ヨミ |
カンバラ アリアケ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1876(明治9)年3月15日、東京麹町区隼(はやぶさ)町の生まれ。詩人。本名は隼雄。蒲原忠蔵の長男。父の忠蔵は佐賀県杵島郡須古村の出身で、慶応4年(明治元年)6月、大木喬任(伯爵)に従って上京し、兵部省、工部省、司法省、文部省に出仕し、営繕の事務を執った。母は東京芝区出身のツネ(旧姓石川、入籍は有明出産後の明治12年3月)。ツネは忠蔵の後妻で、先妻は忠蔵と同郷のキヨ。有明は数えどし5歳のとき明治13年、平河小学校(のち麹町小学校)に入学。16年、8歳のとき母ツネが離縁となり去った。20年、麹町小学校を卒業し、東京府立尋常中学校に入学。この年、父が佐賀出身の下村モトと結婚。以後、彼は継母モトに育てられた。26年、一高受験に失敗し、国民英学会に入学。小学高学年より新体詩に親しみ、国民英学会では高橋五郎らの講義に感銘し、英文学とくにバイロン、シェークスピアに傾倒した。28年、国民英学会を退学。徴兵検査を受けるため父の郷里の佐賀県須古村に赴き、唐津、呼子、伊万里、有田などの地を巡った。30年、小倉、中津、耶馬渓などを巡って帰京。31年1月、「読売新聞」新年附録短篇小説に応募した「大慈悲」が一等入選。以後、尾崎紅葉、島崎藤村、柳田國男、田山花袋らと知り、32年6月、「読売新聞」に「松浦あがた」を発表。39年、佐賀県西松浦郡曲川村蔵宿の西山健吾の3女・君子と結婚した。41年1月、第4詩集『有明集』を上梓し、近代象徴詩の高い水準を示した。同年4月、妻の郷里を訪問滞留。戦後、野田宇太郎のすすめで「藝林閒歩」に連載した自伝「夢は呼び交す」を連載(のち単行本化、東京出版、昭22・11)。昭和27年2月3日、鎌倉の自宅にて死去した。享年77(数えどし)。〈詩集〉『草わかば』(新声社、明35・1)『独絃哀歌』(白鳩社、明36・5)『春鳥集』(本郷書院、明38・7)『有明集』(易風社、明41・1)『有明集』(アルス、大11・5)
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関連情報 |
レコードID |
441753
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |