歳で徴兵検査を受け、山口県の連隊に入営。彼の部隊は九州博多港から軍用船で釜山に渡り、鉄道で南満洲を抜けて南京に駐屯。各地を転戦し、敗戦直前にアメーバ赤痢の疑いで湖北省咸寧にあった旅団本部の野戦病院に移送となり、そこで敗戦の報を知った。昭和21年7月、上海から氷川丸で神奈川県久里浜に復員。郷里に帰ると「呉市は、もとは、帝国海軍の町だったが、戦後は進駐軍の町になっていた」。アメリカ軍基地の兵舎のストーブマンをしたあと、東大文学部哲学科に復学した(のちに中退)。彼の応召中、父親が勝手に入学手続きをしていたのだった。「昭和二十二年の四月に、ぼくは東大哲学科に復学したが、この月のうちに、渋谷の東横デパートの四階にあった『東京フォーリーズ』という軽演劇の小屋にはいった。(略)新宿帝都座の五階の『額縁ショウ』がはじまったのが、昭和二十二年の三月のおわりの週、こちらは、それからなん週間かおくれ、たしか、五月のなかばごろだった」。そこが火事で焼けたあと、米軍基地クラブのバーテン、街頭易者、テキ屋などの職を転々とし、また場末のストリップ小屋にコメディアンとして出演するほか、英米ミステリー小説の飜訳も手がけた(ちなみに「宮崎県の高鍋で、アメリカ人の宣教師の通訳をして、一冬をこしたこともあった。ぜんぜん雪は降らないところだが、ぼくはオーバーなんかなく、けっこう寒かった」、とエッセイ「裸女のなかの青春転々」には語られている)。昭和46年、『自動巻時計の一日』(河出書房新社、昭46・8)で第66回直木賞候補。ついで昭和54年、「浪曲師朝日丸の話」「ミミのこと」(『香具師の旅』泰流社、昭54・2所収)で第81回(昭和54年上半期)直木賞を受賞し、さらに短篇集『ポロポロ』(中央公論社、昭54・5)で第15回谷崎潤一郎賞を受賞した。平成12年2月27日(現地時間では26日)、旅先のロサンゼルスにて没。「ユリイカ」第32巻第9号(平12・6)は「総特集 田中小実昌の世界」。巻末に「田中小実昌年譜」(関井光男編)と「田中小実昌著作目録」がある。
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関連情報 |
レコードID |
441994
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |