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福岡都市圏近代文学文化年表 ; 明治22年
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Japanese calender | |
Created Date | 2013.08.21 |
Modified Date | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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Chronology |
文学作品:2月 欠伸居士「旧話新筆」(「福岡日日新聞」2日―7日)赤浦散人「浮世の夢」(「福岡日日新聞」9日―4月3日)6月 石渓道人(*堺利彦)「悪魔」(「福岡日日新聞」8日―16日)嘯虎散人「思案の外」(「福岡日日新聞」30日―7月25日)7月 田文子「青柳」(「福岡日日新聞」27日―8月7日)8月 アーヴィング(松琴逸人漫訳)「おもかげ草紙」(「福岡日日新聞」21日―24日)10月 〔作者不詳〕「秋の錦」(「福岡日日新聞」●日―11月10日)11月 泉廼舎瓢編(美妙斎主人校閲)「なみのまに/\」(「福岡日日新聞」●日―27日)〔作者不詳〕「玉手函」(「福岡日日新聞」28日―12月29日)
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文学的事跡:1月 夢野久作(本名は杉山泰道、小説家)、福岡市小姓町で出生(4日)。7月 吉岡禅寺洞(本名は善次郎、俳人)【★70】、糟屋郡箱崎町北海門戸で出生(2日)。11月 眞鍋天門(本名は甚兵衛、俳人)【★71】、福岡市上新川端町で誕生(2日)。
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社会文化事項:2月 玄洋社員らが国権主義を掲げて「筑前協会」を組織し東中洲の共進館で結成大会。「筑前精米所」(御供所町)創業。3月 安場保和県知事が新市名は「福岡」、駅名は「博多」と通達(12日)。福岡県尋常師範学校(大名町)の新校舎が荒戸町(西公園下)に竣工し移転。県立英語専修修猷館を県立尋常中学修猷館【★72】と改称創立し(*福岡尋常中学を吸収)、福岡師範学校跡地に校舎移転。4月 「福岡区」を「福岡市」と改称し市制施行(1日)。中島勝義【★73】が福陵新報社に入社(2日)。市会議員の初選挙を実施し(24―26日)、新議員30名で市会開催(30日)。5月 「福陵新報」創刊500号を祝して社員らが箱崎浜で祝宴(8日)。福岡市会推挙の山中立木(元・福岡区長)、初代福岡市長に就任(27日*25年11月退任)。6月 県立の福岡二等測候所、東中洲の勧業試験場内に設置(1日*29年5月1日「福岡一等測候所」と改称、40年2月11日人参畑の新農事試験場内に移転)。7月 第1回衆議院議員選挙実施、福岡県下の当選者は津田守彦(第1区)・岡田孤鹿(第6区)・末松謙澄(第8区)ら9人(1日)。福岡県下で豪雨、筑後川流域で洪水被害(5日)。特別輸出港規則公布により博多港・門司港など計9港を特別輸出港に指定(31日*博多港は5品目にかぎり海外輸出許可)。8月 「福陵新報」創刊2周年を記念し記念号(4頁)を添付し、社員らは東公園内の一方亭で祝宴【★74】(11日)。9月 菊竹嘉市(久留米金文堂創業者)、上京視察のため博多港から平安丸に乗船(3日*29日帰福)。10月 福岡日日新聞社屋、中島町61番地(甘木屋跡)に移転、同日第3000号発行祝賀会を一方亭で開催(5日)。弱腰の条約改正に反対して玄洋社員の来島恒喜が外相大隈重信を外務省門前で襲撃し自決【★75】(18日)。11月 高取焼再興開業式(9日)。九州運輸会社が博多馬場新町に開業。九州鉄道の博多―二日市間が開通12月 荒尾精が来福し、橋口町の勝立寺で講演会【★76】(21日)。九州鉄道博多駅開業(11日)。九州鉄道㈱開業式・試運転を催行し(10日)、九州初の汽車鉄道が博多―久留米(千歳川仮停車場)間で開業【★77】(22日)。暮、新萱堂を相生町(のち奈良屋町)と改め、相生券番開業。この年、博多柳町の貸座敷・料理屋は21軒、娼妓208人、芸妓34人【★78】。
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【★70】吉岡禅寺洞:明治22年7月22日、福岡県糟屋郡箱崎町北海門戸(現福岡市)生まれ。本名は善次郎。10代で「九州日報」(伊形青楓選)「日本新聞」(河東碧梧桐選)や「ホトトギス」(高浜虚子選)に投稿入選し、大正7年7月、俳誌「天の川」を創刊。同14年、九大俳句会を結成し、横山白虹、阪口涯子、棚橋影草らを育てた。昭和4年、ホトトギス同人となったが、同10年、無季俳句を提唱し、翌年、同人を除名された。昭和20年、定型文語俳句から口語俳句への転向を宣言し、同33年10月、口語俳句協会を結成。昭和36年3月17日没。享年73。生前の句集は『銀漢』(天の川社、昭7・11)『現代俳句叢書(6)禅寺洞句集』(素人社書屋、昭10・1)『新墾』(九州評論社、昭22・8)の計3冊。句文集に『俳句文学全集 吉岡禅寺洞篇』(第一書房、昭13・4)があり、これの巻末には自筆年譜が付されている。没後、『定本吉岡禅寺洞句集』(其刊行会、昭42・12)『吉岡禅寺洞文集』(其刊行会、昭46・12)が刊行された。「自伝/明治二十二年七月二日筑前国箱崎町北海門戸に生れ、三十五年俳句を知る。三十六年春、三宅吟志に手ほどきをうけ碧梧桐(日本新聞)青楓(九州日報)青々(宝船)虚子ホトトギスに学び、大正七年七月天の川を創刊、昭和二年より福岡県立女子専門学校俳句講師として今日に及ぶ」(『現代俳句叢書(6)禅寺洞集』素人社書屋、昭10・1)「明治三十六年春、三宅吟志に俳句の手ほどきをしてもらつた。吟志は日本新聞俳壇(碧梧桐選)の投句家だつたが、華やかな作品の持主として有名であつた。/この人が、まだ十五歳の子供である私の本名、善次郎をもぢつて、はじめて、禅寺童とつけてくれたが、禅寺堂と書いたりした。それからたしか三十九年であると思ふ。活字全体の落ちつきがないのと、童はともかく、堂では面白くないので、以後洞を用ふることにした。禅は専心守一にして明心達理の境地、洞はうつろにして深く、而してこれ明徹——などと云つたやうな、むつかしい意味で変へたわけではない。若気の至りで、もつとしやれた雅号に、変へてみたいと思つたこともしばしばあつたが、子供時代のなつかしさが断ちきれないのでそのままにした。又俳句の手ほどきをしてくれた吟志を、此の号を用ひることによつて、常に思ひ浮べることが出来る。「三字の雅号は珍らしくていい」と云つた白皙の俳人——故三宅吟志の微笑がいまもはつきりと身ゆる。」(吉岡禅寺洞「雅号由来記」、「俳句研究」昭11・1)
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【★71】眞鍋天門:明治22年11月2日、福岡市上新川端56番地町の生まれ。本名は眞鍋甚兵衛。父・甚三郎、母・のぶの4男。俳号は「亮」「蓼水」「天門」「尽平」。矢田挿雲が九州日報社に入社し同紙に俳壇を創設、これに投句を続け、挿雲から可愛がられた。おり子(明治32年9月1日生)と結婚。昭和4年頃、日本足袋株式会社(のちブリジストン㈱)に入社。外国駐在員として中華民国漢口に駐在。駐在員は1人で、三井物産漢口支店内に間借りした。まもなく三井物産その他の同好者に呼びかけて俳句会を主宰。俳誌「玉藻」「天の川」などに投句。15年8月10日、福岡市高宮に転居。39年10月30日、筑紫郡太宰府町大字太宰府字雀田3209の3に転居。昭和41年5月10日、福岡県太宰府町の自宅にて没。「明治四十三年の秋だつたと思ふ。福岡東公園の何処だつたか、かなりの広間を持つてゐた会場で、子規忌の俳句大会が催された。薫風郎、禅寺洞、閉寺爐、滴華、四水、淙珊樓等も来てゐたか、記憶は濛朧としてゐるが、当日福岡二十四聯隊から出席したと思はれる一兵士があつた。無作法に仰臥して作句してゐた。蓼水と言ふ男であつた。なか/\きび/\した口上をつかふ青年であつた。/それから約一年、京都の東洞院姉小路時代の阿部春峰子を訪ふて、はからずも蓼水に引合はされた。/甚ちやんに東山のあたりを案内されて、夕暮頃四條の繁華街へ出て、お上りさんすつかり面食らつて了つた。四條大橋の袂から川沿ひに三條の方へ上る小路につれ込まれた。脂粉の巷である。赤い燈の街、赤前垂の娘達が「おいでやす」「おはいりやす」「おゝけに」など、なまめいた言葉を投げてゐた。/「王樹垣(ヱン)君 先斗(ポント)町だよ」と蓼水に説明されても、ある縄のれんをくゞつたが「そうか」と言ふ認識も持たないお上りさんであつた。蓼水は何からでも先輩であつた。/それから幾十年か経て、大阪に転じた蓼水は、月斗氏の「同人」に入り天門と改号して重きをなした。予は縁者として一入親交を深くした。(略)/天門は其後、支那に渡り、蘇州から杭州へ転じ一時排日の嵐に逐はれて帰国、予の裏家なる水門楼に寓居した事がある。呉夫君が五、六才位で越二君が三ツだつたか織子夫人の乳房にぶら下つてゐた。天門の在植木時代は予と共に筑豊の各地俳壇に遊むだ。記憶の鈍い予は天門の俳句を覚えてゐないが、句評となると天門に叶ふものは一人もなかつた。/其後彼は再び支那に渡り、漢口に赴任し帰国の上、更に香港からマニラまで独特の商才を振つたが、俳句は同人から次第に遠ざかつてホトトギスに転向した。海外の殖民地では到る処ホトトギス派の人々ばかりで上海に少しばかり同人派の人がゐたに過ぎなかつた故自然そうなつた事は首肯出来た。/禅寺洞の天の川同人に転向したと言ふより郷土の雑誌と其の主幹禅寺洞の奮闘に協力してやらずばと言う彼の博多ツ兒的な気概がそうさしたと言つた方がよくはあるまいか。天門の昔の俳句は忘れ天門の現在の句は示された事がないので俳人天門として自分は論ずる資格がないかも知れないが、蕪村ばりの月斗から芭蕉趣味の虚子へ転じ、遂に定型のホトトギスから其の昭和新傾向の無定型へまで転々する若さの持主に微か矛盾がないでもない。(略)天門は俳句をやる外に絵画を鑑賞し一見識を持つてゐる。日本画は四条派であれ南宋派であれ、又洋画も各派に知己を有し、而も悉く自己掌中のものとして矛盾を感じさせぬ偉さがある。天門居を訪れて見るとそれが実證されてゐる。」(阿部王樹「天門に与ふ」、「筑豊文学」1、昭21・3)
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【★72】県立尋常中学修猷館:明治32年4月福岡県中学修猷館、明治34年4月福岡県立中学修猷館、大正14年4月福岡県中学修猷館、昭和23年4月福岡県立高等学校修猷館、24年8月福岡県立修猷館高等学校と改称。
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【★73】中島勝義:「四月二日には後に本社第二代の主筆となつた中島勝義が入社して編輯に従事することになり、編輯局の陣容充実した。中島勝義は、多年東京新聞界に健筆を謳われてゐた新聞人で、後に賛育社といふ雑誌社を起し「智識の戦場」を発刊、これを主宰してゐた。」(「九州日報五十年史」)
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【★74】「福陵新報」創刊2周年:「五月八日には創刊五百号を迎へ社員は箱崎浜で祝宴を張り、続いて八月十一日の創刊二週(ママ)年には東公園一方亭で祝宴を張り、記念号(四頁)を添附した記念号には当時本紙上で文名の高かつた社員不二屋主人が小説「蟲の声」を執筆し、同じく今村外園は戯作「いすかのはし」を執筆し、その他社員益田祐之、佐竹菅根は二周年記念の感想文を書き、紅雨粹史の短篇「其の新聞」等好評であつた。同日付本紙には社説に「本社の二周年」と題して社業の二ヶ年を偲び将来への抱負を語り飛躍を誓ふ論文の外、郡保元、中島勝義等の感想が掲げられてあり、中にも、最も好評を博したのは「有髯少年」戯作の「無形の婚姻」であつた。」(「九州日報五十年史」)
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【★75】来島恒喜が外相大隈重信を襲撃自決:「果して、十月十八日午後四時、天下の反対、国民の激情は外務省門前に爆発し、遂にこの国民的怨嗟の的、国辱的條約改正案は葬り去られるに至つた。即ち、この日こそ、福岡玄洋社の志士来島恒喜が、大隈外相に爆裂弾を抛ち従容として自刃した日である。/この事件が勃発するや、福陵新報は、暫らく、来島事件によつて全紙面を埋められる有様であつた。/兇行当日直ちに発せられた電報は、組版後であつたと見えて、号外の再録を欄外に入れ、物々しく/「東京電報=本日午後四時、外務省門前にて人あり、短銃にて大隈外務大臣を狙撃す、大臣無事なり(十月十八日午後発)」の第一報を報じ、翌二十日附の紙面には、「大隈伯を狙撃したるは福岡県人来島恒喜氏、兇器は爆裂薬、伯爵は左足に微傷を負ふたり」/といふ物々しい「東京電報」が掲げられ、欄外には「月成功太郎氏は来島恒喜氏と連累者なる由風聞頻りなり」の電報があり、続く数日間は「兇行前の来島恒喜氏」とか「故来島恒喜氏の略伝」とか全紙面を来島事件に独占せられ当時としては珍らしい木版画の「来島氏肖像」や兇行現場図解なども掲載されて、いかに当時、来島事件が大きな衝撃であつたかを語つてゐる。(略)/この事件の為に、玄洋社及び福陵新報は連累の嫌疑を受け、頭山社長は條約改正中止運動で旅行中大阪にて拘引され、東京では月成勲、月成功太郎、月成光、浦上勝太郎、木原勇三郎、久世久、岡保三郎等の玄洋社員検挙され、福岡では平岡浩太郎、進藤喜平太、杉山茂丸等をはじめ、久田全、林斧介、高田芳太郎、吉浦英之助、結城虎五郎、岡喬、玉井騰一郎、疋田統一、末永純一郎、来島新三郎、矢野喜平次、的野半介、竹下篤次郎、藤崎彦三郎等の玄洋社員並に本社関係者は続々と拘引取調べを受けたが何れも放免された。/来島の遺骨は村上辰五郎が携へて帰福し、郷里に於ける葬儀は十一月一日筑前協会主催のもとに福岡市十里松原崇福寺に於て執行された。会する者五千、非常な盛葬であつたが、わが社は葬儀に関する記事の掲載を禁じられ、理由を附して僅かに左の如く簡略な報道に止めてゐる。/故来島恒喜氏の葬儀/俗名来島恒喜、浄心院節誉恒喜居士の葬儀は兼々報じ置きたる如く昨十一月一日を以て執行されたるが、是より先二、三日は寒気非常に強く所謂神無月の時雨模様さへいと掻曇りて見えければ当日の天気如何にと気遣ふたるも朝来よりの晴れ加減、気候も暖を加へて風さへ吹かず頗る都合よき事なりし、斯くて葬儀の景況を物せんに、其の筋の聞えも憚りて百事質素を旨としたれば旗並に造花の類も早く寺院内へ齎して飾り付けたるのみ、行列の先へ押立つる如き事をなさず、遺骨の出棺は予定の如く午後二時にして「来島恒喜之柩」と大書したる旗一流と数個の高張提灯とは棺の前後を擁し、柩は八人の白丁之を肩にす、喪主来島新三郎氏以下親族は何れも棺に附添ひ、夫れよりは夫人達の一列悉く皆腕車にて従ひ、其の中には頭山夫人、故箱田氏の後室、進藤夫人、久田夫人等あり、後れて数間を隔てゝ頭山、進藤、平岡、香月諸氏をはじめ知己朋友一千餘名、それに続く一般会葬者合計無慮五千、並列三名宛の一行にて何れね静謐に附添ひたり、順路は薬研町の来島新三郎氏方を出て、薬院門を入り万町より下名島町、橋口町を経て中島町より掛筋を一直線に石堂橋に出でて十里松原に達したるが、其の間路傍に立ちて此の葬儀を見るもの宛ら人の山を築きたる有様にて、所によりては群がる人を押分け通りたるも尠からず、殊に十里松原は非常に雑踏を極めたるものゝ如し、柩崇福寺に達すれば二十餘名の僧侶院上に座して読経し、傍らには奏楽起りて諸事整頓し全く埋葬し終りたるは午後四時過ぎにてかくも多人数会葬せる葬儀は福博間に稀有の出来事なりと云へり。」(「九州日報五十年史」、『九州産業大観』九州日報社、昭11・12)
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【★76】荒尾精の来福:荒尾精は1859(安政6)年、尾張徳川藩の生まれ。明治15年、歩兵少尉に任官。18年、参謀本部支那科に転属となり、翌年、軍命により中国へ。22年4月帰国。日中の同心一致・日清貿易研究所設立の構想を持ち全国遊説。22年12年4日来福し、6日と13日に市内の同志と懇談会を開催。「頭山や茂丸は、たぶんこのとき初めて出会い、共鳴し合ったものと思われる。/十二月二十一日には橋口町の勝立寺で講演会を開いたが、旧藩校の県立中学修猷館の生徒六百余人、博多商業学校の生徒六十余人に、山中立木市長、商工会議所会頭、実業家など多数が参集したと記録されている。(略)荒尾は、陸軍士官学校以来の盟友、根津一(東亜同文書院初代校長)と組んで、二三年九月、上海に日清貿易研究所を開設したが、福岡県からは、第一回総選挙(二三年七月一日)で当選した香月恕経の息子、梅外ら二五名が入所している。その数は全国第一位で、福岡県人の強い中国志向を表している。」(多田茂治『夢野一族』)
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【★77】九州鉄道開業:博多駅—久留米駅間で開業予定のところ筑後地方の豪雨被害のため千歳川(筑後川の別称)鉄橋の完成が間に合わず、鉄橋手前に仮停車場を急造して開業日を迎えた。1日3便で、博多駅発午前7時10分・午後0時10分・午後4時10分。所要時間は1時間23分。23年2月24日、千歳川鉄橋工事が完成し、3月1日、久留米駅まで全通した。同年9月、博多—赤間間も開通した。
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【★78】博多柳町:「娼妓解放令後の柳町/博多柳町の女郎は従来正月、七月の藪入には親許帰り又は礼廻りとして遠出を許されて居たが、其時の衣裳は稼業柄に似合はず木綿着に限られて居た。そこで文政六年の正月時の年行司東町丸崎屋惣次郎が斡旋に依て、木綿着物を不粹を改めて廓衣裳に劣らぬ様にしたから、女郎の外出は俄に華美を競ふ事となり始めて女郎らしくなつたのであるが、要貞時代の反動は此処にも及んで衣裳処か肝腎の年二回の外出さへ、天保十三年七月を限りに全く禁止となり、斯くして世も王政維新となつた。次で明治五年十月人身売買禁止と共に娼妓解放令が下つて、各楼は抱え遊女を悉く親許に返し妓楼は名を貸座敷と改めた。明治廿二年に至れば柳町貸座敷及料理屋の数廿一軒で娼妓二百八名芸妓三十四名に達し翌廿三年暮から新築工事を始め二三年間にて竣工した。新築に対して大浜町東方の一廓を古町と呼ぶことゝなつた。遊女が娼妓と変り妓楼が貸座敷になつてから娼妓の衣裳も一変した。昔の裲襠(うちかけ)風のしどけない姿は着流しの紋附(もんつき)に太鼓となり、嶋田銀杏返しの地味な髪型となつた。明治廿二三年頃は古町時代の柳町が最も全を極めた時である。当時妓楼の配置は大門より這入つて向つて左側が松波屋(まつなみや)、三吉屋(よしや)支店、蛭子屋(江びすや)本店、武蔵屋(むさしや)、岩井屋、明月楼、君(きみ)の都(と)楼、高嶋屋で向つて右側が福本楼、粹多楼、三浦屋、成田屋、一国屋、三吉屋、成巳(なるみ)屋、蛭子屋支店、桐岡楼で高嶋屋と桐岡楼は石堂川に面し其処には相変らず裏口の門を鎖して暮六ツからは小門のみの通行を許した。而して明月楼、高嶋屋の裏手は直ぐに海岸となり、濤声晨(あした)の枕に響くといふ風趣は此廓唯一の景物であつた。此時分は二枚鑑札も多かつたが芸妓として腕を鳴らしたのは三吉屋の岩吉(いわきち)、君の都(と)の金時(きんとき)、岩井屋の小楽(こらく)、武蔵屋の成吉(なるきち)で京阪若くは下辺(しものへん)から仕込んだ女が多い。裏の門口から石堂川に沿ふて埋立工事を営み町幅を劃して出来たのが所謂新築で、明治廿五年には家並も殆んど整ひ全町の面目一新した。」(竹田秋楼「博多情史(未定稿)」、『博多物語』金文堂書店、大9・4 原文総ルビ)
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Relation |
Record ID |
410555
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Rights |
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A.D. |
1889
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Japanese calender |
明治22年
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Created Date | 2013.08.21 |
Modified Date | 2021.12.14 |