ヨミ |
カノコギ カズノブ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1884(明治17)年11月3日、山梨県甲府に生まれる。哲学者・全体主義的思想運動家。父・鹿子木才七、母・歌子の3男。父は旧熊本藩士、母の実家・松島家も同じ。甲府は父の赴任先であった。徳富蘇峰・蘆花の両親とも、キリスト教を通じても親交があった。1896年父の死去後、員信を養育した長兄・小五郎は香川県・和歌山県・岐阜県の知事を歴任し、貴族院議員(勅選)も務める。次兄・彦三郎は蘆花の姪・河田ちゑ子と結婚している。員信は東京府立一中を経て海軍機関学校を卒業後、巡洋艦・八雲に乗り組み、日露戦争に従軍。学生時代から、内村鑑三・海老名弾正の影響を受ける。戦闘に参加し、沈没するロシア艦船と将兵に遭遇して人生に懐疑的になる。明治39年、中尉にて海軍をやめ、京都帝国大学哲学科選科で学び、翌07年アメリカに渡り、コロンビア大学で修士号取得。ユニオン神学校も卒業する。明治43年ドイツに渡り、イェーナ大学・ベルリン大学で学び、オイケン(イェーナ大学)の指導下に博士号を得た。大正2年4月に帰国し、翌3年慶応義塾大学の哲学科教授に就任(7年3月まで)。7年4月、哲学研究のためインドに渡り、ヒマラヤ登山。インド独立運動を支援したため、逮捕(8年2月)され国外追放される(4月帰国)。大川周明・北一輝らと猶存社創設に関わる。10年4月、東京帝国大学文学部哲学科の講師となる(12年3月まで)。12年3月、文部省在外研究員として、帰国後は九州大学赴任を前提にドイツ・イタリア・アメリカ等に渡る(15年7月帰国)。 15年9月九州帝国大学法文学部教授、昭和7年2月、学部長となる(1年間)。この間もたびたび海外へ出張(昭和2・4~4・4ベルリン大学客員教授、7~12満洲・中華民国)したり、満蒙研究会・九大皇道会などを組織する。12年12月から翌年7月まで陸軍北支派遣軍司令部付「最高顧問」(中将待遇) を命じられる。14年4月九大を依願退官後、皇国学団などに関係し、17年12月に発足した大日本言論報国会(会長・徳富蘇峰)専務理事兼事務局長に就き専念する。20年8月敗戦とともに言論報国会は解散し、11月24日A級戦犯として巣鴨に拘置されるが、21年12月肺浸潤のため米軍病院に移送され、翌 22年2月8日退院、鎌倉の家族の許への帰宅を許される(自宅幽囚)。昭和24年12月23日、鎌倉にて逝去。大正2年に来日した、最初の妻・コルネリア (ロシア人の父はポーランド生まれ。母はドイツ人)とのあいだに1男(健日子)1女(綾子)が生まれるも、昭和4年離婚。コルネリアは、旧制成城高校・武蔵高校などでドイツ語教師として勤務する。著書に『観察と回想』(郁文堂、昭38)がある。員信は32年駒井寿美子と再婚、基員が生まれるも、昭和12年に福岡にて妻は病没。15年に家坂幸江と結婚し、浄子が生まれる。ヨーロッパ滞在中は登山・山岳スキーにも親しみ、慶大山岳会・東大スキー山岳部の創立に関わる。「全体主義」を世界でもっとも早い時期に提唱した一人。著書に『アルペン行』(政教社、1914→覆刻版・大修館書店、1975)、『文明と哲学的精神』(慶応義塾出版局、1915・12→新装版・文川堂書房、1943・2)、『永遠の戦』(1915.12)、『戦闘的人生観』(同文館、 1917→再版・文川堂書房、1943)、『ヒマラヤ行』(政教社、1920→覆刻版・大修館書店、1978)、『仏蹟巡礼行』(大鐙閣、1920・ 7)、『理想主義的悪戦』(京文社出版、1926・9)、『やまとこゝろと独乙精神』(民友社、1931・4)、『日本精神の哲学』(直日のむすび出版部、1931・7→再版・文川堂出版、1943)、『新日本主義と歴史哲学』(青年教育普及会、1932・4→普及版1934・8)、『皇国主義』(大倉精神文化研究所、1935)、『すめらあじあ』(同文書院、1937・12→増訂版1939)、『皇国学大綱』(編著・同文書院、1941・5)ほか。鹿子木員信の経歴については、宮本盛太郎『宗教的人間の政治思想軌跡編――安部磯雄と鹿子木員信の場合』(木鐸社、1984・3)が詳しい。 【坂口 博】 「ふりかえれば、雪をけたてて視野のきかない急斜面をひたむきに滑降してゆくひとりのスキーヤーの姿がうかびあがってくる。」(古在由重『思想とはなにか』岩波新書、1960・9)
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関連情報 |
レコードID |
441727
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |