<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 昭和8年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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文学作品:1月 久保猪之吉「山茶花」(「福岡日日新聞」1日)『白水吉次郎歌集』(古今書院)2月 吉岡禅寺洞「俳句は十七字詩である」・「私の立場を語る」(「天の川」)夢野久作「氷の涯」(「新青年」林逸馬「近代女性風景」(「福岡日日新聞」14日―18日)佐久間鼎『ゲシタルト心理学の立場』(内田老鶴圃)3月 久保猪之吉『外国船』(私刊)「天の川」巻頭句集『星座』(天の川遠賀支社)5月 竹下しづの女「公開状」(「天の川」)星野胤弘「福岡詩壇の散歩」(「小劇場」)『霽日(第九年刊歌集)』(九大医学部短歌会)6月 星野胤弘「或る深夜に」「遅い春」・原田種夫「無明」・森田緑雨「生きるもゝ詩 外五篇」・酒井輝男「微風の中に」「二十二の春」「永日」・山本剛志「明日のカレンダー」「落葉」(「九州詩壇」1)7月 星野胤弘「田園のたそがれ」「墓地」・原田種夫「寛恕について」・小柳紫風「貰うた人形」・森田緑雨「蝙蝠 外四篇」・中島四五六「トロ」・酒井輝男「石の門」「細竹」(「九州詩壇」2)星野胤弘「向日葵」(「福岡日日新聞」17日)8月 星野胤弘「蜘蛛」「螢」・原田種夫「静謐について」・加藤介春「病中雑詩五篇」・小柳紫風「蟇」・森田緑雨「桑の実 外五篇」・中島四五六「泡」・酒井輝男「畳の肌」・山田牙城「宿世」(「九州詩壇」3)真杉静枝「思ひ出の九州と台湾」(「福岡日日新聞」7日)山田牙城「老年」・原田種夫「絶望の果」「夕暮の歌」(「先発隊」8)林逸馬「現代通俗総まくり」(「福岡日日新聞」23日―10月5日)9月 星野胤弘「蝙蝠」・加藤介春「嬲」・小柳紫風「原稿用紙」・森田緑雨「文披月雑詩八篇」・中島四五六「椀・皿など」・酒井輝男「ぬれた翼」「距離」(「九州詩壇」4)横山白虹「棚橋影草論」(「天の川」)10月 吉岡禅寺洞「ハーゲンベツクサーカスを観る」(「天の川」)小柳紫風「TRAGEDY」・森田緑雨「雁来月雑詩」・酒井輝男「面浮立」・星野胤弘「福岡詩壇の秋を観る」中島四五六「秋粧」・板橋謙吉「朝」「雲」「秋と軍国」・浦瀬白雨「春の再帰」(「九州詩壇」5)中島四五六「福岡詩壇を斬る」(「福岡日日新聞」30日)11月 〈現代日本新鋭詩人集〉(「自由芸術」5)加藤介春「乾杯」「恋」・森田緑雨「秋の詩五篇」・酒井輝男「忍従」・浦瀬白雨「獏」(「九州詩壇」6)檀一雄「此家の性格」【★415】(「新人」)12月 酒井輝男「人生の傴僂男」・浦瀬白雨「晩秋」・板橋謙吉「鉄路の朝」「女」・中島四五六「桃のある谷間」(「九州詩壇」7)原田種夫「昭和八年度の福岡詩壇を観る」(「福岡日日新聞」11日―25日)大塚幸男「詩三篇」(「九大文学」2)原田種夫「亡児の唄」・板橋謙吉「午後十時景」・中島四五六「十二月」・酒井輝男「旅の夜霧」・浦瀬白雨「秋色」・崎村カネ「貧しきくらし」(「自由芸術」6)
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文学的事跡:1月 堺利彦(枯川)没(23日)。竹下しづの女の夫・伴蔵が急死し(25日)、一家は福岡市春吉町の借家に転居【★416】 。2月 福岡詩人協会主催の宮川美子独唱会、仏教青年会館で開催。3月 酒井輝男・山本剛志らが詩誌「自由芸術」【★417】創刊。大塚幸男【★418】が九州帝大法文学部を卒業し、翌年4月福岡高等学校フランス語講師に。平山敦【★419】が福岡高等学校を卒業し、翌月九大法文学部に進学。大西巨人が福岡中学4修で終え、翌月福岡高等学校文科甲類に進学(*11年3月卒業)。藤口透吾が福岡市立第一専修学校を卒業。4月 吉岡禅寺洞が釜山日報主催の全鮮俳句大会に出席。持田勝穂が季刊誌「歌謡作品」【★420】創刊。6月 加藤介春・原田種夫・山田牙城らが全九州の詩人に呼びかけて九州詩社を結成し、詩誌「九州詩壇」【★421】創刊(1日)。九州帝大学友会文芸部誌「九大文化」を「九大文学」と改題発行(15日)。10月 福岡詩人協会主催の川畑文子舞踏公演会、大博劇場で開催【★422】(3日)。『堺利彦全集』第6巻(中央公論社、昭8・10)、安寧禁止のため発禁削除(25日)。山田牙城・原田種夫が「愛誦」福岡支部を結成。11月 山田牙城・原田種夫・星野胤弘らが「九州詩行脚」に出発、小倉・宮崎・都城・鹿児島・佐世保を歴訪し各地で詩話会開催【★423】(2日―7日)。12月 文芸誌「群羊」を「南風」と改題し第3巻第1号して刊行(25日)。12月 「南風」(「群羊」改題)創刊。この当時、福岡詩壇の詩誌は、田丸高夫主宰「小劇場」、九州帝大詩人協会「九大派」(「世紀」改題)、加藤介春・山田牙城らの「九州詩壇」、山田牙城・原田種夫らの「先発隊」、酒井輝男・山本剛志らの「自由芸術」、および田丸高夫・星野胤弘らの文芸誌「南国文芸」【★424】。この年、松本清張が福岡市内の「島井オフセット印刷所」で半年間ほど版下工の見習い修業。
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社会文化事項:1月 福岡県立高等女学校、平尾の新校舎に移転(7日)。2月 全九州で共産党など左翼組織を大弾圧=2・11九州共産党事件、西田信春・牛島春子・野田宇太郎ら検挙、西田信春は拷問死(11日)。玉屋デパートに電光ニュース(スカイサイン)登場(18日)。私立福岡女子商業学校創立(23日*12月16日開校式、20年福岡雙葉高等女学校と改称)。非常時対策国民大会、東公園で開催(26日)。3月 全国水平社第11回大会、福岡市で開催(3日)。牛島春子、再逮捕【★425】(17日●10日?*5月17日起訴)。博多駅前に九軌百貨店竣工(●7年8月?●拡張?)。「電車毎日新聞」【★426】創刊(*社長は吉川熊雄)。4月 早良郡姪浜町・筑紫郡席田(むしろだ)村を福岡市に編入(1日*福岡市人口25万人突破)。台湾航路の上海丸(大阪商船)、博多港に初入港(3日)。筑紫郡三宅村を福岡市に編入(5日)。非常時講演会、福岡市記念館で開催(6日)。舞鶴城濠埋立起工式(11日)。福岡県国防協会発会式・献納機「福岡号」命名式(15日)。国際連盟脱退詔書奉戴式(29日)。台湾航路の「大阪丸」(近海郵船)博多港に初入港。玉屋デパート新館落成(*第2期増築工事)。5月 軍艦「霧島」が博多湾に入港(6日●8日?)。6月 松屋百貨店屋上に航空機標識灯設置(1日)。松屋百貨店(松屋デパート)新館落成(17日*鉄筋8階建)。7月 「東亜倶楽部」を「弁天座」と改称改築し新興キネマ直営館として開館(1日)。8月 博多湾水難救護組合発会式。「九州日報」18日付紙面、5・15事件被告賞揚のため安寧禁止で発禁(18日)。東公園に御大典記念「福岡市動植物園」開園(20日*9年4月11日開園式、19年6月閉鎖)。ドイツのサーカス団「ハーゲンベック」須崎運動場で興業(25日―9月12日)。9月 九州日報編輯局編『五・一五事件―陸海軍公判記録』(九州日報社)刊行(9日)。広田弘毅が外務大臣に就任(14日)。10月 西口紫溟【★427】が月刊花柳誌「博多春秋」創刊(●7年12月創刊?*17年8月寺田弘主宰「うわさ」と合併し「九州春秋」と改題、18年休刊)。西公園下荒戸町の九州高等女学校火災(5日)。中野正剛『国家改造計画綱領』(千倉書房)上梓(28日)。11月 市民体育大会(3日)。福岡ロータリー創立披露(3日)。天才少女と評判の諏訪根自子、大博劇場でバイオリン演奏会(13日)。上対馬小路で大火(13日*22戸全半焼)。名島橋竣工(18日)。水雷艇「千鳥」が博多湾に入港(23日)。福岡魚市場開場式。12月 福岡市が醵金を募り陸軍飛行機「愛国第93(福岡市)号」献納式(2日)。麻生太吉没(8日)。三和銀行福岡支店ビル竣工(9日)。福岡女子商業学校(福岡双葉女子学園の前身)、御所ケ谷で開校式(16日)。茶寮(喫茶)「ボンナミ」、博多寿通りに開店(29日*店主は元・築地小劇場俳優の不二川研二)。博多券番、南新地に移転。。
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日本・世界事項:1月 日本軍が山海門で中国軍と衝突し翌日関東軍が出動=山海門事件(1日)。ドイツにヒトラー内閣成立(30日)。2月 小林多喜二検挙、築地署で拷問死(20日)。3月 ルーズベルト、アメリカ大統領に就任(4日)。日本、国際連盟脱退正式通告(27日)。4月 新「小学国語読本」(サクラ読本)使用開始。6月 共産党幹部の佐野学・鍋山貞親、転向声明(7日)。7月 神兵隊事件。9月 古賀春江没(10日)。宮澤賢治没(21日)。10月 陸軍造兵廠、東京から小倉に移転。12月 日共スパイ査問事件。皇太子出生(23日)。この年、歌謡曲「十九の春」「東京音頭」、映画「丹下左膳」「巴里祭」「制服の処女」。
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注記 |
【★415】「此家の性格」:「文字通り私の処女作と呼べる作品は昭和八年に書いた「此家の性格」だろう。/数え年二十一歳の夏である。私は自分の青春の表情を見失った不吉な青年であったに相違ないが、世にいう文学青年とは程遠い存在であったろう。(略)私は郷里に帰省中であったし、小説を書いてみようなどと約束したことさえ忘れていた。ところが、その男は電報の連打である。矢継早に速達の追打ちをかける。/私は立花伯爵邸の図書館に、半分昼寝、半分納涼に出向く習慣であったところ、誰も閲覧客のいないその閑寂な図書館の中で、キジャキジャと鳴くカササギの音を聞いているうちに、ふと、どうでもいい、己のこの奇ッ怪な憤怒と孤独を、おがみうちに叩きつけてやれという不思議な気持が湧いた。/ワラ半紙になぐり書きで、まる二日で書き上げたように思う。」(檀一雄「不思議なデビュー」)
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【★416】竹下伴蔵急死:竹下伴蔵は当時、福岡県立糟屋農学校の校長(*昭和6年4月小倉師範学校から赴任)。しづの女一家は福岡市に転居。吉岡禅寺洞・河野静雲・久保より江らの世話で俳句短冊頒布会を開催し、収益金を資金に市内浜田町1の51に平屋家屋を新築。9年4月頃、因幡町の福岡県立図書館に出納手(児童室係)として就職(*14年4月まで)。「臨終の長い長い一息を安らかに引いてしまった十一時頃から、俄に青天よりの牡丹雪が鵞毛なしてさんさんと飛下し始め、終に、彼の稀らしい大雪原となってしまったのであった。除夜はいつしか過ぎて、故人が生前愛用した茶碗に残った末期の水は、やがてそのまま水となっている。/春水となりて末期の遣り水/春雪の雪折れ笹となりてけり/憶へば実に、俄なる春の雪ではあった。そして、世にも突然なる故人の死であった。」(竹下しづの女「雪折れ笹」、「福岡日日新聞」昭8・●)●要本文確認
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【★417】文芸誌「自由芸術」:第1巻第5号の編輯者は山本吉次郎(福岡市新大工町8)、発行者は酒井輝男(福岡市西新町)、発行所は福岡自由芸術家協会。第1巻第6号の編輯者は山本吉次郎、発行所は福岡自由芸術家協会。原田種雄文庫は第5号(昭8・11・1)第6号(昭8・12・1)所蔵。第5号奥付に「【進む日】改題【自由芸術】」とある。
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【★418】大塚幸男:明治42年2月18日、佐賀市赤松町の生まれ。大正15年、佐賀中学を卒業し、大阪外国語学校に入学。歌作は中学五年生のときから試み、大阪外語在学中は同校の短歌会に入会。昭和5年4月、九州帝大法文学部に入学し、8年3月卒業。九大在学中は中島哀浪主宰の歌誌「ひのくに」に参加。昭和9年4月、福岡高等学校の仏語担当講師となり、10年6月、北原白秋創刊主宰の歌誌「多磨」に入会。12年11月、教授昇格。昭和19年7月、第一・第三高等学校以外の全国の高等学校でフランス語が廃止となり退職。まもなく九大医学部教授・後藤七郎の世話で西日本新聞に入社した。24年4月、福岡商科大学(現・福岡大学)に職を得た。当時学長だった花田比露思(大五郎)に誘われて歌誌「あけび」同人。また「九州文学」同人となり、同校で以後長くフランス語・フランス文学を講じた。昭和54年、福岡市文化賞。57年、西日本文化賞。平成4年9月9日没。
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【★419】平山敦:大正2年8月24日、福岡市浜ノ町に生まれる。歌人。幼い頃、母方の実家の養子となり眞鍋姓に。昭和8年3月、福岡高等学校を卒業。9年10月、逗子八郎主宰の歌誌「短歌と方法」に参加。10年10月、病気のため九大法文学部中退。16年、福岡工業学校教諭。この頃、古河俊雄らと歌誌形式のパンフレット「防人」を発行。22年、歌誌「柊」(23年「像」と改題)に参加。25年、「西日本歌人」創刊に参加し編集に従事。同年5月、「波動」同人。26年、「林間」創刊同人。28年、「群炎」創刊同人。歌集『薔薇哀傷』(波動社、昭25・10)上梓。29年4月2日、夭折。「群炎」第17号(昭29・7)は〈平山敦追悼号〉。
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【★420】「歌謡作品」:未詳。星野胤弘「手帳」(「九州芸術」昭10・1)中に、「〈歌謡作品〉は季刊的に刊行さるゝ持田勝穂君の個人雑誌で、主として童謡民謡を内容とする気の利いた編輯である。毎号殆ど作品が作曲され、レコードにも時々吹込まれてゐるとは羨しいもの。」とある。
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【★421】詩誌「九州詩壇」:昭和8年6月1日創刊。編輯発行兼印刷人は山田弘(牙城)(福岡市下警固裏谷443)。発行所は九州詩社(福岡市春吉寺町418原田方)。9年3月20日終刊。全10冊。創刊時の同人は加藤介春を筆頭に、阿南哲朗(小倉市)・古川賢一郎(満洲国)・星野胤弘(福岡市六本松656)・原田種夫(福岡市)・加藤守人(鹿児島県)・木下寿久(鹿児島県)・水上晶(長崎市)・森田緑雨(福岡市平尾向田73ノ5)・松尾保一(佐賀市)・中島四五六(福岡市西堅粕町3丁目)・中島忠(佐賀県)・下田惟直(東京市)・酒井輝男(福岡市西町14)・手塚武(長崎市)・谷村博武(宮崎市)・高武陶村(八幡市)・富松良夫(都城市)・山本剛志(福岡市新大工町8)・山田牙城(福岡市下警固裏谷)・藤川弘継(佐賀県)。のち板橋謙吉(京都市左京区田中下柳町850尾崎方)・浦瀬白雨(福岡市西新町343)・遠藤日出秋(八幡市、のち南洋サイバン島)・川田二郎(東京市)・小柳紫風(福岡市外田隈村梅林359)・中其青嵐(福岡県京都郡)・新屋敷幸繁(鹿児島市)・瀬戸口武則(鹿児島県)・高木秀吉(鹿児島県)・豊田龍江(?)・本山蒼石(正春)(佐賀県)・中村栄徳(鹿児島県)・打和長江(石川県)・福田一男(長崎市)が同人参加。「◇—九州出身、九州在住の詩人の集りがやつと出来上つた。忌憚なくいふが、同人二十一名、これではまだ大きな集まりとはいへない。又こゝに集つた人たちは何れも一人一党者だ。従つてこの詩社は一の運動の為めではない。かう考へるとこの集りは餘り意義あるものとは思はれぬ。(略)/◇—九州詩社への参加運動は僭越ながら僕の名わ以つてした。しかしかう既に集りが出来上つた以上僕の役目は済んだ。僕はもう、只その一員に過ぎぬ。思ふに、同人中では僕が一番年長だらう。しかしこゝには年長の特権はない。古参もなければ新進もない。先輩もなければ後輩もない。それらの差別は一切なく同人は一律平等、そして飽くまで一人一党主義でありたい。」(加藤介春「九州詩社の成立について」、「九州詩壇」創刊号、昭8・6)*福岡市総合図書館原田種雄文庫は第1・5・7・9・10冊を所蔵。未見の第2・3・4・6冊掲載の分は第7冊巻末掲載の執筆者別「作品総目録」によった。
