注記 |
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以上,間切内法,村内法を類型化し,その特徴を考察してきた.これからわかるのは,間切・村内法には段階差があること,つまり原型的な類型Iが次第に支配機構のもとに組み込まれ,王府の出す令達とでもいうべき条項のなかに埋没し,内法が本来もっていた形態を失っていく姿であった.その過程で,例えば貢租未納の場合,連帯責任の範囲も拡大されている.類型Ⅱ-Aでは,親類,次いで与が未納分の負担の責任を負わせられたが,Ⅱ-BおよびⅢになると,与の次ぎに村があげられ,それでも未納分の解消が出来なければ,間切へと連帯責任の範囲は拡大される.こうした連帯責任の範囲の拡大は,貢租の未納が増加していったという事態に対応してのものであったろう.それを示すかのように,他方で未納農家に対する処置が厳しくなっている.つまり連帯責任の範囲が拡大することは,一見,共同体的連帯を示すようであるが,必ずしもそうではなく,連帯責任の範囲が拡大すればするほど,貢租未納の農家並びにその農家の親類の負担の度合は厳しくなっていったことを内法の条文は示している.すなわち類型Ⅱ-BやⅢで貢租未納の農家に対する処置が家畜家財の公売だけでなく.「妻子を雇いに差遣わさせ」,あるいは「妻子を身売りさせ」と厳しくなっていることにそれが窺われる.しかし他方,こうした事例が増加することは共同体の解体にもつながりかねない.したがって農家が身売をせざるをえない場合には「与,親類に申し出ること,村役人はそれを間切に取り次ぎ,間切の指図をうけて身売りさせるよう取り計らうべし」(羽地間切各村内法§91)という規定もあらわれることになる.年貢未納農家に対する「土地引揚げ」も,それが増加すれば「村倒れ」,「間切倒れ」を結果することにならざるをえない.事実,村倒れ,間切倒れは多かったという.村落共同体を基底とする収奪体制の矛盾の現れである.沖縄における村落共同体の性格に関連して重視したいのは「親類」である.間切内法・村内法の諸規定には,本土の五人組の錠と共通するものも多いが,その五人組の旋を示した「五人組帳」でも貢租未納に対し連帯責任を謡っている.しかしその場合,貢租未納の農家に対しては,まず五人組が責任を持ち,次いで親類,村という順序が一般であった(穂積,1921,p.83).これからみると親類から与,村という沖縄の順序は例外的であるということになる.つまり本土の五人組の場合には地縁共同体性格が強いが,沖縄の場合にはなお血縁共同体的性格が強いとみられる.しかもその親類は門中と密接に関連するようである.田沼によれば,村落はもともと門中という血縁集団をもって組織され,そのような村落が社会経済的な単位を構成していたのであって,与はのちに行政上の単位として最理的に村落を区分したものであるという(田沼,1927,p.49).旧くは一村落に門中は一つであったが,近世になれば一つの村落に幾つかの門中があるのが一般であった.同じく田沼によれば,豊見城間切の真嘉部落は62戸からなるが,門中は5門に分かれていた(向上書,p.120).このような状態のもとでは,内法にいうところの「親類」の範囲が問題となる.しかも地割制のもとでは,本土におけるような農地所持を基礎とする「本家-分家」の関係は成立しない.「親類」と「与」とはどんな関係に立ったのか.行政的な区分としての与は地縁的な家結合を意味し,そのうちには門中を異にする農家が含まれることになる.発生的には与は行政的な村落区分であったろう.しかし与はたんなる行政的な村落分割の単位にとどまってはいない.それは地割のやり方と密接な関係があった.いわゆる地与である.そこでは血縁的な家結合のみでなく,地縁的な関係が形成される要素がある.つまりかつては門中を単位に組織された共同作業がいまや与を単位に組織させれてくる.名護間切の村内法には耕作の後れた者に対し与中が加勢をするという規定がある(§51).こうした一種の「結い」とでもいうべき共同作業は他の間切の内法には記されていないものの,かなり一般であったのではなかろうか.仲吉は与は貢租の連帯納入と共同作業の二つの目的をもっていたと記している(仲吉,1928①,p.446).いずれにしても地縁的な家結合である「与」と血縁的な家結合である「親類」との関係が沖縄における村落共同体の性格を解く一つの有力な手掛かりとなると思われる.なお田沼によれば,地割の方法は間切によっても,村によっても相違があるが,概していえば国頭郡では人頭割で,中頭郡では貧富の差を加味した地割の方法がとられている.この両者は面積による地割であるが,島尻郡では耕地の良否に重点をおき,叶米(小作料)を基準とした割替が大部分であるという(田沼,上掲書,pp.285-6).これは興味ある指摘である.というのは郡によって地割の方法が違うということは,同時に内法の類型によって地割の方法が違うということをも意味するからである.田沼が根拠とした資料が何であるかが明らかでないため,その指摘を具体的に検証することはできなかったが仲吉論文により郡別に地割方法の差をみてみたのが表4である.国頭郡では「平等配分」が多い.中頭郡ではかなりバラツキがみられるが,比較的多いのは「労力・資力差による配分」である.島尻郡では「持地率による配分」が最も多い.持地率による割替の場合は,各農家の「土地の割合に変更なく,単に土地のみの移動を行うの制度」と仲吉は記している(仲吉,1928②,pp.586).以上のような地割方法の違いは,これを変化として捉えると地割制は解体の傾向を示していたと捉えることができる.西原の研究によれば,近世末期には地割制は事実上解体し,土地保有権が「所有権化」しつつあったことが強調されているが,その際,島尻地方にその傾向が著しいという(西原,1970,p. 87).ここまでくると,本稿での内法の類型化自体に疑問が出てくる.筆者は本稿で発生的・形式的な視角から内法の類型化を行い,そのなかで島尻郡の内法は類型Ⅲに至る過渡的形態としたが,地割制の解体傾向とあわせ考えると,類型Ⅱ-Bとした島尻郡内の内法類型Ⅲ(国頭郡の諸内法)に至る過渡的形態ではなくむしろその解体形態,しかも最も解体の著しい形態とみるべきであるということになる.他方,中頭郡の内法は国頭郡と島尻郡との中間に位置する,ただし解体過程として後者の方向に向かうものと捉えるべきであるということになる.しかし中頭郡と同列に扱った粟国島の内法はそれとは区別して扱うべきであるということになろう.だが,こうした構想も目下のところは仮説の域を出ない.その検証のためには中頭郡の間切について省略されていない間切および村内法の探索が必要であるし,一層重要なのは島尻郡の間切の内法について,もっと旧くは国頭郡の間切と類似するような形態をとっていたのかどうか,その点の検証が必要である.他日を期したい.
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