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新井徹
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Created Date | 2013.08.16 |
Modified Date | 2020.10.26 |
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アライ テツ
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Editor |
花田, 俊典
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スカラベの会
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Database Title | |
Biography |
1899年2月、長崎県対馬の生まれ。詩人。本名は内野健児。1920年3月広島師範学校卒、福岡県立鞍手中学校に教諭赴任。翌年朝鮮総督府へ出向を命じられ、忠清南道大田市大田中学校教諭となる。1922年「耕人者」を創立し「耕人」を創刊、主宰する。ペンネームに乾児、津島生人などを使用。1923年10月第一詩集『土墻に描く』(朝鮮詩輯30篇 附輯19篇収録 耕人社)を発行。まもなく発売禁止になり、翌年総督府と交渉し、「一部抹殺」の条件つきで発禁処置が解かれた。1925年8月後藤郁子と結婚、9月京城公立中学校へ転勤、同年12月「耕人」終刊。 1926年2月「京城詩話会」を創立、同年5月朝鮮芸術雑誌「朝」の文芸部を担当。同年10月「京城詩話会」を「亜細亜詩脈協会」と改称し、機関誌「亜細亜詩脈」を創刊、編集人、発行人となる。1927年6月警察高等科により「亜細亜詩脈」六月号が発売禁止となり、同年11月「亜細亜詩脈」終刊。1928 年1月夫人と二人で「鋲」を創刊。同年7月朝鮮追放を宣告され、日本に戻る。1929年8月「宣言」を創刊。夫人と編集と発行に携わる。1930年4月、第二詩集『カチ』(序詩、46篇収録 宣言社 )を刊行。9月プロレタリア詩人会が結成され、新井徹の名で書記となる。(1931年からはすべてこのペンネームを使用)1931年8月日本プロレタリア作家同盟に加盟。プロレタリア作家として活動。1933年検挙され、肉体的な打撃を受け、後の発病・死を早める原因となった。1934年2月「詩精神」を創刊。同年「1934年詩集」(前奏社刊)の編纂員となる。1936年1月「詩精神」は「詩人」と発展的な解消を遂げることとなる。1937年6月、再度検挙され、二ヶ月間拘留された。同年11月第三詩集『南京虫』(第一部9篇、第二部9篇、第三部10篇、第四部・詩劇算盤学校収録 文泉閣)を刊行。1938年結核と診断され、療養を勧められたが、生計のため勤務を継続、文筆活動も継続。1941年倒れ、療養に入る。この間最後の作品と見られる詩「狂ふと狂はぬと」を創作。1944年4月永眠。1965年11月合著詩集『新井徹 詩人が歌わねばならぬとき 後藤郁子 貝殻墓地』が夫人後藤郁子の手により思潮社から刊行された。1983年5月『新井徹の全仕事 内野健児時代を含む抵抗の詩と評論』を創樹社から刊行された。〔参考〕『新井徹の全仕事―内野健児時代を含む抵抗の詩と評論』所収の任展恵作成年譜参照)
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Relation |
Record ID |
441480
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Rights |
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Created Date | 2013.08.16 |
Modified Date | 2020.10.26 |