<紀要論文>
日本に関する二十の観察(1669年)

作成者
本文言語
出版者
発行日
雑誌名
開始ページ
終了ページ
出版タイプ
アクセス権
JaLC DOI
概要 南蛮人の追放以来、宣教師の書簡を通してヨーロッパへ流れていた日本の情報は封印されてしまった。出島のオランダ商館からもほとんど何も伝わってこななかったので、1660年代当初に設立された「Royal Society of London For The Promotion Of Natural Knowledge」の事務長を務めたドイツ人オルデンブルクは、ある情報に刺激されてフランスの学者アンリ・ユステ...ルを通じてオランダの某帰郷者と連絡を取ることにした。ユステルとオルデンブルクの書簡には、このなぞの人物に関する幾つかの情報が見られる。彼は東アジアに17年も滞在して、かなりの富を得たようである。さらにその人物は、1657年に江戸での有名な(明暦の)大火を体験したのみならず、中国へも旅をしたことがあるという。ユステルはこの人物に直接会おうとしたが相手がハーグを離れたり戻ったりしていたこともあって、その要望は叶わなかった。結局、当時オランダに滞在していたフランス王立図書館の館長テヴェノーを介して、オルデンブルクの質問を伝え、それに答えて貰い、ユステルを通じてその文書をイギリスへ送った。この日本に関する記述の英訳は、1669年2月の王立協会の会議において発表され、7月には機関誌「Transactions」に掲載された。オルデンブルクの質問に対する解答は最小限に短縮されされたもので、それは1585年のルイス・フロイスによる欧日文化比較の記述法を想起させる。ここから当時ヨーロッパの学者がどのようなテーマに興味を示していたのかが窺える。それはまた、カトリックの宣教師やオランダ東インド会社の関係者を除く一般の人々の知識水準がまだどれほど低いものであったかをも物語っている。新しい情報の不足に悩むドイツ・ニュルンベルクの学者クリストフ・アーノルトがこの文章に着目し、自著「Die wahrhaftige Beschreibung der drei maechtigen Koenigreiche Japan, Siam und Korea」の改訂版に取り入れたので、オルデンブルクの報告はドイツでも知られるようになった。 残念ながら、上記の旅行者の名前を解明することはできなかった。出島商館長の日記によれば、明暦の大火を体験しているヨーロッパ人は5人だった。すくなくともその1人は中国にいたことが証明されている。しかし、ドレスデン出身のツァハリアス・ワーゲナは、ユステルとオルデンブルクが書簡を交わしていた時期には南アフリカからオランダへの帰路に就いていた。2人目のブレスラウ出身の出島商館医ハンス・ハンコはヨーロッパ到着後短期間しかオランダにはいなかった。ダッパが1670年に刊行した中国関係の資料を調べると、残る3人のうち商人ホーヘンフクの名前が浮上してくる。彼はヴァン・カンペン及びノーベルが率いた中国への東インド会社のいわゆる「第2使節」に参加し、1663から1664年に亘って福州で活躍しており、「下位王様」との交渉にも当たった。その滞在中、ホーヘンフクはバタビアへ帰るノーベルと交代したことを考えると、彼は商人だっただけではなく外交の舞台上でも会社の優秀な代表者でもあったに違いなく、上記の日本に関する観察を伝えた人物だったことはほぼ確実だという結論に至る。続きを見る

本文情報を非表示

michel-paper63 pdf 30.6 MB 282  

詳細

レコードID
査読有無
関連情報
地域
主題
ISSN
NCID
タイプ
時代・年代
登録日 2009.04.22
更新日 2017.01.18

この資料を見た人はこんな資料も見ています