ヨミ |
サタ イネコ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1904年6月1日、長崎市八百屋町の生まれ。小説家。本名・佐田イネ。勝山尋常小学校に入学したが、小学1年の夏に母を亡くし、継母が来たが、祖母との折り合いが悪く、また父も放蕩癖があるなど、複雑な家庭事情のため市内を転々とした。大正4年10月、小学5年の2学期のとき、父親が三菱造船所を退社したので、一家で上京。本所向島の牛山小学校に1箇月ほど通ったが、貧困のため2学期末で学校をやめ、工場や料亭やカフェなどで働いた。大正15年、勤め先のカフェで文芸誌「驢馬」同人の中野重治・窪川鶴次郎・堀辰雄らと知り、文学に接近した。第1短篇集 『キャラメル工場から』(戦旗社、昭5・4)を上梓し、左翼系の女性新進作家として注目された。戦後は婦人民主クラブの創立運営に貢献し、また短篇集『女の宿』(講談社、昭38・4)で第二回女流文学賞、『樹影』(講談社、昭47・9)で第二十五回野間文芸賞、『時に佇つ』(河出書房新社、昭51・4)で第三回川端康成文学賞など、多数の賞を受賞した。1970年から民主婦人クラブ会長を務めた。平成10年10月12日没。「私の生れたのは八百屋五番地。西山からお諏訪さまの前を横切つておりてきて、公園の入口の前を通り抜けたあたりから八百屋町ははじまつているが、それは立山から下りてきた横町を突つ切つて内中町の方へつゞいている。私の生れた家は、この立山からおりてきた横町へ出る四五軒手前の、公園寄りにあつた。(略)母が十六歳、父が十九歳、父は嵯峨野中学を出て、このとき三菱造船所の書記の職を見つけて通つていた。/この若い夫婦は、私を生むために佐賀から追われるように出て来て、祖母の二階に身を落ちつけていた。二人はまだ表立つた夫婦ではなかつた。母は女学校の中途で私を身籠り、親たちの計いで長崎へ移されたのである」(佐多稲子『私の長崎地図』)。
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関連情報 |
レコードID |
441858
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |