<その他>
福岡都市圏近代文学文化年表 ; 明治19年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |
編者 |
花田, 俊典
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スカラベの会
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年表 |
文学的事跡:6月 黒田静男(新聞記者)、福岡県三池郡銀水村で出生(26日)。
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社会文化事項:1月 渡辺藤吉が渡辺鉄工所【★58】創業(*大正10年海軍指定工場)。2月 中野正剛、福岡市西湊町(現・福岡市中央区)で出生(12日)。安場保和(旧熊本藩士)が福岡県令(25日*7月から県知事)に就任。3月 福岡区が福岡本町に救貧施設「済貧授産場」設置(18日*のち因幡町県庁裏に移転し20年3月閉鎖)。福岡県私立教育会設立(29日)。福岡婦人協会結成。4月 福陵新報社(社長は頭山満)、福岡薬院に創立【★59】(11日)5月 陸軍歩兵第24連隊第1大隊が小倉から福岡に移転(11日)。6月 福岡県民149名、ハワイに移住(4日)。福岡連隊本部設営(14日*8月17日歩兵第24連隊旗親授)。福岡区立博多商業学校が開校。9月 師範学校令公布により福岡師範学校を福岡県尋常師範学校と改称し、生徒定員は男子100名・女子50名。10月 博多織同業組合結成。12月 大隈活版所(下名島町)創業。この年、玄洋社の活動資金調達のため炭鉱獲得に着手。西日本にコレラ・天然痘が流行。
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日本・世界事項:3月 帝国大学令(2日)。11月 鹿鳴館で大舞踏会(3日)。12月 矢島楫子(熊本県出身)ら婦人矯風会結成(6日)。
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【★58】渡辺鉄工所:「試みに福博鉄工界に於ける重鎮の人問はゞ先づ指を渡辺鉄工所に屈するに誰か躊躇するものあらんや、げに市の東南隅に当り?鑵の響、鉄槌の音殷々として耳朶を擘(さ)き天を摩する大烟突よりは黒龍魔の如く渦巻く所実に一の壮観なり、之れ合資会社渡辺鉄工所とす、同所は博多の紙与一統渡辺藤吉君が弟福雄君と戮力恊心(りくりょくきょうしん)し、明治十九年一月市内下西町本家附近に小規模の工場を設置したるに始まり爾後事業の進展に伴ひ工場の狭隘を感じ、明治二十九年一月市外千代町に二千五百餘坪の地を購ひ一大工場を建設したるもの実に現今の工場なり、設立当時の営業方針は単に鉱山用小機械の製作並に鋳物?鑵類の修理等なりしが、時代の進運は沮(はば)み難く日清日露の両役に際し事業界の活躍となり続々筑豊炭山の勃興に遇ひ沈静せる鉄工界に一新機軸を啓き年を趁(お)ふて好績著しく、設備の完成と職工の熟練とは相呼応して益発展し遂に動す可からざる根底は牢固として築かれたり、機をみるに敏なる福雄君は各地を奔走し註文の引受け其他諸般の衝に当り、只管業務の拡張に専念せり、また這般露国より欧州戦乱の兵機軍需品の不足の為め吾国へ之れが補給を求むるに当り政府は之を民間工業界に委せしかば、君は進んで之を引受けに参加し昼夜兼行終に優良の信管製品を納入し其責務を全ふし九州に於ける兵機民営の先駆者として大に面目を施せり、今や業務一層と繁劇を加へ一ヶ年の注文品産出額平均八十万円を超へ工場坪数四千餘坪に及び機械工場、鋳物工場、鍛冶工場、製鑵工場、仕上工場、木型工場等に整然区分し其使用動力二百馬力、現業員四百五十餘人を使傭し主として船舶用金具、鉱山用機械、化学工業用機械等を製作せり、而して主なる得意先は佐世保、呉海軍工廠、大阪砲兵工廠、製鉄所、三菱造船所、三井鉱山会社其他各地の鉱山等にして実に地方模範的の大工場なり、同所は尚竿頭更に百尺を進め南洋方面へ一大飛躍を企劃しつゝありと聞く、洵に痛快事と謂ふ可し。」(『福岡市大観』博文社書店、大7・5)「当社は明治十九年一月炭鉱機械メーカーとして発足以来(株式組織は大正八年)六十年の歴史を誇る精密機械の著名メーカーで、昭和十八年には工場の一部を分離して九州兵器を設立、戦後九州鉄工と改称したが、本年四月企業再建整備法に基く決定整備計画によって同社を解散、第二会社を設立して旧名の渡辺鉄工所に復した。(略)」(「西日本新聞」昭24・8・15)
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【★59】福陵新報社創立:「明治十九年四月十一日、福陵新報社創立せられ、創立事務所の看板は福岡薬院に掲げられた。当時、この創立事務所に出入りして発刊準備に携はつてゐた者は、頭山満を中心として杉山茂丸、結城寅五郎、伊知地迂橘、月成勲等二十余人であつた。いずれも豪傑揃ひで、新聞のことなど解るものは一人もなく、たゞ集まつては議論する、詩吟を唸る、腕押相撲をとるといつた創立事務所とは名ばかりの梁山泊で、最初、発刊計画はなか/\進まなかつた。「頭山に新聞が出せたら、西から太陽が出る!」と云はれたのは此のころである。しかし間もなく、創業主幹として後の代議士香月恕経が入社し、これと前後して、東京で少々経験をもつてゐた小説家外園今村為雄が入社するに至つて、創業事務は着々とすゝんだ。(略)/資本金一万円、社屋は福岡区本町八十六番地の向陽社跡を修理改造してこれに充てた。創立資金一万円は、半額は頭山はじめ関係者の私財、半額は旧藩主黒田家をはじめ、時の県内全区長、一般有志の寄附によつた。(略)/この最初の社屋は、今村為雄が設計して向陽社跡を改造したものであつた。間口五間の二階建が二棟並んで、その間が社の入口、突き当りが受付、受付の左側が新聞の印刷場、右側は「諸式印刷場」であつた。受付の奥に事務室、応接室があつて、新聞印刷場の入口から階段を上ると二階の三十畳敷が編輯室、も一つの五十畳敷は会議室、何しろ向陽社の跡だけに堂々たるものであつた。」(「九州日報五十年史」、『九州産業大観』九州日報社、昭11・12)
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関連情報 |
レコードID |
410552
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権利情報 |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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西暦 |
1886
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和暦 |
明治19年
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登録日 | 2013.08.21 |
更新日 | 2021.12.14 |