| ヨミ |
ハラダ ヨシミチ
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| 編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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| データベース名 | |
| 人物詳細 |
[一九一六(大正5)・七・二四―九〇(平成2)・一一・一〇]福岡県久留米市の生まれ。本籍地は長崎市出来大工町四六(のち御船蔵に変更)。久留米商業高校の教師をしていた父の関係で、小学校の途中まで久留米市内ですごす。その後父の転勤で中津尋常小学校へ転校。一九二九(昭和4)年、中津尋常小学校を卒業。三四年、中津中学を卒業し、同年、福岡高等学校に入学。三七年、九州帝大医学部に入学し、四一年、同大卒。大学時代は文芸同人誌「こをろ」に参加。ランボーと唐詩を愛好する文学青年だった。絵の才能があり、「こをろ」の表紙やカットを多く手がけた。小学生のころ、児童文芸雑誌「赤い鳥」に作文が掲載されたといい、また、一八歳のとき西日本新聞社主催の絵画展に入選し、画家を志したが、親の反対にあって医学の道へ進んだ。専門は内分泌学。九大卒業後、同大医学部副手。同年、志願し、現役兵(二年間)として海軍軍医中尉。四三年、服役延期で海軍軍医大尉(教官)。戦歴は巡洋艦金剛に乗り組み、インド洋の海戦に参加。その後、潜水艦に搭乗し、ガダルカナル方面で負傷。帰国後、佐世保海軍病院に勤務し、敗戦を迎えた。八月一六日、佐世保海軍病院の教え子たちと原爆投下直後の長崎へ向かい、一〇月上旬まで救護活動に従事。戦後は九州帝大医学部第一内科に戻り、副手。四八年、医学博士の学位を取得し、新設された米子医科大学(鳥取大学医学部の前身)に講師として赴任。米子医学専門学校教授を兼務した。四九年、鳥取大学医学部助教授。六九年、同大医学部教授(第三内科)。八二年、停年退職。鳥取大学名誉教授。小人病の治療に尽くし、『臨床内分泌学』(68)『図説こびと症』(82)などの著書がある。また、晩年、自身の病気(肺癌)がきっかけで、長崎で救護にあたった当時の同僚たちを調査し、四〇数年前の被爆と現在の健康状態の関係を調査考察した『長崎原爆救護の記録 四十三年後の健康調査』(私刊、88・8)を上梓した。九〇年一一月没。享年七四歳。【和泉僚子】
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| 関連情報 |
| レコードID |
442176
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| 権利情報 |
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| 登録日 | 2013.08.16 |
| 更新日 | 2020.10.26 |