<departmental bulletin paper>
Port Cargo Handling Problems in Hokkaido Coal Mining Industry during the 1920s : A Case Study of Hokkaido Colliery & Steamship Company Ltd.

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Abstract 近年、日本経済史・経営史の分野で交通・運輸の諸問題が盛んに取り上げられるようになり、これまであまり議論されてこなかった戦間期の交通・運輸業に関する実証研究が蓄積されつつある1)。特に、小運送と呼ばれる末端輸送が注目され、当該期の小運送問題の発生とそれにともなう政府・業界側の反応が明らかにされている2)。なかでも水上小運送業(戦後の港湾運送業)については、大島久幸が大阪・川崎港での水上小運送問題の発...生を事例にして、荷主企業・船会社の主導で港湾荷役業界が再編されたことを指摘している3)。同氏の主張は、戦時期の企業合同に重点をおいてきた従来の港湾運送業史を修正するものとして評価できる4)。しかし、このような研究は端緒についたばかりであり、荷主企業・船会社と港湾荷役業者との関係がどのように変容したのか、戦時統制にむけて戦間期の再編がいかなる意味をもったのか、という点については検討の余地を多分に残している。貨物と地域を限定し、港湾での問題発生と荷主企業の対応に関する事例を積み上げていく必要がある。そこで、本稿では、1920年代の北海道石炭産業における港湾荷役問題に焦点をあわせたい。日本石炭産業の発展にとって港湾荷役の改善が不可欠であったと考えるからである。戦間期の日本石炭産業では、石炭需要の停滞、石炭鉱業連合会による送炭調節の実施、撫順炭を中心とする外国炭の流入、北海道炭のシェア拡大など市場構造に大きな変動が生じていた5)。これまでの研究は、そのなかで大手炭鉱企業が炭鉱の集約化、採炭方式の変容、採炭の機械化を軸にして、生産面での合理化を推進したことを究明してきた6)。ただし、1920年代半ばから1930年代初頭にかけて、コスト削減の意識は採炭だけでなく輸送の側面にも向けられていた。とりわけ、北海道炭にシェアを奪われつつあった筑豊石炭産業においては、積出港での非効率的な石炭荷役が販路拡大の制約要因として認識されるようになっていた。筑豊炭の主要積出地・若松港では、不十分な荷役施設のために積込諸掛がかさむという弊害が1920年代半ばに表面化した。それに対して、三井物産と三菱鉱業は1930年前後に汽船積込用の自社設備を建造し、同時に取引関係にあった港湾荷役業者を選別して低廉かつ確実な荷役作業の実現を図った。若松港においても大手荷主企業の主導で港湾荷役業界は再編成されていたのである7)。本論で明らかになるとおり、このような港湾荷役問題は、北海道炭の主要積出地であった小樽・室蘭港でも同様にみられた現象であった8)。さて、北海道炭は戦後恐慌以降にも出炭高・送炭高を伸ばしていったが、その背景として、従来から送炭調節における北海道炭の優遇9)、財閥系企業による積極的な出炭・販売戦略などが指摘されてきた10)。近年には、北澤満が昭和恐慌期の三菱鉱業美唄・大夕張砿業所を事例にして、採炭・運搬の機械化にともなう鉱夫数の削減と平均賃金の低下を実証し、これが1930年代における北海道炭の「価格上の競争力の基礎」になったと主張している11)。ただ、同氏も留意点として挙げているように、北海道炭の競争力と市場シェア拡大を論じるためには、炭価に占める比率の高い流通コスト(輸送・荷役)を考慮に入れなければならない。そのうち船舶輸送については、北澤自身が、北海道炭礦汽船株式会社(以下、北炭と略す)が1924年に共立汽船株式会社を買収し、大部分の石炭を自社および共立汽船の船舶によって輸送する体制を整えたことを明らかにしている12)。このような北炭内での輸送形態の変化は、戦間期に炭鉱企業が海上輸送部門へ関与し、船舶輸送能力の向上を目指していたケースとして注目されている13)。他方で、北海道炭の港湾荷役については、石炭産業史研究でその重要性が指摘されつつも本格的に分析されることはなかった14)。また、港湾運送業に関わる歴史研究でも、かつて大島藤太郎が労働運動との関連で小樽港における石炭積込の機械化に言及した程度であった15)。しかも、小樽の港湾荷役業界に変革をもたらした荷主側の動向として、同氏がより重視したのは、戦時統制に際しての財閥系企業による専属荷役会社の設立であった。すなわち、1940年代初頭に「三井、北炭系の北海道石炭荷役株式会社と、三菱系の小樽港石炭運送荷役株式会社、住友系の小樽石炭港運株式会社の三社が成立した」ことを強調し、他港と同じような港運会社(統制会社) が小樽港で完成しなかった理由を「財閥そのものの資本としての独自性の強さ」に求めたのである16)。しかし、先に述べた研究史の潮流を踏まえるならば、戦間期に発生した港湾荷役問題を検証したうえで、それが戦時統制をいかに規定したのかを明確にしておく必要があるように思われる。以上の問題意識から、本稿では小樽港と室蘭港を取り上げて、主要な荷主企業であった北炭の港湾荷役問題への対応策について考察をすすめていく。ここでの目的は、北炭と港湾荷役業者との取引関係に注目し、大手炭鉱企業による港湾荷役業界への関与の実態を個別具体的に明らかにすることである。まず、1では北海道炭の積出状況を概観し、実際にどのような港湾荷役問題が発生していたのかを明確にする。そのうえで、2で鉄道省による港湾施設の改良を確認し、3、4で北炭による専用設備の建造とそれを契機とした取引荷役業者の整理について検討する。最後に、小樽港と室蘭港の相違点・共通点を意識しつつ、北炭の石炭荷役への関わり方をまとめる。また、それが港湾荷役業界に与えた影響についても言及する。なお、資料上の制約から、積込の機械化や荷役業者の整理によって、港湾での諸掛がどの程度削減されたのかを詳らかにすることはできない。したがって、本稿では北海道炭の価格競争力と流通コストの関係について踏み込んだ議論を行わない。また、人夫(仲仕)の行動を示す資料が不足しているため、小樽港での統一ストライキに代表されるような労働争議の問題は分析の対象外とする。show more

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Created Date 2012.10.16
Modified Date 2022.02.10

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