<その他>
花田清輝
| ヨミ | |
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| 人物詳細 | |
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詳細
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| 権利情報 | |
| 登録日 | 2013.08.16 |
| 更新日 | 2020.10.26 |
| ヨミ |
ハナダ キヨテル
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| 編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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| データベース名 | |
| 人物詳細 |
1909(明治42)年3月29日、福岡市東公園三の生まれ。評論家。旧制福岡中学から鹿児島の第七高等学校造士館の文科甲類に入学したが、ほとんど通学せず、2年後に退学する。七高の南寮に入寮する際の新入生歓迎コンパで彼は、自分はフィレンツェ出身だと自己紹介し、イタリア・ルネッサンスについて30分ほども講釈したという。同寮の同級生だった小島信之(文甲、昭和5年3月卒業)の回想「若き日の花田清輝―第七高等学校・京都大学・上京まで」(「別冊新評―花田清輝の世界」昭52・10)によると、その頃の花田清輝は「鼻は高く、眼は大きく、かれの風貌はどことなくエキゾチィックなところがあり、かれがほんとうにイタリア人であると信じたものも初めのうちは何人かはいたようだ」。昭和3年3月、七高を落第退学し、九州帝大哲学科の聴講生となったが、翌年4月、京都帝大文学部選科(英文学)に入学。6年11月、授業料滞納のため除籍処分となり、翌7年1月、帰郷。8年春、上京。14年9月、中野秀人らと「文化再出発の会」を組織し、機関誌「文化組織」を翌年1月に発刊した。22年、加藤周一・佐々木基一・福永武彦・中野秀人らと「綜合文化協会」を結成し、機関誌「綜合文化」を発刊。翌年、岡本太郎・埴谷雄高らと「夜の会」を結成。24年頃、日本共産党に入党し、「新日本文学」編集長などをつとめたが、同36年、中央委員会を批判する意見書を大西巨人ら党員文学者たちと提出し、ともに党を除名された。昭和49年9月23日没。
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| 関連情報 |
| レコードID |
442153
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| 権利情報 |
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| 登録日 | 2013.08.16 |
| 更新日 | 2020.10.26 |