| ヨミ |
ミヤザキ ノブヒサ
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| 編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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| データベース名 | |
| 人物詳細 |
1914(大正3)年、福岡市博多区須崎の生まれ。出版人・編集者。旧姓は鬼木。一人娘だった母親の実家と養子縁組して宮崎姓となる。宮崎家は市内柳町一帯の土地を所有する素封家だった。昭和7年3月、福岡中学卒業。11年3月、福岡高等学校文科甲類を卒業。卒業時は大西巨人と一緒だった。その後、東京帝国大学経済学部経済科に進学。在学中は帝大新聞の編集に携わる。卒業後は東京で朝日新聞社の記者をしていた。戦後は帰郷し、自宅の三帆醤油(敷地内に三帆醤油・福岡映画劇場・ダンスホール「ブルーエット」等があった)に醤油を買いに来た大西巨人と雑誌を出そうという話になり、翌21年、商業文芸誌「文化展望」創刊。発行所は三帆醤油二階の「三帆書房」。ここからは「文化展望」の他に「映画展望」を発行した。21、22年頃、「ブルーエット」に勤めていた詩人の鈴木召平と出会う。ちなみに「ブルーエット」の名付け親は、宮崎と親交のあった画家の藤田嗣治。27年、宮崎宣久は「電気ホール」(九州電力(株))に支配人として勤務し、新劇を中心に興行を組んだ。多彩な人脈をもち、伊丹万作、杉村春子らが電気ホールでの興行のために福岡を訪れた。公演のパンフレット原稿も一晩でこなすという多彩ぶりであったという(鈴木召平氏談)。28年頃、上京。エスエス製薬に勤務。36年1月、当時同社のトレード・マークのウサギは片耳が折れていたが、宣伝担当重役だった宮崎は「それではまるで病気のようだ、製薬会社のマークならば耳を立てねば」と主張し、変更した。後年、同社の重役となったが、まもなく退社し、東京新宿にスナックを開店した。平成4年、77歳で死去。【和泉僚子&花田俊典】
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| 関連情報 |
| レコードID |
442287
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| 権利情報 |
スカラベ人名事典の人物詳細の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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| 登録日 | 2013.08.16 |
| 更新日 | 2020.10.26 |