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福岡都市圏近代文学文化年表 ; 明治12年
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Created Date | 2013.08.21 |
Modified Date | 2021.12.14 |
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花田, 俊典
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スカラベの会
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Chronology |
文学作品:8月 瀧田紫城『漢文自在』(磊落堂)11月 福本巴(日南)『普通民権論』(磊落堂)
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文学的事跡:9月 藤井孫次郎が文芸雑誌「紫陽叢談」創刊【★32】(15日*未詳)。11月 「春色明治文庫」(*月3回発行、鴻文社)創刊(10日*第10号まで確認)。
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社会文化事項:1月 植木枝盛、頭山満に誘われて来福し向陽義塾の開校式に出席【★33】(4日*3月18日まで滞在)。松田敏足編輯『徴兵令類聚』(福岡書肆・古賀鴻文堂)刊行(*序文の日付は「二月」)。2月 変則中学を福岡中学と改称(5日)。天神町に博物館開館(20日)。県令渡辺清が東中洲(那珂郡春吉村中洲)に勧業試験場設立(*28年4月農事試験場と改称、39年住吉町人参畑に移転)。3月 第1回福岡県会開催(12日)。4月 福岡商法会議所設立。植木枝盛が『民権自由論』【★34】を福岡の書肆「集文堂」(船木弥助)から上梓。5月 新聞「東洋新誌」(福岡本町・同義社)創刊(17日)。7月 福岡医院を「福岡医学校」と改称、付属病院を設置(1日*13年1月開校式)。8月 「博多新聞」、漸強社(博多金屋町9番地)から創刊(5日*社長は松田敏足)。「めさまし新聞」第106号を「筑紫新報」と改題創刊(25日)。10月 福岡商法会議所(現・商工会議所)創立(5日*事務所は第17銀行楼上)。野村莠【★35】が「筑紫新報」に入社。11月 福本巴(日南)が『普通民権論』【★36】を福岡の書肆「磊落堂」(林斧介)から上梓。12月 金山堂八尋利兵衛が大阪商人の蛭子祭大売出の盛況にならい福博呉服商に呼びかけて「誓文晴」(誓文払い)売出を開始(3日)。頭山満・進藤喜平太・箱田六輔・平岡浩太郎らが国会開設請願のため「筑前共愛公衆会」【★37】を組織し、聖福寺で結成大会(5日-8日)。この頃「玄洋社」、実質的に結成か(*石瀧豊美『増補版 玄洋社発掘』)。東京帝大医学部第1回卒業生20名中の大森治豊・熊谷玄旦を福岡医学校に招聘。東中洲の勧業試験場内に農学校設立(*20年4月廃校)。藤井孫次郎が「鎮西自由新聞」創刊(*未詳)。福岡県が公娼の梅毒検査制施行し、福岡市内の柳町と新茶屋【★38】の娼妓にも実施。この年、同志社英学校第1回卒の不破唯次郎、福岡市橋口町でキリスト教(プロテスタント)の伝道開始。林遠里が早良郡入部村重富に勧農社を設立し農業開発を推進。山崎登が出版書肆「山崎金生堂」創業。
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日本・世界事項:1月 「大阪朝日新聞」創刊(25日)。4月 琉球藩を廃し沖縄県設置(4日*琉球処分、沖縄県令に鍋島直彬)。6月 東京招魂社を靖国神社と改称(4日)。9月 学制を廃止し教育令制定(29日)。12月 エリザベス・ラッセル、長崎に活水女学校設立(1日)。
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【★32】文化誌「紫陽叢談」創刊:未詳。「更に孫次郎は、新聞ばかりでなく、雑誌発行にも手を着けている。〝めさまし新聞〟を〝筑紫新報〟に改題した二週間後の明治十二年九月十五日に〝紫陽叢談〟を発行した。筑紫新報第百十五号(明治十二年九月十五日付)に、次の社告を出した。/弊社(悟楽社)において本日初号発刊仕る紫陽叢談は、各地各方文人雅客の詩歌並に和漢文章等を乞ひ、傍ら勤学の記事論説等掲載し一箇月五六回宛追号発兌の筈に付、紅潮の諸彦宜しく愛顧を垂れ玉へ/この雑誌が何号まで続いたかは判らないし、また実物も現存していないようである。/それから、約四年後の明治十六年一月に〝喜美談語〟を、同三月には〝多能志美叢誌〟を悟楽社から発行している。この二誌はいづれも文芸や美談や投書などを中心に編集した雑誌であるが、前者は二号で、後者は十号で終った。いづれも週刊誌であるから、前者は半月、後者は二タ月半位しか続かなかったことになる。/〝喜美談語〟はやはり現存しないが、〝多能志美叢誌〟は、現物が福岡県文化会館図書館に所蔵されている。」(崎山恭三『博多中洲ものがたり(前編)』)
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【★33】植木枝盛の来福滞在:「一二年一月四日には、向陽社の招きで、土佐立志社の論客、植木枝盛が福岡にやって来た。翌五日、向陽社は子弟の教育機関、向陽義塾を開校したが、植木はその開校式に列席して講演している。その後、植木は七日まで福岡に滞在して向陽社幹部と交流を深めたあと、八日から久留米、柳河、熊本を遊説して帰福、二月末まで向陽義塾で泰西国法論を講義し、三月二日には集志社の招きで甘木を訪れ、翌三日、甘木七日町の教法寺で講演会を開いている。」(多田茂治『夢野一族』三一書房、平9・5)
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【★34】植木枝盛『民権自由論』:「編輯人」(著者)は「高知県士族/植木枝盛/福岡県那珂郡西職人町五拾弐番地寄留」、「出版人」は「福岡県平民/船木弥助/福岡県福岡区博多中島町四拾番地居住」。「はしがき/一寸御免を蒙りまして、日本の御百姓様、日本の御商売人様日本の御商売人様日本の御細工人職人様其外士族様御医者様船頭様馬かた様猟師様飴売様お乳母様新平民様共御一統に申上まする。さてあなた方ハ皆々御同様に一つの大きなる宝を。お持ちでござる。この大きなる宝とは何んでござる歟打出の小槌か。銭のなる樹か金か銀か珊瑚か。だいやもんど。か。但しハ別品の女房を云ふか才智すぐれたる児子(こども)の事か。いや/\こんなものではない。まだ是等よりも一層尊ひ一つの宝がござるそれが即ち自由の権と申すものじや。元来あなた方の自由権利は仲々命よりも重きものにて自由が無ければ生きても詮ないと申す程の者でござる。いかさま金銀や珠玉の話しではありますまいが。さらば折角生きてあるあなたがた。少しも卑屈することなく此民権を張り自由を伸ぶるがなによりの肝心でござろふ。何ぜとならば幸福も安楽も民権を張り自由を伸べずて得らるゝことではありません。さらばこそ今此の書中には右の民権を張り自由を伸ぶべしと云ふの一條小子(やつがれ)一心を込めて書き述べたれば。あなた方も亦一心を注いで御覧下され。/明治十二年三月十日/三千五百万の末弟/植木枝盛記(しるす)」
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【★35】野村莠(はぐさ):「野村莠は九州印刷界の先駆者野村生助(一に正助)の嗣子である。生助は明治六年頃、久留米に活版業を起し、大木昌造の鉛活字完成発売に際し、同七年木活字から鉛活版に切替え、筑後活版業の改組となる。明治十年十二月廿日死去。莠その事を継ぎ活版業(*皐々舎)を営む(昭八、六、二九—七、一浅野陽吉談)」(『西日本新聞社史』)。野村莠は明治嘉永2(1849)年の生まれ。13年4月主幹、ついで社長に就任。17年1月、県会議員に当選。19年頃退職。大正10年没。
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【★36】福本誠(日南)『普通民権論』:「著述人」は「福岡県平民/福本巴/福岡区西湊町九番地」、「出版人」は「同県士族/林斧介/福岡区福岡簀子町百三番地」。「福本巴(トモエ)は福本日南の号でひろく知られている。巴はその幼名であつて、トモチャンと俗称されていた。明治十五年五月十五日巴を改めて誠とした。日南の号は南洋経営を志して名付けられたものであることは明白だが、その初めが何時であつたかは正確に考證されていない。/福本の出生は、安政四年六月十四日(旧暦五月二十三日)であつて、福岡市地行下町(現在の地行西町)であるが、後、西湊町波奈に移つた。彼の父は泰風(幼名、泰平又は喜三郎)という福岡藩士であつて、平野国臣らと勤王運動をともにし、維新以後は、明治二年の北海道開拓使庁に参劃して約三ヵ年北海道に渡り、明治四年職を辞して国に帰り、明治二十三年十月二十三日東京の住居において六十七歳で没し、青山墓地に葬られた。/日南は幼少のときから器用の質であつて才能が同輩に秀でていた。まず福岡桝木屋町(マスゴヤチヨウ)の白水専六(明治九年十二月八日没す)の寺子屋で字を習い、松陰の孫二川幸之進(大正三年七月十四日没す)に書を学び、福岡市鳥飼に向陽義塾(玄洋社の前身をなす)を開いていた大西兵吾二策(福岡藩学師員で明治三十二年四月二十四日七十歳で没す)および藩学修猷館教授正木昌陽(明治三十八年七月十四日七十九歳にて没す)に経書を学んだ。弟の勝彦(日高家に入る)もここで学んでいる。子爵金子堅太郎亦同門の出身であつた。夜は母が四書の素読を教えたという。/藩学修猷館が明治四年に廃学されたので、日南は明治七年初めて上京し、九年九月九日司法省法学校に入学した。日南の法学校入学の縁故は、同郷の先輩松下直美(昭和二年五月二十八日八十歳にて没す)の支持によるものである。この松下直美という人物は、福岡藩留学生として海外に学び、帰朝後明治四年以来江藤新平が司法卿であつたところの司法省において、通辞の職にあり、併せて東京で福陵社なる塾を経営していた。その後十四年七月には神戸裁判所判事、同年十一月には長崎控訴裁判所判事であつたこの松下の日記を通じて、日南の動静をほぼ知ることができるが、それによると日南は彼から学費の援助もうけていたことが知られる。/司法省法学校は、一年生・三年生・八年生に分れており、日南は寺尾亨・村井一英らと同窓の八年生であつた。しかし入学の第四年目に、同学の秋月左都夫・加藤恒忠・陸実らと謀つて賄征伐をやつた事件で追出された。このとき学校当局との間を斡旋したのが、同じく学生であつた原敬であつたという。しかし彼の斡旋も効を奏せず、證人預ケという処罰をうけ、かつ一年後の退校ということになつた。当時の司法卿はすでに大木伯であつた。これによつて見ると法学校は中途退学であつた模様である。(略)/『普通民権論』の出版せられたのが丁度この頃であつて、版権免許が明治十二年十月二十日であり、出版日附が十一月である。(略)/この書の出版人は林斧介であるが、この人物は同じく筑前人であつて明治九年箱田六輔、頭山満、近藤喜平太ら玄洋社の面々とともに萩ノ乱に加担して、ともに投獄された一人である。当時、福岡市中島町にあつた市内第一の出版書店であつて、製版製本工場をもち、約二十名の工員を使用していたと伝えられる。主人林氏の性格が磊々落々たる豪傑膚であつたところから、店名を磊落堂と称していた。(因に林氏は明治二十四五年頃店を閉じ大阪に移住し、四十一年七月三十一日五十八歳をもつて病没したという。嘉永四年の出生であつた。)/(略)/明治二十年春季に日南は清国上海に遊んでいる。爾来その足跡は南洋ではとくにルソン、欧州では英仏伊およびスイスその他に及び「赤日緯南之人」と号し、改めて日南と称するに至つたのである。/明治三十七(ママ)年帰郷して九州日報社に入り、紙上に健筆をふるい、四十一年春の総選挙に無党派候補として衆議院議員に当選しその抱負の実践に努力した。この頃、博多商業会議所(二十四年設立)の特別議員でもあつた。四十三年九州日報社を辞し、東京に居を構え、住居は牛込矢来町から本郷湯島三組町に移り、牛込加賀町二丁目および千駄ケ谷原宿などを転々と移つている。/日南の晩年の事業は専ら『元禄快挙録』に因縁して起された中央義士会にあつた。この会は大正十年五月頃創設され、毎年二回の祭典の挙行と会報年二回の発行が、その仕事であつた。たまたま千葉県大多喜中学校の講堂における講演中に卒倒し、再び起つことが出来ず、大正十年九月二日六十五歳をもつて没した。」(今中次麿「『普通民権論』解題」、『明治文化全集第2巻 自由民権論』日本評論新社、昭30・1改版)なお、福本日南は明治22年、陸羯南・古島一雄らと新聞「日本」創刊に参加。帰郷して九州日報社の社長に就任したのは明治38年11月のこと。在任期間は明治42年12月まで。『元禄快挙録』(啓成社、明42・12)『日南草蘆集』(岡部春秋堂・柳原積玉圃、明45・4)など著書多数。
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【★37】筑前共愛公衆会:「向陽社の主導で、「筑前九百三十三町村人民」の結合体とする筑前共愛会が結成」、「この筑前共愛公衆会は全国に先駆けて国会開設建白書を元老院に提出するが、その建白書にはまず「人民ハ国ノ大本ナリ。政府アリテ人民アルニ非ズ。人民アリテ政府アルナリ」と宣言していた。(略)しかし、向陽社内では、民権色が強い箱田六輔派と、国権色が強い平岡浩太郎派の確執が深まり、一三年五月、向陽社は玄洋社と看板を塗り変え、社則に国権色の強い次の三条を揚げ、社長に平岡が就任した。玄洋は平岡の号であった。/第一条 皇室ヲ敬戴ス可シ/第二条 本国ヲ愛重ス可シ/第三条 人民ノ主権ヲ固守ス可シ/人民の主権は末座に後退していた。」(多田茂治『夢野一族』三一書房、平9・5)
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【★38】新茶屋:「博多には柳町の外に又一ツの遊里があつた。夫れは博多の東端石堂橋以東の一角で石堂川(比恵川)の流れに倚つた香煙細き濡衣塚の畔りである。此一帯は昔から家の建込んだ処でなく、約二百年前水茶屋を設けられて以来始めて知られた処で地名が其水茶屋に因むで居ることはいふまでもない。(略)それから二三十年を経た明和の頃でも人家は八軒位に過ぎなかつたが、爾来家屋の増築は著るしく多くなつた。夫も以前からあつた料理屋は三四軒に過ぎず、明治五年に一旦解放された妓楼が名を貸座敷と改めてから三年目に水茶屋も貸座敷免許地となつた。場所柄とて青楼立どころに軒を並べ絃歌湧き、新なる歌舞の巷を現出したが、時恰も明治維新の後を受け、官辺の者は多く古き柳町より新しき水茶屋に足を入れ、水茶屋は更に名を改めて新茶屋といつた。斯して妓楼料理屋並に之れに附随した各種の家屋は年と共に増加し、明治廿一年には人家百戸を越え人口約一千を算する程の一廓となつた。而して翌々廿三年を以て撤廃の運命となつたので、僅々十六年間の花街である。元来新茶屋は芸妓本位で、酌婦などは特に粒を選んだのは無論時勢の然らしめた現象である。(略)猶新茶屋の貸座敷撤廃は明治二十三年十二月であつたが、其年貸座敷並に料理屋十一戸娼妓二十五人、芸妓五十一人居たのである。」(竹田秋楼「博多情史(未定稿)」、『博多物語』金文堂書店、大9・4 原文総ルビ)
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Relation |
Record ID |
410545
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Rights |
福岡都市圏近代文学文化史年表の著作権は、それぞれの執筆者に属します
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A.D. |
1879
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Japanese calender |
明治12年
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Created Date | 2013.08.21 |
Modified Date | 2021.12.14 |