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福岡都市圏近代文学文化年表 ; 明治20年
編者
花田, 俊典
スカラベの会
データベース名
福岡都市圏近代文学文化史年表
年表
文学作品:7月 蝸石園主人「夢想幻影談」(「福岡日日新聞」3日-8月3日)10月 宮崎湖処子『日本情交之変遷』(晩青堂)
文学的事跡:3月 竹下静廼(シヅノ)、(しづの女、俳人)福岡県京都郡稗田村で出生(19日)。4月 松口月城(本名は常太、漢詩人)、筑紫郡那珂川町で出生(1日)。7月 「福岡日日新聞」紙上に連載小説登場【★60】。11月 河野静雲(俳人)、福岡市官内町の一行寺(浄土宗)で出生(6日)。
社会文化事項:1月 森有礼文部大臣が修猷館へ来館。2月 博多勧工場が橋口町に開場。「東京博聞分社」(書籍販売)が中島町に開業。3月 東中州一帯を会場に第5回九州沖縄八県聯合共進会開催【★61】(26日●2月10日?)。修猷館火災(26日*赤坂の警固小学校跡地に仮寓)。福岡商業学校、博多行町に創立(*明治23年3月廃止)。5月 江藤正澄・古賀勇夫らの私立号砲会社【★62】設立認可(24日)。福岡県知事「人力車営業取締規則」公布(27日*21年1月1日施行)。6月 松本治一郎、糟屋郡馬出村で出生(18日)。8月 頭山満らが玄洋社機関紙「福陵新報」【★63】創刊(11日)。翠絲学校(*明治15年創立)再開し開校式、帰福中の川上音二郎も列席(15日)。9月 福岡県尋常師範学校に女子部(3年制)を設置し、翌月生徒募集。この年、江藤正澄が博多崇福寺で福岡博物展覧会を開催、翌年は沖の島神宝調査。
日本・世界事項:2月 徳富蘇峰、民友社を設立し雑誌「国民の友」創刊(25日)。4月 鹿鳴館仮装舞踏会開催(25日)。5月 第五高等中学校創立(30日)。
注記
【★60】「福岡日日新聞」連載小説:これ以後の連載小説の作者名・作品名・連載期間は、石田忠彦「「福岡日々新聞」文学関係記事一覧(明治・大正編)」(「近代文学論集」2、昭51・12)・「「福岡日々新聞」文学関係記事一覧(昭和編)」(「近代文学考」5、昭52・11)および『西日本新聞百二十年史』(西日本新聞社、平9・4)に報告されているので、この年表では数点のみ示して残りの大半は省略した。なお初期の作者名を列記しておくと、蝸石園主人・埼嶇山人・柳塢生・休山生・橘香散史・三柳逸人・欠伸居士・赤浦散人・石渓道人・嘯虎散人・入真道士・宗硯・浜廼家など。「入真」は芝尾入真、「唖蝉」は中野唖蝉で、ともに福日の記者。「石渓道人」は堺利彦。「欠伸(居士)」は堺利彦の5歳年長の次兄の乙槌(おとづち)(長兄は異母兄の平太郎、明治22年4月没)。乙槌は明治15年、本吉家の養子となり同家の一人娘と結婚。英語を学ぶため福岡・長崎に行き、18年上京。いったん帰郷したあと大阪に出て大阪朝日新聞社の小説記者に。妻子と離別後、明治30年没。堺利彦の自伝『堺利彦伝』(改造社、大15・9)には、「乙槌兄は国に帰つてから、福岡日々新聞に小説を書いてゐた。蓋し彼は坪内逍遙さんの『小説神髄』の随喜渇仰者であつた。」「次兄の乙槌は大阪に行つて『花かたみ』といふ小説の雑誌を出したりしてゐた。彼はそれより以前、坪内逍遙の『小説神髄』で洗礼を受け、欠伸といふ号をつけて、福岡日々新聞に続き物の小説を書いたりしたのだつた。」「大阪では天囚氏を中心として、明治二十五年に『浪華文学会』といふ団体が起つた。そして雑誌『なにはがた』『浪華文学』などが出た。(略)浪華文学会には天囚氏の外、朝日新聞の小説家として渡辺霞亭、加藤紫芳、本吉欠伸等の諸氏があつた。」云々とある。
【★61】九州沖縄八県聯合共進会:第1回は明治15年長崎で開催。以下、第2回(16年鹿児島)第3回(17年熊本)第4回(18年佐賀)第5回(20年福岡)第6回(21年大分)第7回(22年宮崎)とつづく。「共進会は終り、五月八日審査場に使った福岡倶楽部の玄関には、肉太く雄渾そのものの墨痕も鮮やかに〝福岡くらぶ〟と横書きの天額=山岡鉄舟の筆=が掲げられた。/(略)倶楽部は、いわゆる福博名士の社交クラブであって、磯野七平(五年後に二代福岡市長となる。当時三十四歳)や宮城坎一(福岡日日新聞主筆。当時三十歳)らが熱心に唱導して造られたのであるが、やがてこの屋根の下で紫煙の渦と共に、福岡の未来図が交換錯綜しだした。(略)/共進館もまたよく利用され、市制実施の前後は特に頻繁に重用されて、市名問題の騒然たるとき〝博多〟が否決されたのもこの会館であった。二十九年六月、一時、認可した工業学校の仮校舎に使用、七月福岡病院が引越した跡に移転、更に湊町に移り、その跡に三十五年、八尋金山堂やペン梅らの発起で高砂館(八層楼)を建設。またその跡に劇場寿座の出現など変遷は劇しかったが、共進館は会場貸しで維持、(略)/共進館はのち共進亭と名を変え、更に精養亭と変って家屋も電車道へ引き直したりしたが、土地も県が舟町の許斐家が所有していた西中洲(今の教育庁)と丸替えに交換したので、以来許斐家は中洲の大地主となり、多額納税者、百万長者に算えられるように太った。」(橋詰武生『明治の博多記』福岡地方史談話会、昭46・7)
【★62】号砲会社:明治20(●21?)7月22日、須崎浜の砲台で発砲式(試射?)。当初は暁天日出時(午前4時30分または5時)の1回、のち正午も加え日に2回となり、さらに正午の1回だけとなった。付近の住民から騒音苦情があり、西公園山腹に、ついで西公園下の波奈に移転した。経営困難のため23年1月15日以降は中止に至ったが明治25年以降は市に移管。昭和6年、市役所屋上にサイレンが設置され廃止になった。
【★63】「福陵新報」創刊:「最初、頭山は、日本一の新聞を作るためには日本一の記者を雇はねばならぬといふので、主筆には当時破格の百円以上の月給を出して、日本新聞界の第一人者を迎へたいと、先ず犬養毅に交渉し、次いで久松義典に交渉したが物にならず、結局、川村惇を迎へて初代主筆としたのであつた。川村は水戸出身、慶応義塾出の新知識で、当時東京時事新報に健筆を揮ひ、犬養、久松等に比肩すべき操觚会一方の雄であつた。(略)/創業祝賀会は、博多東中洲の共進館で華々しく挙げられた。この共進館は明治十九年の共進会場に建築された福岡最初のモダーン建築で、唯一の西洋館であつた。当日の招待者は創業援助者の安場県知事をはじめ県下の名士三百余名であつた。席上、川村主筆は左のごとき意味の本社の趣意と使命を宣揚した。/「福陵新報を評するに、所謂民党なるものは、吏党の新聞なりと称して、世人またこの言に惑はされんとしてゐる。之等の徒輩はよろしく炯眼を開いて本紙を熟読せられたい。事物はすべて色眼鏡をもつて見れば必ずその眼鏡の色に映るものである。我が福陵新報は、党派に偏せず、権力に屈せず、あくまで善は善とし、悪は悪とし、是々非々厳正公平に批判し、内に於ては民権の暢達のため、外に向つては国権の伸張を期せんとするものである〔。〕諸君はよろしく、今後の福陵新報の行路を注視せられんことを希ふ」/発刊当時の福陵新報は五段組制、四頁で、一面は官報を筆頭に県公報を掲載し第二面は社説及び政治記事、第三面は「雑報」と呼ぶ社会記事及び経済商況記事で埋め、第四面は全面広告、これに小説のみの附録を添へたものであつた。この購読料定価一部一銭五厘一ヶ月廿五銭、広告料は一行一回の単価が三日以内三銭五厘、四日以上七日迄二膳五厘、八日以上連載は一銭五厘であつた。」(「九州日報五十年史」)創刊時の陣容は、社長=頭山満、副社長=鹿野淳二(筑後の資産家)、主幹=香月恕経、主筆=川村惇(23年12月末で「朝野新聞」に転出)、記者=今村為雄(東京出身で記者経験あり)・秋元喜太郎・郡保宗(利)・佐竹菅根、事務局=杉山茂丸・結城寅五郎・月成勲・浦上勝太郎・伊知地迂橘・新井真道・葉石次郎吉・元満尚雄・真藤利就・高松貞太・吉田正諠・吉浦英之助・藤井種太郎・柴田繁太郎・友枝新平その他。
関連情報
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/collections/q_fukukin_chr
詳細
レコードID
410553
権利情報
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
西暦
1887
和暦
明治20年
登録日
2013.08.21
更新日
2021.12.14
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