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福岡都市圏近代文学文化年表 ; 大正9年
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Created Date | 2013.08.21 |
Modified Date | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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Chronology |
文学作品:1月 北原白秋「ねんねの小鳥(英国童謡)」・白蓮女史「甦へる誓」(「福岡日日新聞」1日)萠園山人「猿小僧」(「九州日報」1日)久保猪之吉「久留米捕虜詩集に就て」・豊島与志雄「未来の天才」(「福岡日日新聞」1日―2日)4月 福本日南(述)『現代思想と立国の大本』(中央報徳会)竹田秋楼『博多物語 附博多情史』(福岡・金文堂書店)5月 大杉栄/伊藤野枝『〈社会文藝叢書3〉乞食の名誉』(聚英閣)8月 竹下静廼女(しづの女)、「ホトトギス」巻頭に「短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてつちまをか)」(計7句)9月 中野秀人「第四階級の文学」(「文章世界」)
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文学的事跡:1月 眞鍋呉夫【★236】、福岡県遠賀郡岡垣町で出生(25日)。3月 鹿児島寿蔵上京のため「南方芸術」(「ハカタ」改題)は第13号(通巻13冊)で終刊(●日)。松田軍造、福岡県嘉穂郡二瀬村(現・飯塚市)で出生(25日)。4月 鶴田俊美らが童謡童話雑誌「揺籃」創刊。吉岡禅寺洞らが第2回九州俳人大会を博多呉服商倶楽部で開催(18日)。福岡日日新聞記者の竹田秋楼が『博多物語 附博多情史』【★237】(福岡・金文堂書店)上梓(30日)。6月 北川晃二、福岡県添田町で出生(4日)。久保より江宅で婦人俳句会開催し、杉田久女【★238】らが出席(5日)。長谷川零余子が来福し「天の川」同人らが歓迎句会を県第二公会堂で開催(6日)。7月 一丸章、福岡市新柳町で出生(27日)。9月 中野秀人【★239】が「第四階級の文学」で「文章世界」懸賞論文に入選。横山達三(白虹)が九州帝大医学部に入学。伊達得夫、朝鮮釜山で出生(10日)。薄田研二が妻・晴子(倉田百三の元妻)を伴い帰福、「異象舞台劇協会」を結成して福岡市記念館で「出家とその弟子」(倉田百三作)・「地蔵経由来(久米正雄作)」を上演【★240】。日野草城(三高学生)が来福し、吉岡禅寺洞・入沢禾生・佐藤蕪生らと太宰府に遊ぶ【★241】。11月 原石鼎・相島虚吼が来福し、福岡県立図書館で歓迎句会(23日)。この年、西谷勢之介【★242】・縄手琢磨(佐賀琢磨・嵯峨琢磨)・中島公・横尾農夫像らが詩誌「土」創刊。八波則吉が第四高等学校教授から第五高等学校教授に転任(*昭和15年まで在任)。
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社会文化事項:1月 眞鍋呉夫【★236】、福岡県遠賀郡岡垣町で出生(25日)。3月 鹿児島寿蔵上京のため「南方芸術」(「ハカタ」改題)は第13号(通巻13冊)で終刊(●日)。松田軍造、福岡県嘉穂郡二瀬村(現・飯塚市)で出生(25日)。4月 鶴田俊美らが童謡童話雑誌「揺籃」創刊。吉岡禅寺洞らが第2回九州俳人大会を博多呉服商倶楽部で開催(18日)。福岡日日新聞記者の竹田秋楼が『博多物語 附博多情史』【★237】(福岡・金文堂書店)上梓(30日)。6月 北川晃二、福岡県添田町で出生(4日)。久保より江宅で婦人俳句会開催し、杉田久女【★238】らが出席(5日)。長谷川零余子が来福し「天の川」同人らが歓迎句会を県第二公会堂で開催(6日)。7月 一丸章、福岡市新柳町で出生(27日)。9月 中野秀人【★239】が「第四階級の文学」で「文章世界」懸賞論文に入選。横山達三(白虹)が九州帝大医学部に入学。伊達得夫、朝鮮釜山で出生(10日)。薄田研二が妻・晴子(倉田百三の元妻)を伴い帰福、「異象舞台劇協会」を結成して福岡市記念館で「出家とその弟子」(倉田百三作)・「地蔵経由来(久米正雄作)」を上演【★240】。日野草城(三高学生)が来福し、吉岡禅寺洞・入沢禾生・佐藤蕪生らと太宰府に遊ぶ【★241】。11月 原石鼎・相島虚吼が来福し、福岡県立図書館で歓迎句会(23日)。この年、西谷勢之介【★242】・縄手琢磨(佐賀琢磨・嵯峨琢磨)・中島公・横尾農夫像らが詩誌「土」創刊。八波則吉が第四高等学校教授から第五高等学校教授に転任(*昭和15年まで在任)。
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日本・世界事項:1月 探偵雑誌「新青年」創刊。国際連盟発足(10日)。2月 大学令により慶応義塾大学・早稲田大学、初の私立大学として設立認可(5日)。官営八幡製鉄大争議起こり、労友会会長の浅原健三ら14000人がスト決行=鎔鉱炉の火は消えたり(5日)。5月 上野公園で日本初のメーデー(労働祭)開催(2日)。7月 東京帝大、学年度開始を4月に変更(7日*10年度より全国の官立大学・高等学校も実施)。高等女学校令改正し修業年限を5年から4年に(6日)。10月 第1回国勢調査実施、内地人口5596万3053人、外地人口2102万5326人(1日)。この年、「ゴンドラの唄」流行。
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【★236】眞鍋呉夫:大正9年1月25日、父・真鍋甚兵衛と母・おり子の長男として福岡県遠賀郡岡垣村海老津(現・岡垣町)の母親の実家で生まれる。本籍地は福岡市上新川端町(現・博多区上川端町)。父親が中国杭州で西陣織機の取次販売業を営んでいたため、年末に母と同地へ行った。大正15年、杭州日本人小学校に入学したが、日貨排斥運動が激化し、帰国。母の里の岡垣村立山田尋常高等小学校に編入し、以後、転校をくり返した。昭和12年、福岡商業学校を卒業し、14年10月、矢山哲治・川上一雄・島尾敏雄らと同人誌「こをろ」を創刊。昭和十六年、上京して文化学院文学部に入学したが、翌年、応召。昭和20年、大分県佐賀関沖の高島で敗戦を迎え、9月、福岡市の実家に復員。昭和22年、檀一雄・与田凖一・大西巨人・北川晃二らと劇団「珊瑚座」を設立したが、第1回公演がGHQの検閲で禁止となり、さしたる活動もせず解散した。この劇団員のなかに、檀一雄の長篇『火宅の人』の恵子のモデルとなる入江杏子がいた。翌年三月、眞鍋呉夫は作家となるべく、檀一雄を頼って上京した。戦後復活第一回(通算第二十一回)芥川賞の候補作に挙げられた。翌二十五年にも「天命」が芥川賞および第一回戦後文学賞の候補作となる。エッセイ集『雲に鳥』に自筆年譜があり、また創作集『黄金伝説』(沖積舎、昭60・4)に近藤洋太編年譜がある。練馬区南田中在住。句集『雪女』(●)により歴程賞・読売文学賞受賞。著書に句集『花火』(福岡・こをろ発行所、昭16・9)小説集『サフォ追慕』(講談社、昭24・4)『天命』(書肆ユリイカ、昭27・9、のち新装版、文理書院ドリーム出版、昭42・9)『異物』(出版書肆パトリア、昭33・10)『虫の勇気—西域小説集』(財界展望新社、昭48・12)『二十歳の周囲』(京都・全国書房、昭24・6)『二十歳の周囲』(沖積舎、昭61・11、同題の前著とは内容が異なる)『嵐の中の一本の木』(理論社、昭29・1)『赤い空』(出版書肆パトリア、昭32・2)『飛ぶ男』(東京新聞出版局、昭54・2)『黄金伝説』(昭●)『露のきらめき』(●)などがある。
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【★237】『博多物語 附博多情史』:四六判・全244頁。定価1円20銭。題字は福岡県知事安河内麻吉、序文は福岡市長久世庸夫、著者は竹田秋楼(福岡市材木町48番地)、発行所は金文堂書店(福岡市中島町69番地)、印刷所は福岡印刷株式会社(福岡市下名島町53番地)、印刷人は藤村悌次(福岡市御供所町7番地)。内容目次は、博多の芝居・博多松囃子・切支丹退治・後の黒田騒動・博多の相撲・清元の流祖・百合若大臣の歌・博多の山笠・昔の三面記事・博多仁和加・博多の流行歌・附—博多情史。「自序」にいわく、「予は民衆趣味を好愛し、民衆詩人を憧憬し、民衆芸術に共鳴を有す。而して民衆的文章の普及を理想とし、総て民衆時代の実現を期待して止まざるものなり。/往時に平民の存在認められず歴史は長く貴族と為政者の占有物となれり。故に歴史に生気なく記録に権威なし。博多物語は予が小さき労作に過ぎざるも、一地方の伝統的餘薫が聊かたりとも民衆といふことにつき社会の理解を求め得れば、即ち予が為には過分の報酬たらん。/大正九年四月/福岡日々新聞社編輯室にて/著者」(原文総ルビ)。巻末に福岡市内の商工店の広告が全26頁にわたって掲載されている。参考までに列挙しておく。岩田屋呉服店(福岡市大工町)・松居居工場(福岡市外春吉4番丁)・松葉屋呉服店(博多東中洲電車道)・渡辺博多織帯部(博多蔵本町綱場角)・鯉川商店(各種塗料ニス類製造卸問屋・福岡市博多駅前)・吉留孫三郎商店(箪笥長持嫁入道具一切製造販売・福岡市下名島町)・日高日出東商店(博多株式取引所仲買人・福岡市下鰯町(取引所前))・森山製菓部(福岡市下祇園町13番地)・岩田屋呉服店(博多麹屋町)・川丈—新聞広告部・川丈座興行部・川丈旅館部・鉄冷鉱泉湯(福岡市東中洲)・博多工作所(福岡市)・国産アサヒビール・紙与呉服店・吉田撚糸織物工場(博多向島)・九州水力発電株式会社福岡営業所・長崎屋商店相部本舗(福岡市掛町新道10番地)・小宮工業所(福岡市本町65)・野村陶器店(福岡市博多官内町)・野村久十商店・岡田手拭製造所(博多上新川端町96)・平野屋株式店(福岡市上鰛(いわし)町3)・天神屋支店(輪島漆器・福岡市上小山町31番地)・紅葉屋人形店(福岡市博多橋口町10番地)・原惣洋服店(新古洋服卸商・博多下小山町)・京和銀行福岡支店(福岡市博多下東町)・次郎丸真次商店(公債株式定期現物売買・博多下鰛町取引所前)・竹の家(水炊並ニ鍬焼・博多中洲九州座前)・緒寸莎販売製造元工場田中藤吉(福岡市外住吉字宮崎口)・紅屋絣店(博多川端)・遠藤和洋酒食料品店(博多蔵本町)・高岡医院(博多水茶屋千代町交叉点横)・牧野沃土院(諸病治療・博多橋口往当リ)・俳優似顔歌舞伎人形製造卸商日高甚吉(福岡市外大学通リ1丁目39)・中央亭(西洋料理・博多東中洲町)・福岡自動車運輸合資会社(福岡市下奥堂町11番地)・京や陶磁器店(清水焼窯元・博多新道)・第一笹巻(新築落成料亭・千代町電車交叉点前)・割烹岩水(博多築地)・第二笹巻(水だき・博多蓮池町)・水野医院(整形外科・福岡市外大学通リ馬出(大学病院東へ2丁))・三苫一覚堂(薬洋酒化粧品滋養食料・博多新道の中央)・高橋鉄工所(福岡市荒戸町電車通り)・磯野眞鍋鉄工所(福岡市西浜町2丁目)・岩田屋貴金属店(博多麹屋町)・九州電燈鉄道株式会社(福岡市天神町)・東雲堂(仁○加せんぺい本店)・紀の国家(かしわ水たき・博多上新川端町)・上島松太郎商店(ラムネサイダー製造用品・博多下小山町25)・優等清酒初吉野醸造元石蔵利蔵(福岡市大浜町)・活動常設日活共営帝国館(博多蓮池町28番地)・小田尚音堂(琵琶一切・筑前博多上祇園町36)・平助筆河原田平助(製造発売元復古堂・工場市外明治町5丁目)・東京屋履物店(博多東中洲(電車通))・寿座・世界館・五弦琵琶製造所(福岡舟町旭昌堂高木安右エ門以下8名列記)・藤島商店(輪島漆器・博多下東町)・西部合同瓦斯株式会社(本社福岡市外千代町、事務所福岡市天神町)・大正商会(発動機他諸機械販売・福岡市博多小山町34/35番地)・高屋株式店(博多下鰛町)・笠野屋呉服店(博多川端町天満宮隣リ)・山口銀行福岡支所(福岡市綱場町)・宮薗商店(朝鮮人参キヤラメル・福岡市住吉町(住吉橋詰))。
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【★238】杉田久女:明治23年5月30日、鹿児島市の生まれ。官吏の父親の転勤で沖縄・台湾と移り住み、お茶の水高女卒業。翌42年、画家の杉田宇内と結婚。夫の小倉中学赴任で小倉に移住。大正5年秋頃から「ホトトギス」に投句を始め、やがて認められた。昭和7年3月、俳誌「花衣」創刊主宰。9年6月、ホトトギス同人。11年10月、日野草城・吉岡禅寺洞とホトトギス除名。没後、高浜虚子の小説「国子の手紙」が発表され、久女狂死説が世間に広まった。「昭和二十一年一月二十一日早暁、太宰府の九大分院に於て母は亡くなつた。それは終戦の翌年であつた。肉親で臨終に間に合つた者は誰もなかつた。九大分院は精神科関係の病棟で、従つて母の死は、世間では狂死といふことになつて居る。その母を思ひ出すことも語ることも苦しい。狂死と云つてしまつた方が早いかも知れないが、ありふれた分別のつかぬ狂人ではなかつた。死亡診断書は腎臓病であるが、極度の精神衰弱であつたかと思ふ。全くの狂人で無かつたことは確かである。」(石昌子「母久女の思ひ出」)。
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【★239】中野秀人:明治31年5月17日、福岡市の生まれ。中野正剛の実弟。早稲田大学中退後、朝日新聞社に入社し学芸記者となる。大正9年9月、「第四階級の文学」で「文章世界」懸賞論文に入選し評論家としてデビュー。画家の才能もあり、昭和2年、ロンドンに滞在。同年、ロイヤル・アカデミーに油絵が入選。4年パリに移り、6年フェリシタ夫人を伴って帰国した(まもなく離婚)。10年、大木惇夫と文芸誌「エクリバン」創刊。15年、花田清輝・岡本潤らと「文化組織」創刊。昭和25年、砧芸術研究会を設立。41年5月13日没。著書に『聖歌隊』(帝国教育会出版部、昭13・7)『黄色い虹』(童話春秋社、昭14・8)『聖歌隊』(文化再出発の会、昭15・11)『中野秀人散文自選集』(文化再出発の会、昭16・12)『精霊の家』(真善美社、昭23・1)があり、没後、『中野秀人全詩集』(昭●)が編まれた。
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【★240】異象舞台劇協会:「当時倉田百三は今川橋附近のある寺に住み、人道主義の波に乗つて旺んに親鸞もの(4字傍点)を書きなぐつて洛陽の紙価を高めていた時である。従つて、その第一回公演の出物も倉田の—『出家とその弟子』—であつた。その他—『地蔵経由来』等—を出し、市記念館での、この公演はけだし福岡における最初のものとして異常な関心を以て迎へられ、進歩的な学舎芸術家を初めとして多くの人々の支持も亦大であつた。ことに歌人である—倉田晴子(現在薄田研二夫人)の関係で当時有名な銅御殿に居た、柳原白蓮や久保より江、小野寺博士等の理解ある支持は全く驚くばかりであつた。そしてこうして人達によつて、五円といふやうなベラ棒に高い特別券が一人何枚と買はれてゐたことなど、今から考へる〔と〕全く嘘のやうな話である。」(青山光世「福岡における『新劇』運動の十年」、「九州文化」昭10・1—9)「おもしろい話が一つあります。「異象舞台劇協会」の芝居はもちろん成功というわけにはまいりませんが、当時福岡に大きなデパートがありましたが、そこの下足番(当時は履物をぬいで店内に入った)で若き丸山定夫が働いていて、たまたま私たちの「出家とその弟子」を見て異様な感動を覚え、よし俺も俳優になろう、と決心したということですが、これは後に築地小劇場へ入ってから丸山からきいたことです。」(薄田研二『暗転—わが演劇自伝』東峰書院、昭35・6)
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【★241】日野草城の来福:「大正八、九年ごろ、三高の学生で、まあたらしい制帽をかぶつた、眉目清秀の一人の青年がたずねてきた。このころ高校生といえば、凡そ蓬髪垢面はつねであつたが、めずらしく清潔で言葉も美しく、さすがは学生都市京都の土地柄を思わせた。京城に帰省するところを、わざ/\下関から福岡まで足をのばしたわけである。なんでも一二泊したように思う。食事がすむと、旅をするには必要だろうが、医者以外にはあまりもつことがない指頭消毒器をポケツトから出して用いたりした。これが日野草城君であつた。/草城君は大正七年創刊の天の川第二号から投句をしている。中学時代のことであろう。この草城君の来訪を機として、その后鈴鹿野風呂、五十嵐播水、平畑静塔、有馬宇月、山口誓子と京大俳句の人たちが、つぎ/\にたずねてきたが、私はこれらの人々と夜を徹することも少くはなかつた。そして京大俳句と天の川は、新しく「大学の俳句会」というものを俳壇に出現させ、そして馬酔木の耽美主義に、対して、京大俳句と天の川は、俳句性の再検討とともに、無季俳句を容認し、リアリズム—生活俳句—の追求をし、ついに新興俳壇は、有季、無季容認の二つの流れとなつた。/私が無季俳句を提唱したとき(定形に於ての)まつさきに同意したのは、日野草城君であつた。そして杉田久女とともに、草城君と私はホトトギス同人を除名された。久女は他に理由があつたのであろうか、二人は一蓮托生、無季俳句がその罪状?であつたらしく、ホトトギスは、堂々、一頁を割いてこれの広告をした。」(「日野草城君と私」、「天の川」昭31・3)
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【★242】西谷勢之介:明治30年1月15日、奈良県の生まれ。詩人。別名は碧落居・更然洞。「大阪時事」「大阪毎日新聞」「福岡日日新聞」などの記者をつとめる。大正12年、大阪で詩誌「風貌」を主宰。その後、「文芸戦線」「不同調」に寄稿。野口米次郎に師事し俳句研究も手がけた。第1詩集『或る夢の貌』(新作社、大13・9)第2詩集『虚無を行く』(啓明社、昭3・2)第3詩集『夜明を待つ』(碧落社、昭6・6)『俳人漱石論』(●昭)『俳人芥川龍之介』(●昭)がある。
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【★243】カフエーブラジル:「大正九年一月八日、西中洲に〝カフエー・ブラジル〟(経営者名方担一・支配人宮永健児)が落成、同日午後五時から安河内知事、久世市長ら知名士多数を招いて披露宴を開き、翌九日に正式開店した。この店はブラジル・コーヒー宣伝のため東京、大阪、神戸に次ぐ第四番目の支店で、美味しいブラジル・コーヒーが五銭で、砂糖は入れ放題というのが当時珍らしかった。その他にドーナッツが五銭で食事も養殖を出し、また二階からはいつもピアノの音が流れるモダンな店で市民の話題となった。/店は大いに繁昌したが、話題の人々も多く出入している。浅原健三や加藤勘十らのグループがこの二階に会合して社会運動の闘士達の拠点となり、大杉栄と伊藤野枝の二人も一緒にコーヒーを飲んでいる。」(咲山恭三『博多中洲ものがたり(後編)』)「川添のカフエー・ブラジルのテーブルに向つて熱いコーヒーを飲んでゐると、次第に落付きが出来て、淡いアーク灯の光のもとで小波(さざなみ)立つて流れる那珂川の流れや、或は植樹の葉陰でひそひそとする若い男と女の私語なども、何かこう心楽い晩秋のメロデイをかなで(3字傍点)てゐるやうで、何とはなしに、今日今頃の急迫した心情が知らず知らずの間にほぐれて来るのであつた、」(山田牙城「朝霧」、「九州文学」昭15・9)
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【★244】松葉屋呉服店:「明治四十一年に合名会社組織にして、水野との土地交感で、東中洲電車通りに進出した博多織〝松居〟(社長松居元右衛門)は、業績上って発展を辿っていたが、ここに初めてデパートの前身、鉄筋五階建の〝松葉屋呉服店〟が誕生する。/〝松葉屋呉服店〟は、資本金百万円で大正七年一月に設立した。社長は元右衛門の次弟松居豊三郎、専務は村瀬清美、取締役には松居床治郎、三上彦蔵、橋本清太郎がなり、監査役に松居庄右衛門が就任した。/上棟式は大正八年十月二十八日に行い、大正九年三月に漸く落成、三月十八日に精養亭で披露宴を行って二十日に開店した。本格的なエレベーター付き五階建という福岡で初めての立体商店で話題となり、大正十四年に玉屋呉服店がデパートを開業するまで、市内最大の呉服屋デパートであった。/客寄せ戦術として、呉服店の中で演芸などの催しを行ったのも松屋が嚆矢であろう。大正十年七月十六日付の福岡日日新聞に次の紹介記事が出ている。/「松葉屋呉服店で少女歌劇、毎週土、日曜八時から開演、今回は〝新高砂〟〝春の曲〟〝嵐の一夜〟幕合には家庭音楽会の余興あり」/然し予想に反して経営は振わず、十一年に組織がえして、松居豊三郎に代って松居の店員から成功した〝宮村吉蔵〟(のちの松屋デパート社長)が社長に就任、経営の立て直しを計ったが、それも束の間で、不運にも翌十二年一月の大火で全焼して了い、鉄骨だけが残骸を残した。/然し〝松居〟と〝松葉屋呉服店〟は直ちに再建にかかり、今度は平面デパート〝中洲京極〟が誕生する。出店は〝松居織工場販売店〟〝松葉屋呉服店〟をはじめ二十七店であるが、昭和に入ってまたも火災に遭って全焼の不運に見舞われる。」(咲山恭三『博多中洲ものがたり(後編)』)
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【★245】皇太子行啓:「前の年の五月七日、御成人式をおあげになつたばかりの皇太子殿下は未だ二十歳で、この行啓には御学問所総裁の東郷平八郎元帥と浜尾東宮大夫が供奉し、三月二十三日東京発、二十四日神戸から軍艦香取で二十五日錦江湾に入られ、二十六日朝第一歩を鹿児島第一桟橋に印せられた。それから、宮崎(二十七日)、川内—西市来(三十日)、三角—熊本(卅一日)、阿蘇山—三角(四月一日)、長崎—佐世保—佐賀を経て、四日午後四時五分博多駅御着、御泊所の県第一公会堂に至る沿道十町の間は奉迎者で埋つた。五日から七日午後門司港で御召艦に帰られるまで、工業博覧会を始め、九大工学部、黒田別邸、久留米(六日)太宰府、筥崎宮、香椎宮にお成りになつた。」(『西日本新聞社史』)
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【★246】伊藤伝右衛門:「鉱業家 伊藤伝右衛門君/本邸 福岡県嘉穂郡幸袋/別邸 福岡市天神町 電話八〇七番/凡そ機会なるものは人間到る処にあり、之に乗ずると否とは此方の人物如何にあり、汝天を仰ぎ地を眺めて徒らに機会の来るを待つ勿れ、機会は想像の途より来らず、又屈して我を捉へず、故に唯に機会を執へて以て大機会に連り行け、是れ成功の秘訣なり、人若し己が志望を達せんと欲せば独立勁健の精神を以て膽略敏機時を誤らず、而して機会に投ぜよ、斯くせば其勢破竹の如く何事かならざらん、然れども其能く此に走るもの豈に容易の業にあらず。独り伊藤伝右衛門君克く此機会を捉へて巧みに社会を遊泳し以て勝を制し家運富栄を極め、国利民福の実を挙げて以て声名を当代に博し、巍々たる誉望を一身に蒐むるに至る偉なる哉。今君が家系を尋ぬるに、浅井長政の家臣に伊藤某と云ふ者あり、浅井家没落の後朝倉郡久喜宮に住し大庄屋を勤む、後故ありて嘉穂郡鎮西村潤野に移る。是れ今を距ること二百年前の事たり、次で幸袋に転じ質屋を業とす、之れ本家伊藤長作氏の祖たり。此時兄弟三人あり長子を又三郎と云ひ、次子を伝右衛門、三子を徳三郎と云ふ。長子を残して他は分家す、次子伝右衛門は現代伝右衛門君の祖たり、斯くして分家したる伝右衛門氏が家計を理するや宜しきに適し、爾来家道日を逐ふて隆盛に赴く、先代伝六氏に至り巨額の資を投じ鉱業を企て成功し、次で現主に至り能く乃父の遺志を体し、巧に産を治め益々事業を拡大し、現に遠賀郡長津村新手坑、同二坑中鶴坑、嘉穂郡斉田坑、鞍手郡西川村泉水坑等の数坑を経営し年々の産額饒多なり、今や君が令名は闔県(こうけん)に洽(あまね)く、声望四海に喧し、嘗て衆議院議員に選ばれ、国政に参与せしも四十一年総選挙後は亦起たず、専念家業に鞅掌せり、君は公共心強く特に育英事業に重を置き往年貳拾万円を義捐し伊藤育英会を組織し各地の秀才にして薄資のものに学資を給与し人材の養成に努めるは洽く人の知る処洵に美挙と謂ふ可し。積善の家に餘慶あり之れ必ず君が多幸を齎す所以也君資性剛毅豁達、運籌(うんちゅう)画策能く時運に適す、現今筑豊石炭鉱業組合常議員として令聞あり。」(『福岡市大観』博文社書店、大7・5)
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【★247】「大博劇場」落成開場:● [記述なし]
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【★248】カフエーパウリスタ:「大正九年十二月八日、〝水野旅館〟の南隣にあった料亭〝二葉〟が、世界観裏の元〝蓼の家〟跡に新築して移転開業したが、その跡に〝九州パウリスタ〟が改装工事を始めた。店は舞台付き大食堂も備えたもので、二十五、六日を開店目標にしたが、結局二十五日に開店の運びとなった。支配人は〝精養亭〟の金子兼三郎である。/カフエー・パウリスタの経営方針は大衆向きではなく、舞台付きの迎賓館を利用した高級な雰囲気の店として営業した。大正十年二月十五日には、東京オペラ座女優、新声歌劇団を迎えて、合奏、ダンス、オペラ喜劇などの会員制演芸会を開き、会費一円五十銭(料理、菓子、コーヒー付き)で二百名に限定した。」(咲山恭三『博多中洲ものがたり(後編)』)
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【★249】呉建(くれ・けん):明治16年10月27日東京の生まれ。内科医・画家。明治40年、東京帝大医科大学卒。44年、ドイツに私費留学し、帰国後東大医学部助教授。大正9年1月15日付で九大医学部第一内科学教室第3代目教授として赴任。当時37歳。自立神経系の研究が専門。在職6年で東大医学部教授に転じた。昭和14年、帝国学士院恩賜賞。油絵をよくし第8回帝展(昭和2年)に初入選。昭和15年6月27日急逝。没後、随筆集『地の素描』(岩波書店、昭15・10)刊行。父親は統計学の第一人者の呉文聡。叔父は東大医学部教授で精神病学者の呉秀三。呉秀三の子は呉茂一。
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Record ID |
410586
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福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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A.D. |
1920
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Japanese calender |
大正9年
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Created Date | 2013.08.21 |
Modified Date | 2021.12.14 |