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【★422】川畑文子舞踏公演会:●「昭和八年のことである。というのも、その頃、わたくしたちが作っていた、福岡詩人協会というのがあった。長井盛之、福田秀美、山田牙城、持田勝穂やわたしたちが会員で、ときどき、文学や恋愛や人生について語り合う集いを持った。この会が主催となって、川畑文子帰朝第一回公演会を十月三日、大博劇場で開いたが、七時ごろには札止めの大盛況であった。各自の出資額によって利益の配分をしたので、思わぬ悪銭をみんな持った。そこで、よい機会だというので、十一月はじめから一週間ほどの予定で、山田牙城、星野胤弘と三人北九州をふり出しに、九州各地の詩人と交歓するための詩行脚へと出発した。」(『記録』一一頁) 「→昭八・一〇・四 夕べ川畑文子をステーションに送る。」(『日記』)
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【★423】九州詩行脚:星野胤弘「九州詩行脚の記」(「九州詩壇」昭和8・12)参照。「昭八・一一・二 詩行脚の出発。午後四時五十八分で小倉に至る。/劉寒吉。遠藤日出秋両君に迎えられる。/夕食後、自動車で曾田邸に至る。集まる人十数人、豪壮な邸での座談会。美しい集まりである。地方詩壇の情勢といった問題で話し合う。中村暢、劉寒吉に案内されて市内を巡る。」(原田種夫『日記』)
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【★424】福岡詩壇の詩誌:「現在福岡詩壇に登録された詩誌には、「九州詩壇」「先発隊」「小劇場」「自由芸術」「九大派」の五種があり、又将に出現せんとする「南国文芸」がある。月刊は「九州詩壇」のみで、「先発隊」「小劇場」「九大派」は季刊発行である。「自由芸術」は隔月発行であるが、暫く沈黙して休刊を惜まれてゐたが愈々全詩人号として十月号を出す事になつた。「南国文芸」は文芸総合月刊誌で、十一月号として十月初旬に創刊号を出す。/「九州詩壇」は日本詩界の先輩加藤介春氏の編輯になる全九州詩人三十余名を網羅せる、地方詩壇稀に見る結成されたる詩雑誌である。同人は加藤氏を初め、山田、原田、高木、下田、新屋敷、古川、谷村等々現に中央詩壇に活躍せる詩人又地方有数の詩人のみを以て各号充実した内容を見せてゐる。/「自由芸術」は酒井輝男、山本剛志編輯に為る詩雑誌で、原田、山田、中島四五六、等々福岡詩歌人の作品もて全誌面を埋め、内容充実せる詩とエツセイと短歌の雑誌である。此の二ケ月ばかりその姿を店頭に見せなかつたが全日本の新鋭詩人を網羅して、十月再びその颯爽たる姿を出現させると言ふ。/「小劇場」は新人田丸高夫の編輯になる清新なる詩雑誌で、昨年秋創刊当時は片々たる小誌であつたが、号を重ねる毎に内容の豊富さを増し、五輯の如きは、谷村博武、原田種夫、山田牙城、古川賢一郎、渡辺修三、江口隼人、関谷忠雄、近藤益雄等々二十四名の執筆を見せ驚異の眼を以てその将来を期待されてゐる。/「九大派」は「世紀」の改題で西原亀、飯高規矩、井出文雄等々の同人、それに浦瀬白雨氏の執筆あり、九州帝大詩人協会の発刊で近く秋季版の刊行を見る筈である。/「先発隊」は「瘋癲病院」改題で星野胤弘去りし後、山田牙城、原田種夫編輯で、不定期刊行の純然たる詩文芸雑誌である。一月全日本新鋭詩人号を発刊し、又秋季版として詩集批判号を出した。