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谷川雁
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Created Date | 2013.08.16 |
Modified Date | 2020.10.26 |
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タニガワ ガン
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花田, 俊典
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スカラベの会
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Biography |
1923(大正12)年12月16日、熊本県芦北郡水俣町生。本名、巌。詩人・評論家。昭和17年、東京大学文学部社会学科入学。大学時代はもっぱら読書三昧。この間『宮沢賢治名作選』に出会い。20年大学卒業、「西日本新聞」に入社。詩作を始める。22年同人雑誌「母音」に加わる。同年労働争議で処分を受ける。その後匿名で評論、詩を多数執筆する。24年共産党九州地方委員会に属し、機関紙部長となる。しかし、共産党分裂時代には少数派。25年結核で帰郷、療養生活に入る。29年5月「母音」(第18冊)に「原点が存在する」発表。同年11月第一詩集『大地の商人』(母音社刊)刊行。翌年手術を受け、退院後、小間物屋を開くかたわら、詩、評論を多数発表。「詩学」が「谷川雁特集号」を出し、中村稔が雁論を発表。1956年詩集『天山』(国文社刊)刊行。昭和20年から23年に至る初期詩篇を収録。33年上野英信、森崎和江らと雑誌「サークル」を創刊。同年11月評論集『原点が存在する』(弘文堂)刊行。34年10月評論集『工作者宣言』(中央公論社)刊行。この年、各地で講演を行う。翌年1月『谷川雁詩集』(国文社)刊行。そのあとがきで以後詩を書かない事を宣言。同年6月安保闘争をきっかけに日本共産党を脱党。同年9月『現代日本名詩集大成』(創元社刊)に『谷川雁詩集』が収録される。この年、三池闘争のなかで中間市大正鉱業に大正行動隊を組織する。36年4月評論集『戦闘への招待』(現代思潮社)刊行。同年9月思想・文学運動雑誌「試行」と吉本隆明、村上一郎と創刊。1962年大正鉱業退職者同盟を結成し、同盟の退職金闘争に関わる。1963年5月評論集『影の越境をめぐって』(現代思潮社)刊行。40年、上京。知人の誘いで(株)テックの専務に就任し、一転して労働組合と激しく対決した。テックの主要業務は、世界の名作を諸国語に翻訳したテープを作成し、これを通して子どもの情操と創造能力の育成を図る「ラボ教育センター」の運営。この仕事をとおして宮沢賢治を愛読した。54年、テックを退社。翌年、「十代の会」を設立して代表者になった。55年沈黙を破り、再び執筆活動を開始。同年2月「らくだ・こぶに」の筆名で講話『根の国の力』(葦牙購読者の会)刊行。同年12月共著『物語としての日本神話』刊行。56年「十代の会」を創立し、少年少女の成長を期待して新たな活動を始める。57年「ものがたり文化の会」を発足、賢治童話の音声・視聴化を進めるとともにそれに基づくこどもたちの表現活動として「人体交響劇」を提唱する。58年6月評論集『意識の海のものがたりへ』(日本エデイタースクール出版部)刊行。60年5月『海としての信濃』(深夜叢書社)、同年9月『賢治初期童話考』(潮出版社)刊行。平成7年2月『北がなければ日本は三角』(河出書房新社)刊行。長野県上水内郡信濃町柏原で晩年を過ごし、平成7年2月2日、肺癌で没した。〈著書〉詩集に『大地の商人』(母音社、昭29・11)『天山』(国文社、昭31・5)『谷川雁詩集』(国文社、昭35・3)『海としての信濃』(深夜叢書社、昭60・5)があり、評論集に『原点が存在する』(弘文堂、昭33・12)『工作者宣言』(中央公論社、昭34・10)『戦闘への招待』(現代思潮社、昭36・4)『影の越境をめぐって』(現代思潮社、昭38・6)『意識の海の物語へ』(日本エディタースクール出版部、昭58・6)『無の造型―60年代論草補遺』(潮出版社、昭59・10)『賢治初期童話考』(潮出版社、昭60・9)『ものがたり交響』(筑摩書房、平1・2)『極楽ですか』(集英社、平4・6)『北がなければ南は三角』(河出書房新社、平7・2)『幻夢の背泳』(河出書房新社、平7・3)などがある。また、『無の造形―谷川雁未公刊論集1945―1968』Ⅰ・Ⅱ(京都・八木俊樹、昭51・12)、潮出版社版の著作集全5冊、および『谷川雁の仕事』Ⅰ・Ⅱ(河出書房新社、平8・6)がある。 〔参考〕『谷川雁の仕事』(河出書房新社刊 1996,10 2刷発行)所収・斎藤慎爾作成年譜 一九二三年十二月十六日熊本県水俣市に眼科医の次男として生まれた。幼時から小心、不器用、偏執的理窟家の名が高かった。四才のとき犬にまれて地方新聞の三面記事になり、はじめてジャーナリズムに登場。熊本中学に進み、ヒトラー・ユーゲント歓迎に反対を唱えたりしていたら、「お前のような奴がアカになる」と教師から宣告され、五高では新体制をくさしてばかりいるので「建設的でない」と定評あり、大学では延安行を夢想し、軍隊では「お前みたいなのが私兵を作るのだ」といって営倉に入れられ、敗戦で東大社会学科をおしだされたときは「卒論を書かずにすんでよかった」と日高六郎から祝福された。しかし戦後三年目には西日本新聞争議を指導してGHQと衝突、ゴロツキと規定されてクビになり、共産党分裂時代には少数派としてしめだされ、いままた修正主義者と反共左翼挑発者の称号を得ているところを見ると、そのかみの予言者たちは心やさしかった。(谷川雁「小伝」、『現代日本名詩集大成』11、東京創元新社、昭35・9)
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Relation |
Record ID |
442003
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Rights |
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Created Date | 2013.08.16 |
Modified Date | 2020.10.26 |