<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和15年
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花田, 俊典
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スカラベの会
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年表 |
文学作品:1月 火野葦平「支那の子供」(「福岡日日新聞」1日)峰絢一郎「板櫃戦記」(「九州文学」)井上忠「倭寇と九州」(「科学評論」)花田清輝「赤づきん」(「文化組織」)長谷健『あさくさの子供』(改造社)矢野朗『肉体の秋』(春秋社)2月 吉岡禅寺洞「新定型観」(「天の川」)3月 吉岡禅寺洞「口語表現のこと」(「天の川」)花田清輝「錯乱の論理」(「文化組織」)4月 篠山二郎(林逸馬)「未成年―第三部」(「九州文学」)秋山六郎兵衛『故園』(三笠書房)秋山六郎兵衛訳『冬』(グリーゼ原作、白水社)佐久間鼎『現代日本語法の研究』(厚生閣)大塚幸男「文学はどこにあるか」(「福岡日日新聞」21日)火野葦平「戦争と宣伝」(「福岡日日新聞」25―5月30日)5月 矢野朗「丸山豊小論」(「九州文学」)6月 佐久間鼎「日本語問題の登場」(「科学評論」)岩下俊作「富島松五郎伝」(「オール讀物」*再掲)7月 矢山哲治「桃日」・眞鍋呉夫「野良犬物語」(「こおろ」3)田中稲城「一茎の葦」(「九州文学」)吉岡修一郎「懐疑・好奇心・科学的精神」(「科学評論」)秋山六郎兵衛「弾み上る文化の力」(「福岡日日新聞」26日)高木市之助「日本固有文化の本格的研究を望む」(「福岡日日新聞」31日―8月1日)8月 花田清輝「探偵小説論」・中野秀人「ヒットラー」(「文化組織」)石中象治(翻訳)『ロダン』(リルケ著、弘文堂書房・世界文庫)9月 山田牙城「朝霧」・岩下俊作「西域記(連載)」(「九州文学」)岩下俊作「辰次と由松」(「オール讀物」)」矢山哲治『友達』(詩集友達刊行会)小山俊一「思想以前のこと」・〈太宰治論(アンケート)〉(「こをろ」4)10月 秋山六郎兵衛「出楽園」・峰絢一郎「鳳凰木の蔭に」(「九州文学」)島尾敏雄「天草の秋」(「九大文学」)吉岡禅寺洞「文語表現に就て」(「天の川」)伊地知進「廟行鎮再び」(「オール讀物」)竹下しづの女句集『■(*風+立=はやて)』(三省堂)11月 安西均「瞳のゆくえ」(「九州文学」)火野葦平「喜兵衛追悼」(「福岡日日新聞」30日―12月1日)中野秀人『聖歌隊』(文化再出発の会)12月 原田種夫「玩具祭」・野田宇太郎「綻びの歌」(「九州文学」)眞鍋呉夫「心象玻璃第一章」(「こをろ」5)花田清輝「童話考」(「文化組織」)石中象治「文学者と政治」(「福岡日日新聞」8日)河野静雲『閻魔』(其刊行会)那須辰造「誠実の問題」(「福岡日日新聞」24日―28日)■この年、藤口透吉(透吾)「骨肉慚愧」(「文芸首都」)藤口透吉(透吾)『護国の勇士よ有難う―武勲と少年時代の話』(金の星社)藤口透吾『老骨の座』(学芸社)
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文学的事跡:1月 那珂太郎・伊達得夫・湯川達典らがクラス雑誌「青々(せいせい)」【★515】創刊。火野葦平が〈兵隊三部作〉で朝日文化賞(10日)。花田清輝・中野秀人らが「文化組織」創刊(*18年10月まで全42冊)。広島高校の阿川弘之(*広島出身の吉岡達一と小学校以来の友人)が来福し、「こをろ」在福同人と歓談(4日)矢山哲治・阿川弘之・矢山哲治・吉岡達一・山崎邦栄・山崎邦歌・久我正子らが背振山に遠足(6日*矢山哲治、昭15・1・4書簡)。阿川弘之・吉岡達一・眞鍋呉夫が雲仙・長崎に旅行。2月 矢野朗創作集『肉体の秋』出版記念会、ブラジレイロで開催(3日)。矢野朗が「肉体の秋」で、藤口透吾【★516】が「老骨の座」で、佐藤虎男【★517】(福岡県山田市出身)が「潮霧」で第10回(昭和14年下半期)芥川賞候補、原田種夫が「風塵」で、劉寒吉が「人間競争」で、勝野ふじ子が「蝶」で第10回芥川賞参考候補【★518】(7日*5日選衡委員会で決定、7日発表、受賞は寒川光太郎「密猟者」)。福岡高等学校弁論大会開催、伊達得夫「苦悩の肯定」・小島直記「人間の課題」(9日)。岩下俊作が「富島松五郎伝」で第10回直木賞候補(14日*該当作なし)。宇野浩二が第2回菊池寛賞(27日)。3月 芥川賞選衡委員の宇野浩二が「文藝春秋」誌上の選評で「九州文学」同人の作風を痛罵【★519】(1日)。梅崎春生が東大を卒業し、翌月東京市教育局教育研究所に雇員の身分で就職。4月 島尾敏雄・森澄雄【★520】が長崎高商から九大法文学部経済科に入学。玉井千博が松山高商から九大法文学部文科に入学。火野葦平が〈兵隊三部作〉で第1回「福日文化賞」(福岡日日新聞社主催*現・西日本文化賞)の「文学賞」発表(15日*贈呈式は20日)。「九州文学」同人ら約30人が東中洲の明治製菓3階ホールで火野葦平『河童昇天』(改造社)・秋山六郎兵衛『故園』(三笠書房)・故平林彪吾『月のある庭』の合同出版記念会を開催し、東京から中山省三郎・小山二郎(=小山久二郎・小山書店主)も参加【★521】(27日)。5月 黒田静男が福岡日日新聞退職を機に「九州文学」の発行兼編輯人を同誌5月号(第20冊)から担当(10日)。長井盛之ら「国語をよくする会」【★522】結成。6月 「九州文学」3巻6号、篠山二郎(林逸馬)「未成年」掲載のため安寧禁止で発禁【★523】(11日)。北原白秋の資金援助で九州文学社(「第二期 九州文学」)主催の「九州文学賞」【★524】を設定。7月 野田宇太郎の上京を機に詩誌「抒情詩」(久留米市)を解体し、野田宇太郎・佐藤隆・俣野衛らが「九州文学」7月号から同人参加(*丸山豊は不参加)。長谷健・中山省三郎が来福し、火野葦平・原田種夫・矢野朗・山田牙城らと市内「万福」で痛飲(12日)。「こをろ」同人の阿川弘之が来福し、「こをろ」グループと福岡市郊外の油山にピクニック【★525】(15日*その後満洲旅行へ)。8月 岩下俊作(小倉市)が「富島松五郎伝」で再度第11回(昭和15年上半期)直木賞候補(1日*受賞は堤千代「小指」・河内仙介「軍事郵便」)。「こおろ」第3号、眞鍋呉夫「野良犬物語」掲載のため風俗禁止で発行停止命令(2日*翌3日発禁処分)。9月 「こをろ」第4号掲載予定の阿川弘之の小説「初恋」、県特高課の査読で掲載不許可(4日)。10月 福岡銃後短歌会(九州日報社主催・福岡歌話会後援)、九州日報社3階ホールで開催。11月 この頃、眞鍋呉夫・島尾敏雄・秋根美代子・久我正子ら、若杉山へハイキング(*眞鍋呉夫「美しかつた日に」)。月末、眞鍋呉夫が島尾敏雄に誘われて島尾の故郷相馬に同行後、仙台市広瀬川畔の病院に安河内剛を見舞い、東京・神戸をへて帰福。12月 檀一雄が久留米の陸軍●連隊を除隊し満洲へ。喫茶店「門」に来合わせた「こをろ」同人の矢山哲治と川上一雄が口論し、殴り合いの喧嘩になって絶交(28日*矢山哲治昭和15・12・30川上一雄宛書簡)。この年、揚野浩(小説家)、鹿児島県枕崎市で出生。
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社会文化事項:1月 電力節約令でネオン点灯中止(1日)。「新東亜建設展」(福岡日日新聞社主催)、玉屋で開催(3日―11日)。「常磐館」を買収し「財団法人福岡奉公館」と改称(13日*3月から在郷軍人の集会所・宿泊所開設)。2月 「映画文化展」(キネマ旬報創刊20周年記念)、玉屋で開催(3日―12日)。午前〇時より防空演習実施(8日)。九州電気軌道の電車に女性車掌登場(16日)。ディック・ミネ、ベティ・稲村が来福し川丈座で公演(17日)。竣工間近の福岡観光ホテル(東中洲)から出火(27日)。3月 洋画封切専門館「第一映画劇場」(東宝直営)、呉服町交差点そば第一徴兵生命ビル地階に開館、「ターザンの逆襲」「颱風(ハリケーン)」上映(1日)。第6回二科西人社展、福岡県公会堂で開催(13日―17日)。奉祝紀元二千六百年「現代大家彫塑展」、岩田屋で開催(15日―21日)。博多―志賀島間定期連絡船「広博丸」が西戸崎沖で衝突沈没し乗客43人中死者行方不明15人(17日)。徳川夢声・堤真佐子・ヘレン本田が川丈座で公演(19日)。李香蘭、映画「支那の夜」撮影のため来日来福(23日)。紀元2600年記念九州山口八県青年対抗九州一周駅伝競走大会(朝日新聞社主催)開催し福岡県が優勝(25日―31日)。4月 福岡市立第一・第二工業学校開校(1日)。九州専門学校設置(1日)。福岡県令改正、料理飲食店の営業は午後11時まで(1日)。長谷川一夫・李香蘭が来復し雁ノ巣飛行場から空路上海へ(6日)。那珂村が町制施行(17日)。長尾寅吉が「中央ホテル」を西中洲に開業(19日)。「福岡日日新聞」2万号記念事業として「福日文化賞」(現在の西日本文化賞)を設け(昭14・5・13)、第1回受賞者として〈兵隊三部作〉の火野葦平ら5名を表彰(20日)。皇紀2600年を機に九州帝大医学部内に「福岡医学史話会」【★526】結成。5月 福岡市立第一工業学校・第二工業学校開校(1日*23年博多工業高校)。福岡高商の全生徒が体位向上のため雁ノ巣までハイキング、海軍予備航空団を見学【★527】(8日)。「九州青年」2号(九州青年維新同盟)、安寧禁止で発禁(24日)。6月 第一次防空訓練(監視通信)実施(7日―13日)。「福岡日日新聞」11日付紙面、「匿名座談会政局渦門図」掲載のため安寧禁止で発禁(11日)。紀元2600年奉祝大会、東公園で開催(19日)。福岡高等商業学校研究会が発足し機関誌「福岡高商論叢」創刊。8月 九州日報社、読売新聞社(正力松太郎社長)に買収されるが「九州日報」の紙名は継承(13日)。博多織工場休業(20日)。国際猛獣大サーカス、新柳町大広場で興行(22日―9月20日*福岡日日新聞社主催)。カフェ業者が参会しブラジレイロ階上で自粛打ち合わせ(27日)。9月 朝日新聞社、四本社制を実施し九州支社は西部本社に(1日)。第2次防空訓練実施(4日―6日陸上部終了・10日海上部終了)。九大学生のカフェ・バー出入り禁止、映画観覧制限(11日)。県保安課の指示で東中洲のカフェー・バー・おでん屋は午後5―11時の限定営業開始(25日)。第1回西日本グライダー大会、香椎埋立地で開催(28日)。10月 第5回国勢調査で福岡市人口30万6763人(1日)。第3次防空訓練実施(2日―4日)。東公園で「大政翼賛結盟市民大会」開催し、5万人が参加(13日)。改組第3回福岡美術会奉祝展、玉屋で開催(26日―30日)。11月 大相撲展、玉屋で開催(3日―13日)。東京大相撲大会、須崎裏仮設土俵で開催(8日―17日)。皇紀二千六百年奉祝式典(10日)。11月 福岡高等学校校友会を解散し「福岡高等学校報国団」に改組(26日)。第1回福岡県美術協会展(県展)、岩田屋で開催(26日―12月5日)。大政翼賛会福岡県支部発足(29日)。福岡高商音楽部が皇紀二千六百年奉祝演奏会を仏教青年会館で開催(30日)。12月 福岡高等学校「学而寮」を「報国学而寮」と改称(3日)。福岡高等商業学校校友会を解散し「福岡高等商業学校報国団」を結成(18日)。ホテル清流荘開業(20日)。西部軍司令部、小倉市から福岡市舞鶴城内の新庁舎に移転【★528】(24日)。陸軍墓地建設(23日)。糟屋郡箱崎町を福岡市に編入(26日)。
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日本・世界事項:1月 米内光政内閣成立(16日)。2月 陸運統制令・海運統制令公布(1日*25日施行)。民政党の斎藤隆夫、衆院で反軍演説(2日)。3月 伊東静雄『夏花』(子文書房)。義務教育費国庫負担法公布(29日)。4月 青年学校令公布(1日)。県令改正により福岡県下の料理・飲食店の営業は午後11時まで(1日)。石炭配給統制法公布(8日)。4新聞社のニュース映画社が合同し日本ニュース社創立(9日)。宗教団体法施行(●日*20年10月4日廃止)。6月 イタリアが英・仏に宣戦布告(10日)。ドイツ軍、パリに無血入城(14日)。古田晃、筑摩書房創業(18日)。文部省が修学旅行の制限を通牒(22日)。近衛文麿、新体制運動表明(24日)。7月 奢侈品等製造販売制限規則公布(6日*翌日施行=7・7禁令)。第2次近衛内閣成立(22日)。大本営政府連絡会議開催、南進政策を骨子とする時局処理要綱を決定(27日)。8月 国民精神総動員本部、東京市内に「ぜいたくは敵だ」の立て看板を設置。9月 「東京朝日新聞」と「大阪朝日新聞」を「朝日新聞」に名称統一(1日)。内務省訓令「部落会、町内会、隣保班、市町村常会整備要項」(11日)。小倉の西部軍に報道部を新設(14日)。文部省が中等学校教科書の検定制を廃止し指定制導入(12日)。日独伊三国同盟締結(27日)。10月 国勢調査実施、日本の総人口は1億522万6101人(1日*内地人口は7311万4308人)。大政翼賛会発会式(12日)。大政翼賛会文化部長に岸田國士が就任(18日)。米英語排斥でタバコの銘柄「コールデンバツト」を「金鵄」、「チエリー」は「桜」に。東京のダンスホール閉鎖(31日)。加藤楸邨が俳誌「寒雷」創刊主宰。高柳重信が俳誌「群」創刊主宰。11月 大日本帝国国民服令公布(2日)。紀元2600年記念祝典(10日)。大日本産業報国会結成(23日)。12月 日本出版文化協会設立(19日)。この年、歌謡曲「紀元二千六百年」「誰か故郷を想はざる」「蘇州夜曲」、映画「支那の夜」「小島の春」。
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注記 |
【★515】クラス雑誌「青々」:● [記述なし]
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【★516】藤口透吾:明治45年10月28日、福岡市大工町の生まれ。小説家。本名は藤口藤吉。筆名は「藤口透吉」とも。小説家。昭和6年、福岡英学塾卒業。8年、福岡市立第一専修学校を卒業。福岡時代は同人誌「南風」を中心に活動。翌9年7月上京。保高徳蔵主宰の文芸誌「文芸首都」に参加。10年4月、東京府社会課に勤務し『日本天災地変誌』編纂に従事。11年、日満交通新聞社に入社。12年、河野シオリと結婚。この頃、「日本少年」・「愛国少年」誌に少年小説や童話を発表。14年、「老骨の座」で第10回芥川賞候補。21年、勤労者生活協同組合連合会(会長は賀川豊彦)に就職。25年、同会を退職し、文筆に専念。昭和45年12月20日、心臓喘息のため福岡県筑紫郡春日町の末弟宅で死去。著書に『老骨の座』(学風社、昭15・●)『メナムの河畔』(新民書房、昭19・●)『流れる花々』(あおぞら出版社、昭25・●)『野象大陸』(偕成社、昭25・●)『父恋し 母恋し』(鶴書房、昭28・4)『0学級の子供たち』(誠信書房、昭31・●)『成金太平記』(朋文社、昭31・●)『BBSの女─わが愛のすべてを』(朋文社、昭32・●)『艶筆 葛の葉物語』(文芸評論社・艶筆文庫21、昭32・2)『金豪─戦後派金豪列伝』(朋文社、昭32・6)『踏みはずした春』(朱雀社、昭33・6*『BBSの女』改題)『わき役人生─PTAてんやわんやの巻』(刀江書院、昭34・●)『江戸火消年代記』(創思社、昭37・12*編著)『鳶太平記』(南北出版サービスセンター、昭41・●)『暫くの間さようなら』(プレス東京出版局、昭45・4)『藤口透吾選集』(牧野出版、昭46・12)などがある。
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【★517】佐藤虎男:●創作集『裸の祝祭』(春秋社、昭15・4*「裸の祝祭」「舶来一家」「倭寇」「谷間」「猫夫婦」「悪党」「歓楽の鬼」「潮霧」)
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【★518】芥川賞・直木賞候補:原田種夫(『実説火野葦平』他)は、「九州文学」同人の矢野朗「肉体の秋」・劉寒吉「人間競争」・原田種夫「風塵」が「芥川賞候補」に、岩下俊作「富島松五郎伝」・勝野ふじ子(鹿児島)「蝶」が「直木賞候補」に挙げられたと記述しているが、これは正確ではない。芥川龍之介賞・直木三十五賞は「文藝春秋」昭和10年1月号誌上に、「芥川賞・直木賞宣言」・「芥川賞・直木賞制定/弐千円を新人に提供す!」と社告が掲載されたことに始まる。「規定」によると「芥川龍之介賞は個人賞にして広く各新聞雑誌(同人雑誌を含む)に発表されたる無名若しくは新進作家の創作中(*直木賞の場合は「大衆文芸中」)最も優秀なるものに呈す」、「芥川龍之介賞は賞牌(時計)を以てし別に副賞として金五百円也を贈呈す」(*直木賞も同じ)とある。また同時に、「広く一般文学志望者の為に」規発表作品だけでなく「特別創作原稿募集」も呼びかけ、「当選作品は「文藝春秋」「オール讀物」誌上に逐次発表し、授賞候補とする」と公告した。文藝春秋社内には芥川賞係を設置。ひろく文壇諸家にも書面で候補作を推薦してもらい、これに社内の芥川賞直木賞係の推薦作を追加してを第1次候補作とした。諸家推薦による第1次候補作は時期によってズレがあるが芥川賞では約20—50人前後、直木賞では約10—20人前後だったようで、このリストを各選衡委員に参考資料とし提供し、選衡会の席上で正式な第2次(最終)候補作数篇を選定している。宇野浩二は第11回選評で、これら第1次候補作を称して「芥川賞候補であると同時に準候補である」と言い、一方、「文藝春秋」誌上には「予選作品」「参考候補」という呼び方をしている。これを援用すれば矢野朗・岩下俊作以外はいずれも「準候補」または「参考候補」ということになる。ただし、この第10回選考では原田種夫らの名前は滝井孝作・佐藤春夫・宇野浩二の選評文中に長短言及されており、ほぼ候補作と同様の扱いを受けているので、「九州文学」同人らには候補作との印象があったとしておかしくない(ただし編集部記「芥川龍之介直木三十五賞評議会経緯」には「第一予選」通過作6篇が明記されており、ここには原田種夫らの名前は見えていない)。なお、両賞は昭和13年6月、文藝春秋社がさらに「菊池寛賞」を創設したことに伴い、新たに芥川賞・直木賞・菊池寛賞の授賞機関として財団法人日本文学振興会を設立し、3賞の選考授賞は文藝春秋社から独立して日本文学振興会の事業に移管された。
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【★519】宇野浩二が選評で「九州文学」同人を痛罵:「●」(「芥川龍之介賞経緯」、「文藝春秋」昭15・3)
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【★520】森澄雄:大正8年2月28日、兵庫県揖保郡旭陽村(現・姫路市)の生まれ。大正14年、長崎市立朝日尋常小学校に入学。昭和6年、長崎県立瓊浦中学に入学。12年、長崎高等商業学校に入学。小学時代、担任の影響で短歌・俳句の世界に興味を抱き、長崎高商時代は学内の俳句会「緑風会」に入会し俳人の野崎比古教授の指導を受けた。同人誌「漣」創刊。15年、九州帝大法文学部経済科に進学。本格的に作句をはじめ、「法文俳句会」を組織し、また俳誌「寒雷」(昭15・10創刊)に投句。17年9月、繰り上げ卒業し、久留米野砲第56連隊に入隊。18年2月、幹部候補生となり久留米第一陸軍予備士官学校に入校し、同年12月卒業。19年2月、陸軍少尉に任官し貫兵団砲兵大隊に転属となりマニラ、サンダワン、タワオに上陸。敗戦で捕虜となり、ジェルストン捕虜収容所に入所。21年4月、広島県大竹港に復員。翌22年5月、佐賀県立鳥栖高等女学校の英語教師となり、23年3月、内田アキ子と結婚し上京。都立第十高女の教師となり、同校の作法室を借りて同僚の那珂太郎らと同居生活を送った。31年、「寒雷」編集長(*46年まで)。45年10月、俳誌「杉」創刊主宰。著書は、句集『雪櫟』(書肆ユリイカ、昭29・6)『花眼』(牧羊社、昭44・4)、『森澄雄俳論集』(永田書房、昭46・12)など多数ある。「長崎高商で私は彼の一年先輩であったから、彼のことは知る機会がなかった。(略)私が彼と友交を持つようになったのは九大にはいってからであって、活水会の集まりや殊にアルバム作成計画が立てられて以後に一層かかわりが密になって来たように思う。」(島尾敏雄「同窓仲間」)
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【★521】合同出版記念会:中山省三郎は火野葦平の早稲田在学時代以来の親友。「糞尿譚」の芥川賞受賞以後、戦地にいる火野葦平にかわって出版関係の世話は在京の彼が一手に引き受けた。小山久二郎が同道したのは火野葦平の著書『糞尿譚』の版元としてである。小山久二郎はこのあと久留米市の新刊書店「菊竹金文堂」に営業挨拶に行き、そこで紹介された詩人の野田宇太郎を編集者としてスカウトしている。野田宇太郎はこれに応じて上京し、小山書店、第一書房、河出書房と移籍して編集者畑を歩いた。一方、中山省三郎は4月24日来福し、27日の出版記念会に出席後、5月5日、唐人町公会堂で「九州文学」同人が催した中山省三郎歓迎の矢野朗浄瑠璃大会に出席。ついで劉寒吉・河原重巳と汽車で鹿児島まで行き、航路沖縄へ。火野葦平も遅れて雁ノ巣飛行場から空路沖縄へ向かい合流。帰福後の5月23日、唐津シーサイドホテルに原田種夫ら「九州文学」同人と一泊旅行。26日、小倉・若松で送別会。27日、帰京した。
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【★522】国語をよくする会:昭和14年2月、全国組織「国語協会」(会長は近衛文麿)結成。これを受けて九大教授の佐久間鼎の指導のもと「国語をよくする会」を結成。国語協会の支部的活動として、カナモジ会・ローマ字会を含め、隔月で敗戦まで会合を持った。朝日新聞社が後援したという。(*長井盛之『風にあたえる』)
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【★523】「九州文学」発禁:「「九州文学」は、戦時中に三回ほど発禁を喰っているが、その内の一冊は削除でゆるしてもらった。わたしが、亡き画家の青柳喜兵衛と結んでおもちゃ雑誌の「べにうし」というのを出したのは、昭和十二年から十三年にかけて四冊だった。一冊は熊本の木の葉猿のカット、一冊は、大阪住吉のむつみ犬のカットが風俗壊乱ということで始末書をとられた上に発禁となったことがあった。/「九州文学」の三回の発禁は、いづれも、昭和十四、十五年、まさしく暗い絶望的な日本の情勢の中でのことだった。第一回は、林逸馬の「未青(ママ)年」という小説の中に、クロパトキンの「青年に訴ふ」が引用してあったためである。クロパトキンなどは、その名を聞くさえ特高の連中は頭に血がのぼってかっかしたようだ。作者の林が警察に留置された上、別働隊は家宅捜査をしたらしく、それを福日の学芸部長の黒田静男がもらい下げにいったと後でわかった。/第二回は長谷健の小説「癌」であった。これは父子相剋がテーマであったが、親子が相争うのは〝反道徳的〟であり世の良風美俗に弊害ありという理由である。どうしてたかが一警官がそんな言論の統制がやれたかといえば、その根拠は治安警察法第十六条などにあった。同条文に「……文書、図書などを掲示、頒布するなどの行為が、安寧秩序を乱し、風俗を害する恐れがあると認めたときは、警察官が禁止を命ずることができる」といったことがあるからであった。/第三回は、劉寒吉の作品「人間競争」で、その中に、野っ原で若い男女が交はるシーンの描写があり、これが風俗壊乱だとされ、掲載作品を全部削除すれば許してやるということになった。編集同人が全員、博多と小倉の書店を廻って千部近い雑誌の中から、その小説ぜんぶを切って廻った。そのとき、劉は涙をうかべて自分の作品を切り取ったそうだ。わたしは山田牙城と鋏をもって博多の本屋を一軒ごとに廻ったことを覚えている。」(原田種夫「発禁ばなし」、「九州文学」昭45・3)
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【★524】九州文学賞:「第二期 九州文学」第22冊(昭15・7)誌上で公告。「九州文学」同人を対象とし、「小説賞」「詩賞」「評論・随筆賞」の3部門を設定。「小説賞」は記念品及び副賞200円、他の2部門は記念品及び副賞100円を各1名に贈呈。発表機関は不問とし、選考は同人全員の投票後、選考委員が決定。第1回は昭和15年1月—12月の発表作品とし、16年4月号に発表。
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【★525】「こをろ」グループのピクニック:花田俊典「「こをろ」の野遊び—事変下の「友達」交歓」(「九大日文」01号、平14・8)参照。
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【★526】福岡医学史話会:「科学評論」第42号(昭15・6)掲載「福岡医学史話会趣意書」による。
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【★527】福岡高商の全生徒が雁ノ巣までハイキング、海軍予備航空団を見学:「十五年五月、博多湾を挟んで福岡市街の対岸にある雁ノ巣飛行場まで、全校のハイキングが行われた。/これは新入生の歓迎会も兼ねて、同飛行場にあった海軍予備航空団の見学をするためだった。「有信四号」によると、本校三年生の佐藤守正、小林淳作の両君は二カ年間、土日曜ごとに練習に通い、全校生徒の頭上で高等飛行を披露した。横転、宙返り、木の葉落としなど秘術の妙をつくしたので一同感嘆、口をアパーンと開けて見とれたとある。/終わって安部校長、石井、渡辺両教授、及び西村教官が練習機に乗せてもらい、博多湾の空を飛んだ。ひとり五分間。/海軍予備航空団というのは海軍航空隊の後援を受けながら大学、高専の航空班の学生の飛行訓練を行っていた。卒業後は、海軍の航空隊に受け入れようという、いわばパイロットの養成機関。ここから多くの海軍航空予備学生が巣立ち、日米の空の決戦場に飛び立った。/全国組織としての日本学生航空連盟に所属していたが十六年になると、民間飛行場だった雁ノ巣飛行場が陸軍に接収される。と同時に糸島郡元岡飛行場の大日本飛行協会福岡訓練所に移転、後援も海軍から陸軍に移管されたため、このあとの訓練学生は、陸軍特別操縦見習士官として陸の荒鷲となる。/十七年には、その名も学生航空隊と改称され、明専、九歯、高商、西南、久留米高工などの学生がここで訓練を受け、やがて特別攻撃隊として南の空に散っていく。/が、当時としては、まだ飛行機の操縦など高嶺の花であり、航空士官は若人の憧憬の的であった。/その元岡飛行場では、初級練習機の九五式三型が七機、中級練習機九五式一型が三機、合わせて十機を保有していた。/いずれも翼長十㍍、胴体八㍍の単発機。色は黄色で二枚羽で、夕日を受けて飛ぶさまがトンボに似ており〝赤トンボ〟と愛称されていた。初歩練習機は時速百二十㌔、今の新幹線より遅い。/飛行コースは、毘沙門山(標高一八三㍍)を越え、眼下に玄界灘を見ながら左に旋回、そして周船寺の上空を飛んで着陸。この間五—七分。基礎訓練は、この繰り返しであった。/中級機になると、性能はグンと向上し、宙返りから木の葉落としなど、佐藤らが全校生の頭上で披露した妙技は、この中練によるものだった。」(『松陵の日々』福岡大学同窓会社団法人有信会、昭59・11)
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【★528】西部軍司令部移転:「この日夜来の雨もいつしか止み、先づ松井部隊長の指揮する全将兵を始め、在福各軍衛将兵が駅前から呉服町にかけて堵列、それにつづいて市内郷軍、軍友会、警防団、国婦、愛婦、各学校生徒が蜿蜒と並び、また全市は一斉に国旗を掲げて祝意気分にわき立つ。/かくて、上村司令官は伊佐参謀長、工藤高級副官以下の全幕僚、梶報道部長を従へ、午後一時四十八分博多駅着の列車で着任。ホームで渡辺久留米師団長、長谷川福岡連隊区司令官等を始め、本間県知事、大原福岡地方裁判所長、畑山市長その他官衛・団体代表者の出迎へを受けつつ駅長室に少憩、軍・官代表者と挨拶を交した後、駅前より司令官以下馬上にまたがつて、真っ先に松田中尉の指揮する儀伏兵の吹奏する「海ゆかば」の歓迎ラッパに挙手の答礼をなし、威風堂々進発、沿道堵列の軍隊並びに各種団体の出迎へに応へながら、一先づ福岡陸軍墓地参拝後、午後四時から偕行社で衛戌地各将校の伺候式を受け、更に筥崎、住吉両神社に参拝し、上村司令官はそのまま仮官舎市内相生別邸に、また各幕僚・部長もそれぞれ宿舎に入つた。」(「九州日報」昭15・12・25)
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関連情報 |
詳細
レコードID |
410606
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1940
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和暦 |
昭和15年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |