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1.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of 馬琴と「鎖国論」
Oshima, Akihide ; 大島, 明秀
出版情報: 文彩. (10), pp. 21-35, 2014-03-01. 熊本県立大学文学部
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概要: 馬琴旧蔵の「鎖国論」に焦点を当て、その数奇な運命を辿った。結果、近世後期における志筑忠雄訳「鎖国論」の受容をめぐる興味深い事例となるとともに、当時の「写本」作成の実態を浮かび上がらせることにも繋がった。
2.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of 第六回中央図書館貴重文物展観目録
九州大学附属図書館中央図書館 ; Kyushu University Central Library
出版情報: 大学広報 — 展観資料. 416, pp. 1-6, 1981-09-28. 九州大学広報委員会
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3.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of 第七回中央図書館貴重文物展観目録
九州大学附属図書館中央図書館 ; Kyushu University Central Library
出版情報: 大学広報 — 展観資料. 423, pp. 1-10, 1981-11-09. 九州大学広報委員会
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4.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of 明治二十年代における「鎖国論」の多様性 : 徳富蘇峰「明治年間の鎖国論」を中心に
大島, 明秀 ; Oshima, Akihide
出版情報: 日本文藝研究. 59, (3/4), pp. 86-110, 2008-03. 関西学院大学日本文学会
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概要: 本稿では、明治二十二年『国民之友』誌上に発表された徳富蘇峰「明治年間の鎖国論」を中心に、明治初期から二十年代に至る「鎖国」観の変遷を追跡した。 斯論において蘇峰は、「鎖国」に否定的な発言をしてはいるが、それは同時代を江戸の継続した時代と捉え、そこに遺り続ける旧弊「鎖国主義の精神」、すなわち西洋の知識・文物に対する排除的(保守的)姿勢への批判であった。そこには外国を敵視したり、侵略したりするような排外的且つ植民地主義的発想は全く不在であった。 従来の研究史では、戦前の「鎖国」研究は「鎖国得失論」であると語られてきたが、かかる蘇峰の議論に代表されるように、明治二十年代前半まで(とりわけ日清戦争以前)は、多様な「鎖国論」(「鎖国得失論」に回収されえない議論)が存在したことが明らかになった。 続きを見る
5.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of 近代歴史教科書における「鎖国」観 — The Aspects of “Sakoku” Appear in Historical Textbooks in Modern Japan
大島, 明秀 ; Oshima, Akihide
出版情報: 洋学. (16), pp. 113-144, 2008-03. 洋学史学会
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概要: 筆者のこれまでの研究成果により、「鎖国」は近代の言説であるとする問題提起がなされてきたが、本稿では学制発布(一八七二)から『くにのあゆみ』(一九四六)までの小学校歴史教科書九四点を対象として、「鎖国」に関する記述を分析した。 その結果、自由採択期および検定期を通じて、「鎖国」に直接的な評価を付与した教科書は、僅かな例外を除いて確認できなかった。 ただし、神谷由道『高等小学歴史』(一八九一)に見られるように、明治二十年代から江戸時代の封建制度に対する否定的見解を打ち出すものも現れた。その際、当然のことながら「鎖国」も間接的に否定された。 第一期国定教科書『小学日本歴史』(一九〇四)において、「鎖国」政策に対する否定的評価が前面に推し出された。この見解は第二次大戦直後に刊行された第七期『くにのあゆみ』まで基本的に踏襲されていった。 ここにおいて明治二十年代の帝国日本で本格的に模索、形成され始めた「鎖国」観は、学齢児童の就学率九〇パーセント以上の状況下での国定歴史教科書の登場と歴史教科の義務教育化(一九〇七)を俟って、以降、急速に国民に根付いていき、言説となったと考えられる。 続きを見る
6.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of Aufbruch in
Michel, Wolfgang ; Wolfgang Michel-Zaitsu
出版情報: MINIKOMI. 62, (4), pp. 13-24, 2001-04. 墺日学術交流会
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7.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of 『異人恐怖伝』に見られる国学者黒沢翁満の『鎖国論』受容
大島, 明秀 ; Oshima, Akihide
出版情報: 日本文藝研究. 56, (2), pp. 19-37, 2004-09-10. 関西学院大学日本文学会
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概要: 嘉永3年(1850)に刊行された『異人恐怖伝』(木版、3巻3冊)は、志筑忠雄訳「鎖国論」写本の初めての刊本だった。前編2巻が「鎖国論」の翻刻で、後編1巻はそれを土台にした翁満の論である。そこに見られる翁満の「鎖国論」出版意図は、従来指摘されてきたようないわゆる「鎖国」政策の維持や「攘夷」運動推進のためといった理由ではなく、「西洋風」によって乱され損なわれた「和魂」の回復と確立にあった。 続きを見る
8.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of 十九世紀国学者における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容と平田国学
大島, 明秀 ; Oshima, Akihide
出版情報: 日本文藝研究. 57, (1), pp. 39-63, 2005-06-10. 関西学院大学日本文学会
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概要: 志筑忠雄訳『鎖国論』は、平田篤胤とそれ以降の国学者に西洋人ケンペル著書である側面が強調された。そして資料としての『鎖国論』の利用方法は、篤胤が『古道大意』や『霊の真柱』において解釈し利用した方法が踏襲されたものであった。すなわち『鎖国論』を西洋人ケンペルによる日本讃美論として読み解き、日本が万国に秀でて優勢であることの根拠の一つとして引用し用いた。 続きを見る
9.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of エンゲルベルト・ケンペルの「神道」研究とその背景 — Engelbert Kaempfer’s Study of Shintoism and  Background of it
大島, 明秀 ; Oshima, Akihide
出版情報: 九州史学. 142, pp. 46-64, 2005-08-31. 九州史学研究会
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概要: 元禄3~5年(1690~92)に来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)の自筆原稿に基づいて、彼の「神道」研究とその背景についての考察を行った。 まず、ケンペルの日本での行動の背景として、バタヴィアにおけるオランダ知識人ネットワークが存在しケンペルもそこに加わっていたことを指摘した 次に、ヨーロッパにおいては、仏教や(中国の)儒教研究が進んでおり、日本宗教の研究を志したケンペルの選択の余地は神道にしかなかったことを論じ、加えて『日本誌』の草稿であった「今日の日本」(Heutiges Japan)執筆時におけるケンペルの保有資料の状況を勘案することにより、ケンペルがヨーロッパの学界における学問的貢献という側面から、日本宗教の中で「神道」研究を選択したであろうことを指摘した。 最後に、ケンペルはヨーロッパ人として初めて、日本の起源が中国にあるという学説を言語学的、地理学的に否定した。ケンペルは日本民族がバビロンに直接由来する最も古い民族と考えて、そこで自身の学説を証明するために、日本の起源と関連する日本固有の宗教「神道」を重要視した。それによってケンペルが「神道」研究に力を注いだことを明らかにした。 続きを見る
10.
雑誌論文
Kyushu Univ. Production 九州大学成果文献
Cover image of 近世後期日本における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容 — Acceptance of “Sakoku-ron” translated by Shizuki Tadao in last part of early modern times Japan
大島, 明秀 ; Oshima, Akihide
出版情報: 洋学. 14, pp. 1-32, 2006-03-00. 洋学史学会
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概要: 近世を「鎖国」ではなく、「海禁」政策と東アジアの華夷秩序から捉え直さなければならないとする近年の「鎖国」研究の成果を踏まえ、本稿は「鎖国」を言説として捉え、どのように日本で「鎖国」言説が形成されたのかを追究した試みを行った。資料として用いたのは、日本において「鎖国」という言葉の誕生の契機となったケンペル原著、志筑忠雄訳『鎖国論』写本(一八〇一年)であり、その受容を見ていった。 その結果、『鎖国論』は近世日本で普及し、主に非政策決定者を中心に次のような5通りに読まれ流布したことが判明した。(1)天文学的知識の情報源として(2)歴史資料として(3)海外の日本観を知るための情報源としての紹介(4)海外の日本賛美的文献としての紹介(5)万国における日本の優位性を説く典拠として、である。 さらに、百年以上古い情報源であった『鎖国論』が上記利用者に用いられた背景としては以下の4点を指摘した。(A)『鎖国論』が蘭書(事実性が高い)といいえたこと、(B)異国の外圧を受けている日本の状況が『鎖国論』に描かれた「島原の乱」と酷似していること、(C)「蒙古襲来」・「島原の乱」・「濱田兄弟」の事例など過去に異国を撃退した事例が掲載されていること、(D)復古主義にとって理想的な「和魂」が満ち溢れた日本が、『鎖国論』に描かれていることである。 『鎖国論』が大いに受容されるに伴い「鎖国」語彙が広まるものの、近世日本を表象する概念としては用いられなかったことを明らかにした。それによって「鎖国」をめぐる一連の問題は、近世ではなく近代以降の問題であることが示唆された。 (The manuscript "Sakoku-ron" was original written by Engelbert Kaempfer, and then translated by Shizuki Tadao in Japan of 1801 and became a source of the word ‘Sakoku’ (National Seclusion). ‘Sakoku’ in Japan, was expressed in the modern period, and was used as a means to seal off the country. "Sakoku-ron" spread and became widely read mainly by intellectuals and wielded great influence in the modern period. However, it has been noted that in previous conventional studies, "Sakoku-ron" as translated by Shizuki Tadao was received as the theoretical authority for ‘Sakoku’ and ‘Kokoku’ (nationalism). Yet, there have been no studies which have investigated in detail how "Sakoku-ron" was received in Japan’s latter period. The main purpose of this paper is to take a detailed look at how "Sakoku-ron" as translated by Shizuki Tadao was accepted, as well as an analysis of the discursive spread of ‘Sakoku’. After the formation of this concept, "Sakoku-ron" was absorbed by writers, scholars and government officials, yet it was not Shizuki Tadao’s translation, rather it was Engelbert Kaempfer’s book that was given precedence. In this context there are five main ways in which Shizuki Tadao’s work was interpreted. The work was taken as a authoritative body in the five following areas: 1. as a source of astronomical knowledge as written by Matsuzaki Kodo a book collector. 2. As historical material used by Shomotsu-bugyo Kondo Seisai. 3. As a source of information to inform Japan’s way of understanding the outside world as described by the writer Ota Nanbo. 4. As a source of information to praise foreigners as commented by the Nationalist Nakayama Umashi. 5. As an authority source of information used to preach Japanese superiority as seen with the Natioanlist Hirata Atsutane. It was through the acceptance of ‘the Hirata school’ that "Sakoku-ron" was accepted between Academics. In other words (1) of astronomical knowledge as Matsuzaki Kodo, A book collector, wrote it down, (2) of a historical document as Shomotsu-bugyo Kondo Seisai, (3) as the source of information to know outlook on Japan of a foreigner as writer Ota Nanbo wrote it down, (4) as Japanese praise theory of a foreigner as Nationalist Nakayama Umashi, (5) as authority to preach Japanese superiority in all countries as Nationalist Hirata Atsutane. "Sakoku-ron" was received between Nationalists in latter half of Japan with accept of the Hirata study of ancient Japanese thought and culture. The following four points are taken as the background for "Sakoku-ron" which has been a source of information for more than 100 years. Firstly, it is possible to say that Dutch books (with a high degree of factuality) were "Sakoku-ron". Secondly external foreign pressure closely resembling the ‘Shimabara uprising’ was used to describe "Sakoku-ron". Thirdly the ‘Mongolia invasion’, ‘Shimabara uprising’ and ‘the Hamada brothers’ have been used as examples to bolster "sakoku-ron". Finally, "Sakoku-ron" was idealized by Japan as ‘Yamato damashii’ to induce reactionism.) 続きを見る