ヨミ |
イズミ ヨシロウ
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1905(明治38)年3月18日、鹿児島県大島郡伊仙村(徳之島)面縄の生まれ。詩人・教育者・政治家。一時、泉与史朗の筆名を使う。また「ほうろう」の呼称で親しまれた。面縄尋常小学校、伊仙尋常高等小学校高等科を卒業して、大正9(1920)年に鹿児島県立第二師範学校(現・鹿児島大学)第一回生として入学。大正13年3月、同校を卒業し、大島郡赤木名小学校訓導となり、いくつかを転任。大正15年6月、白鳥省吾主宰の「地上楽園」(大地舎)創刊を知り、同人となる。昭和3(1928)年4月、上京して千駄ヶ谷小学校訓導となり、日本大学専門部国文科に入学するが、昭和6年4月に中退する。昭和9年11月詩誌「詩律」(昭和11年7月に「モラル」と改題し、さらに昭和13年1月に「詩生活」と改題。昭和14年4月、通巻50冊にて廃刊)を創刊、主宰する。伊波南哲・内田博・板橋謙吉・上林猷夫・池田克己・渋谷周堂らが同人となる。昇曙夢・佐藤惣之助・小熊秀雄らと交遊する。昭和14年6月「詩と詩人」を浅井十三郎・田村昌由・久須耕造・小笠原啓介と創刊する。この年の夏に健康を害して帰郷する。昭和16年に伊仙国民学校教頭に就任し、のち神之嶺国民学校校長から鹿児島県視学に任命され、名瀬に住む。昭和22年2月の「分離」以後は、奄美文芸家協会創立(会長)、月刊雑誌「自由」社社長、奄美大島社会民主党結成(書記長から中央執行委員長)、奄美大島日本復帰協議会結成(議長)など、奄美の文化活動と復帰運動を推進する。昭和26年8月には120時間の復帰祈願の断食もおこなう。昭和27年9月、名瀬市長に当選。昭和28年12月25日、奄美群島の日本復帰を実現する。昭和29年1月、衆議院議員選挙に日本社会党から立候補のため名瀬市長を辞任する。詩集刊行の準備で上京中に、風邪から急性肺炎をおこし、昭和34(1959)年4月9日東京警察病院で死去。11日東京にて東京奄美会の告別式・火葬。22日鹿児島市にて鹿児島奄美会の告別式。26日名瀬市にて大島郡民葬。30日面縄小学校にて村民告別式・納骨。〈詩集〉『光は濡れてゐる』(大地舎、昭2・6)『赭土にうたふ』(大地舎、昭3・9)『オ天道様ハ逃ゲテユク』(黎明社、昭9・4)、『泉芳朗詩集』(泉芳朗詩集刊行会、昭34・12)〔参考〕水野修『炎の航跡―奄美復帰の父・泉芳朗の半生』(潮風出版社、1993.4)『泉芳朗詩集』付載「年譜」 【坂口 博】
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関連情報 |
レコードID |
441531
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |