ヨミ |
フクダ キヨト
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編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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データベース名 | |
人物詳細 |
1904(明治37)年11月29日、長崎県東彼杵郡上波佐見村(現波佐見町)の生まれ。小説家・児童文学者・近代文学研究者。父は炭鉱医。大正6年、長崎県立大村中学玖島学館に入学。大正12年4月、大村中学校を次席で卒業し、福岡高等学校文科丙類に入学。同級生に那須辰造がおり、また、講師だった石川淳にフランス語を学んだ。福田は後年、「高校は福岡をえらんだ。前の年できたばかりであった。私は新しいものが好きだった。(略)福岡にはほかの九州の高校にないフランス語を第一外国語とする文科丙類というのがあった。私はそれに入ることをのぞんだ」(「文科丙類」、「立教大学日本文学」昭33・11)と回想している。大正15年4月、東京帝国大学国文学科に入学。「私は学生時代は東中野の大村学寮という郷里の寮にいた」(「長谷川さんと第一書房の思い出」、『第一書房 長谷川巳之吉』日本エディタースクール出版部、昭59・9)。同級に堀辰雄・臼井吉見・成瀬正勝・高野正己・入江相政らがいた。蒲池歓一らと同人雑誌「明暗」を発行し、小説を書きはじめる。のち、京都帝国大学に在学していた伊東静雄も同人に加わり、初めての詩を発表している。昭和4年3月、大学卒業。卒業論文は「硯友社の文学運動」。卒業前に成瀬正勝に誘われて第10次「新思潮」に参加。他の同人に深田久彌・青江舜二郎・小林勝・那須辰造らがいた。盛岡中学・広島中学から教職の誘いがあったが、「田舎おち」したくないという理由で東京にとどまる。昭和4年5月、東大同級生の入江相政の紹介で山岸徳平を通じて第一書房に入社。同社では、雑誌「文学」の編集、「セルパン」(昭和6年5月創刊)の編集長などを務めた。昭和5年、執行藤枝と結婚し、雑司ヶ谷鬼子母神の近くに新居をかまえた。同年、伊藤整らの文芸誌「文芸レビュー」、中河與一の文芸誌「新科学的文芸」の同人となる。昭和6年12月(または翌年1月)、第一書房を退社し、文学に精進の道を択ぶが、生活は困窮。舟橋聖一らと「目白会」を結成。昭和7年、松原寛科長の招きで日本大学芸術科講師となり、創作実習を担当した。この年、設立された「明治文学会」の会員となり、片岡良一、塩田良平らを知る。昭和8年7月、第1短編集『河童の巣』(金星堂)を上梓。その後、『若草』(第一書房、昭13・11)『純情の日』(八弘書店、昭15・11)『新風』(第一書房、昭18・11)『指導者』(第一書房、昭16・1、のち大日本雄弁会講談社、昭21・11)短編集『青春ひととき』(第一書房、昭16・4)『国木田独歩』(第一書房、昭16・9)などの著書を刊行。戦後は主に児童文学の領域で活躍し、昭和30年、浜田廣介らと日本児童文芸家協会を設立。理事となった。37年、滑川道夫鳥越信らと日本児童文学学会を設立。児童文学の代表作としては、『岬の少年たち』(講談社、昭22・8)『天平の少年』(第5回サンケイ児童出版文化賞講談社、昭33・2)、自伝的3部作『春の目玉』(第3回国際アンデルセン賞国内賞受賞、講談社、昭38・2)『秋の目玉』(第4回野間児童文芸賞、講談社、昭41・7)、『暁の目玉』(講談社、昭43・10)などがある。一方、近代文学研究者としても幅広く活躍し、日本大学・実践女子大学・立教大学などの教授を務めながら、『硯友社の文学運動』(山海堂出版部、昭8・2)『俳人石井露月の生涯』(講談社、昭24・3)『写生文派の研究』(明治書院、昭47・4)など数多くの研究書を上梓している。また、短篇小説中心の自選集『福田清人著作集』全3巻(冬樹社、昭49・2)もある。昭和50年、勲四等旭日小綬章を受章。55年、長崎県波佐見町の名誉町民。ほかに日本児童文芸家協会理事長・日本文芸家協会名誉会員・日本ペンクラブ名誉会員・日本児童文学学会理事・日本近代文学館顧問。平成7年6月13日没。「立教大学日本文学」第25号(昭45・●)は、福田清人の生涯と業績の特集号。【石川巧&花田俊典】 ⇒自筆年譜
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関連情報 |
レコードID |
442209
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権利情報 |
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登録日 | 2013.08.16 |
更新日 | 2020.10.26 |