日本詩壇に斯うした純批評雑誌の出現は稀有なものとして、相当注目され期待されてゐる。/「南国文芸」は秋葉原晶、寒子随人、田丸高夫、浜田虎三、星野胤弘を同人として、十一月創刊する文芸誌で、之は「黎明」の復活更正と云ふ可く、詩作品は田丸高夫、星野胤弘等が主として毎月発表する。/以上福岡詩壇の秋を飾る詩誌及び活躍する詩人の一瞥を試みた。今月は「南国文芸」の創刊準備と、川端文子舞踏会開催の為め、全く詩に親しむ時間を持ち合せなかつたので。(城南荘にて)」(星野胤弘「福岡詩壇の秋を観る」、「九州詩壇」1巻5冊、昭8・11)
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【★425】牛島春子再逮捕:坂本正博編「牛島春子年譜(第二稿)」によると「三月十日、春子も再逮捕される。福岡市万町の派出所から本署へと移される。その後、二日市署に移され、三月十六日から五月中旬まで取り調べを受け拘置される。四月十六日から、広重検事が調書を作製する。五月十六日から、十一月十六日まで土手町の拘置所に拘置される。夏頃、佐野學・鍋山貞親の転向声明(六月)のアピールを読まされ、同時に転向理由書を書くように求められる。春子は、表題をただの理由書と変えて、共産党の組織活動への批判と共に、自分自身は今後も労働運動を続けるという主旨を書く。/保釈後、姉のマスエ(六歳年長で久留米高女卒業)の家に同居する。/学生服を着た晴男が、遊びにくるようになる。」なお、「土手町の拘置所」の正式名称は「土手町刑務所」(*大正5年—福岡監獄土手町出張所、11年—土手町刑務所、昭和24年—土手町拘置支所と改称)。
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【★426】「電車毎日新聞」:未詳。
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【★427】西口紫溟:●年の生まれ。本名は進卿。父祖の地は熊本県菊池郡砦村。父親は漢学者の黄華西口敬之。済々黌をへて早稲田卒。大正7年4月、台湾新聞社編集局に入社。翌月、同紙の新歌壇に選者となる。6月、文芸誌「人形」創刊。小説・戯曲・短歌の創作で活躍し、歌集『南の国の歌』(大8・4)『南国物語』(大9・4)を上梓。また戯曲「呉鳳と生蛮」「首なき祭」は高砂少女歌劇団が上演し、「チムダライ」は東京オペラ座が上演した。大正10年6月、雑誌「南方芸術」創刊。同年10月、台湾新報社会部長。この間、台湾旅行中の佐藤春夫を案内し、「女誡扇綺譚」中の「世外民」のモデルになったという。11年4月、「門司新聞」編集長に招かれて内地に戻り、12年7月、「馬関毎日新聞」編集長兼社会部長。12月、土本雅子と結婚(*雅子は24年4月1日没)。13年1月、「馬関毎日新聞」「京都日日新聞」等に長篇小説「人類の家」(300回)を連載。14年3月、関門芸術協会を結成。15年3月、プラトン社(東京)に入社し、雑誌「苦楽」編集長。昭和5年4月、吉田鞆明と「福岡毎日新聞」創刊。7年12月、「博多春秋」創刊。10年11月、映画館「日活館」社長。11年4月、福岡花月劇場社長。12年9月、当局の命により雑誌「うわさ」と「オール博多」を統合し「九州春秋」と改題創刊。16年7月、西部軍軍属(佐官待遇)。21年4月、九州地方劇団協会会長。23年1月、雑誌「九州春秋」復刊。24年10月、妻の妹・土本むつ子と再婚。34年12月、雑誌「博多余情」創刊。40年4月、福岡ペンクラブ会長。●没。自伝的エッセイ集『地球が冷えたらどうしよう』(博多余情社、昭38・11)『五月廿五日の紋白蝶』(西口紫溟古稀記念刊行会・博多余情社、昭42・10)がある。
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福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |